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女形の姫様転生記  作者: 新島 隆治
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閑話 王都ロセリアドと辺境の一年 夏

六月中には間に合わなかったけど……。一年目・夏の終わり頃の王都、後半ちょっと血なまぐさいです。


 ライヒアラ王国の王都ロセリアドは人口十五万を抱えるという、この大陸でも有数の大都市である。正確な戸籍が整備されているわけでもないので、何時(いつ)からか言われている自称ではあるが。


 前王朝リンドロース王国の副都として建てられた古都を元にした現在の王朝は、建国から三百年ほど経った落ち着いた街並みを見せている。

 副都建設から数えればおよそ七百年弱。

 石造りの美しい町は六月の中旬、晩夏を迎えようとしていた。



 王都の中心から少し外れた場所にひっそりと建つシネルヴォ伯爵邸を出た角犀馬(サルヴィヘスト)二頭()きの客車が大通りを進んで行く。

 窓の代わりに木戸を()め込んだ扉からは石畳で熱された埃っぽい風が吹き込んで、老境に差しかかったシルヴェステルの前髪を揺らしている。


 数代前までは伯爵(クレヴィ)ではなく、侯爵(マーキーシ)辺境伯(ラジャクレヴィ)と同等の地位にあったシネルヴォ家。二百年ほど前に起きた紛争の責任を負わされる形で降格されてはいるが、王家も建国当時からの軍閥の重鎮を低く扱う訳にはいかなかった。

 それ故に領地貴族から法衣貴族へ移され、降格された現在でも、シネルヴォ家は一段下の伯爵位に留められている。


 王城への長く緩やかな坂を上がっていく客車は揺れも少ないが、それは同時に眠気を招き、思索の時間を奪っていくものだった。短い顎髭(あごひげ)を右手で(しご)き、一昨日の晩に辺境から(もたら)された最新の報告に思いを巡らせる。

 先月、末の息子から頼まれて送った側仕えたちは無事に辺境の街ロヴァーニへ到着したらしい。人選について多少個人的な恨み言も入ってはいたが、そんなものはかわいいものだ。


 問題はその後である。

 いや、数年ぶりに寄越した息子からの報告こそが大本の原因ではあるのだが。



 例年より遅い春の訪れが王都にもやってきた晩、ランヴァルドの使い魔(ヴェカント)が部屋に飛び込んできた。空飛蛇(タイヴァスカルメ)がシルヴェステルの執務室に突然やってきて、身体に巻きつけてあった皮紙の筒を差し出してきたのである。

 そこに描かれていた紋章と久しぶりに見た筆跡、余人には明かせない内容に一晩頭を抱え、家人たちにも見つからぬよう慎重に手紙のやり取りを重ねてきた。


 ライヒアラ王国にとっても見過ごせない事態である。


 最近の王国貴族の腐敗と堕落、民からの収奪は酷いものだ。

 東部穀倉地帯の危機的な状況も見過ごすことは出来ないが、そのしわ寄せが辺境へと向かっているなら尚更である。


 それ以上に深刻なことがある。この国にとっての宗主といえるリージュール魔法王国直系の姫が、邪教を(ほう)じる徒によって主従共々襲われた。王都に近い場所か、事前に賊の情報を知っていれば国軍を出動させて力尽くで駆逐しただろう。


 しかし息子が立ち上げたという傭兵団が調べを進めていく中で、王国貴族の間接的な関与――辺境に近い領主の悪政を誘引とし、法衣貴族が後ろで糸を引いていた疑いがあると判明しつつある。

 もし他国に知られでもしたら、ライヒアラ王国は盟主リージュールに弓引くものとして周辺国から一斉に攻め滅ぼされよう。建国を認められ、周辺の鎮撫(ちんぶ)を命じられた王家はもちろん、その配下として封じられた各貴族家も。


 姫の名と容姿の特徴、未成年の王族であること。従者が全て殺されたこと。

 身に帯びていたという護身用の短剣に彫られた紋章の写しも、既にランヴァルドからの手紙で届けられた。

 しかしここから先は伯爵家だけに留める話の範囲を超えている。騎士団をまとめ軍閥内の調停をし、何度も貴族間の調整をしたこともあるシルヴェステルの辣腕を持ってしても到底扱いきれない。


 故に密使を出して国王陛下に大至急の面会を求め、二日も待って王城に向かっているのだ。貴族の思惑や余計な横槍は徹底的に排除しなければならない。




「大旦那様、間もなく王城でございます」


 御者を務めるヴァルトが振り返り、声をかけてくる。窓越しに見える分厚い城門は建国当時から変わらないというが、門前に詰めている兵たちには任務中に私語を交わすなどの(たる)みも見られた。

 シルヴェステルが団長だった時には絶対に許されなかった行動である。


 王城警備を任う者は普段の激しい訓練とは裏腹に、職場では威厳を持って身動(みじろ)ぎ一つせずに立ち続けなければならないという過酷な職責を負う。

 王城とは政務の場であると同時に国の顔なのだ。


 王が専制君主と言えるほどの権限を持っていないこともある。

 これは建国当時から貴族間の争いを調停する王を戴くという体制を採り、現在も領地貴族や法衣貴族の力が根強く残っているためだ。シルヴェステルも在任中は騎士団長として無能な貴族家の子息には苦労している。


 だが平日の朝早くからこの体たらくでは、一言言ってやるしかあるまい。

 入門手続きのために一時停止する客車の窓から顔を出したシルヴェステルは、門の前で矛槍を捧げ持つ兵を短く一喝する。


「しっかり背筋を伸ばして矛槍を構えぬか、愚か者!」


「ひぃっ! は、はっ!」


「な、何事だ――だ、団長っ!?」


 城門の当番を取りまとめている騎士は王国軍の中でもそう高い地位ではない。

 それでも前騎士団長の顔は見知っていたのか、怒声に驚いて詰め所から飛び出してきた壮年の男は、背筋を伸ばしてその場で深々と頭を下げた。


()団長だ。今の団長はアントネンだろうが。それより、暑いからといってだらけた姿勢で任に当たるな。

 王城の一番目立つ位置にある城門は良くも悪くも注目される。王族や貴族はもちろん、市井(しせい)の者たちにもな。自分の一挙一動が常に誰かから見られていることを意識しておけ」


 小言を言いながら『年を取ったものだ』と自嘲しつつ手を振る。

 来年には五十の大台に差し掛かるので、年を取ったことは否定できないが。


 とうに現役を退()いたとはいえ、彼も根っからの軍閥貴族だ。十代の頃から学院や騎士団で骨身に叩き込まれてきただけあって規律には厳しい。

 即応とまでは行かないが、規律がなければ騎士団は立ち行かない。

 文官たちが蔓延(はびこ)る城内は血と権益が複雑に絡む魔窟だが、王国軍の中核に当たる騎士団は実力と規律で序列の大半が決まる。


「徹底させますので、この場は何卒(なにとぞ)ご容赦ください!」


「騎士団のことは騎士団で収めろ。外部に横槍を入れさせるなよ」


「はい! 手続きは問題ありません、お通りください!」


 前方で合図があったのか、詰め所から飛び出してきた壮年の騎士が若い騎士の頭を掴み力尽くで下げさせている。現役時代の諸国との戦争や貴族間紛争で生まれた悪名は、良くも悪くも残ってしまっているのだろう。



 実力主義の騎士団だからこそ、シルヴェステルが引退した後の団長には彼の弟子だったアントネンが就くことになった。次代を有望視されているのがアントネンの弟子で、当時第二団の副隊長を務めていたエリアス・パルハニエミ。

 シネルヴォ家出身の団長就任はしばらく遠ざかっていることになる。


 そこに寂しさを感じないわけではない。


 シルヴェステルは伯爵家の実務の大半を長男に引き継ぎつつあるが、毎朝の鍛錬も欠かすことなく続け、未だに相手をする息子たちを圧倒している。

 しかし実戦の腕だけなら末のランヴァルドが一番であるのは間違いない。

 貴族学院を出た後、ヒューティア家のユリアナ嬢と結ばれて騎士団に残っていたならば、ニ代くらい後の騎士団長に就いた未来があったかも知れない。


 元々次男は尚武(しょうぶ)の性格が強いシネルヴォ家の家風には向いていなかったが、家が関わってきた権益や派閥とは無縁でいられない。

 長男は騎士団の上層部で伯爵家継嗣、次男は事務方を中心に経験と実績を積み、昨年男爵(バローニ)を賜った。長男は幼いが二男一女をもうけており、次男が別の家を立てられるなら跡目争いの心配もない。


 正妻の娘二人も既に嫁いでおり、ランヴァルトと仲が良かった末娘のアリッサは第一王子に見初(みそ)められ、王家から望まれて嫁いでいる。側室腹だったために当初は第三夫人にとの申し出だったが、機転が利き人当たりも良い性格から正妃候補に格上げされていた。

 未だに第一夫人は決められていないが、今後も他国から正妃を迎えることがなければ実質的な王妃になる。建国当時からの譜代で元は辺境伯(ラジャクレヴィ)家だ。血筋も問題ない。

 騎士団への未練がないわけではないが、シネルヴォ家は一応安泰と言えよう。



「大旦那様、王城に到着いたしました。私たちはこのまま厩舎へ角犀馬(サルヴィヘスト)を預け、待合室でお待ちしております」


 思索に(ふけ)っている間に客車の上下動が止まり、客車の扉が開かれていた。

 御者を務めたヴァルトが息子に手伝わせて踏み台を置き、様子を窺っている。


「済まぬな、考え事をしていた。ヴァルト、こちらの荷物を王城の者に。魔術封印を施しているので大丈夫とは思うが、お前が信頼できる者に渡してくれ」


 向かいの座席に載せていた蓋付きの木箱に視線を向け、先に客車の外へと出る。そろそろ夏が終わるというが、陽射しは未だ厳しい。


 東部穀倉地帯の渇水は収束する様子が見えず、今年の収穫も厳しそうという報告は彼と親しい領主からも聞いている。

 王都は他の地域からも食料が運び込まれるので影響が少なく見えるが、東部領地からの人の流出は止められないだろう。

 実際、先日ランヴァルドに請われて送った側仕えの娘たちには東部領主の縁戚の者も半分ほど含まれていた。


 青空に白く映える王城を仰ぎ見る。王城は数百年揺るぎなくとも、貴族家の領地は揺らぎつつある。それが心配だった。

 漠然とした不安を胸の内に抱える彼の後ろでは、素早く客車に乗り込んだヴァルトが一抱えほどの木箱を携えて降りてきている。一昨日の晩、ランヴァルドの遣いとしてやってきた魔術師のハンネ嬢が届けてくれたものだ。


「こちらは――先日屋敷に届けられた荷物ですね。届け先はどちらに?」


「陛下の執務室だ。私の訪問に合わせて届けさせてくれ。頼んだぞ」


 短く指示を伝えて踵を返す。

 予め王城に行くことは伝えられていたが、面会の相手がまさか国王陛下だったは伝えられていなかったため、ヴァルトは一瞬茫然自失としている。


 けれども主の命令は絶対だ。

 ヴァルトは息子に角犀馬を預けると、主の命を果たすべく入口脇にある取り次ぎ部屋へと駆け出す。伯爵(クレヴィ)家以上の取り次ぎを頼むなら相手はただ一人。

 第一次王子派だが、公正な侍従として知られるカルヒネン以外にいない。

 息子に手早く指示を出した彼は、彼が部屋にいることを願いつつ足を進める。

 残された息子との間に、夏の乾き切った風が吹き抜けていった。








 侍従の後について国王の執務室へと続く回廊を進む。

 窓も少なく常に薄暗い回廊ではあるが、明かり取りのために設けられた隙間からは王都西側を囲む後背の山脈と貴族の邸宅が見え、ここからでは王都以外の危機的状況は欠片も感じられない。


 それが法衣貴族たちの危機感の欠如に繋がっているのであれば、頭が痛いなどというものではない。緩慢な自殺に気付かず権力争いに明け暮れる貴族たちの愚かさを(わら)い、同時に途方に暮れる。

 息子や娘たちに平穏な暮らしをと願うのは親の常だろうが、何時まで続くか分からない繁栄を願う虚しさは幾度も見ている。


 シルヴェステルが当主になり一線で働いてきた二十数年の間でも、王家の血を引く公爵家と伯爵家が一つずつ消え、子爵以下の家が両手では数えられぬほど消えた。準男爵や騎士まで含めればいったいどれほどの家が消えたことか。

 もちろん、功績を上げて陞爵(しょうしゃく)叙爵(じょしゃく)された例もある。

 総数では減っているが、税収が極端に落ちているわけでもないのなら、多過ぎる貴族家の数を調整しているとでも考えれば良いのだろう。


 侍従の背中を早足で追いながら角を曲がった時、その声は聞こえた。


「あら、小父(おじ)様ではありませんか」


 顔を上げると正面からイリーナ姫が歩いてくるのが見える。末娘アリッサとは学院の同級生で親友同士だった、この国の第三王女だ。彼はほとんど留守だったが、基礎学院の頃から屋敷にも何度か遊びに来ていたと聞いている。


「これはイリーナ様、ご無沙汰しております」


「こちらこそ。アリッサとは王城で仲良くお茶会をしていますけど、騎士団を辞されてから家督を譲るご準備をされていたそうで、すっかりご無沙汰していました。

 たまには娘さんに会いに来られても良いと思いますよ、小父様?」


 彼女は兄や伯父たちが複数いるために継承権こそ第八位だが、頭の良さや臣下の機微を理解するという点においては誰よりも優れていると噂される王女だ。

 第一王子が王太子と決まっているというのに後釜を狙っていると巷間で噂される第二王子と第四王子の確執は、王国貴族の派閥を分裂させている。

 ましてや無能で粗暴な女好きと悪名の高い第三王子らと同じ血を引いているとは到底思えない才女である。


「一応は長男に家督を譲ったことにしておりますからな。報告と相談がなければ城に上がることも無くなっております。アリッサには悪いと思いますが、頻繁に嫁ぎ先へ押しかけるのもどうかと思いましてな。

 自分で産んだ王子や姫を連れて実家に遊びに来るなら、私も一人の爺として歓迎もしますが」


 苦笑交じりに答えて頭を下げると、イリーナ姫もクスクスと笑っていた。

 国内外に勇猛で知られたシルヴェステルがまだ見ぬ孫を抱いて好々爺然(こうこうやぜん)と振る舞う姿を想像し、似つかわしくないとでも思ったのだろう。

 長男には子供が生まれており、既に祖父であることに違いはないのだが。


「それほど小父様が気にしなくても、アリッサはもちろんお兄様も歓迎してくれると思いますよ? 城内や王都だけでは触れられる話題にも限りがありますし、学院で一緒に学んだ者たちも嫁いで王都を離れてしまいましたから話し相手になる者がそれほど多くないのです。

 都合の(よろ)しい時にでも連絡くださいな。アリッサと一緒にお誘いしますわ。ランヴァルドお兄様の消息も伺いたいですし」


 軽く目を伏せたイリーナ姫は、二人の側仕えを従えてその場を離れて行く。

 王城に巣食う魑魅魍魎(ちみもうりょう)どもから王女に守ってもらえているなら娘も淋しくはなかろう。ランヴァルドの消息については傭兵団の噂を耳に入れてからある程度伝えており、姫も知っているはずなのだが……。


 壁際に控えて待っていた侍従たちに目を向けると、王女との会話に遠慮していた彼らも立ち上がり、再びシルヴェステルを先導し始める。


 けれども彼はイリーナ姫と出会った場所について思いを巡らしていた。


 この先は王の執務室と私室、少し手前に小さな王家専用の図書室しか無い。

 次兄以降に警戒感を持っていると聞く賢明な彼女が、王の私室や執務室に近づくことはない――はずである。であれば行き先は図書室しか無いのだが、本に特有の皮紙の匂いは侍女たちからもしなかった。

 侍女たちも姫が自ら選んだ信用のおける者たちしか(そば)に置いていないのだとアリッサから聞いている。


 釈然としないものを感じながらも、彼は侍従の案内に従って執務室前に立つ。

 侍従のノックへの(いら)えの声に従い、シルヴェステルは長年身体に染み付いた騎士の礼を返し、重厚な扉を潜った。





 太り気味の侍従長が受け取った木箱をテーブルに置き、部屋付きの側仕えが茶を淹れ終えると同時に王が人払いを命じる。

 侍従長以下、部屋で警護を務めていた騎士二人も同様だ。


「し、しかし陛下!」


 反対の声が上がったのは当然だろう。彼らも騎士団の任務として国王の執務室に詰めているのだから。しかしその声も王自らが再度人払いを命じたことで消え去る。


「私は人払いを命じたのだ。それにここに残るのは先代の騎士団長だぞ。建国より仕えてくれた家の先代当主で、この私の学院時代からの友人でもある。

 お前たちよりも遥かに腕の立つ者が残るのだから護衛も何もあるまい。

 それにシルヴェステルを呼び出したのは私だ。重大な内容ゆえ、人払いすることを確約した上でな。分かったら早く部屋を出んか」


 国王としての強権を持って命令されるよりも大人しく退いた方が良いと判断したのか、騎士たちが侍従長の後を追うように部屋を出る。


 全員が出たのを確認した王は、扉に鍵をかけた上で魔術具を持ち出し、応接用のテーブル周辺に盗聴防止の空間を作り上げた。

 二十年ほど前にこの国を訪れたリージュール魔法王国の使節が王家に(もたら)した魔術具で、極秘事項の伝達の際にだけ用いられるという品である。

 これを使えば物理的にも魔術的な覗きにも対応できるが、相応の魔力の持ち主でなければ起動すらできないのだ。


「済まぬな、シルヴェステル。そなたが騎士団を退いてからというものアントネンも頑張っているのだが、権力欲に(まみ)れた貴族の跳梁(ちょうりょう)を抑えきれぬ。

 それに踊らされるバカ息子たちもバカ息子たちだが」


「……ここだけの話として聞いておきますがな」


「学院時代から四十年近く付き合ってきたお主にしか言えぬよ。既に王太子はイェレミアスに決めておるというのに、エイナリとオラヴィの仲の悪さを利用して対立を煽る貴族(バカ)共が多くてな。ウルマスは兄弟の中でもそうしたバカどもに振り回されて育ってしまった。今では評判も素行が悪過ぎて手に負えぬ」


「ますます他の者には聞かせられませぬな。あの食えぬ侍従長辺りが喜んで兄弟の対立に手を貸しそうだ」


 西方や北方の領地で採れるという(テノ)を口に含み、深々と溜め息を吐く。

 まさか魔術具を起動した直後から王家内部の愚痴を聞かされるとは――。


「幸いだったのは、後継ぎに選んだイェレミアスが愚かでなかったということくらいだな。そなたの娘が賢明な女性で妃となることを受け入れてくれたから、騎士団の主だった者やその親族、有能な在地貴族たちも王家に付いてくれている。

 不名誉も負わせてしまったが、代々仕えてくれるシネルヴォ家のおかげだ。忠義に対し改めて礼を言う」


「建国以来、我が家は王家の剣であり盾として働いてきましたからな。わずかなりとも国のお役に立てたようでしたら何より」


「硬いぞ、シルヴェステル。私とそなたの仲だ、学院時代のように気楽にして良いというのに」


「そうも参りますまい。陛下がどう思われようと、王と家臣ですからな」


 シルヴェステルは胸の前で結んでいたスカーフ状の布を解くと、何かを問いかけようとした王を手で制し、広げた布の一辺を掴んだままくるくると回し始める。

 振り回された布の先端はある方向でのみ光を放っていた。それを慎重に追う。

 やがてテーブルの下と執務机の天板下に置かれていた(てのひら)大の薄い箱を床に置くと、力の限りに踏み潰す。箱の中からは晶石が転がり出て、それが何らかの魔術具であったことを教えてくれる。


 驚く王を後目に、シルヴェステルは腕に嵌めていたブレスレットを(かざ)して晶石に当て、静かに魔力を流し込む。直後『バシッ!』と小さな雷が落ちたような音を立てて光が弾け、同時に床の晶石が粉々に砕け散った。


「何だ、今のは……?」


「侍従長か侍従、あるいはその派閥の者が仕掛けていた魔術具でしょうな。もしくは何処かの貴族に使嗾(しそう)されたか。いずれにせよ、この執務室での王の会話や行動を盗み聞きするためのものだったようですぞ。

 ハンネ殿から予め破謀の魔術具を預かっておいて良かったとも言えるし、悪かったとも言えますが。とりあえず、これで完全に憂いは無くなったかと」


 砕け散った晶石は灰色に濁ったものと、白っぽい半透明のものが混じっている。

 魔術具に詳しくない者でもどちらの晶石が品質が高いものかは一目瞭然だ。


「さて、ここから先は昔に(なら)って呼び方も戻させてもらおうか。畏まった口調も面倒だしな、エドヴァルド」


 口調を改めたシルヴェステルが短い髭の下の唇を開く。学院時代と同様の呼び方に懐かしさを覚えながらも、王は目の前で起きた現象について問い質す。


「シルヴェステル、どういうことだ?」


「これから話すことに直結する可能性があるとしか言えぬ」


 薄い箱の残骸を執務室の扉前に蹴り飛ばしながら、彼はドカッと音を立てて椅子に腰掛ける。結構大きな音を立てているのに、部屋の外から誰かが扉を叩いて安否を問う声も無いようだ。

 安心したように短く息を吐いたシルヴェステルは、テーブルの上に置かれたままになっていた箱の封に掌を向ける。カチリと小さく音を立てた封が外れ、蓋に嵌め込まれた宝石のような石の中に青い光が灯った。


「この件は国王として知っておかねば(まず)かろうと思ってな。ただし侍従長を始めとして国に巣食う害虫には決して聞かせられぬ。事はライヒアラ王国の存亡に関わるやも知れぬのでな」


 蓋を開き中の紙束を取り出し、布に包まれた小さな板を脇に置き、さらに刀身のない短剣の柄のような物を取り出す。

 粘土のようなもので型を取り、鋳溶かした金属を流し込んで作ったそれを盆に見立てた蓋の上に乗せる。

 紙も一国の王であるエドヴェルドですら見たことがないものだ。


「こちらは現在辺境で作られているという品だ。全てにある高貴な方が関わられている。型を取っての写しではあるが、こちらの柄の紋章を見れば分かるはずだ」


 そう言ったシルヴェステルが恭しく柄のようなものを押し頂き、それをエドヴァルドの前に置く。

 思わず息を呑む。王家に連なる者であれば幼い頃から自国の紋章と並んで最初に覚えさせられ、国の成り立ちとともに教えられる象徴である。


 ライヒアラの建国を認め権威の後ろ盾となった宗主国、リージュール魔法王国。

 二十年前に最後の使節が来訪して以来、『浮き舟』の寄港が途絶えていた国だ。近隣の国にも来ていないことから、この国だけが訪問を受けていないわけではない。


「まさか――王族の方がいらっしゃるのか?」


 王国の頂点にある者が目を(みは)り敬語を使う、自分よりも上位の存在。

 それが諸国の上に立つ宗主国リージュールの王族である。


 訪問使節の代表は王族の直系もしくは傍系の血を引く者だけが就任し、諸国間の紛争の調停や技術の伝授、優れた技術を持つ人物の登用や留学の受け入れなどを手助けしてきた国だ。

 新たな国家が建てられた場合、その正当性の保証と承認も担うことがある。


 使節に同行した魔術師や薬師、錬金術師に教えを請うた者の弟子や孫弟子が王宮と魔術学院にそれぞれ数名ずつ残っているものの、片手で数えるほどしかいないというのは決して多いとは言えない。

 王国でも人材は常に不足気味だ。だからこそ教えを受けた者の下に知識を求める者が集中する。


 ライヒアラ王国では四十年ほど前に最後の留学者を輩出し、その者が帰国した後は現在も続く伯爵家を立てていた。後に南部に封じられて治水と果樹・薬草の栽培面で貢献し、十一年前に二代目が襲爵している。

 その功績もあって、現在は渇水対策のため王国東部へ出張してもらっていた。


「ランヴァルドたちの報告では、まだ未成年の王族――王女のようだ。御名(おんな)はアスカ・リージュール・イヴ・エルクライン。王家直系の子女だけが名乗りを許される称号と、王女に与えられる直轄地の名前だそうだな。

 外交参事を務めるヒューティア家にも内密で確認を取ったが、()の国の王族の特徴である銀の髪に紫水晶(アメディスティ)色の瞳をお持ちで、来年成人を迎えるとか。

 詳しくは報告書にあるが、辺境に逃げた邪教崇拝の連中に姫の従者九人が殺されていて、すんでのところでお救いしたらしい。

 魔法王国の王族とその従者が平民と争って簡単に破れるとは思えず、傭兵団の魔術師は何処(いずこ)かで伝承にある魔素欠乏の紫靄(しあい)に遭遇したのではと疑っておる。

 今は赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)の本部に保護され、落ち着かれているそうだ」


「……姫を王国にお招きするわけにはいかぬのか?」


 シルヴェステルを(うかが)い見たエドヴァルド。だが彼は小さく首を横に振った。


「あのランヴァルドが手放しで褒めるほど美しい未成年の姫に、貴族(バカ)共が何を画策するか分からぬ。護衛や従者を一度に亡くされたので傷心でもあろう。御心を癒やされる時間も必要になる。

 現在は傭兵団の者を護衛に付け、側仕えには私の伝手で十名ほど手配した。

 ヒューティア家の令嬢も向こうに送り込んでいる。その他は中立派か穏健派で知られている家の子女だな。この報告や品を届けてくれたハンネ嬢は魔術師で、現地で姫の護衛も務めているらしい」


「ヒューティア家の令嬢というと、そなたが保護したユリアナか?」


 黙って頷いたシルヴェステルは薄い紙の束をぐいと進める。


皮紙(ひし)とは違うようだな」


「その通りだ。動物の皮ではなく、木を加工して作ったものらしい。この報告書はここで見て覚え、外に漏れぬようこの場ですぐに燃やしてくれ。

 王国を腐らせる害虫共には罠を仕掛けるつもりだ」


「罠だと?」


「ああ。執務室からの帰りにわざと箱の封を解いたままにする。箱の中に残るのは何だと思う?」


 にやりと獰猛(どうもう)(わら)ったシルヴェステルがエドヴァルドを見つめる。

 意図は理解できる。それに彼がこの表情を見せる時は己の敵を打ち倒す覚悟を決めているのだということも。


「こちらの板と、ここで消える報告書――残るは複製といえど彼の尊き国の紋章。いかに写しでも、侍従ごときが勝手に盗み見るなど不敬の極みだからな」


「なるほど、無礼討ちか。この王城の廊下は汚れるだろうが已むを得まい。側仕えと侍従の色分けは必要だな。本来の仕事で存分に働いてもらおうではないか」


 納得して相槌を打ったエドヴァルドが食い入るように報告書を読み始める。


 要点をまとめた報告書はすぐに読み終わった。元々数枚の薄さで、救出の経緯と姫の外見的な特徴に加え、姫自身から聞き取った旅の経緯と旅程が書かれている。

 それと救出後ハンネたちが護衛に就いている状況や、ロヴァーニに齎されている恩恵の数々についても。水道の整備や道具の供与など、東部の穀倉地帯に不安を抱えている王国としては実に羨ましい限りである。


「護衛は魔術や錬金術も教わっているのか。この書を宮廷筆頭魔術師のエルメルが知ったら、職を辞してでも辺境に向かいかねんな」


 苦笑いとともに報告書を置いたエドヴァルド王が髪を撫でる。


 エルメルは大陸最強の魔術師と(うた)われているが、あくまでも現在の知識水準と技術で他国より突出しているに過ぎない。前回の使節に教わった後の二十年ほどで進歩したと見られる最新技術は、未だこの国――いや、この大陸には欠片すらも(もたら)されていないのだ。

 あの知識欲の塊が知ったら、翌朝には辺境行きを決行してもおかしくない。


「当分は黙っておくしかあるまい。私が会ったハンネ嬢だが、まだ魔術学院を出て数年の若い彼女ですら、姫の手解きを受けて急成長しているようだった。おそらく既にエルメル殿と実力は伯仲しているのだろうな。

 この箱の封と魔術具の調整も彼女にやってもらった。鍵は姫のお手製らしいが」


「ハンネか――名に聞き覚えはあるのだが」


「ハンネ・サヴェラ。魔術師を多く輩出しているサヴェラ男爵家の次女だな。親兄弟は支持派閥がバラバラで、兄たちが第二王子以下の派閥に付いていたはずだ。

 彼女は魔術学院に進学し卒業した後、親の政略結婚の道具にされるのが嫌で家を飛び出しておる。卒業後しばらく王国内に留まっていたが、ホレーヴァの放蕩息子にスカウトされて辺境へ向かった。

 姉は東部南方の子爵家に嫁いでいるが、妹は今年魔術学院を卒業するらしい。夏の間にスカウトして卒業を早め、辺境へ連れて行く予定だと聞いたぞ」


「そうか、数年前に聞いた『才女』か。優秀な人材はイェレミアスのためにも国内に残って欲しいのだがな。西方の国境より先は昔の王や領主が開拓を諦めて放置していた場所ゆえ、こちらから強く服属を言い渡すわけにも行かぬ。

 もし収奪などを行えば、それこそ大きな反発を呼ぼう。報告書にあったエロマー子爵領内の件、そなたは読んだか?」


 頭を撫でていた手を止めたエドヴァルドが、頭痛を堪えるような表情で向かいに座るシルヴェステルを見遣る。苦々しい、という言葉以外にない表情だ。


「奴が腐り切っていることは先代の頃から分かっておったろうに。先代殿は優れた統治者であり人格者だったが、息子だった奴は当時から性根が腐っていた。

 自分がまともだとは言わんが、代替わりしてからは私の他にも彼奴(あやつ)とその家を見限った貴族は何人もいる。

 腐ったものを放置すれば当然腐敗が広がる。おそらくだがこのまま辺境の開発が進めば、安全で()えぬ生活に憧れて保護を願い移り住む者はさらに増えよう。

 こちらはエロマー子爵の失態が増え、王国が統治上見逃すわけにはいかぬ状況を作れば良い。始末はアントネンに引き継いだ騎士団が嬉々としてやるだろうよ」


 マグカップのような分厚いカップに口をつけ、残っていた(テノ)を飲み干す。

 さすがに王城で飲む茶は自宅で飲むものより良い葉を使っているのか、味が一段上に感じる。嗜好品ではあるが、貴族であれば手に入れにくいものではない。

 完全に家督を譲り渡した後はそうした趣味を楽しむ生活も良いかも知れない。


「そちらの板は『鏡』だそうだ。詳しい製法は秘されているが、錬金術と魔術だけで作ったらしい。持ってきたものはハンネ嬢が作ったそうだが、傭兵団の錬金術師が作った物をこれから王都に持ち込んで売りに出すと聞いている。

 姫は御自分の背丈ほどの鏡を作っているそうだ。こちらは卓上用――テーブルの上で使うものと聞いている。我が家でも一枚購入したので、こちらは王家への献上品としておこう。

 王城に居る者は粗相をしかねんので、屋敷で四倍ほどの品も一枚預かっている。そちらは結構な金額なので対価をもらいたいが」


 布の結び目を解いてシルヴェステルが示すと、一点の曇りも無い鏡面にエドヴァルドが再び目を瞠った。水晶のような透明度に磨きたての剣を思わせる光沢。金属製の鏡で見られるわずかな歪みもそこには存在しない。

 国王の私室にある鏡ですらところどころ歪みのある銀の板で、毎日下働きの者が油を塗って磨いている。目の前の鏡と同じ契約用の皮紙ほどの大きさなのに、だ。


「貴族たちが――というより奥方や娘たちが競うように買い求めるのだろうな。私も王妃や義娘(むすめ)強請(ねだ)られる姿が目に浮かぶようだ。そなたも奥方や娘に強く言われるのではないか?」


「妻の分は既に買っている。金貨数枚で家庭の平穏が買えるなら安いものだ」


 軽く答えて暗に鏡一枚で金貨数枚だったことを示し、後の扱いは任せる。

 王家の予算のうち国王個人の可処分所得までは知らないが、基本的に王族の衣食住は国家予算で負担されるものだ。個人の裁量で動かせる金額など知る訳がない。

 よしんば知っていたとしても、国王の私費の使い途に口を出すことはない。それこそ個人の勝手である。


「ロセリアドでの商取引を求めているようだったので、後ほど役所か組合に申請が上がるだろう。ハンネ嬢に店の場所について相談されたから、商業区の一角にある物件を紹介してあるが」


「ふむ。商会の名は何というのだ?」


「知らん。大方まだ決まっておらんのではないかな? 私に報告があれば王城にも伝えるが、欲で腹が膨れた貴族(バカ)どもから狙われぬようにした方が良かろう」


 高級品であれば当然購買層は富裕な平民か貴族以上の者に限られてくる。

 鏡のように「美」に関わるものであれば、欲深い貴族が独占しようと考えることもあるのだ。それが許されない、出来ないと考えることなく、ただ傲慢に命じる。


「ならばそなたにこれを預けておこう。サヴェラの娘か商会の者に渡してくれ」


 エドヴァルドはその場で皮紙を一枚取り出して何やら書きつけると、執務机で印を押してシルヴェステルに手渡した。

 リージュールの発する勅許(セウラームス)とまでは行かないが、自筆署名に国璽(こくじ)が押されているだけに公的な文書としての意味合いは極めて強い。


「文面と国璽こそ立派だが、中身が『貴族・平民を問わず公平に(あきな)え』か。一商会の保護のために渡すにしてはあまりに私的過ぎないか?」


「背後にリージュールの王族がいらっしゃるなら構わぬよ。馬鹿(きぞく)共の横槍が入って何かあってからでは遅い。我が国の良識が疑われるからな。

 リージュールと連絡が取れぬ、亡びたという話も聞くが、浮き船自体は存在してまだ各地を回っているとも聞く。王族が居なくなったわけでもなければ、跡を継ぐ資格を持つ者も残っておるのだ。慎重に対応せねばなるまい」


 腰を下ろしたエドヴァルドがカップに残った茶を飲み干す。話の間に冷めた茶が喉を潤し、心を落ち着けてくれる。


「他の貴族は姫の存在を知らぬのか? 強欲と淫蕩(いんとう)の噂が絶えぬエロマーが余計なことをしなければ良いのだが、それだけが心配だ」


「辺境では商人や傭兵を介して知られつつあるようだから、伝わるのも時間の問題だろう。だが辺境の傭兵団が共同で姫を守る姿勢を見せているし、生活を豊かにしてくれた恩人として商人や平民も積極的に傭兵団へ協力しているらしい。

 姫を求めて辺境に押し入れば当然争いになるな。

 だが普段から紛争や戦争で活躍し、野盗を相手に戦い慣れている彼らと、田舎貴族の抱える領軍や私兵――いや、形式と外見だけの連中と比べては可哀想か」


 最近は騎士団の中にも見掛け倒しの者が増えているようだがな、と苦笑しながら答えたシルヴェステルが静かにカップを置く。


「ハンネ嬢は来週から魔術学院に籠もるようだ。ロヴァーニの商会はその間に立ち上げをするはず。繋ぎを付けたいならうちの(アリッサ)をうまく使えばよかろう。

 あやつはランヴァルドが王都にいた当時から護衛を連れ回しておったから、市井の者とも親しいようだ。立場が変わっただけに最近は大人しいようだがな」


 報告書と鏡をテーブルに残し、写しの短剣の(つか)を箱に収める。

 包んでいた分厚い布の上に置くだけという仕舞い方は、箱の中身を盗み見た者に紋章を見せつける罠だ。


 ライヒアラ王国に関係する可能性がある他国の紋章は、貴族当主や王城に勤める者であれば勤め始めてからかなり早い時期に覚えさせられる。

 多少の力関係が影響したり微妙な扱いが必要になる地域もあるが、自国より一段上に置かれるのは世界が広いといえどリージュールの紋章しか存在しない。


「今年の冬には我が家に長く仕え引退する者をランヴァルドの下に送るつもりだ。王都の連中に気付かれにくいように、南部の貴族領を経由してエロマー子爵の領地を抜け、辺境に向かわせる。

 秋までに危険度を勘案して変更する可能性はあるがな。来春に報告が届き次第、自分自身で辺境に行くことも考えている」


「王国最強の槍が動けば貴族の注目を浴びるぞ? おそらく王国以外からも」


 すっかり冷めた茶を飲み干したエドヴァルドは苦味に顔を僅かに(しか)め、長年の友を揶揄する。『最強の槍』は彼が騎士団に所属していた時の呼び名だ。

 シネルヴォ家が辺境伯(ラジャクレヴィ)から降格されたのは王国貴族内の諸事情が原因だったとはいえ、武の名門の一つとして今も続いている。長男にほぼ家督を譲っていても、身につけた彼自身の武や技が一朝一夕で失われるわけではない。


 エロマー子爵領から商人の口伝(くちづ)てに伝わる悪政や辺境の隆盛、今後紛争や小競り合いが起こりうる土地に武勇で名高い者が足を踏み入れるのはなぜか。

 口さがない宮廷の焦烏(ヴァリス)どもが喧しくさえずり始めるだろう。


「引退した者に注目が集まるなら、目を奪われている間に動くこともできよう。敵はむしろ王城の中にこそ多いのではないか?

 まあその一つはこれから討ち取っておくつもりだが」


 元のように蓋を閉め、魔術具の封は掛けないでおく。たったそれだけで致命の罠は仕掛け終わった。

 後は覚え書きの植物紙を燃やしてしまえば、この場で話された内容は記憶の中にのみ残って、物的な痕跡は欠片も残らない。


「進展や追加の情報が届いて、王城に伝えた方が良いと判断したらエルモを使いに寄越そう。そろそろ引退したがっているが、息子のためには私が完全に引退した後もう少し残って欲しい。

 少なくとも長男が当主として独り立ちしてからでないと危なっかしいからな」


「王家も似たようなものだ。王太子にイェレミアスを指名し下の息子たちに補佐を命じたが、早速権力闘いを始めおった。まずは背後にいる貴族たちを始末しなければならぬ。両手の指に少し足りぬくらいは潰れようが、閣僚の職も空くから協力者も多かろう」


 既に具体的な『敵』が分かっているのか、エドヴァルドの言葉には迷いがない。

 基礎学校以来の学友や親族のうち、幾人かは消されることが確定している。


「この歳、この立場になって父上の言っていたことが骨身に染みて理解できるようになった気がする。国王としての立場では受け入れていても、情としては面倒だ。

 消す者と残す者、活かす者と生かす者の区別もな。

 本音を言えばさっさとしかるべき者に譲って引退し、食うには困らぬ程度の悠々自適な生活を送りたいものだ。現状そう上手く行かぬのが分かっていても。

 ……リージュールの姫のこと、ランヴァルドのこと。これから辺境の案件で色々苦労をかけると思うが頼んだぞ、シルヴェステル」


 箱を抱えたシルヴェステルにエドヴァルドが頭を下げる。

 長年の友に迷惑をかけるのが確定しているためか、一国の王ではなく友人として行動しているらしい。侍従辺りが見ていたら途端に口喧しくなるが、ここは人払いされ魔術具で封じられた空間だ。

 いくら執務室が広いとはいえ扉には鍵も掛けられている。物理的にも魔術的にも封鎖された部屋に手出しをするのはほぼ不可能だ。


「これはシネルヴォの家の血を引く者が代々背負ってきた荷だ。息子の代でどうなるかはともかく、辺境伯から伯爵へ退いた後も我々は王家と共にある。

 娘のアリッサを嫁がせることで息子への保険にもできた。老骨の最後の働きだと思って命じておけば良い」


「老骨などと言って、私と同い年だろうに」


 苦笑いを浮かべながら盗聴防止の魔術具を解除し、執務室の鍵を開ける。

 その間にシルヴェステルは砕いた晶石の欠片を拾い上げ、扉前の床に置いて再度踏み潰した。執務室に本来存在しない魔術具を仕掛けた者が見れば何らかの反応があるだろう。

 たとえ反応しなくても、罠は二重三重に仕掛けられている。


「では、こちらはご指示の通りに」


「頼んだぞ。例の件はそなたの判断に任せるゆえ、存分に動くがいい」


 口調を臣下のものに改め、家臣としての口調に戻す。エドヴァルドもそれに合わせて頷き、城内での行動に許可を出した。

 王城の廊下が血で汚れたところで、苦労するのは後始末に呼ばれる侍従と掃除を担当する下働きの者たちである。生きて捕らえられれば尋問官がさぞ喜んで仕事をするだろう。


 今の侍従長は第二王子の側近から侍従に上がってきた者で、以前は忠実に職務をこなし仕えていた。

 露骨に権力への興味を示し始めたのは王太子の指名が終わった頃だったか。

 表面は取り繕いながら陰で自身の政敵や邪魔者を陰険なやり方で排除するようになったため、表立って罰することも出来ず苦々しく思っていたのだ。


「シネルヴォ伯爵が退室する。案内の騎士と荷を預かる侍従はすぐ参れ! 中身の重要度から下働きには持たせるな!」


 王自ら声を発したことで、少し離れた廊下で待機していた騎士が二人、城内先導のために駆け寄ってくる。

 城内は基本的に護衛の騎士以外の帯剣が許されておらず、貴族家当主や先代当主でも儀礼用の短剣程度しか帯びることが出来ない。

 しかし騎士たちの腰には廊下で振り回せる程度の長剣が()かれていた。

 自身の武器が無くとも、騎士団を纏めていた彼ならば使いこなせる。シルヴェステルは表情を変えることなく冷静に判断していた。


「陛下、重要な物を運ぶとお聞きして私が参りました」


 やや太り気味で脂ぎった侍従長がすかさず近寄ってくる。重要な物と聞いて部下ではなく自分の出番だとでも思ったのだろう。

 だがそのにやついた表情も、開け放った執務室の床に散らばる晶石の欠片を見て一瞬強張った。わずかな瞬間だが、それを見逃すシルヴェステルではない。


「では王城の入口まで頼もう。当家の執事が待合室にいるのでな」


 表情を消して抱えた箱を手渡し、エドヴァルド王に目配せする。

 短い視線のやり取りだったが、それで魔術具を仕掛けた者が誰だったか分かったのだろう。王が頷き返すと、シルヴェステルは回廊を歩き始める。

 騎士が慌てて先導し、その後から木箱を抱えた侍従長が歩き出す。



 しばしの無言。回廊の後方では執務室の扉が閉められたのか、重々しい響きが伝わってくる。騎士たちは当然無言で、石造りの薄暗い回廊には(びょう)を打った靴の音だけが反響していた。


「そういえば――アントネンは登城(とじょう)しておるかな?」


「い、いえ。本日は直轄地までの行軍訓練に出ております。団長のご帰還は明日の夕方頃になる予定です」


 ふと思い出したようにシルヴェステルが騎士へ呼びかける。前騎士団長である彼のことを繰り返し聞いているのか、右側の若い騎士は緊張したように振り返った。

 戦場に立つ姿から『獅子』とも『血槍』とも()われただけに、粗相があればただでは済まないとでも思っていたのだろうか。


「そうか。では帰ってきてからなるべく早く面会の内諾を取り付けておいてくれ。私の方からも騎士団長室へ面会予約の木札を出しておこう」


「しょ、承知しましたぁっ!」


 噛みながら答えた騎士にニヤリと笑みを見せながら、周囲の気配を探る。

 若い騎士との会話で気を抜いているとでも思ったのか、回廊の曲がり角でわずかに歩みが遅れた侍従長の手が蓋に掛かり、鍵が掛かっていないと見るやそっと蓋をずらす。


 それを待っていたシルヴェステルは素早い踏み込みで前を行く騎士の剣を鞘ごと抜き取ると、身を翻して抜き放ち、回廊の角に隠れていた侍従長に突きつけた。

 王城では儀礼用の剣が多い中、この剣は騎士団の制式装備のままの真剣である。


 鞘走りの音もなく抜かれた切っ先が侍従長の視線を鋭く遮り、一瞬遅れて剣を突き付けられたことに気付いた侍従長が短い悲鳴を上げる。


「――国王陛下に面会した客人の荷物を盗み見るとは、侍従長とは大した役職のようだな。陛下とは学院以来付き合いの長い私も、侍従にそのような権限があるとは寡聞にして知らぬが」


「ひっ、ひひっ、ひぃっ!」


「先程エドヴァルド陛下から、荷の中身を盗み見るような者がいた場合は無礼討ちして構わぬと確約を頂いておる。相手が誰であれ、たとえ王族であろうともな」


「そ、そんな馬鹿な、ことが、許され、る、わけ……」


「許されたからこうしておる」


 剣を奪われたことに気付いて引き返してきた騎士たちが回廊の角から姿を現す。

 それを視界の端に入れたシルヴェステルは鋭く指示を出した。


「そこの若いの、侍従長の手から私の荷を取れ。そして静かに蓋を開けよ。ただしこの場で見た物は騎士団長のアントネンへの報告も含め、そなたらが双月の御許に召されるまで一切他言無用を命ずる」


 他人へ命令を下すことに慣れた有無を言わさぬ言葉に従い、剣を奪われた騎士がおずおずと近寄って、硬直した侍従長から木箱をもぎ取る。

 床に置かれた箱に騎士の手がかかる。鍵の掛かっていない蓋は容易く外れ、その中に収められた短剣の柄らしいものが姿を現した。

 刃の付いていないそれは写しであろうが、柄は王都でも見たことがないほど繊細な文様と紋章に彩られており、(こしら)えからも女性の持ち物だと分かる。


「不敬の理由は理解できたか、愚か者」


 蓋を持ったまま硬直した騎士の脇から青年騎士も顔を覗かせ、同様に固まった。

 王族や貴族同様、騎士団に入った者たちも紋章の暗記はさせられる。ならば硬直するのも当然だろう。自分たちの国の紋章や貴族の紋章よりも唯一優先されるべきものがそこにあったからだ。


 壁に背を預けてずるずると崩れ落ちる侍従長がみっともなく手足をバタバタさせ床を這いずり回る。だが逃走など赦されるわけがない。


「愚かな――ふんっ!」


 吐き捨てるような呟きに続いて裂帛の気合が迸る。

 一瞬の後、剣閃の通りに断ち切られた場所から血が飛び散り、斬り飛ばされた脛から下の右脚が王城の廊下に転がった。続くもう一閃で右肘が落ち、返す刃で左脚の腿が半ばまで斬られている。骨で止まったようだが、本気で力を入れて斬れば膝から上が無くなっていただろう。


 シルヴェステルの腕前であれば骨ごと断ち切るのも容易いが、痛みを与えて動けなくすることが主眼で、ただ殺すだけでは余罪を(つまび)らかには出来ない。


「そなたらが目にした紋章については極秘とせよ。当面は私と陛下、それに陛下の許しを得た者だけが対応する。それから王城の審問官を呼んでおけ。此奴(こやつ)には余罪やら色々吐かせておきたいのでな」


 楽に双月の許になど行かせてやるものか。王国に巣食っていた毒虫にはこれまでの全ての責を取ってもらう必要がある。

 そこから辿った害のある貴族も処分できれば御の字だ。この数年は王国内の風通しがかなり悪かったが、これで少しは風通しが良くなるはず。


 腰の小物入れから白い薬瓶を取り出して封を切り、鼓動に合わせて血を吹き出す切り口へと振りかける。騎士団でも平素から使われる回復薬で、出血を止めて傷口を塞ぐ程度なら十分な物だ。

 貴族はこの他に毒消しや魔力の回復薬などを持つこともあるが、それらの製法はリージュールから伝えられたものと魔術学院で研究されているものしか無い。


 年上の騎士が緊張から直立不動になっている。だが若い騎士はゆっくりと木箱の蓋を戻した後は、回廊の上にぺたりと座り込んでいる。

 ここ五年ほどは王国貴族の内紛だけで血を見ることも少なかったのか、若い騎士の顔色は真っ青だ。


「訓練でも血を見るだろうに。紛争に行けば嫌でも血を見ることになるし、王都で喧嘩の鎮圧に呼ばれれば殴り合いで鼻血が飛んだり、殴った者同士の唇が切れて血を流しているなど日常茶飯事だ。

 危険と負傷による損耗を考えて私の代で変えたが、刃を潰さぬ剣での訓練を再開した方が良いのではないか?」


 侍従長の左腿に食い込んだままの剣を力任せに引き抜き、傷口に回復薬をかけて簡単に塞ぐ。失血死しなければ構わない。あとは審問官という拷問と尋問担当の者に任せ、結果を確認すればいい。

 戦場や紛争では自身も担当したことがあるが、気分の良いことではない。


「審問官を呼ぶと同時に、王城地下の牢も用意させておけ。すぐに連座で入る者もいるだろうから他の牢とは分けておけよ」


「しょ、承知しました!」


 屠殺されるヴィリシのような悲鳴が王城の回廊に響き渡ったこともあり、静かな王城にざわつきが生まれている。鋲を打ったブーツが駆けてくる音も複数聞こえるから、牢への手配や移動も迅速に行われるはずだ。


 シルヴェステルは制式装備の剣を血振りして、回廊に倒れ藻掻(もが)く侍従長の服で拭うと、鞘へ戻して若い騎士に差し出す。

 害虫駆除が済めば剣も用済みになる。これ以上王城内で武器を持っているのは、王の許可を得ているとしても本来定められた規定に違反する。


 やがて回廊を走ってきた騎士たちが角から顔を見せ、血溜まりに倒れて痙攣している侍従長と剣を返し終えたシルヴェステル、口外禁止の命を守り木箱に蓋をした騎士を見て声を上げた。


「……っ?! 悲鳴が聞こえましたが、いかがされましたか」


「この城内に巣食っておった害虫を駆除した。先程の面会でエドヴァルド陛下の許可も頂いておる。背後関係を洗うために審問官を呼びたい。二名はこのまま侍従長を捕縛し監視の任に就け。一名は審問官と牢への連絡に、もう一名は下働きの者たちを集めて回廊を清めよ。

 牢の準備を進めさせたら、城門警備の担当を残して侍従の捕縛に移れ。木箱に手をかけているそなたはこのまま私と共に参れ」


 蓋を閉じた騎士にそのまま着いてくるように命じ、後始末についても手配する。

 壁や床に飛び散った血の汚れを清めるので魔術師も必要かもしれないが、その辺りの判断は下働きの者でもできるはずだ。


「侍従ではなく、下働きですか……?」


「わざわざ害虫の仲間かも知れん者を呼び寄せてどうする。呼ぶのであれば王家に叛意(はんい)を持たぬか、害意を持たぬか色分けをしてからだ。

 それから行軍訓練中の騎士団とアントネンに大至急使者を。侍従たちの捕縛と投獄後、城内にいる騎士に集合をかけて城門と陛下の身辺をお守りしろ。陛下の許可なき者は城門からの出入りも禁ずる」


 上位者から矢継ぎ早に指示されたことで頭よりも身体が先に動いたのか、二人の騎士が回廊を駆けていく。後始末には数日から数週はかかるだろう。

 第一王子イェレミアスと第三王女イリーナ、娘のアリッサへの説明も必要だが、現騎士団長が不在のため緊急対応以外の行動を起こすのは越権行為となる。

 いくら前団長でも(わきま)えなければならない。


「本日はこのまま王城を出る。アントネン団長が帰還後、シネルヴォ伯爵家に連絡を入れてくれ。王太子殿下とイリーナ殿下には後ほどシネルヴォ家から報告の書状を差し向ける」


 騎士団の者が侍従長を捕縛し、浮遊板(ケルヴァ・ラウタ)に乗せて牢へ連行する。

 城内の騎士はほぼ全てが貴族階級出身のため、この程度の魔術なら見習いのうちから仕込まれているのだ。

 屠殺される寸前の獣のような悲鳴は布を口に押し込まれることでくぐもった呻きに変わり、わずかに静寂が戻ってくる。


「陛下から下命があるだろうが、騎士団の指揮権はアントネンが戻るまで一時的に直々に陛下が執られることになる。そなたらの実家も含め、この件に余計な横槍を入れるようであれば粛清されるものと思え。良いな?」


 極度の緊張からガクガクと頷く騎士の右肩を軽く叩き、シルヴェステルは静かに回廊を歩き出す。実家が第二王子以下の派閥に入っているなら危険もあろうが、王城に残る騎士の実家の大半は国王・第一王子派か中立派だ。

 代々の騎士団長が厳しく団員を躾けていることもあって、騎士たちが派閥争いに関わることは可能な限り避けている。


 露骨に派閥争いに関わろうとする者は巡察などで王都から遠ざけられるか、紛争などでいつの間にか磨り潰されている。

 王国騎士はあくまで王家と国民の剣であり盾であって、貴族の政争の具ではないからだ。


 辺境に訪れた小さな変化は王都にも大きな影響を及ぼすだろう。

 リージュールの訪れとはそういうことである。


 王都に入ったハンネや商会の者とシネルヴォ家の連絡を密にせねばなるまい。

 それに、かつての寄り子たちからの面会依頼や相談も増えるはず。家宰のエルモが家の中を取り仕切っている以上、ヴァルトには外向きの用で今まで以上に働いてもらうことになる。


 しばらく疎遠だったランヴァルドとの使い魔(ヴェカント)によるやり取りも増えそうだと思いながら、シルヴェステルは血の匂いが色濃く残る回廊を後にした。



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