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女形の姫様転生記  作者: 新島 隆治
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招かれざる者 後編

色々忙しいので今回も予約投稿。

途中で一部(宇宙的恐怖っぽい)極めて冒涜的な生物らしき姿の表現があるので、そういうのを精神的・生理的に受け付けない、もしくは苦手な方は「☆ ☆ ☆ ☆ ☆」に挟まれた部分を読み飛ばして下さい。念のため、該当部分の前後は四行ずつ空けています。


 翌々日、峠道は朝から物々しい雰囲気に包まれていた。


 ラッサーリから鐘一つ分ほど東に向かった王国よりの峠道は、前日までに川沿いの防塁や峠道、門扉の最終確認を済ませている。

 開かれた分厚い門扉の先には岩だらけの長い下り坂と荒野が広がっている。


 遠目に見えるのは細く東に続く道と、南北へ蛇行しながら向かう道。

 その東側の道から、坂の麓へと総勢百名弱の集団が近づいてくるのが見えた。


「分かっちゃいたが、とれぇなぁ。リージュールの知識で改良された荷車や客車が引く手あまたなのは知っちゃいたが、あれを見ちまうとな……」


「木工工房と鍛冶工房に改良点の基本は教えましたから、あとは彼らに頑張ってもらいましょう。王都へ譲るにしても売るにしても、まずは彼らへの対処が先です」


 傭兵団の名にもある槍を肩に担いだスヴェンがぼやく言葉に、ローブを羽織ったアスカが淡々と答える。

 女子棟の住人や団内の人間に直接関わる設備・装備なら直接手掛けることもあるが、さすがに全ての品の面倒を見るわけにもいかない。

 新米魔術師の育成や内弟子たちの指導、現在はアスカにしか作れない魔術具・商品の作成、ダニエたち厨房担当への料理指導だけでも手一杯なのだ。

 多少の指導と方向性を示すだけで作れるものは外に任せてしまいたい。


「客車に付いてる紋章は――何だありゃ、予想以上に(ひで)ぇな。極細線の小盾(キルピ)に下半分の中抜き菱形(オンット・ロンボ)、上半分は三枚の硬貨と酒杯に棍棒? 商家に入った貴族の庶子で準男爵家(バロネッティ)、さらにその庶子の五男かよ。

 ほとんど『申し訳程度に貴族の血を引いてます』ってくらいじゃねぇか」


 魔力による身体強化で視力を強化していたのか、おもちゃのように小さく見える荷車の側面に付いている紋章を読み取ったスヴェンが呆れた声を上げる。


 一般的な平民からすれば貴族の血が流れているだけでも違うのだろうが、準男爵では正当に授爵した貴族から見れば平民と変わらない。

 ライヒアラ王国の決まりでは、嫡子以外が戦争や内政で目立った功績を上げて認められ、一代限りの扱いで名乗ることを許される名誉爵位だ。

 階級上は騎士より上だが世襲は許されておらず、紋章の許可も一代限り。


 三代以上続けて功績を積み重ねれば男爵へ上がる道も無いわけではない。

 しかし王国三百年余りの歴史で、実際に準男爵から男爵へと陞爵(しょうしゃく)した例はただの一度もない。


 貴族の血を引いている名残で紋章を家の中だけで引き継ぐことはあれど、人目につく場所に見せる例は恥になるので公式には「無い」とされている。

 まして代を重ねているなら貴族の血も薄れており、内実は町に暮らす平民と同じであろう。多少教育の程度が高かろうと、貴族の嫡子と庶子では扱いが全く違う。


「やっぱり警戒するのはバカ王子(ウルマス)だけで良さそうだ。他の奴らは雑音をがなりたてるだけの雑魚だな。姫さん、発動待機させてる防御魔術のいくつかは要らねぇかもしれねぇぞ。下手すりゃ新米どもの障壁だけで間に合いそうだ」


「探査の魔術でも攻撃的な魔術具を持っているわけではなさそうですからね。一応は警戒のために待機させておきます。ユリアナ、貴女たちは待機させている魔術を解除しても良さそうです。短杖(ワンド)も仕舞って構いません」


 溜め息交じりのアスカの言葉に、ユリアナたち側仕えたちも緊張を緩める。

 何を仕出かすか分からないため警戒を解くわけではないけれど、貴族の血を濃く引いている者ばかりでないことだけは確かだ。


 ガタガタと音を立てて坂を上がってくる音が近づく。車輪自体が辺境街道の凹凸が激しい道で削れて歪んでいるのか、あるいは車軸自体が歪んだことで接地が怪しいのか、その両方が原因なのか。

 (いず)れにせよ、まともな相手ではないことだけは分かる。


「巻き上げ機は俺の合図があるまで動かすな。まずは俺らが誰何(すいか)して訪問目的などを確かめる。穏便に済むわけがねぇのは分かってるが、魔術師は奴らが攻撃的な態度になったら即座に待機させてる障壁の魔術を発動させてくれ。

 弓を持った奴は崖の左右上部に作った射座で待機だ。間違っても先に撃つなよ」


「副長、来ますよ」


 先触れもなく乗り付けた客車が二十テメル(メートル)ほど離れた場所で停まり、槍を肩に担いだ先頭の男が数歩前に出てきた。

 大声で叫ばれても左右の崖に反射してうるさいだけなので、事前に新米魔術師の一人が普通の会話で聞こえる程度に音を調整している。おかげで自分勝手な主張と傍若無人な要求が嫌でもよく聞こえてしまうのだが。


「――よって、第三王子ウルマス様の命により王国が追放せし罪人が集まる辺境の集落より、追徴の税を取り立てる! もし我らに逆らえば王国の法にて貴様らを処罰するぞ! 塞いでいる道を()く明け渡し、財貨と食料を差し出すが良い!

 徴収基準に足りない分は住人を奴隷として差し出しても構わん!」


 こんなことを延々と真面目に大声で叫んでいるのだから、スヴェン以下は呆れて乾いた笑いしか浮かばない。アスカに至っては驚きで表情が固まっている。


 辺境がライヒアラ王国の版図から外れている意味を全く理解していない。

 加えて、版図から外れた地で王国の法がまかり通るものと信じている第三王子の愚かさに心底呆れてしまう。


 一般的な子供なら親の教育が一番の原因に挙がるけれども、王族の場合は幼い頃から家庭教師をつけ、長じてからは国内の貴族たちと触れ合わせるために貴族学院で教育が行われる。

 成人年齢プラス一歳までを学院で過ごす王族や貴族、一部の富裕な商人にとっては、学院を出るまでに習う事柄は将来職に就いたり領地を自ら経営する上で最低限必要とされることばかりだ。

 特に国内法の及ぶ範囲や内容は熟知していなければならない。


 貴族学院で上級法――リージュールの法律まで学ばされるのは意味がある。

 外交の上で必要になる知識や国外に出た際の対処法、直近で一千数百年分の過去の事例がそこには盛り込まれているからだ。


 当然、国内法が通じない場所の明確な線引と、その場合に従うべき法も示されている。国の版図にない法無き土地では、リージュールの法が優先されるのだ。


「――話になんねぇな。バカ王子の子分はやっぱりバカしかいねぇ」


「全くですね。貴族学院で何を学んで来たのでしょうか」


 槍を握り締めたスヴェンの手元からは木の柄が(きし)む音が聞こえ、相槌を打つユリアナや一歩下がったライラたち側仕えからは深い溜め息が吐かれている。

 出身国であるライヒアラの第一王子は立派だと評判なのに、その弟と周囲にいる輩が暗愚なのだ。もしかしたらエロマー子爵から借り受けた人員なのかも知れないが、いくらプラスの補正を入れたところでマイナス評価から転じないというのは、もはやある種の才能だろう。


 飛鳥の生きていた世界でも、あそこまで突き抜けた取り巻きを持つ者などいなかった。刑法の厳罰化が決まって施行された後はほぼ絶滅した(たぐい)の人種である。

 この世界ではまだ絶滅せずに生き残っているようだが。


「ユリアナ、本当に成人済みの王族とその側近なのでしょうか……?」


 思わずアスカが言葉を漏らしてしまうほどの衝撃である。


「道すがらご説明した通り、心底遺憾ながら本当のことです。既に王国の政務を一部負担している第一王子イェレミアス様が今年二十五歳、第二王子が二十一歳、一番下の第四王子が十七歳でミルヤたちと同い年です。

 あそこの第三王子は末弟の第四王子より一歳上ですね。

 ライヒアラ王国では未婚の王女も多く、そちらの方が不出来な兄王子たちよりも評判が良いですね。王太子となっている第一王子を除いて『妹の王女たちに良いところを全部取られた』とか『勝てるのは悪知恵だけ』とか、『王族以前に人として大事なものを王妃の腹の中に忘れてきた』とか散々に言われていますわ。

 側近たちも含め、私が聞いている評価はそのようなものばかりです」


「ああ、王宮内だけじゃなく城下でもそんな感じだな。直接貴族の耳に入れば不敬罪に問われるかも知れねぇが、市井(しせい)の酒場や飯屋じゃ酒に酔った連中がコソコソ陰口を叩くくらいには有名な話だぜ。

 俺の知る限り王太子だけだな、まともなのは」


 貴族家出身の二人が畳み掛けるように王都と王族の事情を口にする。

 第三王子は側仕えのミルヤとセリヤの一歳上――十八歳らしい。成人から四年も経っているのに行動が刹那的で、大半を本能に従っているのが信じられない。


 加えて女性への数々の不埒(ふらち)な所業は、現在女性として生きるアスカにとっても許せるものではない。


 第三王子の評価は同じく王族の血を引くアスカとしては他人事ではない。自身の行動や発言が回り回って自身の評価に返ってくるのだ。

 歌舞伎の女形(おんながた)として育った飛鳥も普段の振る舞いには十分に気をつけていたが、王族としての彼女(アスカ)は注目の度合いが違う。その一挙手一投足が傭兵団や町の住人たちに注目されている。

 今のアスカ姫は自身で鏡を見ても驚くほどの美少女なのだから。


 悩みつつ困った顔をすると、槍を肩に担いだスヴェンが石突きを一度地面に叩きつけ、引き締めていた口元をわずかに緩めた。


「姫さんの評判に関しては全く問題ねぇよ。成人前から辺境の民を慈しみ、生きていくための糧と身を守る術を教え、金を稼ぐ新たな手段を与えてくれた大恩人だ。

 これまで知られていなかった食える物を民に教えて、狩りだけに頼っていた肉を育てて得るという知恵と手段も授けてくれた。街道を整え防壁を作り、魔術や薬学も伝えてくれている。王国の貴族領から辺境へ逃げてきた連中も含め、姫さんに文句を言うような奴は誰一人としていねぇさ」


 そう言うとスヴェンの視線が前方に戻る。彼が顔を向けた先では、側仕えと新人魔術師たちの魔術が門扉に掛けられ、重い両開きの扉が勢いよく閉められている。

 閉じると同時に(かんぬき)が掛けられた扉の向こう側は見えないが、おそらく激昂して声を張り上げていることだろう。


「さて、姫さんは防御魔術を使って身を守っててくれ。俺はバカ王子の相手をしてこねぇとな。ユリアナの嬢ちゃん、こっちは頼んだぜ」


「お一人で大丈夫ですか?」


「姫さんの姿くらいは見せてもらうかも知れねぇが、基本的には大丈夫のはずだ。一応はあれでも王族だからな。魔術の解除くらいは出来ちまうかも知れねぇ。

 ――っと、早速『解錠(アヴァタ)』を使ってきやがったか」


 閂や鍵にのみ作用する魔術が使われたらしく、固定したばかりの角材が二本、道の上に音を立てて転がる。解除も一般の魔術師には少し厳しいレベルなので、客車に同乗している貴族か第三王子自身が魔術を使ったのだろう。

 けれども金属や石も使用した重い門扉を引き開けるだけで相当な労力を使ったと見え、客車周辺にいた兵が数名肩で息をしている。


「貴様ら、こちらに()わすはライヒアラ王国の第三王子だぞ! 貴様ら平民が逆らうなど許されぬことが分からぬかぁっ!」


 大声を上げているらしいのは、先程槍を担いで先頭に立っていた男だ。

 もっとも魔術で普通の会話程度まで音量を下げられているため、いくら本人が声高にがなり立てていても響かず、うるさくはない。

 むしろ気づかずに顔を真赤にして必死に叫んでいるのが哀れなほどである。


 とうとう肩を上下させて話が途切れたのを見計らって、スヴェンがおもむろに口を開いた。魔術具で声を増幅しているので、客車の中にも響くことだろう。


「言っておくが、エロマー子爵領の領境の丘に立つ石碑より先は辺境の地だ。ライヒアラ王国の版図からは完全に外れ、王国の法もこの地には及ばん。貴族なら学院で学ぶ常識だが、そんなことすら知らんのか?

 国の版図を外れた地で王族の名を使って騒ぐな。大体、お前は王族でもない第三王子の取巻きその一だろうが。それともエロマーの肉樽の子分か?」


 荒い息を吐いていた男がバッと顔を上げてスヴェンを睨みつけるが、彼自身は興味が無さそうに客車の方を見ている。

 お前などに用はない、さっさと後ろの奴を引き摺り下ろせ、とでも言うように。


「それとな、ここにはライヒアラ国王の親書を持って訪れた親善使節も来ている。辺境の町ロヴァーニはそれだけの価値がある場所ってことだ。

 一桁台の継承権を持っていても、国内の貴族や民衆から後ろ指を指されるような振る舞いをするのはどうかと思うがな。聞いてるか、第三王子?」


「貴様、不敬だぞ! 平民の分際で!」


「残念ながら俺はホレーヴァ子爵家の出身だ。一応籍は残してるからまだ平民じゃないんだがな。手前(てめ)ぇはどうなんだ? 平民か、貴族籍にある者か?

 まあ同格の貴族家以上の当主でもなければ、こちらが不敬を問うことになるが」


「……くぅっ」


 拳を握り締めてぶるぶると震えている様子が遠目にも良く分かる。

 おそらくスヴェンの言う通り貴族家未満の家の出身で、これまでは王子の傍に(はべ)る立場から平民を恫喝し、高圧的に出ることで要求を通すことに慣れていたのだろう。


 貴族は当主以外が準貴族として扱われるだけで、実際に貴族としての権限を持つのは当主一人だけである。子供は成人していてもそれぞれ継承権を持ち、代替わりがあれば継承権一位の者のみが貴族として扱われる。


 家族や配偶者も含め、あくまでも当主に付属するという扱いだ。

 結婚で貴族家に入れれば家格に応じた扱いもされるが、普通は独立すれば貴族籍から外れて平民となる。

 平民となっても紛争や外交などで功績を上げれば親の代までの格を考慮して二つから三つ下の爵位を貰えることもあるが、貴族として返り咲くことは滅多に無い。


「それと親善使節の代表は先代になるが伯爵家の当主だ。前騎士団長って言えば分かるか? 外交参事は現役の子爵家当主で、国王の印璽(いんじ)()された親書を持っている。つまり国王の全権代理だ。

 外交使節が来ている以上、手前ぇらに正当な訪問理由がないなら扱いは使節以下だぜ。それ以前に食いもんと金と住人を寄越せだ? バカか手前ぇら」


 呆れ果てたスヴェンが担いでいた槍を左手で握り、穂先を地面に向ける。

 一歩、二歩とゆっくり門へ歩み寄るが、門外にある魔術防壁自体は術式が複雑で王子にも解除できないらしく、男たちがその外で押し合いへし合いしていた。


「スヴェン、後始末が面倒だから殺すなよ」


「冷てぇこと言うなよマルクス。どうせ交渉なんかじゃ言う事聞かねぇんだぜ? なら実戦訓練がてら相手になってもらった方が良いだろ」


「姫様の御前だぞ。それに向こうも一応は王族だ。引き連れているのが盗賊のようであってもな。動きを鈍らせるため多少傷つけるのは構わんが、殺すな」


 同行していたマルクスとシルヴェステルが後ろから声をかけると、スヴェンは手をひらひらと振って応えている。腕や脚の一本程度は斬り飛ばすかも知れないが、殺さないようにと念押しされているので守ってくれるだろう。


 商隊が通る街道に死体を放置されても困るのは傭兵団(こちら)だ。

 アスカもまだ慣れていないが、それ以上に昨秋魔術学院を出たばかりの新人たちに欠損だらけの死体処理をさせるのは荷が重すぎる。


「ごちゃごちゃと理屈つけても中身は盗賊と同じかそれ以下だぜ。王国内にいたら手を出せなかったが、辺境まで出てきたならこっちの流儀に従ってもらうぜ。

 いつまでも客車の中に隠れてねぇで、さっさと表に出てこいやバカ王子!」


 挑発というか敢えて怒らせているのだろう。


 国王や王太子本人なら一応は国の版図外でも不敬には問える。だが第三王子ともなれば継承権も一桁代後半となり、他の親族も入ってくるので幾分低めになる。

 リージュールの法では継承権第四位までを不敬に問える地位と認めているが、それは要するに王と王妃、王太子、王家の血族で最も現王に近い者までを指す。

 第三王子ともなれば良くて八位か九位、場合によっては二桁だ。他国や国の版図外で不敬を問える立場にはない。


 最終的にはリージュールの王女たるアスカの身分でどうとでも出来るとはいえ、スヴェンもわざわざ挑発して怒らせる必要はないのだが。


 このところ街道整備に赴いたアスカの周辺警備と出くわした野獣の駆除くらいしか出番がなく、知らず知らず鬱憤が溜まっていたのだろうか。


 門扉の前で穂先に炎を纏わせたスヴェンは、器用に槍を振り回して男たちの眼前を薙ぎ払い、仰け反らせる。そのまま槍を一回転させ、後方へ炎を飛ばした。

 炎は客車を牽いていたレプサンガの足元で弾け、小石を弾き飛ばしている。

 それに驚いた騎獣が数頭、突然立ち上がって騎乗していた者を落としたり、荷車をあらぬ方向へ引っ張って混乱をもたらした。

 客車周辺は大混乱に陥っている。


「ありゃ、思ってたより威力が出たな……冬の練習の成果か?」


 雪で街道が閉ざされていた期間は、団員に魔術方面の鍛錬も教えている。

 点火の魔術などの使用回数が増えた者もいれば武器に炎や風を纏わせることに成功した者もおり、進度は様々だ。

 貴族学院を出た者の中には団長のランヴァルドを始めとして、雷を纏わせることが出来た者も数名いる。


 スヴェンは槍と大剣が得物(えもの)で、威力を増したり武器の届く距離を伸ばす目的で炎と風を習得していた。

 幹部以上は冬が明けても毎日の練習に加えて魔力鍛錬なども課されているため、実際武器に纏わせる練習をしていなければ威力が増していることに気付かないのも已むを得ないだろう。


「まあ威力がある分には良いか。さて、商家への押し込みや未婚の女を(さら)って(もてあそ)んだりと散々好き勝手してきたんだ。そろそろお遊びも終わりだぜ。

 成人してからもそんなんじゃ、国王陛下もさぞ頭が痛かっただろうよ!」


 大声で(あざ)笑うスヴェンに、荷車や客車周りにいた兵たちは右往左往するだけで全く対応できていない。暴れる騎獣に弾き飛ばされて怪我をしたり、牽き回された荷車に跳ねられ骨を折ったらしい者が地面に転がり(うめ)いている。


 略奪が主目的だっただけにアスカも積極的に助けようとは思わず、怪我を負う者が増えるのを黙って見守っていた。

 傭兵団の面々に関しては言わずもがなだ。


「子分が大勢怪我してんぞ第三王子! 四年前の王都じゃ上に立つ者の責務がどうとか偉そうなこと言って取り巻き共と名の売れてきた商家を襲ってたよなぁ?!

 婚約者が決まって喜んでた娘も子分共と散々弄んだ上で、遊び飽きてボロ(きれ)みたいになってから酒代程度の銀貨で娼館に売り払いやがって!

 当時の奴らや今付き従ってるこいつらがバカ野郎を慕ってるかどうかなんぞ知らんが、手前ぇの血の責務とやらを果たしてみたらどうだっ?!」


 穂先が閃くたびに血飛沫が舞い、逃げるように離れた者が寄り添い集まる場所に炎や風の弾丸が飛んでいく。矢を射るのと同じくらいの速度で着弾し、同時に撒き散らされる透明な刃や火の粉に恐れ(おのの)いた騎獣が暴れ、周囲の人間を弾き飛ばして怪我人を増やしていく。

 ただし明らかな四肢の欠損はないものの、騎獣や荷車に轢かれて身動きが取れなくなっている者は十名以上確認できた。

 明らかにおかしな方向へ腕や脚が折れている者もいる。


「その辺にしておきなさい、スヴェン。荷車と騎獣の回収ができなくなります」


 静かにアスカが言葉を発しただけで、それまで暴れ回っていたスヴェンがピタリと動きを止める。よく調教された動物のようだ。

 息も乱さず戻ってきたスヴェンは、幾分か鬱憤を晴らすことが出来たのか上機嫌に見える。()()らしに使われた方はたまらないだろうが。


 門扉の内と外を魔術で確認したアスカはユリアナやマルクス、イントを伴い、剣を腰に提げたままのシルヴェステルを引き連れて門扉前まで歩みを進める。

 取り巻きたちが狭い峠道で三十テメル(メートル)ほどの距離に密集していたせいか、見える範囲での被害は甚大だ。


「――言いたいことは色々ありますが、ライヒアラ王国第三王子ウルマスとやら、まず其方(そなた)の不敬を問います。リージュール王女の前に()く姿を現し平伏なさい」


 事前にユリアナやランヴァルド、スヴェンたちに聞いていた所業や評判。

 前世とも言うべき飛鳥の生きていた日本での常識や、アスカ姫として生きるこの世界の常識。それらと照らし合わせてもウルマスの行動は到底許容されるものではないし、許容されてはならないものである。


 何より『王族』という名を使って何をしても許されると傍若無人に振る舞う男に対し、王女の血を引く身として許しがたい憤りを覚えていたのだ。


 立場や身分には責務がある。それは確かだろう。

 王や貴族は民の納める血税で生きている。国や領地を守るために(まつりごと)を行い武力を保持し、平民より上位の権威や権力を持つことも許されている。


 アスカ自身は覚えが薄いものの、王妃である母のお腹の中にいた頃から祖国を遠く離れた旅の中においても、リージュールの税を(かて)にここまで育ってきたのだ。

 故にアスカには、いざという時には華奢なその身体の肉の一片、血の一滴に至るまで国と臣民のために使う覚悟が必要になる。


 その覚悟は既に魔法王国の第一王女アスカ・リージュール・イヴ・エルクラインとして生きると従者たちの墓前で誓った時から胸に抱いている。


 今は祖国を離れていても、いずれその地を(おとな)うことも考えているのだ。

 それは姫として育った自身の義務であり、文字通り生命をかけてアスカを守ってくれた侍女や騎士たちへの手向(たむ)けでもある。


 自身の欲望のために行動し、その時々で都合のいいことを口にし、王族の誇りと責務を放棄しているウルマスのような愚か者に賛同など出来ようはずがない。

 己の驕奢(きょうしゃ)淫逸(いんいつ)と見栄のために散財して民を苦しめ、足りないからと他の地から奪おうとする、(たっと)き血の責務を忘れた者たちと同列に見られるなど、侮蔑(ぶべつ)の極みでしかない。


 普段から感情を表に表してはいけないと教育されてきたアスカにしては珍しく、相当に怒っている。表情としては眉が少し険しくなりかけている程度であるため、よくよく近寄ってみないと判別すら出来ないが。


「――隠れてやり過ごそうなどとは思わない方が良いですよ」


 視界に客車を収め、自身の背丈より少し低い程度の長杖(スタッフ)を胸元に引き寄せる。

 華美な装飾はないけれど、北の鉱山から献上された透明度の高い紫水晶を中核に据えた、現時点で手に入る素材の中では一番上等な長杖だ。

 銀や金、通常の水晶もいくつか()め込んでいるため、それなりに重量はある。


 じいや――セヴェルの革袋に預けたままの長杖があれば、わざわざ作り直すこともなかったのだが。


 視線の先にある客車、というか荷車に壁と天井を無理矢理足したような物は依然として動きが見られない。

 内から外へ開くドアもなく、毛皮を垂らしてカーテンのように仕立て、光と風を遮る単純な箱型だ。本家が滅んだ、平民化した貴族の庶子の末裔の紋章をこれ見よがしに飾り立ててはいるものの、とても王族が乗るとは思えない簡素な意匠だ、


 多少壊す程度なら良心の呵責など覚えようはずもない。ロヴァーニの町で工房を開く木工職人たちなら、修復ついでにこれ以上のものを作ってくれるだろう。


 唇をキュッと結んで杖の先端を傾け、一音だけの詠唱を小さく漏らす。

 直後、毛皮が内側から吹き飛び、客車の天井と壁が五テメルほど吹き飛んだ。


 当然周囲にいた兵や騎獣にも吹き飛んだ壁が当たり、重量は大したものではないが天井も再び落下して乗っていた者たちに襲いかかってくる。

 峠道の両脇の崖に当たって跳ね返り、押し潰された兵もいるようだ。


「「「う、うわぁぁぁっ!!」」」


 中に乗っていたのは四人だ。まあまあ上等の衣服を纏った、おそらくはウルマスと思われる青年。それよりも劣るが、貴族ではないだろう所作の荒い若者が三人。

 辺境の荒野に入ってからは湯浴みなども出来なかったのだろう、若干どころではなく薄汚れた姿を晒している。おそらく湿地や小川の水を汲んで汗くらいは拭ったのだろうが、()えた臭いがしてきそうだ。


 御者は吹き飛んだ壁と一緒に地面へ叩きつけられ、既に意識は無いらしい。

 転がったまま身動きもしないが、意識があってもとばっちりを避けるために気絶したふりをしているなら大した処世術である。


(わたくし)は疾く姿を見せよ、と命じました。聞いていたのですか?」


 感情を乗せない声と視線で四人を見据えると、各人各様で反応が違った。

 基本的には「好色」というフィルターが掛かっていたけれども。


「この私を呼び捨てにするとは……本気で怒らせたいのか、小娘? しかもライヒアラより上位というリージュールの名を(かた)るとは無礼な。

 大体リージュールの王族は決まって浮船で訪問しているのに、ロセリアドでは誰からもそのような報告を受けておらんぞ?」


 よほど繊細な魔力操作を会得していない限りは絶対に無理な魔術を目の前で見ても、バカと評判の第三王子は判らないようだ。


 加えて浮船は王族が乗っているとは言え、主に王位継承権が二桁後半以降の者が代表である。記録が残っている範囲では、最高位でも二代前の王――アスカの祖父が統治していた際、継承権第四十八位にあった学究肌の血族が志願したくらいだ。


 つまり浮船の代表者となるものは、ほぼ確実に次世代以降の継承の芽がなく、民間機関や学院などの名誉職で食い繋ぐか、孫の代まで許される限定爵位でいられる間に功績を上げ、実力で貴族籍に残るか程度の選択肢しかない者である。


 浮船の来訪に関しても末端の王子にまで知らされるはずもなく、基本は国王や宰相、国防の要である騎士団長が連絡を受け国の幹部で共有される情報だ。

 次世代の王となる王太子ならば聞いている可能性もあろう。けれども第三王子ともなれば王太子のスペアのスペアである。余程大きな不幸にでも見舞われない限りは、出番すら怪しいものだ。

 普通ならば臣籍(しんせき)に下って王国を支える役目を拝領し、領地を治めたり役人・軍人としての責務を果たすことになる。


 それ以前に、リージュール王家直系だけが持つ特徴的な容姿は王侯貴族や平民が万が一にも不敬を起こさないよう、幼い頃から叩き込まれているはずなのに。

 この大陸には金髪や茶髪が多く、若くして銀髪を持つ者は存在しないのだ。


「だがここで不敬に問うて、その美貌をむざむざ潰すには惜しい。どうだ、大地に膝を突いて伏し拝み、私の妾なるとでも誓えば許してやらんでもないぞ? その身体と態度次第ではいずれ正妻にしてやっても良い」


 言うに事欠いて阿呆な要求を始める始末である。

 そこに重なるのは取り巻きたちの場違いな下卑(げひ)た笑いだ。


「リージュールだと? 確か最後にこの国へ浮船が来たのは俺たちが生まれる以前と聞いているぞ。その国の王族が王都ロセリアドじゃなく、こんな罪人の住む僻地にいるわけねぇだろ!」


「この大陸じゃライヒアラと東のリンドロース、北の山脈を超えたサヴィカンナスくらいが大国だ。リンドロースの近くにある小国家群辺りなら俺たちと髪や瞳の色違う奴くらいいるだろ。

 それにしても見ろよ、極上の美人だぜ。胸もかなり大きいし腰も細そうだ。俺たち全員で(たの)しめば一晩中いい声で()くんじゃねぇか? 飽きたらまた娼館に売れば……」


「背はかなり小さいようだが、逆に組み伏せやすいだろ。初物(はつもの)なら当然ウルマス様が一番手だとして、あとの順番を決めておこうぜ」


 本来なら相手に聞こえないようこそこそと話すべき内容なのだろう。

 だが、自分たちを取り巻く環境が一切分かっていない連中はアスカの整った容姿に興奮したらしく、ぎゃあぎゃあと大声で自分勝手な内容を(わめ)いている。


 薄汚れて見苦しい上に、王族に手を出して弄ぼうなどと考えている時点で完全にアウトだ。侍女のレニエたちが生きていたら、この時点で(ちり)となってこの世から永久退場していただろう。

 それはユリアナたちも同様で、護衛をしている傭兵団にも伝染していた。


「姫様、あの愚か者どもを不敬の(とが)で消してしまいたいのでお許しを頂きたく思います。炎で焼いて炭にするだけでは生温い、それこそ塵以下にしなければ――」


「首を()ね飛ばすなら俺に任せろ。さっき槍を振り回して暴れただけじゃ全然足りねぇんだ。マルクスのとこのハルキン兄弟団や暁の鷹の連中も欲求不満だし、ノルドマンの奴らは剣こそ抜いてないが門扉の脇で突撃姿勢になってるぜ。

 うちの新人どもも既に魔術を放つ準備をしているようだしな」


 こめかみを指先で揉み(ほぐ)しているユリアナは「王国の恥ですわ」と呟きながら物騒な言葉を口にしているし、スヴェンは普通の槍から騎獣の脇腹に(くく)り付けていた斧槍(ハルバード)を手にして嬉しそうに獰猛な笑みを見せている。

 鍛冶工房で余った端材をもらい、本館の大食堂でミニチュアの武具を作った時に横で見ていた親方が面白がって、ニテメルほどの実寸大に打ったものだ。

 分類上は槍などと同じ長柄武器(ポールウェポン)に当たる。


 斧槍の名前の通り、斧の重量を活かした打撃力と槍の到達距離・突進力とを併せ持った凶悪な武器だ。試し切りに用意された軽装の革鎧は最初の槍の一突きで背中まで先端が突き抜け、斧の一振りで左肩から右脇まで切り裂いている。

 あまりの威力に練習も含め本部内での使用が禁止されたせいで、実戦での使用を願ったスヴェンが持ち込んだらしい。


「おいスヴェン、あの王子の隣りにいる焦げ茶の髪、見覚えがあるぜ。確か何代か前に貴族出身の人間がいるとか吹聴してた、評判が悪い王都商会の息子だ。

 見覚えのない紋章は奴の家のものかも知れん。俺たちも護衛で貴族と遣り取りする都合上、街道沿いの貴族の紋章くらいは粗方(あらかた)覚えているんでな。

 隣の薄汚れた金髪はエロマーの分家の子供たちだったはずだ」


「なんでぇ、つまりは全員が(クロ)ってことじゃねぇか。姫さん、良いか?」


 気が(はや)っているらしいスヴェンとマルクスが振り返り、アスカを見つめる。


 許可を出してしまったら、障壁の内側にいる面々が放たれた矢のようにウルマスたちに襲いかかって(たお)してしまうだろう。

 そこに交渉や贖罪(しょくざい)の入り込む余地は一切無い。


「良いか、ではないでしょう? 貴方たちが一斉に突撃して攻撃すれば、肉の細切れが辺り一面に散らばってしまいますよ? (わたくし)(はずかし)めようとしたり、リージュールの名を(けが)そうとした罪は自身の身体と傷で償ってもらいましょう。

 幸い、罪人に相応(ふさわ)しい罰を与える魔術があります。貴方たちは魔術を発動した後で荷車と客車、騎獣を接収して下さい。スヴェンが攻撃して騎獣が暴れたとしても傷は癒やしますし、荷車が多少壊れてしまっても工房で直してくれるでしょう」


「姫さんはそれで良いのか?」


「あいにくと私もそれほど優しくはありません。私を慕ってくれる民には当然慈しみを与えるべきでしょう。けれども罪を犯し罰が与えられるべき者には――それが他者に(いわ)れなき罪を被せたりするような者であれば、厳しく対応しますわ。

 抵抗するようなら、手足の一本くらい斬り落とす程度までは黙認します」


 きっと今からアスカが何を言って(さと)しても止まることはないだろう。

 ならば自身が見逃せる許容範囲を伝えて、その中で自由に振る舞わせた方が結果的に被害は少なく住むはずだ。

 ――そう信じたい。


「今から(わたくし)がゆっくりと三百数えます。大きな声に出して数えることはありませんが、その代わり『()め』と伝えたらそこで手を止めて下さいね?

 約束を守らなかった者は私とランヴァルド様の連名で断酒一月を申し渡します。通達は大食堂と中央市場、町の食堂と歓楽街にも伝えますので」


「手前ぇら、聞いたなぁっ?! 姫さんの『止め』の合図が来たら絶対に攻める手を止めろ! その代わりに三百数える間は姫さんの名誉とリージュールを侮辱した連中に好きなだけ鬱憤を叩きつけて構わねぇ!

 賊を殺さなければ腕や脚の一本くらい斬り飛ばして構わねぇぞ! ただし掃除が大変だから加減はしろよ!」


 アスカの答えに目を輝かせたスヴェンが大声で叫ぶ。


 荷車に付き従っていた者たちの中には恐れ慄いている者もいるが、大半は荷車に()かれたり、騎獣に蹴飛ばされて痛む箇所を押さえながら(うずくま)っている。

 まともに動ける者の方が少ないだろう。第三王子(ウルマス)と取り巻き以外は。


「街道と門の掃除は後回しで構わん! まずは豊かになった辺境へ略奪に来た害悪を排除するぞ! 総員構え!」


 マルクスを始めとした他の傭兵団の隊長格もやる気を(みなぎ)らせ、一斉に鞘を払って剣を構える音、弓の(つる)を引き絞る音、槍の柄を握りしめる鈍い音が重なった。

 新人の魔術師たちは短杖(ワンド)長杖(スタッフ)などをめいめいに構え、加減したらしい魔術を単音節の詠唱とともに発動待機させている。


 彼ら、彼女らは真冬の二月半、リージュールの王女であるアスカから直々に魔術を習っていたのだ。仕事や研究の手伝いはあれど、それこそ朝から晩まで。

 各地の国々に伝えられた魔術よりも遥かに効率が良く、それでいて魔力効率も周囲の魔力を使って発動する従来教わったのとは違う実践的なやり方も習っている。

 待機させているのは足止めや阻害を中心とした魔術だが、魔術学院で習ってきたものに比べて数倍の威力があるのだ。


「う、や、やめ……やめ、て……」


 蹲り倒れ伏している者たちの顔色は悪い。

 武器らしいものといえば長い槍を模した棒くらいだが、十数人に一人くらいは剣を持っている者もいる。けれども大半は町や農村から徴収された者で、ウルマスやエロマーの兵力として数えるには無理がある。


 片や、迎え撃つのは荒事が生業(なりわい)の傭兵団だ。新人魔術師だって冬眠から覚めたばかりの野獣との戦闘を経験しているし、アスカが南方街道の整備に向かって留守の間に峠道の向こう側に現れた賊退治に同行もしていた。

 学院に在籍していた時のように、実戦経験が皆無ではなくなっているのだ。


「「「かかれ!」」」


 矢の狙いがブレるのを避けた暁の鷹を除き、スヴェンたち隊長格の声が重なる。

 声と同時に(つる)が放され、脚に身体強化が掛けられた傭兵が敵に駆け出す。

 門扉の脇で待機していたノルドマン傭兵団の面々は乱戦を見越して短剣と短めの戦鎚で武装し、辛うじて抵抗しようと動いた者に斬りかかり、足が止まったところを叩き伏せていた。


 骨が砕け折れる枯れ枝のような音と悲鳴、呻き声、血飛沫が地面へ飛び散り滴る音が(いびつ)で悲壮な交響曲となっている。

 気絶できた者の方が幸せなくらいで、大半は気絶寸前の痛みで、正気と昏倒の境を超えないよう加減されて悶絶している。新人が殴り飛ばした数人はピクリとも動かないが、胸が上下しているところを見ると生きてはいるようだ。


 ウルマス王子の取り巻きだった金髪の男は身体強化を施したスヴェンの斧槍で右脚の太ももから下を吹き飛ばされ、坂の下の方へ転がっていくのが見える。

 エロマー子爵の分家らしい二人はマルクスの肘打ちで脇腹を抉られ、嘔吐の合間に屠殺される家畜のような鳴き声を上げていた。


 ――この世界に飛鳥の世界にいた動物はいないが、太り過ぎた醜い肉塊は他に何とも例えようがない。


 子爵領から逃げてきた農民や平民はかなり痩せ細っていたのに、この者たちだけはブクブクと肥え太っている。要するに、平民たちから一方的に搾取して一度も施すことが無かった証拠だ。


 ウルマスはスヴェンの斧槍の石突きで股間を叩かれたようで、悶絶して力なく地面を左右に転がっては、途切れ途切れに悲痛な叫び声を上げている。

 斧槍の回転を活かして攻撃したのであれば、相当勢いがついていたはずだ。


 男性であれば想像もしたくない、死と紙一重の激烈な痛みであろう。

 既に少女として生きているアスカには体験のしようもないが。


「あっけなさ過ぎて鬱憤晴らしにもなりゃしねぇぜ」


「まったくだな。略奪に来たという割に動きが鈍い。逃げ方も簡単に背中を見せて走る素人で、武器の構え方もなってない。騎獣に蹴られて動けなくなるとか、徴兵以前の問題だな。エロマーの領地は生活も残った者の質も酷くなる一方だ」


 布越しとはいえ第三王子の股間を直撃した石突きを、スヴェンが魔術で水を出して洗い、続けて小さな火球を(おこ)して(あぶ)り、念入りに消毒している。

 見渡せば坂道にはやってきた男たちが全員転がっており、アスカが三百数える前に事態は終息していた。


「まだ五十も数えていないのですが――」


 呆れながら口を開いたアスカだが、大量に血が流れるような事態にならず安堵もしている。単純に血が流れるよりも深い痛手を負っているのは日頃の行いの悪さのためだ。諦めてもらう他ない。


「傭兵団側に怪我人はいますか?」


「いや、戦闘での怪我人は誰一人いねぇよ。見習いが一人だけ、勢いをつけすぎて転んだくらいだ。護衛には支障ねぇ。擦り傷だけだし、水と酒で洗わせておく」


「そうですか。擦り傷だけならラッサーリに戻ってから軟膏を分けましょう。元々薬師見習いの訓練で新しいものを作る予定でしたから」


 魔術師も薬師も、ロヴァーニでは圧倒的に足りていない。供給が日々増え続ける人口と需要に対して圧倒的に不足しており、学院を出たばかりの新人団員でも教育を施しながら現場に立たせる他に手段がないのが現状である。


 もちろん、そのためにアスカが果たしている役割は大きい。

 リージュールの知識で公開できるものは進度と共に教え、作れる薬の種類を増やしている。材料は新人の団員や商会の見習い、移住してきたばかりの住人が集めており、小遣い程度の報酬を与えることで仕事として成立させていた。


「んで、倒して黙らせたのは良いが――これからどうするつもりだ、姫さん?」


 見習いたちに教える薬の種類について候補のリストを思い浮かべていたアスカの思考を、スヴェンの太く低い声が遮る。

 侵攻しようとした動きは防いだが、そこから先の動きは未定だ。


 ロヴァーニを含めた辺境の治安に関わるため、本来ならば町の代表を集めて決定されるべきだろう。襲撃者に貴族や王族が紛れているなら、王国側との身代金や示談、賠償金などの交渉にも使える。

 最終手段としてアスカの名で王国側に責任を問うことも出来るが、それを行ってしまえば完全にアスカが矢面に立つことになってしまい、()からぬ者が辺境に集まりかねないのだ。


 人の善性は信じたいものの、それ以外の「悪」が世には無数に存在し、生まれてくるものだということも知っている。


 リージュールの王族としての権威・権力、超大国の未婚の王女という立場。

 ライヒアラ王国へ販売している各種の商品に魔術・薬学の詳細な知識。

 何より、アスカ姫自身の整い過ぎて誰をも魅了する容姿。


 敵対した者に対する扱いを慎重に考えて行動しなければ、辺境は周りの全てを敵に囲まれてしまいかねない。

 まだ町としての機能も人の受け入れも産業・経済の基盤としても中途半端で成長途上のロヴァーニは、ある程度成熟するまでの時間を必要としている。


「身を守る以外でこれ以上余分な血は見たくありません。ですので、彼らには彼らの罪科(ざいか)をもって償ってもらいましょう。相応(ふさわ)しい姿になって、そのままエロマー子爵領なり王都なりへ帰ってもらいます」


「あのバカ王子たちに相応しい姿、ですか?」


「ええ。あまり気分の良いものではないですが、自らが犯してきた過去の罪を精算してもらうには丁度いいでしょう。一緒に帰るお仲間もたくさんいることですし。

 それにリージュールでは重い罰を与える時にも使われていたそうです。多少の副作用もありますが罰の範囲内でしょう」


 先程魔術を発動する間もなくスヴェンたちが突撃してしまい、鬱憤を溜めたままのユリアナが(あるじ)に尋ねた。

 杖を胸元に寄せて瞼を閉じたことで、大きな魔術を使うつもりらしいことを察したユリアナたちは喉まで出かかった言葉をそのまま飲み込んで口を(つぐ)む。


 対象となる人数が多いため選別と効果範囲の調整をする必要があるけれど、魔術の内容自体は至極簡単だ。

 魔素を被術者に纏わせ、肉体の変容を伴わずに外見のみ内心に見合った姿に変じさせる。ただそれだけだ。


 どんな姿になるかは魔術を行使する術者にも分からない。心の内など他人には見えないのだから当然だろう。

 けれども、それら目に見えないものを容易に見せてしまうのがこの世界に(あまね)く存在する魔素と『精霊』である。


「人数は多いですが、何とかなるでしょう。ユリアナ、騎獣に()かせた客車や荷車で王都までかかる日数、大凡(おおよそ)でいいから分かりますか?」


 目を閉じたまま術式に必要な項目を整えていく。人数、効果範囲、一人当たりに割り当てる魔素の量――そして効果時間と、魔術が解除される条件。

 帰還の途中で魔術が切れてしまっては襲撃者に対する罰にならないし、積極的に他者を害する気がない者に対してはそれほど大きく姿が変わってしまうわけでもないので、罰にはならないかも知れない。


 姿を変える強制力こそあるものの、内心という見えないものを要素とするため、術者にも変化後の姿の予測はできないのだ。


「王都まででしたら騎獣牽きで約一月――四十八日程度ですね。道の状態によってはもう少し早いかも知れません。歩いていけば一月半強か、天候によっては二月ほどかかるかも知れません」


「やはり遠いのですね。シュルヴィは無事に王都へ着けるでしょうか?」


「姫様が改良された客車と荷車でしたら大丈夫だと思いますよ。私たちが王都から来た時は魔術具もなく改良のされていないものでしたので、座席に座っているだけでも大変でしたけど」


「そうでしたか……では、早めにユリアナたちの専用客車も作った方が良さそうですね。団幹部と直営商会の初期注文が終わったら、外部の商会からの注文の合間に五台ほど作らせましょうか。

 貴女たちが王国に帰省するかは分かりませんが、(わたくし)の命を受けて別行動することはあると思いますし。名代として動く時に侮られてはいけないでしょう?」


 彼女たちからは仕えて間もなく「王都に戻ることはない」と聞いている。

 それでも親や兄弟姉妹もいるだろうし、友人たちと会う機会が(つい)えた訳ではないだろう。それにアスカの名代として辺境各地に赴く必要も生じるかも知れない。


 近場のお茶(テノ)産地への調達や休暇、アスカが別の用事で動けない時の視察に代理で向かってもらうこともある。

 そうした場所へ向かうのに必要な「足」は団内にも少なく、遠方へ向かう客車のうち数台は常に稼働中だ。工房に外注しているものの、余裕は持っておきたい。


「女子棟に戻ってから予定を詰めましょう。工事や視察、魔術などの講義に取られてしまう時間もあることですしね。

 まずは略奪を企てた者たちへ与える罰が先です。魔術障壁の向こう側全体に一度で掛けるには――」


 脇道に()れた会話を軌道修正し、剥き出しの土に尖った小石で魔術要素の覚え書きを刻んでいく。五個くらいまでの要素――敵との距離、発動規模、持続時間、威力、魔素の集め方など――であれば覚え書きなど無くとも(そら)んじられる。

 しかし十を超える魔術要素がある場合は、覚え書きがあった方が楽になるのだ。


 空気を分厚く押し固めたような障壁の向こうには、ウルマス王子を始めとする八十名ほどと数種の騎獣が足止めされている。

 騎獣の大半は荷車や客車に繋がれているため、そのままでも逃げにくいはずだ。


 であるなら、目標とすべきは人間のみ。


「発動対象から騎獣を除けば問題無さそうですね。帰着目標はエロマー子爵領の領都と王都ロセリアド。エロマーの領都や王都は詳しい場所を知りませんが、彼らの記憶に従って帰ってもらいましょう。

 姿を変じる期間は最短で十日間、最長でここから一月半の場所に到達するまで。もし途中で命を落とすことがあれば、その時点で付与した幻覚が解けるようにしておきましょうか。正規の解除手段を取らない時、解除を試みた術者への逆流と短期感染も考えて……」


 発動の条件を整理し、細かな調整を加えて魔術を準備する。

 被術者に魔力で行動を強制するのはある意味「呪い」や「呪詛(じゅそ)」に近い。


 リージュール魔法王国でも罪人に対する罰として行われることがあり、軽いものでは都市からの追放、重いものでは肉体を変質させて別の生物に作り変えたり、双月の御許(みもと)、つまり輪廻(りんね)の輪に戻れなくするものまで様々だ。


 被術者の姿を幻術で魔獣のような外見に変えて彷徨(さまよ)わせ、時として住人に襲われ命を落とす可能性もある刑罰はかなり重い部類に入る。

 輪廻の環に入れなくする刑罰は王家への叛逆(はんぎゃく)や国の重要人物の殺害、大量殺人の犯人など、重犯罪者への処罰になる。原初の精霊への働きかけが必要となるため、刑の執行は王族が担当するのだ。


 軽い刑罰から中規模の刑罰に対しては、厳しい試験と王家の認可を得た裁判官の命令で、同様に選抜された刑吏(けいり)が執行する。

 元の西洋中世世界と違うのは、被差別的な立場に置かれたり蔑視(べっし)を受けたりすることはなく、王権神授的な支配者の命令を受けて刑を執行していた点だろうか。


 とりわけリージュール王都では国内の重犯罪が扱われた関係から、複雑で大規模な処罰用魔術を扱うことが許された刑吏は高所得で尊敬を集める存在だったのだ。


 継承権二十位以内の王族も国家規模の犯罪を犯した者に直接処罰を与えることがあり、魔術として修得する必要がある。

 当然アスカも王女としての教育の中で王妃である母やセヴェル、レニエたち侍女から術理と条件の設定などは教わっていた。


 実際に発動したのは避難の旅の中でも片手で数えられるほどだが、立ち寄った国で行われた正当な裁判の結果を受け、十歳の時にリージュールの王族として魔術を発動させた経験も持っている。


 遍く存在する精霊の力を借り、魔術の対象となる者の心の内面を読み取ってもらい外見に反映させるだけの魔術。

 本来の人としての姿を保ったまま一部が異形化することもあるけれど、そこまで酷い例は数が少ないと断言できる。少なくともアスカが体験してきた中では。



 ゆっくりと呼吸を整え、発動条件を確認し、手にした長杖に体内の魔力を纏わせ循環させる。続けて深呼吸によって大気に満ちた魔力を取り込んで、長杖と身体を循環する魔力の中に溶け込ませていく。

 発動は一瞬だが、魔力の「練り」と呼ぶべき時間は深呼吸四回分ほどにもなる。

 対象となる人数が多いだけに仕方がないのだろう。


 周囲を複数の魔術師や側仕え、スヴェンたち傭兵が囲み、しっかり守ってもらっていなければ無防備となってしまう危険な瞬間だ。

 アスカ個人として防壁と障壁を常に纏っていても、魔術の発動の瞬間だけは常に気をつけている。


 呼吸を整え、魔術の発動条件を最終確認する。

 全身を循環した魔力がアスカの握る長杖の先端へ集まり、装飾と魔術回路とを兼ねた金銀の線を伝い、紫水晶を輝かせた。


 障壁の向こう側では魔術の発動を悟ったのか、ウルマスの周辺や兵の幾人かが慌てて背を向ける姿が見える。だが、行動が遅すぎた。


 そしてアスカのピンク色の唇がわずかに開き、鍵語(キー)が詠唱される。

 感情が一切込められていない、アスカにしては珍しく淡々とした声だ。


汝、己が心よりシンティニット・シュダンメス生まれし醜悪なるタヤ・イゥヤーン・ルマ・偽装を纏え(ナーミオインティ)


 可憐な少女の声とは裏腹に、無慈悲な詠唱が(こぼ)れる。


 一瞬の静寂の後、瞬間的に強い光を帯びた紫水晶から細い光線が(ほとばし)り、坂道に(ひし)めいていた兵や徴収された農民たちを左から右へと撃ち抜いていく。


 光線が通り過ぎた後には血も流れず、外傷もない。


 ――だが変化は静かに、確実に、容赦なく訪れた。






 エロマー子爵領から集められた者たちがその姿を変え始めるまでに掛かった時間はものの数秒である。気づいた時には目の前の同僚や見知った同郷の仲間が、徐々に身の毛もよだつ化け物へと変化していた。


 腕に長い剛毛が生え、あるいは鱗が生え揃い、頭が異様な形に膨らんでいく。

 ある者は複数に分裂した足が粘液を纏って長く伸び、捻じくれた角や牙を生やしたり、口が裂けて森狼(メタサスシィ)のような顎門(あぎと)を開き、(よだれ)らしき粘液を地面に(こぼ)している。


 肉が()げ落ちて骨格だけの見た目になった者や、ブヨブヨとした物言わぬ肉塊になってしまった者もいた。



 天上にある双月の御許の楽園とは違い、地の底の(よど)んだ闇、そのさらに下にあると信じられている死後の責め苦が与えられる場所。

 キリスト教や仏教でいう「地獄」のような場所はこの世界でも信じられている。


 闇の奥に棲むという、人に責め苦を与える異形の怪物たちのことも。


 周囲にいるのは、幼い頃に両親や祖父母たちから寝物語に聞かされた、御伽(おとぎ)話で聞いていた化け物たちと同じ存在に思える。

 呪われ(けが)れた精霊の成れの果てとの説もあったが、貴族出身の学者が唱えている話だけに平民の彼らは知らないだろう。


 互いの姿を見てしまった彼らは、激しい恐怖と混乱に(おとしい)れられた。


 (おそ)ろしさと(おぞ)ましさから逃避するように頭を両手で抱え、(うずくま)って目を(つむ)りつつ、恥も外聞もなく悲鳴を上げる男もいる。


 辺りに響いているのは野獣の咆哮(ほうこう)にも似た雄叫(おたけ)びだ。


 背筋から震えが来るほど恐ろしい声はわずかに時間をずらしながら、坂道の上と下の両方から迫ってくる。怯えた騎獣たちも怒号に似た叫び声に反応するように悲鳴と(いなな)きを上げ、略奪品を乗せて帰るはずの荷車と狭い坂道の間で何度も反転し逃げ道を探して右往左往していた。


 重厚な門の奥から紫色の光が横薙ぎに撃ち抜いたところまでは分かっている。

 だが、その結果どうなっているのかは誰も認識することができていない。


 生活に使われる基本魔術以外のものなど、平民では見ることすら(まれ)なのだ。

 傭兵や領軍のように、魔術師と一緒に戦う者でもない限り見る機会もない。


 そもそも、魔術師など領軍でも数十人に一人くらいしか存在していない。王都に近い場所ならば多少は人数も増えようが、辺境にほど近い領地で優秀な魔術師など求めようがないのである。

 魔術師がいなければ当然魔術自体を見る機会にも恵まれず、魔術を知らないことが未知の魔術そのものへの恐れを生む。


 だからこそ彼らは、魔術に端を発した周りを徐々に取り囲まれる「恐怖」という感情に支配されていく。

 周囲に恐怖する己の姿もまた、異形の怪物へ変化しているとも知らずに。




 傭兵団やユリアナたち側仕え、シルヴェステルは「内心を反映させる期間限定の『呪い』に近い魔術である」と説明を受けたが、門の外で繰り広げられている変化は劇的で、かつ(おぞ)ましいものだった。


 略奪者一行に徒歩や騎乗で付き従っていた兵と徴用された農民は約八十名いる。

 彼らは現在アスカの放った魔術の影響を受け、自らの肉体が怪物へと作り変えられていく幻覚を見させられていた。


 だが視覚はもちろんのこと、触覚や嗅覚、聴覚、身体が変化する際の痛みまで錯覚させられており、動きがある度に大の大人が上げる悲鳴が狭い坂道に響き渡る。

 骨が(きし)み、筋肉が()じれ断裂する音さえ聞こえているようだ。


 魔術障壁と門扉に守られた内側でその様子を見ている面々の顔色も優れない。


 ある意味、地獄の(ふた)をこじ開けて直接中を覗き見ているようなものだからだ。

 スヴェンたちの位置からは幻影の怪物の姿も見えているが、同時に(うめ)き、藻掻(もが)き、地面をのたうち回る元の姿も幻術の向こう側に透けて見えている。


 術の行使前にアスカが言及した「罰である」という言葉。

 そして悍ましい姿のまま領都や王都へ向かう彼らが、誰にも恐れられず帰り着く保証などない――むしろ途中の街道で姿を見られたら、街道沿いに領地を持つ貴族が討伐軍を出す可能性の方が高いことも理解している。


 ウルマスの過去の所業から、辺境で略奪を許してしまえばロヴァーニやラッサーリなどでどれだけの被害が出たか容易に想像がついてしまうだけに、この魔術を選んだアスカ姫を非難する気はない。

 威力の加減をして欲しい、くらいの感想は持っているが。





          ☆ ☆ ☆ ☆ ☆





 兵たちが変えられていく姿は様々だ。


 ある者は海底に棲むゴカイのような環形動物の外観に、頭と(おぼ)しき場所から人間の目玉のようなものを十数本も別々の方向へ突き出させ、ヤツメウナギのような円形の口に無数の乱杭歯(らんくいば)を生やした数テメル(メートル)もの巨大な異形に変じた。


 脚に当たる腹側の部分は四列に並んだ人間の指のようだが、関節の一つ一つが長く、指先から根本までは数十テセ(センチ)もある。

 ムカデのように生えて数百本はあるだろう脚は交互にうねうねと動きながら、騎獣や別の異形の足元へ静かに這い寄ってくるのだ。



 ある者は大きく縦に裂けた頭部から腸や臓器が飛び出しているような異形に変わり、先端に指のような突起や腸の内側にある絨毛(じゅうもう)状のものが生え、全身に(ぬめ)った液体を纏わせながら地面を()っている。

 腕のようなもので上半身だけ持ち上げて動き、腰から下と思われる部分には肥大した臓物のような肉色の袋をいくつも引きずっている。


 何かを求めるようにうねる先端は時折歯茎と歯のような物を見せることもあり、その度に口を左右に大きく開いて、悲鳴とも怨嗟(えんさ)ともつかない呻きと腐肉のような臭いを辺りに撒き散らし始めていた。



 またある者は幾本もの細い触手を生やした円筒状の肉塊に変じて、その先端周辺に生えたエビの脚のような細いものを尖らせ、周囲にいる異形へ幾度も突き刺している。

 (から)のように見えてそれほど硬くないのか、突き刺そうとしては折れて砕け、折れた箇所からまた新しい脚状のものが生えていた。


 肉色の表面に走る赤黒い血管らしき模様と、静脈を思わせる青っぽい触手。

 それぞれが時折表面を波打たせて動きの前兆を教えてくれるため、魔術を使う前に先んじて下がった傭兵たちには被害が出そうにない。

 見ているだけの彼らの顔色はかなり悪いけれども、直接的な被害や負傷の危険はないのだから我慢してもらおう。



 多肉植物であるエケベリア・エトナのような脳味噌か内臓状の(いぼ)を見せ、タコかイカのような触腕(しょくわん)状の脚を多数生やしている者もいる。

 凸凹(でこぼこ)とした表面の隆起が肉色をしているため、動く度にぶよぶよと複雑に揺れるのが不気味だ。襞か溝のような部分には数箇所に眼球のようなものが覗いており、中央付近にある拳大ほどの眼が(せわ)しなく上下左右を見ている。


 目玉や葉の位置から正面と思われる方向には開きっぱなしになったエイの口のような亀裂が見え、人間の臼歯(きゅうし)のようなものがびっしりと上下に詰まっているのが分かる。

 口を閉じようとする度にガツッ、ガツッと歯が当たって鈍い音を立てており、これが幻影でなければ噛まれると同時に骨ごと磨り潰されていただろう。



 狭い坂道を右往左往している者もいた。こちらは骨格だけのダチョウのような身体に人間の頭蓋骨のような小さな頭部を生やし、カマキリの鎌か恐竜のような両腕の鉤爪を折りたたんで胸元に構えている。


 ダチョウと明らかに違うのは四つ脚であることだ。鳥のような前脚に加え、人間の大腿骨のような骨とカエルの指に似た長い骨が後脚として突き出ている。

 爪の先端は全て鋭く尖っており、黒くて硬い鉤爪状になっていた。

 もしも幻術でなく本物であれば、人間やレプサンガの柔らかい身体など簡単に引き裂かれてしまうだろう。


 それからあまり注視したくはないが、身体の下部には五十テセほどの青黒いオオサンショウウオらしきものがブラブラと垂れ下がり揺れている。

 女性傭兵や若い女性魔術師、側仕えたちは唖然として声も出ない様子だ。


 牧場の家畜や騎獣のそれを見て慣れている部分はあっても、長さや太さ、元々が人間であり、領民や自分たちが襲われてしまう可能性を否定できないことを考えると、忌避(きひ)したい感情が湧いてくるのだろう。

 男性経験のない者は首筋まで真っ赤になって俯いている者もいる。

 一時期ランヴァルドと男女の関係にあったユリアナでさえ、渋面(じゅうめん)を隠すこともなく嫌悪感を見せていた。



 辛うじて部分的に人間の形を残したままの者たちもいる。


 個体ごとに若干姿は違うけれど、共通する姿としては片眼をカタツムリの触角のように半ば突き出しながら、もう片方の目は瞼ごと縫い留められ閉じていた。

 口は舌を半分突き出した状態で舌ごと縫われており、わずかに空いた隙間からは鳴き声とも呻き声とも判別がつかない意味不明の音が漏れ出ている。


 脚は一見人間のようでありながら、関節があり得ない方向に折れて獣のような姿を晒しているもの、動く木の根が脚の役割を果たしているもの、タコやイカのような触手となっているもの、ムカデか蜘蛛のような長く尖った複数の脚を交互に動かしているものなど様々だ。


 なまじ部分的に人間の形を残しているだけ、尚更冒涜的な存在となっている。



 魚類に似たもの、両生類や爬虫類に似たもの、昆虫に似たもの。鳥や四つ脚の動物、幻獣や魔獣など、生物の範疇に入っているものは比較的まともな方であろう。


 酷いものは飛鳥の知る地球世界やアスカの旅してきた大陸・海にも見かけたことのない、創作世界の中だけにいる悪夢のような姿をしているものさえいる。


 飛鳥のいた世界の生物に似ている部位を()()ぎしたようなものもあるけれど、魔術を編む時にいちいち考えて結果を導いているわけではないのだ。

 あくまでも内面の――こちらに害意を向けてきた者の心を反映したものである。



「……これで、ただの幻影を纏わせただけだって? 魔術ってのはすげぇんだな」


「罰を与えるって――こういうことも出来るのか」


 安全な門扉の内側から魔術障壁の向こう側で繰り広げられる惨劇を見つつ、斧槍を肩に担いだスヴェンや他の傭兵団の隊長格が吐きそうに口を抑えている。

 長く戦いの場に身を置いた歴戦の彼らですら吐き気を(もよお)す姿ではあるが、あくまでも被術者の心の内面を反映させただけのものだ。


 それだけ彼らの内面が汚れきった、あるいは救いようのない行動ばかりしてきたということなのだろう。立場が下の者や社会的弱者への(いわ)れなき暴力、暴行、恐喝、略奪、放火、殺人、虐待、詐欺、性的行為の強要。

 未成年者への同様の行為も含めれば、余罪はこれだけでは済まないだろう。


 もっとも、アスカだって醜悪な怪物となった者たちを見て平気なわけではない。


 飛鳥と付き合いのあった高等部の友人が宇宙的恐怖を題材としたRPGを放課後に遊んでいたが、その中に出てくる架空の怪物たちを目の前に再現されたようで、プレイヤーの『正気度』が音を立てて削られていく感覚を現実に感じている。

 重ねて言うが、アスカが意図的にその幻影を作り出して皆に見せているわけではないのだ。


 おまけに彼らの姿の一部には、この世界に存在しない生物も(まぎ)れている。

 その辺りは飛鳥としての記憶を精霊たちが読み取ったのかも知れないが。



「なぁ姫さん、こいつらの姿に見本みたいなもんはあるのか?」


「ありませんよ。こんな魔獣はリージュール近辺にも他の大陸にも存在していないはずです。あくまで彼らの内面や考え方、他の人に対しての態度などを精霊たちが汲み取って、それに近い姿を表面に投影しているだけです。

 人の見た目でなくなっている者は、見た目に合わせて発声した音が私たちの耳に人の言葉と違って聞こえているだけですね。

 それから本人の暴力性や貪欲さ、食欲、性欲、他人を疑い、周囲からの見た目を気にする態度。そうした内面も幻影の姿に影響を与えています。

 女性を(しいた)げるなど、これまでの行動や態度もおそらく変化した原因に含まれるでしょうね。あちらの場所から動いていませんが、中心にウルマスがいます」


 即答したアスカが細く可憐な指先を動かすと、上物が吹き飛んだ客車の前に四つの肉塊が寄り添って(うごめ)いている。



 ウルマス王子や取り巻きの三名に至っては、先程見た者たちよりもっと酷い。


 集団中央にいたウルマスと思われる個体は身長三テメルほどに肥大化していた。

 イノシシの頭部のような剥き出しの頭蓋骨の眼窩(がんか)には、血走って肥大化した目がぎょろりと見えている。

 口には外側に互い違いに突き出し反り返った牙が並び、二股に分かれたヘビ状の舌の先端がチロチロと見え隠れしている。


 頭の後ろ半分にはだらしなく開いた人間の(がく)骨格のようなものが幾重にも連なり重なって、髪の代わりに垂れ下がっていた。

 その(あご)の間にはアリクイのような細長い舌が覗き、時折長く突き出されては白く濁って()えた臭いを漂わせる粘液状のものをだらだらと分泌させ、背中の部分を伝って周囲の地面を汚している。


 酸のように地面を溶かしたり白煙を立てていないのは、人間の唾液が元になっているからだろう。


 胸骨らしき骨の中央から下腹部にかけては大きく縦に裂けた口が覗き、サメのように何重にも並んだ尖った歯が見えている。


 人の身体であれば腕があるはずの部分は、数十本の蛇状のものが生えていた。

 だがその先端は鋭く尖った毒牙を生やす口ではなく、肉色の――男性の生殖器を思わせるような気色悪さを伴うものになっている。

 それらが数テメルも伸びて別々に蠢き、先端の亀裂から覗く小さな眼球状のもので獲物を探り、狙っているかのような動きを見せていた。


 揺れる動きに合わせて先端の眼球の周囲から絶えずじゅくじゅくと半透明の液体を吐き出す姿に、女性魔術師や側仕えたちは両腕で身体を守るように抱き、怖気(おぞけ)(ふる)っている。



 三人の取り巻きは、それぞれが得体の知れない化け物と化していた。

 六本脚の生えた十テメルほどのウツボかホウライエソのような頭部を持つ細長い魚になっているのは、王都の商会の子で貴族庶子の末裔だったか。


 指と膝、股間付近に生えたフジツボ状の突起から赤黒い三十テセほどの脚を伸ばした、等身大のエリンギを思わせるキノコ人間。こちらは周囲に靄がかかったような姿で細かく上下に揺れている。

 残る一体は三テメルほどの身体の半分に互い違いの牙を生やした口を持つトカゲを思わせる怪物。体長と同じくらいの長さの尾はトカゲにはありえないほどで、尻尾の先は三つに分かれていた。

 こちらはエロマー子爵の縁者だったはずで、それぞれが直視するのも(はばか)られる姿になっている。



 魚はヌメヌメとしたゼリー状の粘液に包まれ、飛び飛びに生えている(いびつ)な形の鱗が陽の光を浴びて鈍く光っている。

 目玉はビー玉大の小さなものになり、それが片側三列、頭の両脇に並んでいた。


 十テメルもの巨体には、蜘蛛かサソリのような分厚く硬い殻を持った、成人男性の胴体ほどの太さを誇る脚が生えている。それだけの大きさなのに地響きを立てることもなく歩いているのは、現実の身体ではなく幻影だからだろう。


 体表の鱗のようなものには(あな)が空いて並んだ部分もあり、そこからはチンアナゴか蛇を思わせる細長いものが周囲を探るように顔を覗かせていた。

 ただし、その形状はモザイクを掛けたい類のものに置き換わっている。


 先端は十字に亀裂が入り、根元から先端に向かって細く数回捻れ、何重にも釣り針の「返し」のような段がついていた。傷口などに一度突き刺さったら、抜き取るのに相当苦労しそうな形だ。

 特に女性にとっては生理的に受け付けられない色と形状をしている。



 キノコ人間も正直全身にモザイクを掛けて欲しいほどだ。

 指や膝、腰から股間一帯に生えたフジツボのような突起の中央からは赤黒い触手のようなものが伸び、何かを求めるように宙や体表を這い回っている。

 粘液などは纏っていないが、(くだ)状の先端がぱくぱくと蠕動(ぜんどう)に合わせて開閉しながらのたうっており、気持ちが悪いことこの上ない。


 身体や傘の内側に当たる部分には(こけ)かカビのようなものがびっしりと生えていて、髪か体毛のように垂れ下がっている。それらは一歩歩くごとに左右に揺れながら、胞子のような茶色い粉を絶え間なく撒き散らしていた。


 隙間から時折見える口らしき亀裂は真一文字に裂けており、アスカが好む上品な紫とは正反対の、毒々しい紫色の舌が覗いている。

 舌にまとわりつく血色の赤い唾液が余計に気味悪い。



 体長の半分ほどもある大きな口を持ったトカゲは、ソフトボールほどもある三つの目玉をゆっくりと動かしながら、小さな鱗の生えた太い前脚と昆虫の幼虫のような三対の腹脚(ふくきゃく)を動かして這いずり回っている。


 牙の長さは傭兵たちが腰に刺した短剣ほどもあり、たるんだ皮膚を持つ顎をより凶悪なものに見せていた。


 ぐぱぁ、と大きく開けた口に驚いた騎獣の一部がパニックに陥り、甲高い悲鳴を上げながら転倒した荷車に頭や身体を激しく打ちつけて、地面に転がって気絶しているのが魔術障壁越しに見える。

 本当に(かじ)りついたり食われたりするわけではないが、見た目だけでも恐怖を覚えるのだろう。


 頭から体長と同じくらいの長さに伸びた尻尾の先端は三つに分かれ、その先端が男性自身の先端のように膨れて宙を揺れている。半透明の雫が先端から滴り、障壁の反対側にいる女性の姿を狙う様にはアスカも含む女性陣の恐怖しか誘わない。

 成人男性の二の腕ほどもある太さの尻尾で絡め取られ、大型の蛇のように締め上げられたら身動きどころか呼吸すら危うくなるだろう。

 その後の貞操の危機すら避けられなくなってしまう。





          ☆ ☆ ☆ ☆ ☆





 この魔術が恐ろしいのは、これらが実際に魔術をかけられた者の肉体を改変させたのではなく、その人間の内面を身体の外側に投影しただけ、ということだ。

 掛けられた本人は幻覚の痛みを覚えたり自らの異形化の過程を幻視するが、肉体に直接的な変化が起きるわけではない。


 魔術上の分類としては幻術に当たるのだが、外から認識されるその姿は真実味を持っている。今でこそ術の完成前なので元の姿も薄く透けて見えているが、最後に行動の命令を付与することで術が完成し、異形の姿のまま術者の下した命令を完遂すべく一心不乱に動き出すのだ。


 完成後の命令変更も出来ないわけではないが、手順は面倒になる。

 故に最初の命令に沿って動くだけとなることが多く、歴代のリージュール魔法王国で罪人の追放・放逐という使い方が一般的になってからは『魔術でありながら呪詛のように扱われることになった』とも聞いている。



 アスカ自身はこの魔術を習った際に『過去の本人の行動や性格などから精霊が魔素を使って被術者に相応しい姿を纏わせ、偽装させるのだ』と聞いていた。


 発動時に込められる魔素の量によって姿が変わる可能性はあるけれど、王族が刑の執行などに何度も立ち会うものではないため、魔術の講義で原理を詳しく習ってから一、ニ度練習出来たかどうか。

 王であった父や王妃の母ですら「即位前後にそれぞれ一度使ったかどうか」程度の使用頻度だったとセヴェルに聞いている。


 わざわざ大規模魔術を掛け直すまでもないし、何より醜悪な姿を見続けているとアスカの「正気」もおかしくなってしまいそうだ。

 魔力総量に余裕はあっても、何度も使いたいものでもない。


「魔術の仕上げをしますね。彼らの大半は子爵領の領都と王都へ徒歩で帰らせますので、待機している傭兵たちを動かして荷車と騎獣を回収して下さい。

 騎獣は異形を見て一時的にパニックに陥っている可能性もあります。そうした子は危険なので後回しに。略奪者を退去させてから鎮静の魔術で大人しくさせます」


「了解だ。手前ぇら、姫さんの指示は聞こえたな?! こいつらを峠道から追い出したら、荷車と騎獣の回収をする!

 危ねぇから怯えて暴れてる騎獣には手を出すなよ!」


 山間(やまあい)の峠道にスヴェンの大声が響く。

 それだけで末端まで指示が行き渡ったようで、魔術障壁を張った新人魔術師たちを残したまま(かんぬき)の外れた門扉を開いた状態で固定し、槍や剣を構えた傭兵が五列横隊で並ぶ。



 ラッサーリの野営地からここに来るまでの間に「確保した荷車を暁の鷹(ヴァリエタ・ハウッカ)、ハルキン兄弟団、ノルドマン傭兵団にそれぞれ一台ずつ譲る」という交渉を済ませてあるため、やる気を出しているのだろう。


 外部から購入すれば金貨数枚と納品までの時間が必要になり、ロヴァーニの木工工房に頼むにしても逼迫(ひっぱく)する住宅需要で長く待たされることになる。

 欲しかった現物が向こうからやってくるので、修復して商人に下げ渡すついでに各傭兵団の需要も満たしてしまえ、ということになったのだ。


 ハルキン兄弟団のマルクスを始めとした他の傭兵団幹部が要望を口にしてくれたおかげで、利害調整をしやすくなったとイントやスヴェンが言っていた。


 ノルドマン傭兵団も商隊護衛と同時にロヴァーニ近郊での仕事が増え、物資の調達や輸送、団内の物資移送が増えたらしい。暁の鷹は元々自前で狩りをしたりすることも多く、以前から食料品関連の商会との取引が多い。

 単純に仕事量が増えて慢性的な人手不足の中、輸送量も増えて解決策を模索していたところだったので、荷車や騎獣の安価な提供案は渡りに船だったようだ。


 ハルキン兄弟団は今夏から本格的に辺境への移民と商品の輸送を手掛ける。

 元々辺境地域で野盗を討伐し、理不尽な貴族家家臣とも渡り合って撃退したことがある彼らは、特に王国南西部と北西部での知名度が高い。

 その地域とロヴァーニを起点とした定期便を確立し、傭兵団としての収入を安定化させる方針だという。


 スヴェンたちを先頭に各傭兵団連合が一致団結して歩みを進め、魔術師たちが炎や氷の初級魔術を後方から雨あられと降らせていく。

 暁の鷹は門扉脇の崖の上から弓矢での支援を行って、互いの姿に(おび)える略奪者たちを追い立てていた。


「そういえば姫様? あの者たちが怪物の見た目になっていましたが、術はきちんと解けるのですか?」


 ユリアナの背後に隠れるようにしていたマイサがおずおずと尋ねる。

 よほど異形たちの見た目が気色悪いのか、視線はアスカのみを見ていた。

 彼女だけでなく、ライラやヘルガ、ネリア、ルースラ、アニエラ、ハンネも異形から目を(そむ)け、何とも言えない顔をしている。


 護衛のレーアとクァトリ、エルサは男性の身体の一部を取り込んだらしい形状を目にしても動揺はしていない。否、顔に浮かんでいるのは動揺ではなく嫌悪か。

 先にロヴァーニへと()ったラウナやレイラ、アネルマたちが目にしていたら卒倒していただろう。


「もちろん解けますよ。彼らには行動の指針と魔術に縛られる期間だけを定義しましたから、時間が過ぎれば元に戻ります。他に術が解ける条件としては、自死以外の手段で死亡した場合ですね。それから、これまでに危害を加えてきた全ての相手に謝って許された場合でしょうか?

 これまで他の人々に振り撒いてきた苦痛や屈辱を自覚し、反省するための機会と時間の猶予を与えただけなので、自死などという安易な逃げ道は許しません。

 でも、あの姿のまま王国領内や街道を進めば当然恐れられます。周辺の貴族領から討伐軍が出て、討ち取られることもあるでしょう。

 これまでの彼らの行動や言動を考えれば自業自得ですけれど」


 ことさら平静を装って説明するが、内心は葛藤だらけだ。決して解ける可能性がないために、説明していない解除条件もある。

 またウルマス王子とその取り巻きたちは、確実に死を迎えるまで決して幻術が解けることはないだろう。


 一人の人間が他大勢の人間の運命と生き死にを左右する。その事実が重い。


 元は飛鳥という一人の歌舞伎の女形(おんながた)役者だっただけで、役者である以外はごく普通の庶民だったはずだ。


 しかし同時に、今の姿であるアスカ姫はこの世界を代表する超大国の直系王族の第一王女であり、世界中の国々の盟主一族として行動することが許されてしまう。

 祖先から連綿と続く精霊と契約を結んだ祭祀一族の正統な末裔でもあり、各国の貴族どころか王族たちの一段上に位置している。


 だからといって他人の生死を勝手に左右することが許されて良いわけがない。


 もちろんこれらの葛藤は、飛鳥が暮らしていた現代社会の倫理観が影響しているせいで生まれたものだ。この世界では王族が庶民の生き死にを左右するなど当然のことと受け止められているし、それどころか平民がどこで生まれどう死のうが歯牙(しが)にもかけない。


 その辺の感覚の違いや感情の処理方法を教え導いてくれる存在が既に亡くなってしまったため、葛藤として残ってしまうのである。


「――無理矢理にでも飲み込んでいくしか無いのでしょうけど」


 可憐な唇の隙間から小さく(かす)れた声が漏れる。



 周囲は魔術が地面に当たって破裂する音、剣や槍で異形の体表を叩き弾ける音、追い立てる傭兵たちの声で満たされている。

 アスカの呟き以下の声を拾う者などいない。


 ただ、ユリアナだけが表情を消してそっとアスカに寄り添い、坂の下へと追い立てられていく略奪者たちの成れの果てを主の隣で見送っていた。



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多忙で感想返しが滞ってますが、きちんと全部読んでます。


説明が足りてない部分を移動中にテキストで書き足してたら、後編だけで2万8千字強(空白・改行含まず)に増えてた。前編よりほぼ五割増しで多い。内容的に一区切りになる場所で分割したけど、文章量だけなら前・中・後の三回分割でも良かったかも。今更だけど。

次回更新はおそらく七月。



エケベリア・エトナ(多肉植物)

あさりよしとお氏の『宇宙家族カールビンソン』に出てくる「リスのターくん」の頭部みたいなのが葉っぱに浮き出てると思いねぇ。

観葉植物として扱ってるお店もある実在の植物だけど、個体によってはまさに脳味噌の外見。画像をネットで検索するのは自己責任で。そういえばカールビンソン、未完なんだよね……。コロナちゃんとおとうさんが好き。


21/06/11 02:00 加筆修正

21/06/12 17:00 第2稿加筆修正(800字程度)

21/06/13 11:10 微修正

21/06/14 07;00 微修正

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