辺境の玄関ラッサーリ
お待たせしました。まだ色々残務はありますが、一先ず書き上がってる分を。
雪に埋もれた辺境街道を貫く道は存在しない。いや、存在しなかった。
ロヴァーニを出発して四日目、角犀馬に押されて行く除雪荷車は数テメルの高さまで雪を噴き上げ、じわじわと道を作り出している。
荷車の後方ではシャベルやツルハシを手にした傭兵が道を広げ、木製のハンマーで叩き固め、硬い木の枝を束ねた箒で道を掃いていく。
幅は荷車一台分しか無いが、それでも完全に道が塞がっていた辺境街道が真冬に通れるようになるなど、普通なら考えられないことだ。
加えて石畳や砂利で舗装されたわけでもない、凹凸の激しい土の道ではそこまで速さを求められないため、荷車の進む速度も推して知るべし。
ほぼ日の出とともに動き始め、日が暮れる前に急いで仮小屋を作り、先行して除雪と移動をする者を先に休ませる。先行組はその繰り返しだ。
雪で仮小屋を作る者たちは翌日の午前中一杯をかけて建物を拡大させてから移動を行うため、昼から徒歩で次の野営地に向かっても十分に間に合う。
その後を遅れてロヴァーニを発った食料積載の荷車が追いかけてくる。
建てられた小屋の中央に室温保護の簡易魔術具を据え、炊事場の上部に換気用の魔術具を取り付けていく。
魔術具はどちらも直径ニテセほどの晶石の欠片で作られており、雪のブロックで作られた壁に埋め込むと言った方が良いかも知れない。
ロヴァーニに一番近い小屋は冬の雪の重さにも耐えて無事だった。
というより、夏の終わりに建てられた後、雪が降り始めるまでに木と石で頑丈に補強されていたため、ほぼ手を入れる必要が無かったと言っても良い。
年が明けてから周辺集落の狩人たちが避難小屋として何度か使ったらしく、壁に置かれた板には木炭で使用日数の線が引かれ、燃料として積んであった薪が七束ほど消えている。
簡素な暖炉に灰が溜まっていたので、ここで数日暖を取り、吹雪をやり過ごしたのだろう。
出発初日はこの小屋で休み、翌日は丘を二つ越えて街道の平野部で一泊。
三日目はラッサーリへ向かう山の手前、ロヴァーニ側から見た林の入り口側に雪のブロックを積み上げた小屋を作り、数日は確実に凌げるものを作る。
何しろ、天気が荒れようとも放っておけば吹きつける雪が勝手に周りを補強してくれるのだ。芯に当たる部分さえ作ってしまえばこれほど便利なものはない。
小屋を建てた後、湿った地面が露出するまで掘り進めた後は魔術師や錬金術師の出番だ。乾燥や蒸発、小火球で火を熾して煮炊き出来る場所を作り、食料を置く場所は保冷が効くよう雪室にする。
数日遅れで食料を持ってくる第二陣以降が床に敷く荒く編んだ筵や狩りで得た毛皮を持ってきてくれるはずだ。帰り道で回収するから無駄にはならない。
仮小屋自体、先行組がラッサーリまで往復する十日前後だけ保てば良いのだ。
それほど頑丈に作る必要もない。雪解けを迎えたら消えて構わないし、夏以降に建設する小屋も商隊の宿泊地というより街道警備拠点と冬場の避難小屋としての意味合いの方が強い。
一時的な施設としてではなく、きちんと町の設備として整備しているのは、初日に宿泊した小屋くらいである。こちらは素泊まりで一人銅貨二枚、薪を一束で錫貨三枚に設定し、利用者に支払いを求めていた。
薪だけは利用者による物納も許可しているので、実質的に負担しているのは建設と建物のメンテナンス程度である。
「入り口の壁はもう少し両側を高くしてくれ。長さをもう一テメル、高さ三十テセくらいはあっても良い。昨日の吹雪で入口近くにいた奴が寒そうだったからな。
入り口から出口までを洞窟のように覆って、曲がり角をつけるとより風を防げるらしいぞ。先日自警団の訓練場で作ってみた時は中に入ってさえいれば防寒具を脱いでも問題なかったくらいだ」
「毎年困らされてる雪でこんな小屋が作れちまうなら、高い金を払って家を建てる必要がなくなっちまうかも知れませんぜ、旦那?」
「雪は冬だけのものだからな。冬場の狩りにも使えるだろうが、作るには多少人手が必要だろう。それに春先まで使えたとしても雪が解ければ終わりだ。
ロヴァーニの町中なら、初日に泊まったような建物に住むのが一番だろう。
自警団は主に町の警備が中心だが、今後は巡回の仕事も増えてくるだろうから、こうした野営の知識も今年は教えていく。
防壁や街道の工事も手早く収入を得られる道だが、町が拡大していくに連れて町の安全を守る人間も多く必要とされるからな」
寒風が吹きすさぶ中、革の手袋に包まれた手を一生懸命動かすのは手伝いの平民も傭兵たちも一緒だ。雪を圧縮し固めていけばそれなりの重量になる。そうして出来たブロックを運び、積み上げるのは相応の重労働だ。
昨夕、魔術師が氷壁作製で作った壁を基にして雪のブロックを積み上げ、壁を二重にして補強していく。
壁の内側に保温のための布や毛皮を張り、室内で保温の魔術具を起動すれば二晩くらいは平気で過ごせる。形こそ違うがイグルーやかまくらのようなものだ。
魔術で作られた氷壁と圧雪の壁とが辺境の平野を吹く寒風を防ぎ、魔術具と布や毛皮で保温が行われる。ラッサーリからロヴァーニへの移送が完了すれば用済みとなるため、必要最低限のそれ以上の手を加えるつもりもない。
「天気がそれほど荒れていなかったから、このまま行けるならラッサーリまであと三日くらいだろう。山を超えた向こう側で吹雪いたとしても、追加で二日程度足止めされるだけだ。
食料もきちんと持ってきているし、魔術具もある。今日はここの補強と次の野営地の小屋の補強だな。先行組は出来れば今日中に山間の道を超えたいだろうから、追いかける我々も急ぐぞ。一番の難所だから、夜には酒の一杯も出るだろう」
それを聞いた手伝いの者たちが歓声を上げる。
元からロヴァーニにいた者たちは生活基盤が比較的しっかりしているため、酒を飲む余裕もある。しかし秋口に移住してきた者たちは住居と仕事という生活基盤を整えるのが最優先で、嗜好品までは手が回っていないことが多い。
仕事として酒を作っている者もいるが、町の人口が一年足らずでほぼ倍になれば市場に流通する量は半減したに等しい。
酒の材料になるヴィダの実やリースなどの穀物も増産が計画され農地も増やしているけれど、その効果が実感できるのは早くて数年後だ。原材料の増産と質の向上、醸造技術の発展や熟成期間を考えれば十年単位の年月が必要だろう。
「夜に多少吹雪いても、雪の重みで小屋が潰れなければそれで良い。食料を運んで来てくれる部隊が追いかけてくるし、我々や先行組が帰る時に追加で整備もするだろう。天井が落ちないようにするのと、入り口の確保だけしっかり頼む」
残った団員が小屋の中を入念に確認し、魔術具を据える場所と剥き出しになった土の床、火口用に残した薪を指差していく。
昨晩小屋の内側に張った毛皮と布は先行組が荷車に積んでおり、ここは寒々しい氷と雪の壁だけが顔を見せている。
こうして移動と野営を重ねるのもあと七日ほどだ。ラッサーリの手前まで来たら、彼らはそこから先にロヴァーニへと引き返すことになる。
前方の雪を吸っては斜め上方に弾いて道を作る魔術具と、人数分の防寒具。
給水や調理用の魔術具が搭載された快適な荷車と護衛の傭兵たち。そして何より予備も含めた人数分の携帯食料。
真冬に訪れた者たちを端緒とした辺境街道の電撃移送部隊は、こうして誰一人欠けることなく真っ白な原野を進んでいく。
その様子を、森の木陰から小動物たちだけが見つめていた。
朝日が昇ってロヴァーニの町が煙突から煙を吐き、次第に目を覚ます頃、飛鳥も自分のベッドで静かに瞼を開く。
昨晩魔術具の暖房器具があるベッドで寝ていたはずの妖精猫は、いつの間にか飛鳥の布団に潜り込んで首元に丸まっている。油断しているとアスカ姫の胸の谷間に埋もれているので、それは避けるように懇々とお説教した。
そのおかげか肩口や首元の辺りで丸まることを覚え、小さな専用のベッドよりも飛鳥のベッドに居着いている。
放っておいても朝ご飯の匂いを嗅げば起きるけれど、朝の湯浴みに黙って出かけた間に暴れ、留守番をする側仕えに迷惑をかける訳にもいかない。
結果、夜着を脱いで簡単な部屋着に着替え、まだ夢の中を揺蕩うルミを抱いて湯殿へ向かうことになる。
「おはよう、マイサ。エルシィ、不寝番お疲れ様です」
「姫様……私どもが起こしに上がるまではベッドでお休みくださいませ」
カーテンを開けに来たマイサたちを出迎え、小言をさらりと受け流した飛鳥は、着替えを済ませた状態で椅子に座って待っていた。
本来は侍女が起こしに来るのを待っていなければならないのだが、目が覚めてしまってやることもなくなれば、待つだけの時間がもったいない。
飛鳥として暮らしていた時は妹たちの面倒を見たりもしていたので、早起き自体は苦にもならないのである。
「ユリアナ様は厨房の指揮に向かわれています。準備が終わり次第湯殿へ向かうはずです。私とエルシィが朝の湯浴みにお付き合いいたしますので」
「ルミを抱いているということは、湯殿へお連れになるのですね?」
「ええ。この通リ、まだ私の膝でぐっすり寝入っていますけど」
シンプルな生成りのワンピースの膝上で丸まったルミは、まさに毛玉である。
比較的長めの毛は肌触りも良く体温も高めなので、カイロのような感じだ。
湯殿の排熱と魔術具を利用した女子棟の各部屋は冬でも快適で、エアコンには及ばないものの、上着を一枚多く羽織れば快適に過ごせる程度には温かい。
人の多く集まる談話室や食堂、各寝室には加湿器と同じ原理の魔術具も配備してあるので、団の関係者は風邪などとも無縁である。
「部屋に戻ったら、加湿器の給水タンクを交換してください。交換したタンクは中の水を捨てて、熱湯で鐘半分くらい煮沸を。貴女たちの部屋と研究室、食堂、談話室の加湿器も一緒に行うようにしてくださいね。
冬場にあまり乾燥しすぎると、かえって病気のもとになったりしますから」
「かしこまりました、姫様。新館の勤務者にも伝えます」
「お願いしますね。大食堂は料理やテノの湯気で大丈夫と思いますが……通いの事務職の人たちや直営商会から町の住人に伝えてもらっていますが、診察所の統計も見た方が良さそうですね」
男性中心の新館には暖炉の加湿皿と薪ストーブの上に置くヤカンが用意され、団長と会計長の執務室には大きめの加湿器が置かれている。
大食堂や依頼・申請を扱う受付と待合ロビーには大型の加湿用魔術具が設置されており、記録の取りまとめを行っている二階の会議室には団長の執務室のものより小型の加湿器が置かれていた。
女子棟の各部屋に備え付けられた裁縫箱ほどの加湿器の魔術具に比べれば性能は低いが、加湿だけを目的とするなら十分な機能を備えている。
執務室と受付カウンターに置かれたものだけは少々特殊な作りになっている。空気清浄機や集塵機のような機能も備えているのだ。
フィルターとして使われるミストの壁は加湿にも使われるが、塵や埃の吸着効果も高い。筐体の内部と外部で生じる気圧差を利用して室内の埃を吸い込んみ、固めては焼却し、炭素をハニカム構造のように組んで炭の板に加工する。
だが、掃除の行き届いた館内では週に一度薄い板を作るのが関の山だ。
代わりに、新館と女子棟に併設した八畳ほどの物置小屋へゴミを運んで魔術具を動かせば、翌日までに水と炭素を分離して燃料となる炭を作ってくれる。灰は畑に撒く肥料として木箱や廃棄が決まっている樽に詰めて保管され、雪解けと共に農家へ払い下げることになっている。
農村では残飯と灰を深い穴に埋め、半年から一年程度かけて肥料にするのが精一杯なので、それを考えればかなり恵まれているのだろう。
ガラスを作る時の副産物で消石灰も得られ、作物によっては土壌改良もできる。
食用には適さない脂の多い魚や牧場や畜舎の糞尿などもいずれ肥料として役立てられれば、他の地域と生産量で大きな差が生まれてしまうはずだ。
肥料や養分が作物に与える影響については、夏以降に畑で実験してもらった記録と覚え書きを文官たちにまとめてもらっている、春からは農園での実験規模も拡大してもらうし、牧場や畜舎での堆肥作りも倍増してもらう。
農地では秋までに飼料や牧草の栽培も拡大してもらうので、次の冬までに飼料庫や堆肥の置き場も拡大しなければならないだろう。
そうした指示と計画進捗の確認も執務室の書類には回ってくるのだ。
確認しなければならないことは多く、魔術や錬金術の講義に加えて魔術具の開発と料理の研究、タトルやルビー、パウラの世話と身体が一つだけでは足りない。
パウラたちの世話は厩務員も手伝ってくれているが、自身が騎乗したり購入した動物でもあるため、やはり世話は他人任せに出来ないのである。
「さて、まずは湯浴みを済ませてしまいましょう。食後は団長の執務室で手伝いをしてから午前中に厩舎でパウラたちの様子を確認させてください。中央市場の辺りまで除雪されているようですから、体調に問題無いようでしたらお散歩に行かせてあげたいと思っています。
午後は錬金術と初歩魔術の講義でしたね?」
「初歩魔術は団の新人向けと、今回から他の傭兵団所属の魔術師や町在住の魔術師も数名加わるようです。先日の打ち合わせが終わってから団長が受け入れを決めたそうなので……」
着替えやタオルを詰め込んだフィッロスの大籠を手にマイサが答える。
エルシィも同じく大きめの籠を持っているが、そちらはマイサとエルシィの着替えが入っていた。
上下水道の敷設と魔術具のおかげで毎日の洗濯も楽になっており、団の衛生状況は他の町の住民と比べて格段に良い。栄養状態も良いため、風邪などで寝込む者も非常に少なくなっている。
住む場所があり腹一杯とは言えなくとも飢えない程度に食べられ、衣服も揃う。
働く場所は選り好みしないなら現在のロヴァーニならいくらでもあった。貴族領や王都に比べれば比較的安価で医者や薬師に見てもらうことも出来る。
生活するための環境が整えば、次に意識が向かうのは自分たちの生活を今以上に良くするための行動だ。生活や仕事の厚遇に直結する魔術の講義に人が集まるのも当然だろう。
「では今回と次回は新人の皆さんにとってもちょうど良い復習になりそうですね。植物紙のノートや筆記具は会計長が売り込みそうですけど」
女子棟の大階段を半分ほど降り、踊り場から湯殿へと続く渡り廊下を進みながら飛鳥が微笑む。傭兵団という組織に在りながら商魂逞しい会計長は、この機会に販路をも広げるつもりなのだろう。
紙の製作を行う工房は昨年の夏に魔術具共々完成し、原料の配合や厚さ、職人の育成、量産の問題点などを洗い出して直営商会傘下の工房にも技術を広げている。
冬場の生産は在庫分以外ストップしているが、春になれば森の開拓に合わせて原料を確保し、工房を増やしていくはずだ。ロヴァーニ在住の商会と傭兵団、行政を担う組織が大口の顧客なのだから、囲い込まない訳がない。
「お仕事の話は殿方に任せて、姫様にはしっかりお休みいただきたいのですが」
「そうですね。その時はマイサの膝を借りてお昼寝しましょうか」
側仕えに笑顔で答えながら、曇りガラスの嵌め込まれた引き戸に手をかける。
冬になってからそれまでのドアを改良し、魔術で細かな砂と宝石類を研磨した時の粉を吹き付けて加工したものだ。まだ湯殿付近にしか置かれていないが、グラスの模様付けにも使えるため、見本として団長の執務室には届けている。
光の透過を妨げず、それでいてガラスの向こうにいる姿を完全には見せないこのガラスは、更衣室や湯殿の仕切りとしては最適だった。
「ルミは溺れないように浅い桶にお湯を張って、縁に脚をもたれられるようにしてあげましょう。温かいお風呂に入って、朝ご飯の匂いを嗅げばきちんと目が覚めるでしょうから」
「妖精猫って古いお話にも出てくる、伝説的な幻獣のはずなんですけど……」
「まだ子供ですもの、食事や睡眠といった本能に傾くのは仕方ないでしょう。私たちだって本能には逆らえないのですから」
早番で起きていたエルサが引き戸の内側に立っており、普段の厳しい表情とは全く違う柔らかな笑みを見せてくれる。
女子棟のセキュリティがしっかりしているせいか、建物の中では転んだり誰かとぶつからないかを注意する程度で済むので気が楽なのだろう。
彼女も朝の湯浴みを済ませたばかりなのか、髪はまだ幾分湿っていた。
「エルサ、髪はきちんと乾かした方が良いですよ。濡れたままだと風邪をひいてしまいますから、温風の魔術具で乾かしながら櫛を通してくださいね」
「クァトリが来るまでには乾くと思うんですが……」
「髪に付いた水が蒸発する時に熱を奪っていくので、身体には良くありませんよ」
気化熱については夏頃から折に触れて説明している。晩秋以降の風呂上がりに体感してきた女子棟の者は全員理解し、温かい脱衣所でも注意してきた。
気不味そうに肩を竦めたエルサはスケルトンタイプの櫛を手に取り、ドアに近いスタンド式のドライヤーの前で髪を乾かし始めている。秋頃から髪を伸ばしているものの肩を超える程度なので、数分もあれば乾くだろう。
脱衣所には冬場のヒートショックを防ぐための温風機や除湿機と並んで、エルサの肩くらいまでの高さがある全身ドライヤーのようなものが二つある。
温風機と除湿機は男性中心の新館にも提供しているが、こちらは女子棟の更衣室のみに置いてあるものだ。壁に据え付けた鏡台の前には女性の手でも持てるサイズのドライヤー型魔術具も三つ置いてある。
豊富な魔術具を利用するために魔力運用の講義を住み込みの職員たちも受けており、利用率は徐々に増えてきているものの、幼い頃から魔術具が身近にあった貴族家出身の側仕えたちと比べてまだハードルは高いらしい。
飛鳥はエルサが髪を乾かし始めたのを見て、彼女が風邪をひく心配は無さそうだと判断し、自らの服に手をかけた。
朝陽が差し込み始めた脱衣室にアスカ姫の白い肌が晒される。
飛鳥がエルサと話していた間にエルシィが人数分のタオルを用意し、マイサが籠や化粧水などを木桶に入れていた。
妖精猫のルミは飛鳥の目の前の棚で小さな桶に入ったまままだ夢の中にいる。
引き戸を開け湯気に満ちた湯殿に入れば、さすがに目が覚めてくれるだろう。
こうして、ロヴァーニの新しい一日がまた始まる。
「ようやく見えたな。日が暮れる前に辿り着けて良かった。ラッサーリに入ったら町の長のところに四名、滞在先の農家に五名、三名は宿の確保に向かってくれ。
後続はここから約半日の所まで来ているはずだ。残る者は魔術具の警備と周辺の監視を徹底してくれ」
背丈を超えるほどの雪に埋もれた丸太と板の壁が、坂の向こうに見えてくる。
一面の雪景色の中、辛うじて上部だけが顔を覗かせている町の防壁は、ロヴァーニのものと比べたらかなり貧弱に見えた。
これでも辺境の町や集落の中では上等な方だが、壁の高さは三テメルに少し足りないくらいで、ヴィリシなどの獣が体当りしても何とか倒れないでいられる程度の強度しかない。
しかし辺境の集落や町としては十分過ぎるほどの設備であると言えよう。
先行組の十五名を指揮しているのはイントだ。
アスカ姫が組織した暗部の一員でもある彼は、部隊長であるカッレの命令でラッサーリ行きの班に潜り込み、町の知己から冬場の情報を集めるため動いている。
冬の辺境街道の様子の確認と、協力者候補の見極めも任務の一つだ。今回だけで決める必要はないが、提携する候補を絞っていく必要はある。
彼の幼馴染の一人が王国を離れてこの町に住んでいるので、そこから根を広げていくことも出来るだろう。
途中で二日ほど吹雪をやり過ごす必要はあったが、ロヴァーニを出てから十日目に真冬の辺境街道を抜けた先行組は、夕方前にラッサーリの町の門を潜る。
門の番をしていた男たちは膝上まで届く雪を吹き飛ばしながら進む除雪の魔術具にも驚いたようだが、それ以上に厳冬期の街道を抜けてくる者たちがいたことの方が驚きらしい。
空はあいにくの曇り空だが、まだ日暮れ前で荷車の照明もあるせいか、門の中に入っても視界は妨げられない。
すぐに門番によってラッサーリの代表を務めるテルッホも呼ばれたが、辺境でも名の知られた傭兵団が真冬の街道を進んできたと聞き、さらにイントたちから突然の来訪の目的を聞いて驚いている。
「なるほど、目的は承知しました。確かに町の農家で王国方面から来た一団を保護していると報告を受けています。貴族家所縁の方もおられたので、母屋の客間も使っていただいていると報告を受けています」
「団長の実家に所縁の方が来られて、身重の女性もいると聞いた。ロヴァーニなら薬師と治癒魔術を使える者も多いから、多少道中が大変でも護衛を付けて移送しようという話になったんだ。
今夜はこちらの町に泊めてもらいたいが、明朝には希望者を連れて出立する」
「しかし随分と急ぎですな。この時期、峠道の向こう側は天候が荒れやすいと聞いていますから、急ぎたいのは理解できますが……」
「そういうことだ。除雪できる魔術具を借りたとはいえ、何日も放っていたらまた道が埋もれるだろう。一晩だけ休み、夜が明けたら準備を整え、出来るだけ早めにラッサーリを出るつもりだ。
滞在先へはヴァルト殿が誘導を、補佐にヨナス殿、護衛は魔術師一人と剣士三人だ。宿の確保にはエーメリとニーロが向かえ。近場であれば分宿で構わん。
ヴァルト殿、除雪の魔術具を置く場所と角犀馬を休ませる場所について、農家と交渉をお願いしたい。角犀馬の食べるものは荷車に積んであるから、一晩寝るためだけの場所が欲しい。何かあればうちの団の名前を出して構わない。奥方が待っているヨナス殿も一緒に連れて行ってもらいたいが」
「承知しました――テルッホ殿、もう向かってもよろしいか?」
「ええ。赤獅子の槍所縁の方々でしたら問題ありません」
夕闇が迫る中でいつまでも門を開けているわけにもいかず、また普段から辺境街道を守ってくれている傭兵団たちを待たせては後々の関係に影響する。
テルッホは一行を門の内側に招き入れ、門番の一人を宿へ遣いに出した。
傭兵たちを泊めるにしても、二十人近くもいれば一軒では賄い切れないだろう。冬場の食料備蓄もライヒアラ王国の貴族領とそう大差はない。
王国東部ほどの凶作ではないけれど、従来農法のままだったためにロヴァーニと比べたら秋の収量は六割ほどとなっている。
たった半年強の指導と助言でそれだけの差が出てしまうのだから、頭を低くして教えを受けない限り差がつく一方だ。
「あぁテルッホ殿、我々の消費する食料についてはこちらで備蓄を多少持ち込んでいる。それと冬の最中に対応してもらう礼も含め、多少日持ちのする根菜やリースなどの穀物を十袋、豆類を三袋、塩漬け肉と海魚の干物を小樽一つずつ持ってきた。
ラッサーリの冬も厳しそうだと行商人に聞いていたので、町の備蓄の足しにして欲しいと姫様が仰せだ」
「姫様の慈悲深きご配慮、ラッサーリを預かる者として心より感謝いたします」
名代としてメッセージを伝えて目録代わりの皮紙を手渡したイントは、同行してきたヴァルトとヨナスを中心に護衛を四人つけ、滞在先の農家へと向かわせる。
荷車と角犀馬は一晩だけ厩舎を借りれば良い。その辺りの交渉は仕事上慣れているヴァルトに任せるつもりだった。
渡す荷物を運ぶ手間は荷車を移動させる手間と対して変わらないので、サービスする。代わりに信頼できる行商人の伝手でも紹介してもらえるなら十分だ。
「しかし真冬の辺境街道をロヴァーニから踏破して来られるとは驚きですな。この辺りでも雪の深い場所では大人の胸の上から頭くらいまで、窪地の深い所なら大人が縦に一人半から二人分は埋もれると言われています。
真冬の辺境街道には晴れた日以外は出てはいけない、門柱に結んだ縄から離れた所までは行ってはいけない、というのが祖父や父の代からの教えでしたから」
荷車三台を門の中に引き入れ、ラッサーリの門を閉じたのを確認したテルッホがイントたちの後をついてくる。
もう間もなく夜闇が辺りを閉ざすので、門番たちの仕事も終わりに近い。
雪深い真冬に襲撃してくる者も無いだろうから、閂をかけて見張りを置けば門の処置としては上等な方である。小規模な町や集落によっては見張りすら置かないところもあるのだから。
ロヴァーニより小さい町のためか、宿を早々に確保してきた一班が合流する。
農家に向かったヴァルトたちは戻っていないが、満足に雪掻きもされていない道では辿り着くこと自体が重労働になるはずだ。
交渉するより先に、除雪の魔術具を積んだ荷車を一緒に向かわせた方が良かっただろうか? しかし宿へ持ち込む荷物や食料の量を考えると、順番としては農家が後になってしまうのだが。
「門の前はラッサーリに任せるとして、宿の前までと農家までは魔術具を動かしておいた方が良いか。俺は町長殿の所に荷物をおいたら少し話したいことがあるので、宿に荷物を運んだら姫様の魔術具を持ってヴァルト殿の後を追ってくれ。
魔術師と治癒師はヨナス殿の奥方の診察を最優先に。余力があれば他の者を診ても構わないが、薬の量は限界があるから記録をつけておいてくれ」
「治癒師がおられるのですか?!」
食い気味にテルッホが叫ぶ。比較的大きめの町とはいえ、辺境では治癒師などの絶対数が少ないのだろう。長い冬籠りの間に病人が出ていても不思議ではない。
恩を売っておくチャンスではあるが、優先順位と消耗度を考えると無制限に相手をする訳にもいかない。
「落ち着いてくれ、テルッホ殿。赤獅子の槍は魔術師と治癒師の人数が比較的多いので、この護衛班にも帯同しているだけだ。怪我や体調を崩す者がいるかも知れないこと、何よりヨナス殿の奥方が身重だということで、姫様のご厚意で修行中の者を付けて頂いている。
薬の残量もそれほど多くないし、魔術師と交代で魔術具を動かしているから魔力にも限界がある。重篤な者から最大五名くらいか?」
イントが後ろを振り返る。すぐ後ろには錬金術師兼任の治癒師が一人着いてきていた。女性治癒師は先にヨナスの奥方の診察へ向かっているため、現在は男性魔術師と彼だけがイントに帯同している。
「農家までの距離にもよりますが、もう少し除雪の魔術具を動かすので、三人程度ならば大丈夫でしょう。毎朝の団の除雪のように、道の雪掻きをする人手があれば五人でも診られるかも知れませんが」
「何とかお願いできないでしょうか? 五人――子供も含め出来れば六人」
「魔術や薬を使わない者もいるかも知れないので、状態次第でしょうな。もっとも全員を治療できるわけでもないので、病状と年齢、性別、食事や給水の状況を木札にまとめてもらえると助かります。
我々は一度宿に荷物を置いてからヴァルト殿と合流するので、向こうでの説明が終わる頃までに宿で場所の用意を頼みます。湯をたくさんと綺麗な布、目隠しの布か衝立になるものの用意も」
広い場所は必要ないが、寝かせて診る必要がある者もいるため横になれる程度の広さは欲しい。薬箱を広げたりその場で調薬する場合もあるので、テーブルも必要だろう。女性を診るのであれば目隠しも必要だ。
こちらは周囲から見えなくなれば構わないので、壁に紐を結わえて余っている布を被せてやるだけでも違うだろう。
帯同したのは女性の治癒師一人と、薬師は男性と女性が一人ずつ。
赤獅子の槍が誇る医務室でアスカ姫の指導の元、リージュール由来の知識や現代日本で教えられる保健体育の知識を二月ばかり集中して叩き込まれた彼らは、まだ解剖の経験こそ無いものの大まかな人体機能と診断の知識は身につけている。
訓練場で怪我をする者の治療を実際に担当し、魔術具で皮膚の下の患部を見たり錬金術を組み合わせて薬草から薬効の高い部分を抽出したりと、医者不在でも現状維持か、僅かなりとも回復をさせられる程度の腕前は有していた。
自警団と傭兵団で毎日量産される怪我人を相手にしていれば、力量と経験が加速度的に増えても不思議ではない。
伝統的な経歴を持つ医師は夏に王都へ向かう商隊に合わせて招請するらしいが、連れて来れたとしても到着は早くて秋口だろう。
単純な怪我だけなら治癒術の方が早く対応できるし、余程重篤で薬による対処が出来ない場合を除き、高位の治癒術を修めれば治すことも可能である。
問題は正確な知識の欠如だ。
町医者と祈祷師、薬師と怪しげな錬金術師の区別がつかない者も多い。悪質な時には詐欺師が混じっていることさえある。発覚すれば領主裁判の後、即処刑だ。
精霊の加護を建前に庶民から金を巻き上げる組織が草の根を刈るように取り締まられたのは、ライヒアラ王国でもほんの二十年ほど前のことである。
使われる道具も他とは一線を画している。
アスカ姫は簡単に作ってしまったが、炭の粉よりも細かいものを大きく見ることが出来る『顕微鏡』なる器具や、薬の量を正確に量れる天秤と分銅、薬の効果を高くするための『蒸留器』に、傷口を洗う生理食塩水や消毒薬というもの。
どれもがこの辺境はおろか、大国にも齎されていないものばかりだ。
治癒術を使えない医師や平民のために開発された物も多い。
骨折した際の添え木は元から経験的に知られていたが、歩行を助ける途中で曲がった杖や容易に持ち運べる担架、各種の水薬や粉薬、軟膏なども増えている。
製作や発見の際に錬金術や魔術を要したものも多いが、量産していく段階では根気と手間さえかければ魔力の有無は問われない。おかげで移住者の働く場も飛躍的に増えているのだから御の字だ。
王都や貴族領にいる医者の大半が経験則と口伝で経営しているのに対し、アスカ姫の教える医術や治癒術は実態と実例に基づいた明確な理由がある。一部は人体実験も含むが、この世界では新しい治療法などそうそう望めるものではない。
今では骨折や打ち身程度なら団所属の治癒師全員が対応できるし、酒の飲み過ぎで気分が悪くなった時の対処も教わっていた。
一部の治癒師や薬師、錬金術師はさらに詳細な知識を身につけるため教えを請うているが、今回連れてきた三人だけでも十分過ぎる人員である。遺伝病や重篤な感染症でもない限りは治療してしまえるだろう。『十分な設備があれば』という但し書きは必要であるが。
それにこの三人は出発前、アスカ姫から凍傷の予防と対策、万が一罹ってしまった時の対処について詳しい手順を教わっていた。
この大陸に伝わる凍傷への対処は、末端の壊死を待っての切断である。
その後で傷口を焼いて軟膏を塗り、包帯で巻いて二、三日ごとに交換し、化膿しないようならそこで治療は終了という荒っぽいものだ。
高位の治癒師ならば患部の整復や再生も出来ようが、そこまでの腕前を持つ者は国が召し抱えているか、貴族の領軍が存在そのものを秘匿している。
それほどまでに腕の良い治癒師や医師による治療は貴重かつ高額な費用がかかるもので、平民は口伝えにされてきた怪しげな民間療法や眉唾もののやり方に身を任せなければならない。
ここで治癒師や薬師の腕前を披露するのは、後々のロヴァーニのためだ。
「イントさん、宿はここと向かい二つです。食事は別ということだったので持ち込み分で対応、可能なら農家に行った時に交代で取る方針で変更ないですか?」
「ああ、それで十分だ。一晩俺たちが横になって休めるのであればいい。各宿に二人ずつ残して部屋を温めておいてくれ。残りはラッサーリの共同倉庫に姫様からの食糧を持っていく。その後でヴァルト殿たちと合流だ」
「了解です!」
号令に素早く対応した若者が雪を蹴って走って行く。まだ傭兵になりたての者もいれば、二、三年ほど他の小規模な団で経験を積んで吸収合併された者もいる。
外に残っている者たちは鈍いのではなく、周囲への警戒を解いていないためだ。
ラッサーリは比較的ロヴァーニに対して協力的で友好的だが、特にこの半年ほどで辺境の利益を大きく吸い上げてしまっている。反感を持っている者がいないとも限らない。
治癒師たちの派遣は道中の安全もさることながら、友好的な町へのアピールでもあるのだ。味方を作るのであれば恩を売る機会は多い方が良い。
そのためであれば多少融通を利かせるのも許可されているし、そのための資金と物資も団長から持たされている。荷車の隠し保管庫の魔力認証を解除できるのは、交渉担当に指名されたイントだけだ。
「よぉし、じゃあ俺たちは荷車の移動だ。テルッホ殿、道案内を頼みますよ」
イントが人っ子一人いない静かな通りに顔を向ける。
彼の横に立っていたテルッホは大きく頷き、荷車を向ける方向を指示し始めた。
雪に埋もれた道が吊るされた灯りを反射して陰影を映し出す。降り積もってからほとんど雪掻きされていないのか、凍った雪の上にさらに新しい雪が積もり、もう一枚の壁のように家屋一階の半ばほどを覆っている。
まだ二月半ば。雪解けが顕著になる三月の上旬まで、あと半月ほどはこの光景が続くだろう。寒さが長引けば一月ほどだろうか。
ロヴァーニの状況と照らし合わせることが出来る者はごく少数だが、除雪の魔術具ならば硬く凍った雪でも粉砕して除けることが出来る。
宿に荷物を置いてからヴァルトたちと合流する時に雪掻きをして、一つか二つ恩を売っておくのも悪くない――そう考えながらイントは足元で音を立てる雪を踏みしめた。
農家は質素な、というよりもみすぼらしいと言っていい造りではあるが、冬の雪の重さにも耐えられるよう頑丈な柱に守られている。
家の半ばまでを覆うような積雪量は町の中心付近と変わらないけれど、屋根までの高さを加えるとちょっとした丘にも思えるほどだ。先行したヴァルトたちの足跡のおかげで迷うことはなかったが、腰の辺りまで埋まる道を五人で踏破するのは大変だったに違いない。
現在は女性治癒師がヨナス夫人のマリッカを診察中で、その間にイントが中心となって農家の主人とテルッホからの聞き取りを行っている。
治療を必要とする者は話し合いの間に宿の一階へ集めてもらう手筈だ。
食堂の隅にスペースを設けるため、ラッサーリの町の若い者が中心になってテーブルや椅子を動かしてくれている。
聞き取り内容は多岐に渡る。
昨秋から冬までのラッサーリの状況。王国との国境に一番近いラッサーリだから得られる、エロマー子爵領の内情。この町出身の行商人からの情報や、移住希望者以外に逃れてきた者たちからの情報。
生きた証言の数々は貴重で、絶対にロヴァーニへ持ち帰らなければならない。
先に宿へ向かった一行と先行した六人は、半鐘ほどの差で無事合流した。
町の中央広場までの雪掻きが行われたため、少々行動の自由が増えた近隣の農家と町長のテルッホからは大感謝されている。
こうした些細なことを目に見えない貸しとして積み上げておくのも悪くはない。
ラッサーリで待機していた一行の中でも、ヴァルトの奥方とヨナスの身重の夫人は母屋側の客室で丁重に扱われていたため、健康に不安は無さそうだった。
他の離れの小屋にいた者たちも風邪をひいていた者が数名いたが、湿度の調整と保温、投薬ですぐに治りそうとの報告を薬師から受けている。
ロヴァーニでは既に周知の情報となっているが、冬場の乾燥を和らげるために鍋とポットを火にかけ、テノを振る舞いながら水分を摂らせる。室温と湿度の上昇で症状が和らぐというのは団内で実証済みだ。
例年風邪で悩まされるこの時期、今年はアスカ姫から教えられた薬師や錬金術師たちが簡単な道具を作り、半日に一度器に水を注ぐだけで部屋の空気が乾燥し過ぎるのを防いでいる。武器に伸ばした手がバチンと音を立てて弾かれることもなくなり、肌がひび割れることも無くなっていた。
「では、今年はさらにエロマー子爵領からの逃亡が増えそうだと?」
薄くなめらかな板に植物紙を載せ、金具で押さえたバインダー状の記録具にペンを走らせていたイントが呆れたような声で答える。
冬篭りに入る直前、エロマー子爵領を越えてきたラッサーリ出身の行商人が見てきた領都や農村は酷い状況だったらしい。
領民が重税と労役に耐えかねて逃げ出したため、耕作地は放棄され実らなかったリースの穂は立ち枯れ、税の代わりに取られた家畜たちが鳴き声を上げることも無くなっていた。
商家も状況は似たり寄ったりで、昨年の秋からさらに税率が上げられている。
ロヴァーニから王都方面へ向かう商隊は荷を解くこともなくエロマー子爵領を素通りし、その先にある男爵領や伯爵領を掠め、街道を急ぐ。
帰り道で多少糧食の残りが怪しくなれば子爵領内で買い足すこともあるが、他の土地よりも高い金額で並べられている品を見て諦め、残りの旅程を節約して過ごす商隊も多くなっていた。
夜間の移動は危ないので安全な町中の宿に泊まらざるを得ないが、それすらも数は次第に減っており、秋口には町の門が閉じたのを言い訳にして街道沿いの空き地で野宿をし、翌朝の開門と同時に町を抜けていく。
農産物、商品の魅力、商う人の多さ、税、商売のしやすさ。それらが全てエロマー子爵領では失われている。
つまり『住むにも商うにも魅力がない土地』になっていたのだった。
「参ったな、予想よりさらに悪い。ロヴァーニの商人たちは年明けの冬籠りと同時に引き篭もっちまってるから、辺境街道が雪に埋もれた冬は新しい情報が来ねぇ。
護衛の増加と糧食の持ち出し、修正しないと不味いかも知れんな」
強行軍のためシャワーを一日おきにしていたとはいえ、イントの髪は比較的綺麗な方だが、それをガシガシと手で掻き乱す。
エロマー子爵領内に治安の不安が存在するのは予め分かっていたが、こうも悪い情報ばかりとは想定の斜め上を行っている。しかも税収が上がらないため子爵の親族が過激さを増しており、逃げ出した商人の店や自宅、倉庫を荒らしたり、娼館が閉じたからと町娘を連れ去ったりもしているらしい。
「冬籠り直前に領都の宿で泊まってきた商人の一人は、子爵の私兵が春先に辺境へ攻め入るのではないかと話していました。夜の酒場で噂話を聞いたそうです。
あの町では娼館すら商売を辞めてしまっているので、現在では酒場の二階が連れ込み宿を兼ねているそうですが――どうも私兵の一部が入り浸っているようで」
「あー、そりゃ姫様には聞かせられねぇな。情報の出処は隠しておくしかねぇか。それで具体的にどのくらいの規模とかは聞いていないか? ロヴァーニだけでなく、ラッサーリや他の辺境街道沿いの町に被害は出そうかどうかも」
「その辺りは何とも。ただラッサーリはエロマー領ほどでは無いにしても、豊作とまでは言えませんからな。秋の実りは作付け十に対して良くて六でしたから。
それにこのラッサーリの町自体、先代の子爵様が亡くなられた後の統治に愛想を尽かして子爵領を離れた者が多いのですよ」
テルッホが状況を説明する隣で、農家の主人も頷いている。
王国側の国境線はラッサーリとエロマー子爵領の間にある丘に置かれているが、土地に分かりやすく線が描かれている訳でもない。
前エロマー子爵の代に丘の頂上へ石碑を建て『ここから先が辺境である』と明示してはいるが、作物を育てにくい荒れた平野が続くため、耕作地を区切っただけに過ぎないのだ。
つまり、過大解釈によって勝手に国境線を辺境側に移し領地の拡大を図らないとも限らない。昨今の不作や領民の逃散、税収不足などを名目に武力行使に及ばないとは断言できない。
「厄介な話だな。とりあえずこの先の川沿いに石と土を積んで、防塁にしておけば多少は足を止められるだろうが。雪解けが始まってすぐに作業すれば、何か言われても川の氾濫を防ぐため、って言い訳が使えるはずだ。
素通りは多分ありえねぇ。足止めしている間に近隣の町へ逃げるか、防衛のためにどこかの傭兵と契約して雇うか。大っぴらに動けば奴らに気づかれるから、王国側の連中を雇うなら雪解けの前に動いて、街道が通れるようになるのと同時にラッサーリに入るしかねぇだろう」
「赤獅子の槍は動いて頂けないので?」
「上役に情報は伝えるが、団の部隊を動かす権限まではないぜ。それにこの町で雇われるにしても、傭兵の質や人数次第で依頼料は跳ね上がる。
同じ辺境に住む者として融通してやりたいが、俺たちも命を張る仕事をしてるんであって慈善事業じゃねぇんだ。向こうが三十人か五十人か百人か知らねぇが訓練された兵を連れてくるなら、最低でも同程度の傭兵が要るだろう。
町の人間で戦える者がいれば穴埋めも出来ようが……武器の質がな」
簡素な暖炉の脇に積んであった薪を一本取ってもらい、その表面をナイフで削ぎ取る。幅三テセ、長さ十テセほどのごく薄い板を作り、ペンを走らせた。
一般に出回っている青銅のナイフなら、硬さによっては刃が欠けてしまう。団の耐火煉瓦製の窯でなければ精錬できない鉄を始めとした金属は、それだけ優位に立てるものなのだから。
団の傭兵一人当たりの雇用金額はそれなりに高い。危険手当や食費も含めて日に小銀貨一枚はかかる。団員の月給としては契約料から経費と利益を抜いたものとなるが、それでも団員一人の懐に大銅貨で六枚から七枚は入る計算だ。
平の団員でその金額だから、小隊や中隊を率いる者はもう少し契約料が高い。
戦闘による危険手当も含めれば、一月当たりの契約料が金貨数枚になっても不思議はなかろう。商隊が商品の利益の中に護衛料を含めたりするのと違い、町の防衛のために雇うのであれば、期間や規模によっては町の財政を食い潰すことになる。
「正当な価格ならばうちだけでなく、暁の鷹やノルドマン、ハルキン兄弟団の連中も請け負うだろう。糧食持ち込みだと多少金はかかるが、それでもラッサーリの備蓄を出すよりは少し安く上がる可能性もある。
だがロヴァーニからの運搬費を入れてしまうとトントンか少しマシってとこか。こっちの倉庫の蓄えは減らないだろうけどな」
豊作だったロヴァーニでは、今年は保存食として加工する工房がずっと稼働しており、冬籠りの間も日に数千食単位で包装され、温度と湿度を魔術具で厳重に管理された倉庫に山と積まれていた。
水道に連結した水車で脱穀と製粉を行い、秋口から収穫した乾果を刻み、錬金術師の見習いたちが粘土を作って焼き上げた煉瓦を使って調理する。
海の塩、天日で干した肉、調理してから乾燥させた野菜、粉にした香辛料、アルマノの砂糖、ヴィリシの脂身を固めたものや豆を絞った油などと一緒に練り上げて焼いた細長いブロック状のビスケットは、二本も食べれば一食分の栄養になる。
もちろんそれだけでは腹が膨らまないので、干し肉や乾果を追加で食べることになるのだが。
「簡単な計算だが、三十人程度で月に金貨三十二枚から四十枚ってところか。まあ詳しい計算は本部の文官にしてもらうしかねぇが、大きくは離れてないはずだ。
ラッサーリがどうするかは町に――テルッホ殿たちに任せるしかないが」
「いえ……当代のエロマー子爵が短慮にして浅慮であることは皆知っております。町の者を集めて話し合わねば決められませんが、春の訪れと同時に先方が来る恐れもありますから」
顔を強張らせたテルッホが農家の主人を振り返る。
「リク、済まんが大至急村の者に触れ回ってくれ。夕食が終わったらすぐに私の家へ集まるように。エロマー子爵が村を襲うかも知れんので対策を話し合うと」
「わ、分かりました。子どもたちにも手伝わせます」
「頼んだよ」
リクと呼ばれた主人が慌ただしく席を立ち、毛皮を縫い合わせた外套を着て母屋へと戻っていく。自分たちの生活を守るために皆必死だ。
娯楽らしいものも無いために外からの客人が珍しく映るのか、離れを窺っていた子どもたちが叱られる声が短く響き、ついで家畜を散らすように雪を踏んで駆けていく音に変わる。
「俺の親も王国を出た開拓民だったから分かるが、大変だな。もし話し合いが今夜のうちにまとまるなら、明日の朝までに伝えてくれ。俺たちはこの離れの出立準備が整い次第、遅くとも二の鐘の前にはラッサーリを発つ。
救援の交渉をする特使が来るなら連れていくが、商人が着いてくるなら街道整備の費用を貰い受ける。姫様の作られた魔術具の恩恵を受けるのだから当然だな。
まあ自分たちで除雪する費用を負担するのに比べたら遥かに安く上がると思うがね。食糧や防寒、宿泊場所も自前で用意してもらうことになると伝えて欲しい」
イントが事務的に伝えて視線を離れの奥に向けると、そこには旅装を半ば解いたヴァルトと奥方らしき夫人、それに姫様と同年代くらいの少女が女性治癒師とヨナスに付き添われて立っているのが見えた。
華奢な身体に大きな腹を大事そうに抱えている。容姿も事前に聞いていたものと合致していた。ヨナスの妻のマリッカで間違いないだろう。
「ヴァルト殿、そちらの話は終わったのかな?」
「ええ、終わりました。お待たせして申し訳ない。荷物は下働きの娘も動員して、明朝までにまとめられると思います。中継拠点に着くまでは揺られて寝ていくだけですから、今夜一晩徹夜したところで取り戻せる範囲でしょう」
「男ならそれでも良いが、女子供はきちんと寝かせないといけないだろう。出立は明朝二の鐘の予定だから、早起きすれば荷物を集めて積むくらいは出来るはずだ。
それで、ヨナス殿のお隣のお嬢さんがマリッカ嬢で合ってるか?」
「そうです。お嬢さんというか、もう人妻ですが。ルマナさん、マリッカ、こちらは傭兵団赤獅子の槍のイント殿。ロヴァーニから残されていた人たちを迎えに来た一団をまとめておられる方だ」
普段なら日の出と共に起き、陽が沈んでそれほど時間を置かずに寝ているため、表情はかなり眠そうに見える。
それでも自分たちに今後深く関わる相手だと知り、スカートを軽く摘んで略礼を取ると、治癒師のエーヴァに案内されて丸太を加工した椅子に腰掛けた。
「マリッカ・ルスアと申します。嫁ぐ前はオウティネン准男爵家におりました」
「ご丁寧にどうも。俺は赤獅子の槍のイントだ。一隊を預かってきているが生まれは平民なんで、気軽に話してもらって構わない。団長は王都の伯爵家を出奔された方だが、公式の場や儀礼でもなきゃ気さくに話しかけてくれるんでね。もし不快にさせてしまうようならいつでも言って欲しい。
今回は団長と姫様の命で動いている。少々王国領との境がきな臭くなってきたので、雪の辺境街道を無理に通ってヴァルト殿の家族も含めて迎えに来た。
ヨナス殿の奥方が身重だというので、治癒師と薬師も連れてな」
簡単な診察を終えたのか、身体に異常は見られないと報告してくるエーヴァに頷き返す。母子ともに問題がなさそうなら、明朝の移動も問題ないだろう。
他の団員は交代で湯の準備を済ませ、一部は離れの裏手から厩舎の荷車に続く道の整備に向かい、一部は保存食をベースにしたとろみのある粥を作っている。
ロヴァーニにいる時のように湯船に浸かることはできないが、シャワーだけでも浴びておきたいのだ。さすがに移動中の野営では一日おきくらいの頻度になるが、本部新館に併設された大浴場で入浴の良さを体感している彼らにとっては欠かせないものとなりつつある。
「ヴァルト殿から説明があったと思うが、出産もそう遠くないとのことだったのでね。離れに避難していた移住希望者は、ついでに迎えに来たって判断してもらって構わない。貴族階級出身で身元がしっかりしていて、ロヴァーニに移住してもすぐに働けるヴァルト殿やヨナス殿の家族の扱いと、身分証があっても春まで働けない彼らとでは扱いが違う」
イントは声を潜めながらヴァルトとその奥方にも席を勧め、エーヴァをマリッカの隣に座らせた。ロヴァーニに着くまでは彼女と女性の薬師が交代で担当に着くことになる。
荷車から降ろした魔術具のポットに水を入れ、全員にテノを淹れ直す。
持ち手部分の晶石にわずかな魔力を注げば、ほぼ瞬時に沸騰手前まで温度が上がり、鐘半分くらいは温度を維持できる。
「食事を待っている者たちがいるから大きな声では言えないが、貴族家に連なる者と商家の一部以外はロヴァーニでの受け入れが出来ても、経済奴隷になる可能性が高い。比較的短期の、と付け加えておくが」
「冬の辺境街道を踏破してきた魔術具の準備、往復の食糧と安全を確保するための傭兵団の雇用、中継拠点の整備と確保――金貨で一千枚は越えているでしょう?」
「おそらく倍は越えてるだろう。だが魔術具は団の発注で今後も使うし、中継拠点はこの冬限りのものだ。材料もそこら編に有り余ってるものを使ったしな。
だから費用としては傭兵団と後方部隊の雇用料、それに食糧が中心だ。それでも金貨で五百枚にはなる。ヴァルト殿とヨナス殿は町の文官として働いてもらうことが決定しているので負担も可能だが、住居を得たり生活を整えるためには相応の金が必要になる。
ロヴァーニの町の入門費用はそれほど高くないが、移送の対価を払うには一家族で金貨七枚程度は必要になってくるだろう」
大雑把な計算だが、と断ってテノを口に含んだイントは、他の移住希望者の診察をしていたクスターとヘリナがこちらを見ているのに気づき、手招きした。
子どもたちが後ろを走り回っている様子から、診察を終えて報告をするため待機していたのだろう。
「終わったか?」
「はい、全員診察を終えました。記録は走り書きなので後ほど清書する必要はありますが。大きな怪我をしている者はいませんが、熱を出している子供が三人、大人が一人いました。食事と薬を与え、明朝まで様子を見ます」
「私も確認しましたが荷車での移動には問題無さそうです。荷車で酔うのは多かれ少なかれいますから、そちらは発覚してから対処します」
「分かった。この後は病人以外の食事の準備を進めるのと、お前たちは食後に診察記録をまとめてくれ。帰還後に姫様がご覧になるはずだ。クスターはヴァルト殿と報告書の作製を任せる。離れでの聞き取りの結果もな。
それから帰り道での甘味の管理をエーヴァとヘリナに任せる。姫様お手製のものは厳重管理だ。帰りの護衛と移住者にはアルマノの飴を、角犀馬には棒菓子を与えるようにしてくれ。どちらも数に限りがあるから配分は任せる」
特にアスカ姫が持たせてくれた菓子は保冷の魔術具に収められて数が決まっているため、際限なく出す訳にはいかない。
実際にはヴァルト夫妻とヨナス夫妻、治癒師たちと班長以上を中心に、商人を交代でお茶の時間に招くくらいが限界だろう。
最後の森岩栗の在庫を使って焼き菓子を作ったとのことだが、内容はイントたちにも知らされていない。七日間は蓋の封が解けないよう魔術まで使われていたため、使用目的のみを知らされたのだ。
一足先に味見くらいはしたかったが、出発時に箱を手渡したユリアナの怖い笑顔も覚えていたので大人しくしている。女性にとって甘味の恨みは怖いのだ。
「食事の後は俺たちの泊まる宿で情報収集とラッサーリ住民の治療を頼む。治療は持ってきた薬の量もあるから人数に制限を設けている。重篤な急患が発生すれば別だが、上限で六名」
「それくらいなら大丈夫でしょう。代価は?」
「診療費はロヴァーニに準じて、薬価は片道分の運送費を乗せたくらいか。俺の専門じゃねぇからよく分からんが、薬師たちが決めてた値段があったはずだろ」
「了解しました。薬箱の護衛と運搬に班員を借りても構いませんか?」
「そいつは元から仕事の内だ。適当に手ぇ空いてる奴を捕まえて運ばせてくれ。診察する場所と診察中の護衛はテームたちに揃えさせる。
離れに残る人間の統率と奥方たちの世話はヴァルト殿に任せてもいいか?」
「お任せください。ロヴァーニ行きには持っていけなかった魔術具もありますし、こちらの心配はそれほどないかと思います。残っている間にランヴァルド様への報告書をまとめておきましょう」
イントの指示に従い、団員たちが動き始める。ヴァルトもラッサーリに辿り着くまでは一行の指揮をしていたためか、移住希望者たちからの信頼も篤いようだ。
王都の上級貴族に仕えてきただけあって、交渉や人心把握も巧みらしい。
「まずはメシだな。テルッホ殿、俺たちはこちらの食事が終わり次第宿に移動して治療を行う。治療を行う必要がある患者と付き添いのみ順番に連れてきて欲しい。
こちらにも持ってきた薬の限界があるので揉め事は起こさないでもらいたいが」
「分かりました。町の者には私から確実に伝えます」
緊張した面持ちで頷いたテルッホが慌てて立ち上がり、踵を返して離れを出て行く。そう広くはないといえ、ラッサーリも住民三百人を超える町だ。
到着した赤獅子の槍を中心とした部隊は二十人程度と少ないが、もし治療の順番を争ったり強要するような事態になれば、『辺境最強』の武力が彼らに向けられないとも限らない。
着膨れた身体を揺すって全力で走っていく姿を見送った団員が扉の向こうを確認し、そっと閉じる。目つきに同情が混じっているのは隠しようがない。
「脅し過ぎですよ、イントさん」
「構わねぇさ。治療の代金を取るとはいえ無償奉仕をしてるんじゃねぇ。予め言い含めておいた上で暴れる奴が出るんなら叩き出すだけだ。
エーヴァとヘリナは絶対に一人になるな。診療中も護衛を誰かしら側に置け。
クスター、お前さんもだ。ロヴァーニでは姫様のご意向が知れ渡ってるから馬鹿な真似をする奴はいねぇが、春以降辺境街道沿いの町で出張治療をすることもあるだろう。自分の腕っ節に自信がないなら、安全のために護衛を置いておけよ」
脅しではなく、実際にあり得ることだ。特に医者や治癒師、薬師の手が足りない辺境では、その知識と能力を身につけた人間は重宝される。
基礎学力に加えて高度な知識と経験を身につける必要があるため、後進を育てられる人間も限られ、機材や設備も整っている場所まで用意できるのは王都や大貴族の治める領都くらいしかない。
故に辺境のロヴァーニに治癒師や薬師が数十人単位で揃っていること自体が異常なことであると、イントは知識と経験で知っている。
テルッホが出ていったからか、彼がいる時には表に出されていなかったヴィリシやカァナの冷凍肉も包みを開けられ、火の側に置かれて解凍されている。
大量の肉を見て歓声を上げて見ている子どもたちには悪いが、強行軍で疲れた者たちとこれから治療で働くことが決まっている者が最優先だ。
「さて――妊婦のマリッカ殿は腹の子のために控えてもらうしかないが、無事に第一目標は達成できた。一杯だけだが祝い酒と行こうか、ヴァルト殿?」
そう言って足元から小さな木箱を机に乗せたイントは、腰に挿していたナイフで蓋の赤い封蝋を削り取っていく。団の印章を押された蝋は小さな革袋に集められ、中に収められていたヴィダ酒のボトルが姿を現す。
多少歪さも残っているが青緑色の混じったガラスで作られたボトルは、ロヴァーニのガラス工房で最近作られ始めたものである。
小さな炉が一つしかないため高価だが、新館だけに限れば十数本は存在する。
大半はダニエが管理し、残りは部隊長以上の私物であるが。
ここに持ってきた一本は会計長のマイニオとの交渉の結果だ。
「ヴィダ酒ですか……? それにしては随分と澄んでいるようですが」
「ボトルも陶器じゃなく……ガラスですか?」
「姫様が手を掛けられたものに比べりゃ劣るだろうが、ロヴァーニの酒造工房が秋に売り出した上物だ。ヴィダの実を色別に分けて、澱も丁寧に濾し取って作ってあるから、こういう見た目になる。
姫様の下賜品だとボトル一本でいくらになるか分からんが、こいつは小銀貨二、三枚くらいか。商人の贈答用くらいと思ってくれたら良い」
王都にでも持っていけば大銀貨に化けるだろうが、ロヴァーニの町の中では少銀貨で収まるようにしている。ガラスのボトル自体もまだまだ高価な品物で、作られた工房の紋章と記号、製作年と季節、ボトルの番号が底に刻まれていた。
工房の管理台帳を調べればどの季節に何本作ったかが記入されているので、粗悪品や偽造などの芽を完全に潰している。
話しているうちに粥と肉の準備も出来てきたのか、離れに賑やかな音が聞こえ始めている。木箱や樽を並べ、上に板を置いてテーブル代わりにし、見習い職人たちが作った木の皿を手際よく並べていく。
温かい湯気を立てる食事は、寒い冬にはそれだけでありがたい。
「明日からは雪に埋もれた辺境街道を抜けるからな。魔術具で多少楽は出来ているが、絶対安全なわけじゃねぇし、エロマーの軍や私兵が来ないとも限らねぇ。
まあ色々あるだろうが、心配はロヴァーニに着いてからだ。今日はきちんとメシを食って明日からの移動に備えてくれ。ヨナス殿は奥方の傍に居てやるのが一番の仕事だ」
イントの手首ほどもある太い枝を刳り抜いたらしいゴブレットにヴィダ酒を注ぎ、ヴァルトと奥方のルマナ、ヨナスに差し出す。
割れやすいガラスや武器・農具に優先して使用される金属は、庶民の手には入り難く希少だ。陶器も割れやすいという点では同じだろう。裕福な商人が使うくらいで庶民には広まっておらず、結果としてありふれた木製の食器などが中心になる。
コツン、と鈍い音を立てたゴブレットに口をつける。
甘味の中に苦味を混ぜた液体が喉の奥を伝い落ち、胃の辺りが熱くなった。
実際、ヴァルトのように貴族家に仕えてきた者や、マリッカのように夫がすぐに務めを果たせる立場の者は少数派である。今は身重なマリッカも、子育てが軌道に乗れば家事を行ったり、働きに出ることも出来るだろう。
貴族家での教育を受けていれば、簡単な文官仕事だってこなせるはずだ。
大半の平民は今回の救済・移送の費用を賄い切れず、一時的に経済奴隷の身分に落とされるだろうと分かっている。それでも春までここに留まり、エロマー子爵の差し向ける兵と争って命を落とすよりはマシなのだろう。
一言で言えばやってくる時期が悪過ぎた。せめて秋の中頃までにやって来れば、街道の整備や防壁の工事、大工や石工、各工房の冬仕事など働き口は手が足りないほどあったのだから。
心配は出来ても解決法は考えつかない。
既にアスカ姫が団長へ進言したらしいが、秋以降の移住受け入れについて決まりを設け、周知した方が問題は少なくなってくれるはずだ。経済奴隷ばかり増えてもロヴァーニのためには決してならない。
酒の美味さや料理の味に喜ぶヴァルトたちを見ながら、イントは表情を変えずにゴブレットを呷る。
町の者に人気だという酒の味が、先程よりさらに苦くなったような気がした。
途中でイントの口調が違うのは、対外的なものと身内とで使い分けているからです。




