マイマイ
ニクラスが最初に宿の扉を潜り、中を見まわしてから俺に振り返る。問題は無さそうなので、俺も入ると足元で床板がギシリと鳴った。まあ、余程整備の行き届いた商会や貴族の屋敷でもない限りこんな物だ。宿の中は、雨のせいか木が腐ったような匂いがし、湿度の高い空気が充満している。
カウンターまで歩を進めると、ニクラスが先に呼んでいたのか宿の主人と思える男が待っていた。痩せた中背の男で、やや禿げあがった頭の左右に癖のある白髪交じりの髪が垂れる。骨が曲がっているのか首はやや右に傾き、左目を大きく開いているのに対して右の瞼は7割程が落ちている。
「いらっしゃい。
冬近いこんな時期にこんなところを旅するなんて珍しいね」
男はややくぐもった声で話し掛けて来た。そのまま宿泊について問い合わせると、こんな辺境近くにしては宿代がやや高いものの、人数分の部屋は空いていて、荷馬車も宿の裏の小屋に入れられそうだった。
たぶん、この宿はこの治安の悪そうな街の中では一番上等なのだろうから、ここに泊まる事はほぼ確定していたが、俺は少し気になった事を聞いてみた。
「なあ、主人。
この宿の看板は、なんだってカタツムリが彫られているんだ」
すると男は嬉しそうに語り始めた。
「この宿は、『七色の蝸牛』亭っていうんですよ」
この男によると、カタツムリは生者の世界と使者の世界をつなぐ生き物で傷の再生や病気からの快復、生き返りといった大地母神の奇跡を暗示する、という説もあるらしい。そこで宿の創業者は、天の橋に例えられる虹の七色も絡めて縁起のいい生き物のつもりで命名したらしい。
聞いてみるとそれなりの由来があるが、今の看板をみるとおどろおどろしい限りだ。とはいえ宿を変える程の理由にはならないので、ここに泊まることにした。
この宿にも一応食堂はあり、雨で外に出るのもおっくうだったので、夕食もそこで済ませたが旨くはなかった。宿の主人の手によるやっつけ感漂う物で、固いパンに焼いたソーセージ、多少の野菜をぶち込んだ塩だけで味付けも微妙なスープだった。
今の時期、泊り客も少ないので宿の主人が一人で切りまわしており、実際今夜は俺達以外の泊り客はいなかったので、竈に火を入れてくれただけでも配慮に感謝するべきかもしれない。夕食が終わった俺達は、明かりのついた燭台を借りて部屋に引き上げた。雨で月明りも遮られた屋内は真の暗黒だった。
ヴァルブルガ、ヤスミーンと部屋に入った俺は、1つだけあるベッドのサイドテーブルに燭台を置いたのだが、その時テーブルの上に巻貝があるのを見つける。巻貝というより、カタツムリの殻? 宿の名前にちなんだ飾りだろうか。
俺は嫌な感じがしたので、ヤスミーンに触らないように行ってからヴァルと一緒に宿側で置いたものか聞きに行った。すると宿の主人には笑われて、さすがにそんな物は置かないと言われてしまった。どこからか入ってきたのだろうと言う。
戻ってみると、貝殻はなくなっていた。ヤスミーンも触っていないと言っているが、どこかに転がり落ちたのだろうか。蝋燭1本ではそれ以上探す事も出来ないので、まだ嫌な感じはあったがそのまま今夜は寝る事にした。
ヤスミーンには悪いが俺はその晩、集中できなかった。敵意、殺意、危険。そんな強烈なものでは無いが、俺の探知スキルが何か気持ちの悪いような、ザワザワするようなごく小さなノイズのようなモノを感じていた。
「他の女の事を考えているの?」
ヤスミーンが不満げに言う。女では無いが、他の事は考えてしまっていた。奴隷相手に気にする必要はないかもしれないが、女性にそう言われると俺も申し訳ない気持ちになってしまう。そんな時、俺の脳裏に急にペルレの大迷宮でエラにスライムが落ちて来たイメージが浮かぶ。
「途中で止めるなんて酷…、きゃっ」
俺はヤスミーンを抱きしめて、ベッドから転がり落ちた。その物音にヴァルが毛布を跳ねのけてベッドから起き上がった。
「ご主人様、大丈夫か」
俺は半身を起こすとヴァルに片手を上げて制止する。俺はサイドテーブルの上の燭台を取って、ベッドを照らした。ベッドの上の毛布の真ん中が黒く焦げていた。だが火がついているわけではない。となると酸か。俺はベッドの上の天井を照らした。
そこにはカタツムリの殻がぶら下がっていた。いや、正しい表現ではない。天井板にくっついたようにフラフラと揺れている。見ていると、それはゆっくりと動いている。まるで、そこに見えないカタツムリがいて、天井を這っているように。
「ご主人様」「コーチ」
ヴァルとヤスミーンも訝しそうに天井を見ている。どうやら俺だけに見えるわけではないようだ。眉根を寄せるヴァルブルガは、顔の傷と強い目力も合わさって怖い顔になっているだろうが、今はそれはどうでもいい。
「ヤスミーン、槍で貝殻を叩き落せ。
ただし絶対に真下に立つなよ。落ちて来た貝にも触らないようにしろ」
俺はヴァルを下がってそれを見守る。ヤスミーンは真っ裸で手槍を持っているわけだが、蝋燭の明かりだけだと良く見えない。いや、そっちじゃない。叩き落された貝は床に当たって割れ、それで動かなくなった。




