ウスノロ
ひょっとして、カタツムリの殻が動いたのではなく、殻だけが残ったカタツムリの死体が動いたのではないだろうか。あの死んでいるハズの犬が動いたように。俺は割れた貝殻を見てしばらく呆然としていたのだろう。裸のまま手槍を持ったヤスミーンが、おそるおそる声を掛けて来た。
「コーチ。
テーブルの上の貝が天井まで登ったと思っているようだけど、
どこかに転がり落ちただけじゃない?
天井のは、別の貝が蜘蛛の巣に掛かっていただけかも。」
確かに、その可能性の方が高いか。落ちて来た酸が毛布に穴を空けたと思ったが、気付かなかっただけで最初から空いていたのかも。あるいは、何でそんなところ引っ掛かっていたか分からないが、天井の蜘蛛の巣に掛かっていた貝殻に、水が溜まって腐ったりして酸化していたか。
俺は一応、小さな蝋燭の明かりで部屋中を捜索して、変な物が無いか調べたが何も見つからなかった。俺が部屋中を気が済むまで捜索していると、その間にヤスミーンは反対向きになって眠ってしまった。ヴァルブルガは真面目に護衛をしているのか、俺がベッドに入るのを見てから自分も横になったようだ。
寝際に異常があったせいで神経が昂ったのか、その夜はよく眠れなかった。あるいは街に入る前から、ずっとピリピリするような感じがあって、それがずっと続いているからかもしれない。それはどこからか敵意が刺さってくれるようなものではなく、モヤモヤとこの地一帯を包んでいるようだった。
「うげぇ」
俺は、まだ眠気や疲労が残るような頭で朝食に出されたパンに手を出したが、それを食べようと口元に寄せたときそれがカタツムリの殻へと変わったように見えた。足元にコロコロとそれが転がる。俺の隣にはヴァル、正面にヤスミーン、斜め前にニクラスが座っていたが、彼がそれを足元から拾う。
「ご主人、大丈夫か。
疲れがたまっているんじゃないか」
そう言うニクラスの手元を見ると、そこには固く焼かれたパンが握られていた。ただ、そのパンの上面は渦のような形になっていて、見かたによってはカタツムリの殻に見えない事もないかもしれない。見間違えたのだろう。
「ああ、ごめん、ごめん。
そうかもしれない。気を付けるよ」
朝になっても降り続く雨に、普通の旅人なら出発を延期するかもしれない。だが色々ケチがついた事もあって、俺はここでは商売を避けてさっさと街を出る事にした。
「アロイスは卑怯者だーっ」
その大声に体がビクリとする。まだ早朝といえる時間なのに、昨日の酔っ払いだろうか。本当に嫌な街だ。舗装されていない街道に馬車の車輪がガタガタと揺れ、その振動が胃を揺らす。王都からこっち、こんなものだが『南の商人街道』との違いに辟易する。
灰色の街並みを抜け、街の出口へ辿り着く。出口の傍にある小屋の屋根の下で居眠りをしていた門番を起こし、不機嫌そうな彼と入口と同じ様なやり取りをして街を出た事の正式な記録を取ってもらい、それから門をくぐる。
囚人を閉じ込めておく監獄の壁のように街を囲う壁から外に出たが、雨の街道はまだあの街の雰囲気を引きづっているように見えた。
「アロイスは卑怯者だーっ」
そん声が遠くから微かに聞こえた気がしたが、きっと気のせいだろう。俺はブルリと身体を震わせてから、外套をより引き締めた。
その頃、森の中に7人の人間が集まっていた。その内の一人はペルレにいた小男フーゴで、他の者達は性別も年齢もバラバラだが一様にボロ布を纏い、腐臭を漂わせていた。まともな人間ならその匂いだけでその場から逃げ出したかもしれないが、フーゴは気にしていないようだった。
「いいか、このウスノロども。もっともっとウスノロを集めるんだ。
そしてあそこへ行って、商人を捕まえろ。
俺には分かるんだ。どこに行けば商人がいるか、その道がよぉ」
フーゴが何を言っても黙っていた者達は、無言まま森の中にバラけて行く。そして、その者達だけでなく、周囲から鼠や小鳥、蛇などの小動物や虫などもその場から離れて行く。ただし、その人間でない生き物たちからも、決して鳴き声などは聞こえなかった。
俺達はオイゲンを出発して3日、ザックス男爵まであと4日を予定するところまで来ていた。オイゲンを出てからこっち、ずっとチリチリするような感覚が続いている。一度、狼に近付かれたが、気付いた距離がいつもより近かった気がする。それでも撃退するのに十分な距離で問題は無かったが。
だがこの日、街道脇の空き地を見付けて野営していると、街道の後方から近づいてくる敵意を感じた。これまで俺にまとわりついてきた、モヤモヤとしたイラつきの元と同じ気配だ。だが、それはハッキリとした形になって集団で近づいて来る。
まだ1キロメートルは後ろだろう。人の歩く速度かそれより遅いくらいで進んで来るが数は多い。人ほどの大きさの気配は40人といったところだろう。いつもの1組目で夜番をしていた俺は、『疾風迅雷』とニクラス達を起こした。




