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女形の姫様転生記  作者: 新島 隆治
33/49

真冬の来訪者

 小さな妖精猫(ケイユ・キッサ)のルミがアスカ姫の肩や膝に乗る姿が団内で見られるようになってから半月ほどが経った。

 既に一月も半分が過ぎ、辺境の町ロヴァーニもうっすらと雪化粧されている。

 本格的に降るのは例年一月下旬から二月の末にかけてらしく、現在の積雪は(くるぶし)の上をようやく隠す程度だ。


 年明けから毎日行われていた商隊護衛の打ち合わせと会食はほぼ落ち着き、団内での細かい調整と食料などの手配依頼書が本部と直営商会、町の市場で頻繁にやり取りされている。

 それでも、昨年までと比べて新たに食料として認識され確保されたものも多く、食糧事情はライヒアラ王国の貴族領と比べたら天と地ほどの差があった。


「次、第二部隊の四月下旬の申請書だ。春収穫のリースは四月半ばだから、乾燥の時間を考えると秋の収穫分で何とか必要分を確保しなきゃならん。

 直営商会の保有分は三月末に第三倉庫まで使い切る。第四層庫から第七倉庫までは他の商会の荷も混じっているから、倉庫の空きが出来次第移動させて行け。購入予定は来月下旬までに量と金額をまとめてくれ」


「燻製工房の新設について直営商会から嘆願書が上がっていますが……」


「それはこちらの部屋じゃなく団長の執務室行きだ。団長の許可もそうだが、技術をお持ちである姫様の裁可が必要になる。工房と保管倉庫の予定地、建設資材の購入費見積りを忘れるなよ。食材の買い付け予定先と販売予定先、年間の販売計画があればそれも添えておけ」


 団本部の二階にある会議室の並びは夕方だというのに人通りが多い。

 その大半が団所属の文官と調達班員、直営商会からの申請書や嘆願書を持参してきた見習いたちである。

 上旬までは上司たちも付き添っていたが、大きな商談がまとまって実務的な仕事が増えるに従い、彼らは直営商会と外部の交渉の席に着くため離れられなくなったらしい。そのしわ寄せが若い彼らにやってきた、ということだ。


 開けっ放しになったドアは布を張った木製のストッパーで留められ、略礼としてドアの鏡板をノックするだけで入ってくる者が大半である。

 時間を知らせる鐘一つごとにお茶(テノ)を持って来てくれる女性職員も先ほど最後の回を配り終え、今は調達班の若い団員が追加で淹れていた。


「冷蔵・冷凍倉庫の申請書類は会計長室宛だ。こっちは必ず夕食前に持って行ってくれよ。午後の五の鐘が鳴ったら今日付けでの受付はしてくれんぞ」


「でしたら、(わたくし)がついでに持っていきましょうか?」


 男所帯となっていた部屋に似つかわしくない、愛らしい声が響く。

 顔を上げた文官の視線の先には、真っ白な妖精猫を華奢な左肩に乗せたアスカ姫のお姿があった。


「な――姫様っ?!」


「講義を終えて団長の執務室に届け物をしに行こうと思ったら、行き先が同じ方向にある書類の話が聞こえたものですから。すぐに持って行けるものがあれば、ついでにもらっていきますけど」


 肩から滑り落ちそうになっている妖精猫を胸元に抱え直したアスカ姫は、両脇をクァトリとエルサに護られながら部屋に入ってくる。

 斜め後ろにハンネと側仕えのライラが付き従っているので、講義の帰りに通りがかったというのは本当のことなのだろう。


「毎回持って行く訳にはいきませんが、今日は団長に報告する内容があったから、というだけのことです。団長の執務室のお隣ですし。ライラ、会計長室行きの書類を預かってあげてください」


「承知しました、姫様」


 アスカ姫の斜め後ろで頭を下げたライラが静かに前に出て、机の上で分けられていた書類を取り上げた。彼女の視線が机の端から端へ一往復し、さらに二通の書類が取り上げられる。


「こちらの執務室宛の申請書が一通と、会計長室宛が二通で大丈夫ですか?」


 ごく短時間で全ての表題と宛先確認したのか、本来こちらの事務室には回らないはずの書類を取り上げたライラは文官を正面から見つめた。

 飛鳥の書き散らすメモや知識の覚え書き、レシピの断片、ハンネやアニエラが事細かく記録を取っている講義録を清書し整理しているのは、彼女たち側仕えの重要な仕事になっている。

 女性の文官もいるが、大本の情報を持つアスカ姫に一番近い場所にいる彼女たちが果たしている役割は極めて大きい。


「見つかっているのはそれだけです。あとは出てきてもこちらで持って行きます。お手数をお掛けしますがお願いします」


「では三通預かっていきますね。ライラ、(わたくし)が執務室に入ったらそれぞれの宛て先にお願いします。ネリアは執務室に入ったらお茶(テノ)の用意を」


「かしこまりました」


 書類を受け取ってもらい、そのままライラに持たせて(きびす)を返す。

 部屋にいた文官や調達班員は一斉に頭を下げ、それを見送った。




 姫という立場上護衛や側仕えたちが必ず付き従うため、飛鳥だった時には簡単に受け取ってきたような書類でも、アスカ姫としては誰かに持たせざるをえない。

 正式な謁見でもあれば文官が付き従うけれども、団の建物の中では側仕えたちが文官の役割を兼ねている。


 文官たちの執務室となった会議室を出て廊下を進み、新館中央の大階段を通り過ぎた奥に団長や会計長の執務室が並んでいる。大階段脇にある部隊長の執務室には普段滅多に人の気配がなく、取り壊し前の旧館では秋口でも商隊護衛の報告書を仕上げる時以外に使われたことは無かったらしい。

 現在もまともに使っているのが部隊ごとに置かれた副隊長、もしくは商家などの出身で読み書きに苦労しない団員だけだというのが悩みどころではあるが。


 そんな部屋も年始の商談の時は夜遅くまで灯りが点いていたし、春以降の計画書を提出するまでは毎日部隊長と文官仕事の出来る団員が数名ずつ詰めていた。

 この時間に人がいないのは、単純に夕食が近いからだろう。


 ライラが先に立ち、執務室の重厚なドアをノックする。部屋の中から顔を出した文官とのやり取りも基本的にはお任せだ。

 この大陸では滅多に見られないほど澄んだガラス窓の外には雪がちらつき始めているが、気密性を高めてある建物自体と壁や床に仕込んだ魔法陣のおかげで寒さは感じない。


「お待たせしました、姫様。団長がお待ちです」


 文官が大きく開いた扉を護衛の二人が先に潜り、飛鳥自身はライラ、ハンネの二人を引き連れる形で入室する。

 新館の二階は団員以外上がってくることが出来ないため、警戒する必要が薄い。

 そんな場所柄ゆえか、護衛たちも一応の警戒はするが表面的なものだ。

 何よりアスカ姫の保護者である団長が彼女を害するなどありえない。


 各種書類の作成や報告待ちをしていた文官たちが()礼をしてくるが、彼らもまだ仕事中である。

 飛鳥は掌を上に向けて軽く振り、立ち上がって仕事に戻るように無言で示すと、先に応接用のテーブルとソファが並ぶ一角へ足を向けた。

 団長の視線がこちらに向いてアスカ姫の入室を確認したのは分かっている。

 文官の報告を受けている最中だったので、邪魔をする訳にはいかない。


「ネリア、先にお茶(テノ)の用意をお願い。ライラは今のうちに会計長室へ持っていく書類を先に届けて来て下さい。クァトリとレーアは私の後ろで護衛を、ハンネは私の隣に」


 指示を出して柔らかなソファに腰を下ろす。スカートのプリーツをそっと揃える手付きも、一年近くアスカ姫の身体で過ごす間に手慣れたものになっていた。

 アスカ姫の胸に抱かれていたルミは広いソファの上で転がり回ることを選んだのか、太ももの上を経由して身体を座面に擦りつけている。背中を軽く撫でてやると実に気持ち良さそうにしていた。


 その間にもネリアは慣れた手付きでお茶の用意を進めている。

 執務室の茶器はライヒアラ王国産のものとロヴァーニで作られ始めた磁器が棚に並んでおり、今回は磁器のカップが用意されている。


 女子棟で普段使いされているものに比べたら少々肉厚だが、乳白色の磁器は市場にも出回っている数が少なく、団の専属工房が作って余ったものを直営商会へ月に数組卸している程度だ。

 ガラス製品と同様希少品であるが、高熱に耐えられる窯がまだ二基しかないため高額になるのは已むを得ない。団内で使われている品は、魔術師と錬金術師が魔力と術の制御訓練で作ったものである。


「お茶請けはどうされますか?」


「間もなく夕食ですから、今はテノだけにしましょう。講義室に持って行ったバスケットに残っているお菓子は執務室への差し入れに。ライラ、お願いしますね」


 一瞬ライラが残念そうな表情を浮かべるけれど、材料自体は女子棟に戻れば倉庫や厨房に山と用意されている。

 作る時間さえ我慢すれば何時(いつ)でも食べられるし、何より新館の男性陣どころか、王都の貴族たちすら(うらや)むだろう食生活を送れているのだから。


「お待たせしました、姫。わざわざ書類を届けて頂きありがとうございます」


 仕事が一段落ついたのか、応接用のソファに歩み寄る団長が疲れを滲ませながら頭を下げた。飛鳥が手でソファを勧め、彼が腰を下ろすと同時にネリアが微かに湯気を立てるティーカップを二人の前に差し出す。

 白磁のティーカップには縁の少し下まで薄い金緑のテノが満たされ、天井に据え付けられた魔術具の白い灯りに照らされて鮮やかな水色(すいしょく)を見せている。


「講義が終わって戻る途中、ちょうど前を通りがかったものですから。終了の報告をするために執務室に向かっている最中だったので」


「いえ、この後夕食前に東の砦門の担当から聞き取りをするため執務室を離れるところでしたので、本当に助かりました。場合によっては鐘一つほど戻れず、決裁が夜中になっていたでしょうから」


 団長の決裁が早ければその後の会計長などの仕事も滞らなくて済むが、遅れればその分だけ後の工程も遅れていく。

 現在副長のスヴェンが机で見張られながらサインしているのは、直接団の業務に影響を与えない報告書や研究費支給のための予算申請書、会計長から戻されてきた計画書と資材調達の現状に関する書類ばかりだ。

 それすらも机から十テセ(センチ)ほどの高さまで二つ積み上がっているため、専任の文官が三人、監視を兼ねて一緒に仕事をしている。


「――砦で何かあったのですか?」


 飛鳥が気になったのは、砦からの報告という点である。居住区の近くにある東門ではなく砦なら、荷車を牽いた角犀馬(サルヴィヘスト)で鐘一つほど。単騎で駆けるにしても鐘半分ほどはかかる計算だ。


 新年が明けて本格的な冬の訪れがやってきたと共に、ロヴァーニの門は基本的に全て閉ざされている。雪が降り積もれば辺境の街道も埋もれてしまい、荷車なども通れなくなってしまうからだ。

 雪国で使う『かんじき』のようなものは伝統的に使われているらしいが、荷車は従来のものでは動けなくなる。(そり)を使うにしても大型のものは耐久性に不安が残るため、大抵は背負子(しょいこ)などで持つか、肩に担いで行くかのどちらか。


 冬季の砦の通行は、近隣の集落や町でどうしても不足する食料品を調達する必要があって、已むを得ず来る者以外は来ないだろうと判断されていた。

 ロヴァーニの中央市場もそうした取引のために開けられているし、砦より内側の門も基本的には非常事態以外で閉じられることはない。それに幸いにも緊急の補充が必要な集落や町に対して供給するだけの備蓄は十分に持っている。


「私が取り調べに立ち会ってから報告しようと思っていたんですが……門番の報告では、エロマー子爵領から逃げ出してきた傭兵などが十名ほどいるようです。

 冬篭りの祭りが終わってから子爵領を出たらしく、身重(みおも)の者やその家族は辺境街道沿いの町に入って雪解けを待っていると」


「女性や子供を無理に移動させたのではないのですね?」


 現在は一月の半ば過ぎで、週明けには下旬に入る。地球の暦で考えるなら二月の上旬だ。雪の降り方や積もり方など、長いことロヴァーニに住んでいる団員や事務員に聞いた範囲では厳冬期といえる。

 妊婦や乳幼児を途中の町に置いてきても、最近のロヴァーニの住宅ほど機密性が高い訳でもなく、寒さは身に()みるはずだ。


 不足する食料もいざとなればロヴァーニで調達出来るとはいえ、吹雪の治まった間にしか移動できず、積雪があれば荷車も使えない。徒歩で往復するなら移動速度も背負子の積載量も大幅に落ちる。

 徒歩で移動する行商人のために雨風を避けられる簡易宿泊所――掘っ立て小屋のようなものを数ヶ所建てさせているが、厳冬期の積雪までは考えておらず、徒歩で三日程度の距離までしか整備していない。

 冬の間に天井が落ちている可能性もあり、春になったら点検と補修の必要が出てくるものもあるだろう。


「砦に来ているのは男だけのようです。傭兵が三名と、子爵領の村から逃げ出した農民が五名。それに文官らしい者が二名です。文官の一人はどうやら私の実家の紹介状を持っているようです」


「ご実家の?」


「現物は見ていませんが、封蝋に()された紋章が実家のものらしく……」


 こちらです、と言いながら団長の腰に下げていた短剣をテーブルに載せ、柄尻に彫られた紋章を見せてくれた。小さいが下側の長い菱形の楯に片脚を置き、短い一角を生やした獅子と、足元に交差した剣が配されている。

 元は細かな部分まで彫金が施されていたのだろうが、長年使い込まれて磨り減っている部分もあった。


「もう日が暮れてしまいますが、この雪の中で一晩放っておくのもよろしくないでしょう。留め置くにしても砦の設備を使うことになると思います」


「往復と対応を考えると、団長の食事が遅くなってしまいますね」


「已むを得ません、これも仕事ですから。幸い他の傭兵団の幹部も道連れに出来るので、一人で寂しい思いはしなくて済みそうですよ」


 短剣を腰のベルトに戻しながら苦笑した団長が湯気を上げるテノを口に含む。

 これから出かけるのであれば戻りは夜半になるだろう。就寝の鐘までに戻れれば早い方かもしれない。

 窓の外で荒れ始めた天気を横目に見ながら、団長は話題を変えるよう切り出す。


「それで、届け物以外に何かお話があったのでは?」


「色々とありましたが、砦の一件が急ぎのようですから後日でも構いません。先に内容だけ申し上げると、作物の季節をずらす試験場のお話と公用浴場、それに冬季の町中の移動についての提案と相談です」


「試験場に、公用浴場……それに冬の移動ですか」


 もっとも試験場は温室程度の考えでしかない。

 この世界にビニールのような素材は未だ存在していないが、植物由来の素材で似たようなものが見つかっており、それを大量に用意できるか確認中だ。


 ガラス製の大きな窓を備えた建物にしても、浴場の排湯と鍛冶場や工房の廃熱の一部を再利用でき、ある程度は魔術や錬金術の助けを借りて温室棟を建てられる。

 町の経済に金を回すという意味では、アスカ姫の膨大な魔力だけに頼らず、労働を対価としてもらう環境も必要だ。

 夏場の冷房にしても、晶石の確保が冬の間に目論見(もくろみ)通り進めば、学校の体育館程度の広さまでなら冷やすことが出来るだろう。


 どちらにしても、実際に手を付けるのは春以降のことになるが。


「新館から少し歩いたところにある日当たりの良い高台に試験場を建てられたら、と考えています。雪が残っている間は動けませんが、上手くいけば夏に採れる野菜を他の季節でも採ることができるようになります。

 作物が育つ環境を月単位でずらすことになるので、実際に植えながら条件を変えて試す必要はありますけど」


 対面に座る団長だけでなく、農家出身のレーアや王都の学院で薬草などの研究をしたこともあるハンネが驚愕に眼を見開いている。

 自然に従うしかなかったレーアはともかく、過去に魔術学院で希少な薬草を育てる研究が行われたことは、貴族家出身者なら一度は耳にしたことがある。

 国費だけでなく、広く貴族家からの寄付を募ったことも知られているからだ。


 十年ほど前に学院の教授陣が中心となり、三テメル四方ほどの小屋に大量の晶石と温度操作の魔法陣を導入して、薬草の栽培自体は一応成功している。

 加えて熱を発生・維持させるための燃料費や水の確保など、予算は当初の見積りから大きく膨れ上がった。三年分の予算は一年目の半ばまでに使い尽くし、学院の予備費にまで手をつけたのだから。


 結果、薬草は何とか栽培できたけれども投入した費用に対して収量が見合わず、研究は二年目で強制的に停止させられた。

 その事実もあり、以来貴族学院や魔術学院では二度と手を出してはいけない研究分野とされている。

 魔術学院が破産することは辛うじて無かったが、計画の中止と同時に研究担当の教授が三名ほど学院を去ることになったのも未だに語り草になっている。


 リージュールの姫が言い出したことでなければすぐさま止めたことだろう。


「――驚いた顔をしていますが、どうかしましたか?」


「いえ……王都の学院では、薬草の栽培に失敗した教授もいたので」


 ハンネが言葉を濁すが、飛鳥が過去の出来事を知る(よし)もなかったし、アスカ姫としても実験が行われた頃はこの大陸にすら渡っていない。

 故にハンネから過去の出来事について説明を受け、ようやく理解したのだった。


「それはおそらく生育の条件などを理解しないまま行ったのでしょう。植物が生育する条件は日照、気温、土、栄養素などいくつか知られています。それと魔術具や小屋の設置状況や条件が悪かったのでしょうね。

 ガラス窓のように、日光だけを通して雨や風を(さえぎ)る素材が無かったのも失敗の要因の一つだと思います。

 いくら風を遮ったつもりでも、採光を意識して壁の隙間を空けてしまったら折角暖めたり冷やした室温の維持が出来ないでしょうから」


 現物を見た訳ではないが、夏までにロヴァーニの一般的な旧家屋を見た限りでは板戸をずらして採光を得るつもりだったのだろう。魔術具で空気を遮断する方法もない訳ではないが、相応に資金力を求められる。

 王都ロセリアドでもガラスは高級品で、曇りや歪みに加え、黒い砂粒の混じった粗悪品が金貨で取引されている。飛鳥が作った板鏡が高額でも飛ぶように売れたのもその辺りに理由にあった。


 現在のロヴァーニは錬金術による板ガラスが生産されているので、採光は十分に取れている。一般家庭ではそれなりの負担になるが、数年かけて支払いを分割することが出来るようになっており、直営商会はそちらでも利益を上げていた。

 そのため一般家庭でも晩秋までには居間と台所くらいは窓が整備されている。

 四、五年もあればかなり普及するはずだ。


「ガラス窓は二重か三重構造にして、水とお湯、廃熱が通る管を設置して温度管理を行います。内部は小部屋を六つから八つ用意して条件を変え、種蒔きや収穫の時期を早めたり遅らせたりといったことを試す予定です。

 上手く条件が確定できれば、量産に必要な施設を増やすことで、真冬でも新鮮な野菜が食べられるようになりますよ」


「それも姫のお国の技術ですか?」


「ええ。残念ながらこの大陸とは植生がかなり違うようなので、こちらに合わせた研究が必要になりますけど」


 リージュールには半地下の温室が数千並び、多少割高になるものの季節をずらした食料の供給が行われていたという。

 必要な魔術具の構造や作り方、施設の概要は教育係を務めたセヴェルに教わっているし、飛鳥として身に付けた知識や体験学習で見た記憶もある。

 何より植木鉢やプランター程度の規模なら、アスカ姫として与えられた部屋の中で季節外れの春や秋の花を咲かせてもいるのだ。


「まだこちらは計画段階ですので、文官や魔術師たちと詳細を詰めてから計画書と予算案を団長にお出しします。ロヴァーニの町にお金を回すことも大事ですし。

 二点目の公共浴場の方は住民の健康維持と衛生面への配慮ですね。水道も敷いていますし、何より冬場は冷えます。夏場も汗を掻いてそのままにするより、汗や埃を流してきれいにした方が良いですから」


 この冬には間に合いませんでしたが、と言い添えて、飛鳥は会計長の部屋から戻っていたライラに用意してもらった地図の上へ細い指を走らせる。


 各種工房が集まる工業地区に一つ、次に中央市場の辺り、それから自警団の郊外訓練場の近く。それに住宅が集まる地域と文官が多く働く役場の中間辺り、最後に歓楽街に程近い場所の五ヶ所だ。

 特に歓楽街の辺りは、深夜でも灯りが煌々(こうこう)と点いている地区である。


 いずれも水道の配管は通っており、大きな分岐の近くに存在している。

 常時余分な水量は下流側に流れているため、浴場側に貯水タンクのようなものを設けておけば水道への供給を邪魔することもない。加えていざという時には防火用水や非常用の水源にもなってくれるはずだ。


「水道から引き入れる水路を組んだり排水路を作ったり、建物を作るための人手を移住してきた人たちに求めれば、鏡や魔術具などで資金が過度に集まっている(わたくし)からロヴァーニの民へとお金が流れます。

 いくつか候補を示しましたけど、全部を一度に作る必要はないのですから順番に建てていけば良いのです。ロヴァーニが住み良い町となれば、噂を聞きつけてもっと人は増えるでしょう。計画は状況に合わせて変更しても問題ありません」


 昨年――アスカ姫が救出される前――の年越しと今年の年越しの住民の数を比較するだけでも、人口は二倍以上に増えている。

 これはアスカ姫の指示で夏から文官が記録と統計を取っているし、冬篭りの祭りに先立つ式典でも周知された。その情報は春以降、商人たちの口を通じて辺境街道や王国領へと伝わっていくことだろう。

 ロヴァーニの豊かさやアスカ姫の情報と共に。


「最後の冬場の移動についてはロヴァーニの町中だけのことです。必要な資材や食糧は備蓄してあるとはいえ、毎日雪が降り積もって門の当番の交代や市場への買い付けが大変だと聞いています。

 おそらく、家に閉じこもっている町の民はもっと大変でしょう。

 晴れた日ならば積もった雪を()けて家の外に出ることも出来るでしょうけど、道を歩くにしても大変です。団本部から中央市場までのように石畳に細工をしてある道ばかりではありませんし。

 ですので、新館と女子棟を結ぶ通路や中央市場のアーケードのような屋根付きの通路か、洞窟のように地下を掘った広めの通路があっても良いかと考えています」


 テノを一口含んで喉を潤すと、続きを待って黙っている団長に顔を向ける。


「荷車が互いにすれ違えるだけの規模となると費用も時間もかかり過ぎてしまいますから、緊急時に角犀馬(サルヴィヘスト)が余裕を持ってすれ違うことが出来る程度の幅であれば実現可能ではないかと考えています。

 地中に道を設けるなら、女子棟の通路のように金属の構造材を組むか、硬い木を構造材にしてから錬金術で金属に変換するという手段も取ることができます。

 一定の距離ごとに空気の交換と明かり取り、それに地下からの脱出手段としての階段などを設ける必要もあるでしょう。

 農村地区まで広げるのは大変でしょうけど、住宅が集まっている地区と中央市場や役場などが連絡出来れば、冬の間でも外出機会が増えるはずです。歩く場所が出来ることで運動不足の解消にも繋がるかも知れませんし。

 雨風や寒さに目を(つむ)れば、新しい中央市場に設置したようなアーケードでも大丈夫かもしれません。費用は格段に抑えられます」


 一般的な住宅の集まる地域から中央市場までは一ミール(キロ)ほどだ。

 工房などが集まる工業地区と歓楽街はそれぞれ約一ミール半、中央市場を基点に考えれば左右非対称の位置にある。

 全部を整備するには時間も費用もかかるので、農業・商工業などの生産職や町の防衛に関与しない移住者に協力を募ることになるだろう。防壁の工事も止めることが出来ない優先事項の高い項目だから、どれだけの人手を集められるか不透明だ。


 アーケードは新中央市場のメインストリートの両側と主要な脇道に設置しているが、冬の間実際に雪の重みを味わって、耐荷重の確認や運用上問題があるかどうかを見極めなければならない。

 地下道はあれば便利ではあるが、わざわざ地下に拘る必要は無いのだから。


「この辺りは春先になってからでも構いません。ふと思いついたのでお話しただけですから、春になってからアーケードの状況を調査したり、模型を作ったり予算を見積もってからでも問題ありません。

 団や直営商会が交易で獲得したお金を仕事を通じて住民に流し、お金を得た住民がロヴァーニにお金を落とす仕組みを考えてみただけです」


 いわば団と直営商会が主体となった公共事業である。町の協議会も当然出資してくるだろうが、地元の大商会が出資してくれればもっと楽になるだろう。

 商人といえど人間。そして人というものは便利さに慣れてしまうとそこから抜け出ることを(いと)うようになる。


「……検討項目だということは分かりました。差し当たって、試験場と公共浴場の優先順位の方が高いということも。ただ、こう頻繁に外に出ることが多くなると冬の移動手段が増えるというのも魅力です。

 来週文官や大商会の皆と話し合う機会がありますので、姫のご提案ということで内容を話しておくことにします。お手隙の時に大まかな計画だけでもまとめておいて頂けましたら幸いです」


「分かりました。出来上がり次第、執務室にお届けします」


 団長の視線がちらちらと窓の外を向いているのは分かっていた。

 外で吹き荒れる雪の粒が、休むことなく激しく窓を叩いていることも。やはり日が暮れてから凍えるような吹雪の中を鐘一つかけて往復することは辛いのだろう。


 『前世』と呼んで良いのか、飛鳥が男性であった時の東京の冬でも寒さは結構辛いものだったと記憶している。飛鳥自身は着込んでしまえば耐えられたが、(ゆかり)や妹たちは相当辛そうだった。その辺りが男女の違いなのだろう。

 現在のアスカ姫の身体もやはり寒さには弱いらしく、飾り気の少ない細めのブレスレット状に仕立てた防寒魔術具で寒気の侵入を防いでいる。


 使える材料が豊富にあったため、本格的に雪が降り始めた一月半ばまでに製作を終え、側仕えや女性職員全員の分は支給済みだ。

 自宅から通っている女性職員は両手で数えられるほどだが、彼女たちからも大変感謝されている。雪の深さ以外で団本部まで通ってくるための障害が取り除かれたに等しいのだから当然だろう。


 人用の魔術具は予備も五つあるし、ロヴァーニの北にある鉱山で真銀と晶石が追加で採掘されれば作り足すことも出来る。必要になるのは加工のための知識と魔力くらいだが、需要があるなら対価をもらうことも出来るだろう。

 角犀馬用の防寒魔術具はパウラやエルサたち護衛の分の他に予備が二つだけだ。

 護衛をどれだけ連れて行くか分からないが、二人乗りで向かうなら手持ちの分で対応可能と判断する。


「外の寒さが気になりますか?」


 お茶のお代わりを注ごうとしたネリアを右手で制し、しきりに外を気にする団長に話しかける。そのまま袖を小さく捲って手首のアクセサリーを示し、指を左手の二本と右手の四本を立てて交差させて見せ、彼女を遣いに出す。

 元は侍女に対する符丁の一つだが、ネリアもそれをすぐに理解し、ポットをライラに任せて執務室を足早に出て行く。


 長くなった話に飽きたのか、背中を撫でる手の動きが離れたルミは菓子の無くなったバスケットの中に潜り込み、甘い匂いに包まれてうつらうつらとしている。


「外の吹雪は止みそうにないですし、角犀馬たちに乗って向かうにしても大変だと思います。ですので、少し助力を差し上げます。

 防寒の魔術具を四人分と、角犀馬など大型の騎獣用に作った魔術具を二つ、団長にお貸しします。魔術具が壊れない限り効果は永続しますけど、お戻りになられましたら女子棟にお返し下さい。製作の依頼があれば後日相談をお受けしますので」


 胸元に垂れかかった髪を背中に流しながら、細い手首に巻いたブレスレットを団長へと示す。骨自体が細いため、()せ細っているわけではないがブレスレット自体もかなり小さい。

 多少ならばサイズの調整も利くが、男性と女性の骨格差はやはり大きいのだ。


「これは女性用ですので、男性でも身に着けられる汎用のものをお貸ししますね。肌に触れた部分を基点に薄い空気の層を着込んだような状態になりますから、吹雪の日でも寒さは相当(やわ)らげられます。

 ただ、雪が衣服に付いて凍ってしまうことは避けられませんので、もう一枚外套や防寒具を着込んでください。個人差はありますが、保有魔力の少ない人でも半日くらいなら活動できるはずです」


 魔術具の起動に必要な魔力は、術者本人から供給されるものと大気中の遍在魔力を吸引して使っている。コップ三杯を満たすくらいの魔力で半日の屋外活動を補助できるのだから、破格の効果といっていいだろう。

 天候や状況にもよるが、一国の軍隊の規模でこの魔術具を標準装備されるようなことがあれば、人や獣の活動が止まる厳冬期でも構わずに行軍して相手を圧倒してしまう可能性があるのだ。


 王都の魔術学院にいる教授たちや宮廷魔術師でも術式や製作方法を一切知らないため、現在その心配をするのは杞憂であるが。


 飛鳥は気付いていなかったが、傭兵団という武装組織の団長であるランヴァルドはその点を正しく理解できたらしい。

 それでも申し出自体が好意からのものだったため、断るという選択肢はない。


「姫のご厚意ですので、ありがたくお借りします。この対価は何かしら用意させて頂きますので」


「あまり気にしないでも構いません。使った感想を頂くだけでも構いませんし」


 冷めてきた残りのテノを飲み干し、ライラにカップを片付けてもらえばここでの話は一区切りである。

 これから出かけるのだから装備を整える時間もあるだろうし、まだ執務室では文官たちとスヴェンが執務をしているのだ。間に夕食を挟んでも、書類の山を片付けるには就寝の鐘が鳴る前後までかかるだろう。

 冬で外に逃げられない現状、文官たちも強気に出ている感がある。


 時間を潰すように雑談を交わし、女子棟に戻っていったネリアの帰りを待つ。

 やがて一階のカウンターにある業務終了を告げる鐘が魔術具を通じて新館全体に鳴り響くと、時を同じくして一抱えもある木箱を提げたネリアが戻ってきた。


「ネリア、寒い中往復してくれてありがとう。ライラ、ネリアに温かいテノを」


「承知しました、姫様」


「いえ、私なら大丈夫です。女子棟に戻って魔術具貸し出しの件をユリアナ様に説明する際、向こうで淹れたてのテノを頂いてきましたので。

 姫様、こちらが仰った防寒用の魔術具四点と、角犀馬(サルヴィヘスト)用の魔術具になります。こちらの貸与明細はユリアナ様とアニエラさんからお預かりしてきました。二枚とも署名と団の押印を頂きたいとのことです。一通は執務室に残し、もう一通は女子棟で保管します」


 木箱の(ふた)を開けて中身を飛鳥に見せ、ブレスレット型の魔術具と湾曲したネームプレート型の魔術具が収まっていることを確認する。

 蓋側にフックで留められた魔術具は男性用の少し径が大きいもので、箱の底側にはネームプレート型の魔術具が二本、並んで収められていた。プレートの左右の端には革紐を結ぶ穴が空いており、首に巻いて肌に触れさせるようになっている。


 魔術具の使い方を簡単に説明しながら中身を確認し、貸与明細の書類と番号が一致していることを示すと、団長がその場で書類にサインをした。

 高価な魔術具であることは明白だし、何よりも効果が破格である。

 正式な貸与契約を結ばないのは団内の貸し借りだからだろう。本来なら魔術契約で縛られても文句が言えない品物だ。


「数日は往復する可能性が考えられるので、貸出期間は四日間だそうです。貸与中はこの執務室で管理をお願いしたいとユリアナ様から言伝(ことづて)がありました。

 返却の際は団長の手で女子棟までお持ち下さい」


 ネリアがテーブルの傍で控えたまま伝言を伝える。

 貸与明細を添えたのがユリアナとアニエラなら、女子棟の魔術具の管理台帳にも既に記載してあるはずだ。戻ってから貸与明細を渡せば、そのまま返却までの流れ(フロー)が出来上がっているのだろう。


「ありがとうございます、姫。これで寒空の下へ出かけても大丈夫そうです」


 最後に団の印璽を押し、手の空いていた文官に内容を確認させた団長が明細書を一通ネリアに手渡す。ネリアも文面と書面を確認して主である飛鳥に示す。

 男性らしい力強い筆跡と赤のインクで押された獅子と交差した槍の紋章が書面の最後に記載され、貸出の責任者にはユリアナとアニエラの名前が並んでいる。


 問題がないと見た飛鳥は、それをライラに預けた。ユリアナが女子棟にいる間は彼女が文官の役割も兼ねた側仕えの代表代理である。


「では(わたくし)たちもそろそろ戻ります。すぐに出発されるでしょうから、こちらに残っていてはお邪魔になるだけでしょう」


「何から何までありがとうございます」


「雪が積もっている下は日中に一度融けてから凍った部分もあるはずです。角犀馬用の滑り止めをパウラの厩舎の棚にいくつか置いていますので、使って良いものを厩務員に尋ねて下さい。装着や手入れの方法も厩務員が知っていますから」


 立ち上がり、思い出したように情報を付け加えた飛鳥は、膝下丈のスカートの裾を揺らさないように扉へ向かう。

 女形としての所作の稽古や、紫と一緒に通ったマナー教室での綺麗な姿勢で歩く訓練、アスカ姫として他人に常に見られている生活で、意識的に振る舞いは年相応の少女としての所作になっていた。

 普段からそうして過ごしているため、もはやそれが当たり前となっている。


 先に立って扉を開けたエルサとレーアが廊下の前後を警戒し、一歩遅れてライラとネリア、隅で待っていたセリヤとエルシィが飛鳥に続く。護衛の一人であるハンネは飛鳥の半歩後ろを着いて行った。


 飛鳥は廊下に出たところで振り返り軽く会釈すると、護衛の三人と側仕えたちに周囲を囲まれ、終業間近で騒がしさが伝わってくる廊下を静かに進む。

 受付の脇を抜けて女子棟に戻る頃には大食堂の鐘も鳴るだろう。女子棟の厨房も同じ頃に準備が整うはずである。


 廊下のガラス窓から見える景色は舞い狂う雪に煙り、廊下は温かさを感じる炎を模した魔術具のランタンで明るく照らされている。

 床板の上に敷かれた絨毯は見た目の寒さを和らげ、それぞれの執務室での仕事を妨げることが無いよう足音を防いでいた。


 体感だが、あと四半鐘もしないうちに夕食になる。

 飛鳥は大人しく籠の中で眠っていた妖精猫(ケイユ・キッサ)のルミが布を頭で押し上げて顔を覗かせているのに気づくと、手を伸ばして抱き上げ、肩に乗せて再び歩き始めた。






 雪の上でもなお大地を揺るがすような音を響かせ、四頭の角犀馬(サルヴィヘスト)が駈歩を続けている。出発してからかれこれ四半鐘にもなるだろうか。

 本部新館の食堂や女子棟では夕食が始まった頃だろう。


 人気(ひとけ)のない夜の道を走るのは、ランヴァルドの他に団員が三名と、他の傭兵団から一名ずつの計六名。二十代後半と三十代半ばの男たちだ。

 防寒の魔術具を装備した角犀馬二頭がラッセル車のように先行し、その後をハルキン兄弟団とノルドマン傭兵団の角犀馬が追っている。


 雪道の二人乗りでも全く速度が落ちていないのは、出発直前にアスカ姫が掛けてくれた支援魔術のおかげだ。

 加速(キーヒトヴュース)、角犀馬の背に乗る者たちへの軽量化(ケヴィトパイノ)、進行方向から降る雪を防ぐ除雪殻(ルメンポイスト)、それに防風天蓋(トゥーリスオィヤ)


 魔術具で耐寒性を高めた上、効果時間の延長を施された支援魔術の効果で、降り積もった雪は道の両脇へと()けられていく。

 雪の下に隠れていた厚い氷の層は角犀馬の体重と駈歩の衝撃で粉々に砕け散り、破片が雪に混じって道の両脇へと吹き飛ばされている。

 ここまでの支援は片道限定とはいえ、非常に心強い。


「あの高台を迂回して、畑を突っ切る坂道を上がっていけば砦門だ! 上り坂の少し手前から速度を落とすぞ!」


 先行する角犀馬の背で声を上げたランヴァルドが手綱を少し絞る。

 防風天蓋の魔術は前後方向に長い楕円体の防壁を作るもので、今は縦方向に三十テメル、横方向に十テメル、高さ五テメルほどの扁平な形だ。

 横に二頭並んでいるので範囲はもう少し広がるが、その範囲内であれば大きな声でのやり取りも可能である。加えて、範囲内であれば保温効果もあるのだ。


 大きさは魔術を編み上げる時に設定出来るようで、サイズに合わせて消費魔力も異なる。角犀馬の四頭立てでなく人に対して発動させたのであれば、同じ魔力でも丸三日は持続させることができる。


 高台に沿った緩いカーブを過ぎ、魔術で吹き飛ばされていく雪の下から現れる道に沿って、滑り止めと排水を兼ねた溝の刻まれた石畳が並ぶ上り坂が姿を現す。

 ここから砦前の広場までは幅の広い一本道だ。

 砦門から続く魔術具の街路灯には激しく雪が吹き付けているが、表面の(つた)のような模様の凹凸によって多少重さが加わると自然に落ちていく構造になっている。


 角犀馬が上り坂に差し掛かって間もなくスピードを落とし始める。

 辺りにはほとんど民家も見当たらず、雪に覆われた畑と牧草地が広がるだけだ。

 夏ならば青々と茂ったリースやホロゥ、ルヴァッセが若穂を揺らし、秋ならば黄金色の波が吹き渡る風に揺れる。

 隣接する牧草地は、この冬に厩舎で産まれるだろうヴィリシやイェートなどの子が駆け回って春以降賑やかになることだろう。

 王都の商会や直営商会の出張所に買い付けを依頼した家禽や家畜が届けば、徐々に賑やかさを増していくはずだ。


「団長、砦まであと少しです」


「分かっている。砦に着いたら、角犀馬を厩舎に連れて行ってくれ。我々はハルキンとノルドマンの二人を連れて中に向かう」


 鞍上で吹雪と蹄の音に負けないよう叫びながら到着後の予定を伝え、一ミール弱の坂を上り切る。二人乗りで来た角犀馬は軽量化の魔術のおかげか、一騎駆けの時と同程度にしか息を切らしていない。

 この頑健さも騎乗用のレプサンガとは隔絶した角犀馬の特徴の一つだ。


「姫に掛けて頂いた支援魔術はまだしばらく残っていると思うが、早めに雪を落として暖かい厩舎で休ませてやってくれ。飼葉や餌は上等の物を。

 それと魔術具と滑り止めに付いた雪も落としておいて欲しい」


「了解しました」


「二人も角犀馬は厩舎に預けてくれ。吹雪と聞き取りの状況次第では泊まりになるかも知れない。二階に宿泊用の部屋があるから、寝る場所は心配要らないが」


 細かく挽いたリースを押し付けたような、『ぎゅむっ』という音を立てて雪が踏み固められる。夕方に一度雪かきをしているのだろうが、日が暮れて間もなく降り始めた雪は(くるぶし)を埋める程度には積もっていた。

 管理棟の玄関からは自警団の者とヨエルの部下が姿を現し、駆け寄ってくる。


「お待ちしていました、団長。例の方々は砦に併設した管理棟の会議室でお待ち頂いています。傭兵たちは別の待合室で麦粥(フットゥ)一杯と大鳩(トーレ)の腿肉の串焼きを一本ずつ出して、廊下に監視を四名置いています」


「ありがとう、その対応で構わない。我々も報告を受けて食事を後回しにしてきたから、軽く用意を頼めるか? 面会が落ち着いてからで構わん」


 防寒具に積もった雪を払いながら手綱を砦常駐の団員に預け、角犀馬を任せる。

 厩務員たちは赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)本部と同じ教育をされているので、世話に関しては何も心配していない。魔術契約の縛りがある(くら)(あぶみ)、各種魔術具の取り扱いについても厳しく教えられているため、高級宿の厩舎担当などよりはるかに優秀と言えるだろう。


「こちらです。朝昼夕の一日三回雪かきと氷割りをしていますが、階段が多少滑るかも知れないので気をつけてください」


 表面が薄っすらと凍った階段を示しながら自警団員が先に立って案内する。

 ハルキン兄弟団とノルドマン傭兵団から派遣された二人も、相応に名の知られた傭兵団の部隊長だけに慣れた足取りで付いて来た。

 扉が開く範囲までは魔術具のおかげで雪が融かされているものの、階段下までは手が及んでいないのだろう。それでも雪と氷を砕いて脇に除けた分、玄関先の両脇にはうず高く白い山が出来ている。


 管理棟に入ってしまえば暖かなものだ。風力や水力を応用したふいご(・・・)に連動した風呂や調理場の窯、執務室などの暖炉と、そこから得られた排熱が管理棟と厩舎をも温めてくれるのだ。

 魔術具の一部は団の魔術師や錬金術師たちの手がけたもので、それ以外の一般的に知られているものはロヴァーニの職人たちが工夫を凝らして作っている。


「防寒具は部屋に入ってからお預かりします。角犀馬も温水シャワーを浴びさせておきますのでご安心ください」


「そんなものまで作っていたのか?」


「いえ……赤獅子の槍の本部で騎獣の入浴サービスをやってたでしょう? あれで気持ち良さを覚えちまった奴が多くて、本格的に雪が降り出す前に工房へ頭を下げて頼んだんです。自警団の有志名義で、金はある時払いにしてもらってますが」


「それは町の協議会で支払った方が良いだろう。外部から来て利用する者は料金を取って構わないと思うが、砦の運用上必要な者と自警団の関係者の利用についてはロヴァーニの施設として扱わなければいけない」


 ランヴァルドは帰ってから調整しなければと考えつつ、行動力のあり過ぎる現場に感心もしていた。言われたことだけを黙々とやるより、必要と思われることを考えて実行するのは大変である。

 惜しむらくは上司なり協議会なりに相談をせず、現場の独断で改築の発注を行ってしまったことだろう。現状は予算もかなり潤沢な方であるし、町の設備として必要なら財布の紐も緩くなるのだ。

 外部の者が施設を利用したいなら、金のある者たちから相応に貰えば良い。


 冬までに出来上がったのは砦と橋、管理棟周りの設備だけだが、春以降は通関や移民関係を取り扱う部署と建物も新設され、人員と警備体制も強化・拡充されることになっている。

 ライヒアラ王国の王都ロセリアドからも数名は噂を確かめに来るだろう。

 実家であるシネルヴォ伯爵家の名前でユリアナが移り住み、ハンネが魔術学院へ往復したのだ。そして今日、実家の紹介状を持った文官が真冬に到着している。


 付け加えるなら、数年前に王太子となった第一王子は別として、嫌味な言葉が多い文官肌の第二王子と権力争いをし、女癖が悪く粗暴とされる第四王子が聞きつけないとも限らない。さらに言えば『無能な欲深者』という評判が確たるものとなっている第三王子などが来ては目も当てられない。


 もっとも超大国リージュールの姫に不埒(ふらち)な真似をしようものなら、態度を見せたその時点で王族としてもその後の人生は『詰み』となってしまうのであるが。


 その辺りも確認した方が良いか――と思いながら、ランヴァルドは会議室の扉が目の前で開かれるのを視界に収め、ゆっくりと足を進めていく。

 そこには意外な、そして懐かしい人物が待っていた。




 ヴァルト・リントゥラはシネルヴォ伯爵家に仕えてきた文官で、彼の父親はシネルヴォ家の先々代と先代、当代の三代に渡って仕えてきた。

 彼自身も先代と当代――ランヴァルドの祖父と父に長年仕えてきたが、伯爵家の後継者が正室腹の長男に決まり、それに合わせてこの五年ほどを自分の後継者たる息子に教え込むことで過ごしている。

 伯爵家筆頭執事のエルモとの付き合いも四十年近くになる。


 当代がまだ現役のため、実際の家督譲渡は当分先になるが、五十代も半ば過ぎとなれば孫を抱いて引退していてもおかしくはない。

 けれどもヴァルト自身も息子に家督を譲る準備を整え、伯爵家を辞した後は悠々自適の生活を送るつもりでいた。それがいとも容易く覆されたのは秋の終わり頃、お館様と呼ばれる伯爵家当主に深夜呼び出された日である。


 曰く、『ロヴァーニで傭兵団を興しているランヴァルドを助けてやれ』と。


 お館様が屋敷の外に置いていた側室の産んだ子という五男ランヴァルド様は幼い頃から利発で、一時期は本の虫、身体が大きくなってからは剣と槍の虜となった。

 武の一門として知られていたシネルヴォ家の名に恥じず、彼の剣と槍の腕前は同年代でも頭一つ抜きん出ていた。基礎学院の課程を終える頃には正騎士に稽古をつけてもらうようになり、同い年の騎士志望者との差はますます広がっていたのだ。

 正室が鷹揚な方だったため後継者争いにはならなかったが、子供心に微妙な空気を感じ取っていたのだろう。


 長男以下四人の男子とはかなり距離を置いていたが、母親は違えど同じく側室腹である二つ年下の妹・アリッサ様とは仲が良く、またすぐ近所に住んでいたヒューティア子爵家の令嬢とは共に貴族学院に進んで恋仲にもなっていたこともある。

 子爵家でありながら外務参事を世襲してきた家の中でも、ユリアナ嬢は極めて優秀で淑女としての教育と評判も確かだったため、幼馴染だった二人が交際することをお館様は喜んでいた。

 成人前後の貴族男性の慣習と言える「喪失(メネティス)」では、子爵家の内情を汲みつつ「華燭の典(キルカス・ヴァロ)」の最後にある「三日夜の儀」をこじつけ、ランヴァルド様とユリアナ嬢との事実婚を狙ってもいたのだから。


 その後貴族学院の卒業からしばらくしてランヴァルド様が唐突に王都を出奔し、辺境の地で傭兵団を立ち上げたとの連絡が入る。ユリアナ嬢との関係も破局したと見られ、彼女はやがて北東の地にある子爵家へ嫁がされることになった。

 婚家に着いたその日に形ばかりの婚儀を結び、幾日もしないうちに夫となった男が戦死したため、実際の夫婦生活はなかったと調べがついている。


 何しろ子爵家の敗北直後に婚家から連れ出して、王都まで護衛し連れ帰ったのはシネルヴォ伯爵家当代の指示だったのだ。

 付近に放っていた物見も数日遅れで帰還し、紛争に破れた子爵家の屋敷や町は尽く荒らされ、家人や使用人たちは慰みものにされるか、残らず命を散らしている。

 紛争のもう一方の当事者もその後王国の査察が入って厳しい詮議を受け、家の取り潰しと爵位・領地の召し上げをされているため、共に失なわれているが。


 ユリアナ嬢はその後王都の貴族家に住み込みで働きながら、昨年の春に当代当主の口利きで辺境のロヴァーニへと向かった。

 ヴァルトが把握しているのはエロマー子爵領を抜けたところまでだが、団直営の商会の出張所やハンネ嬢が王都に滞在した時に情報を収集しており、ユリアナ嬢の無事と近況を当主に報告もしている。

 当然、ヒューティア家の奥方たちにも伝わっていることだろう。



 そして今、彼の目の前には外套を脱いだばかりで革鎧姿のランヴァルドが向かいの椅子に座ったところだった。背後の左右と出入り口に一人ずつ革鎧の者が立ち、線は細いが歴戦の傭兵らしい男が二名、ランヴァルドの左右に腰を下ろす。


「大変ご無沙汰しております、ランヴァルド様」


 正面の席から立ち上がったヴァルトが王国流の礼を取り、深々と腰を折る。

 赤獅子の槍では略礼になるか、アスカ姫のマナー講習でリージュール式の作法が知られてきているため、この半年ほど見なくなっていたものだ。


「実家の紹介状を持っている人間が来たというから、誰かと思ったが……懐かしい顔を見たな、ヴァルト。父上や爺は元気か?」


「お館様は益々ご壮健ですが、代替わりも視野に入れられているようです。ご長男のリクハルド様にご子息が産まれたのが三年前、二年半前には妹君のアリッサ様が第一王子殿下の第二妃として嫁がれました。

 まだ御子は授かっていないとのことですが、御正室や第一王子と御同腹のトゥーリア第四王女殿下とも仲が良いご様子で、お館様も肩の荷が下りたと仰ってお喜びのご様子でした。

 エルモも筆頭執事の席を代替わりと同時に空け、序列三位のオルヴォに譲るようですな。二位も老齢で引退します。オルヴォは護身術の練度が甘かったので、毎日エルモがみっちりと鍛えておりますよ」


「爺も六十を超えているだろうに、元気なことだな。しかし伯爵家当主の筆頭執事を務めるなら、私が最初に型の稽古をした時より厳しくなるのは仕方あるまい。

 さて、こちらの方も紹介しておこうか。私の左に座っているのがハルキン兄弟団の副長でマルクス・ハルキン、右がノルドマン傭兵団の第三席でサンテリだ。

 暁の鷹(ヴァリエタ・ハウッカ)は町の警備と自警団の教導を頼んでいるので今日は誰もここに来ていないが、我々がロヴァーニの武の上層部ということになる」


「私の記憶にあるのはランヴァルド様が貴族学院を出られて騎士になった直後までですから、随分と変わられた感じがしますな。王都から道々辺境の噂を集めてきましたが、それぞれ勇猛な傭兵団で、構成員が既に百名を超えているとか」


 王都での聞き取りや情報交換、それに道中でも情報を仕入れていたのだろう。

 だがその情報はせいぜいハンネが王都に向けて出発した五月までのもの。

 五月の半ば過ぎから七月の終わり頃にかけて中小規模の傭兵団を多数吸収合併したため、現在は非戦闘員を含めた構成員が約四百名に膨れ上がっている。

 他の有力な傭兵団も移住者の中から構成員を増やし、昨年春に比べて一割から二割程度の増員をしていた。


「ヴァルトの情報は半年ほど古いようだ。それにエロマー子爵領ではほとんど情報が集まらなかったんじゃないか?

 うちは今、事務方なども含めて四百人ほどに膨れ上がっている。いずれ詳しく話すこともあるだろうが、まずはこちらも状況を掴みたい」


「左様でございますか。私の知ることでしたら何なりと」


 苦笑と共に答えたヴァルトに淹れ直されたテノを勧め、自らも冷えた身体に暖を取り戻すべくカップを傾ける。ロセリアドでは比較的珍しいとされるテノだが、辺境より西ではこちらこそが主流だ。

 事前にしっかり湯を入れて温めたのか、白磁のカップからも熱が伝わってくる。


「それで、まずは父上からの紹介状を見せてくれるか?」


「承知しました。預けてあるものをこちらに頼みます」


 ヴァルトの言葉を受けた自警団の者が頷いて、部屋の隅に置かれた棚から四角い盆に載せた皮紙の筒を持ってきた。

 封蝋には見慣れた実家の紋章が捺され、一度も開封していないのが見て取れる。


「――中身は見ていないのだな?」


「もちろんでございます。それと、お館様からご伝言が――そろそろ身を固めて孫を抱かせろ、とのことです」


 ヴァルノの告げた伝言に苦笑いしながら封蝋の裏にナイフの刃先を滑り込ませ、そういえば、ともう一人の同行者にも視線を向ける。

 その動きに気づいたのか、ヴァルノが隣に座る若い男性を紹介した。


「こちらは途中で知り合い、連れてきました。秋の終わりまでエロマー子爵領の文官をしていたらしいのですが、奥方が身重なのと、かの領地では今後の生活が不安だということで、冬の訪れとともに密かに領都を出られたとのこと。奥方のご実家である準男爵家も秋の終わりに領都を離れ、南部の親戚を頼られたそうです。

 彼の実家は王都のルスア準男爵家で、次男ということで職を外に求め、エロマー子爵家に仕えたようです。徴税を始めとした実務経験も三年ほどあるということでしたので、亡命する気があるならば、と誘い連れてきました」


「は、初めまして、ヨナス・ルスアです。貴族学院を出て下級文官の資格を取った後、徴税官として勤めておりました」


 傭兵たちと一緒に行動していたので荒くれ者のいる空気には慣れたのだろう。

 だが、この部屋に同席しているのはいずれも辺境最強を名乗れる傭兵団の上層部である。ハルキンとノルドマンからは文官としての役割も果たしている参謀タイプに来てもらっていたが、それでも威圧感は十分らしい。


「報告では身重の女性や子供などは辺境街道にある集落に預けて、男性だけで雪に埋もれた街道を抜けてきたと聞いているが?」


「はい。私の妻を始め、傭兵の方のご家族や平民の幼い子供には辛い道のりになるため、ある程度金を預けて春まで滞在させてもらっています。

 まずはロヴァーニで仕官できるか、他にも仕事の場があるかを確かめておかねばなりませんでしたので……」


 話を聞きながら丸まっていた皮紙を広げ、重石(おもし)を乗せてそこに並ぶ文字を追いかける。貴族学院の課程を修め、騎士となって家を出るまでは毎日のように見ていた、少々角張っているが懐かしい筆跡だ。

 内容としては紹介状としての体裁を保っているものが一枚、残り二枚は父の私信のようなものになっている。


 私信には予想通りとも言えるが、ロヴァーニの急速な拡大に伴う文官の不足を予測して引退間近のヴァルトを送り込んだこと、各貴族家の動向と近況、ハンネが魔術学院にスカウトに訪れた後の学院生との接触や仲介依頼の状況、王城での貴族たちの動向などが簡潔に並べられ、最後に『春以降の状況を見てロヴァーニへの直接訪問を考えている』と書かれていた。


 アスカ姫の存在については空飛蛇(タイヴァスカルメ)のペテリウスを通じて遣り取りした際、人払いをして今上(きんじょう)陛下にのみ伝えたと父から報告を受けていた。

 宗主国に当たる超大国リージュールの未婚の第一王女が滞在しているという内容だけに、情報を知る者を厳しく限定しているのがよく分かる。


「紹介状は問題無い。文面の通りなら、ヴァルトにはロヴァーニの行政府に当たる協議会で文官の指揮の一翼を担ってもらうことになるだろう。他の有力者や文官たちとの顔合わせも必要だから、次の会合に合わせて出てもらうつもりだ。

 それとヴァルト、奥方や家族はどうした?」


 先程のヨナスという若者の言葉通りなら、女子供は途中の集落に預けてきたことになるのだろう。ヴァルトの場合は長男が伯爵家の文官として勤め、他に二人いる息子は王都近辺の直轄領や小領の文官として、娘二人は結婚しているはずだ。

 奥方も健在で、伯爵家の敷地内にある戸建て住宅に旦那(ヴァルト)と一緒に暮らしながら屋敷の侍女として勤めていたはずである。


「家内でしたら辺境の町――ラッサーリという町に留まっています。一軒の農家の離れを春まで借り切って、まとまって過ごしてもらっているのですよ。子供たちは独立しておりますし、落ち着いたら手紙でも出して近況を伝えるつもりです。

 ラッサーリには女性の魔術師やこちらのヨナス殿の奥方も一緒におります。産み月は二月の下旬から三月の中旬頃と聞いているので、それまでに仕事と生活の目処を立てられたらと考えておりました」


 王都に肉厚の焼き物はあれど、肉の薄い白磁のカップは珍しいのか、テノを飲み終えたヴァルトたちの視線はそちらに引き寄せられていた。

 聞き取りと確認の間にランヴァルトは紹介状と手紙の検分を終え、これからどうしたものかと頭を悩ませる。


 紹介状を持ち、仕事の割り振りがすぐに確定できるヴァルトの家を用意するのは特に問題無い。団の新館に住まわせる訳にはいかないが、この時期なら行商人が宿に泊まっているはずもなく、居たとしても部屋数には相当余裕があるはずだ。

 雪が解ければロヴァーニに新築ラッシュが訪れるのは確定しており、そこに一軒分の発注を紛れ込ませる程度はどうとでもなる。


 ヨナスという若い文官の力量は未知数だが、ヴァルトがある程度評価し、今後の教育も多少なりと面倒を見てくれるなら受け入れても問題は無かろう。

 身重だという奥方についてもロヴァーニまで連れて来ることができれば産婆もいるし、何か病気などがあっても多少なら治癒魔術を使える者で解決できる。

 衛生状態の良い町で薬師の数も多く、水や湯の確保が容易で治癒魔術の使い手が二十人を超えているところなど、普通は王都でもない限りありえないのだから。


 一方、別室に待たせている傭兵や平民は少々複雑である。


 平民はおそらく着のみ着のままで領地を出てきただろうし、冬の辺境街道を踏破出来ずラッサーリに留まっているのであれば、たとえ手持ちの資金があったとしてもそこで使い果たす可能性が高い。

 ロヴァーニに到着しても家を得て生活することも出来ず、領地を出る前と同じく他の者の下で働きながら長い時間をかけて自立を図るか、もしくはライヒアラ王国と同様に経済奴隷となるかの選択肢しか残っていない。


 傭兵も同様で、既存の傭兵団に入るのであれば多少前歴を考慮されても新入りと同等に扱われる。十数人規模の傭兵団も残っているが、懐事情はそれなりだ。

 大半は辺境有数の戦力と財力を持つ四つの団の扉を叩くことになるのだろうが、既に赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)は構成員が多過ぎる状態で募集を停止している。

 ハルキン兄弟団や暁の鷹も百人を超えたところで募集を停止し、ノルドマンは財務面を固めるまで募集を停止すると年明けすぐの会議で連絡してきていた。

 このままでは帰農するか自警団に入るか、仕事をしながら募集再開を待つか、という選択肢しかない。


「……ラッサーリに残っているのは何人くらいだ?」


 喉を潤すように冷めたテノを流し込み、入り口に立っている文官に食事の用意をするよう合図する。この後傭兵や平民の面談もするとなれば、その前に腹に何か入れておいた方が良いだろう。


「三十人ほどでしょうか。貴族家での側仕えや侍女の経験者が二名に、女性の文官が二名、傭兵出身の魔術師が一名。女性の文官と家内には側仕えがそれぞれ二名ついています。ヨナス殿の身重の奥方には成人直後の下働きの少女が一名だけついておりましたか。

 他は商家の三男坊以下か農村の平民で、大半が女子供と老人ばかりです」


 砦まで辿り着けたのが十人、残してきたのが約三十人で、計四十人程度。

 春夏であれば防壁工事や街道工事、農地の開墾などに従事して稼ぐ方法もあったが、如何(いかん)せん時期が悪過ぎる。

 滞在中の町で内職をしようにも、既に取りかかっている者たちに比べれば大きく出遅れているし、稼ぐためにはロヴァーニ発の商材でなければ厳しいだろう。


 友好的なラッサーリとロンポローは辺境の中でも特にロヴァーニの影響を受けており、商材も王国向けではなく辺境向けのものにシフトしていた。比較的近距離のエロマー子爵領を無視して、より稼げる王都側に商材を持っていくことも多い。

 商家出身であっても、子爵領付近から逃げてきた者にその知識は無いだろう。


 頭の痛い話だ。隣国との紛争や王国東部の天候不良が引き金となった不作が影響を与えている部分もあるのだろうが、貴族に支配されている平民が逃げ出すというのは余程のことである。

 領地支配を貴族階級に裁量を持たせて任せている封建的体制のため一概には言えないが、尾を引くようであれば王の治世が揺るがないとも限らない。王の評判自体は悪くないのだが、色々と周囲に足を引っ張られている感じが強い。


 後々のことを考えれば――特に春の雪解けが近づけば、エロマー子爵領を始めとした領地から税収を確保するための追手が来ないとも限らないのだ。

 傭兵は多少なら自分の身を守れるだろうが、戦力に数えられない他多数の安全と想定されるトラブルを回避するには、移民として受け入れた形にするしかない。

 経済奴隷としての受け入れであっても王国外のロヴァーニ所有となれば、出身地の貴族であっても無用な手出しはできないのだから。


「家族の受け入れに関しては了解したが、時期と受け入れの形を含めもう少し考えさせてくれ。平民と農民については一、二年程度経済奴隷となる可能性がある。

 秋の半ばまでに来ていれば工事などの稼ぎもあったが、さすがに雪の降っている時期にそれは無理な話だ。春以降の農作業や開墾、防壁と街道の工事で滞在費用や入門税を払ってもらって、徐々に自立してもらうしかないだろう」


「まあそうだろうな。下手にどこかの町の商人に借金をして紐付きにされちまったら、ロヴァーニの町や姫様に横槍を入れてこないとも限らねぇしな。

 不安要素があるならロヴァーニの紐付きにした方が簡単だし、処理が楽になる」


「うちのオヤジや鷹の連中もそう判断すると思うぜ。ラッサーリがうちらと友好的な街であっても、ニエミやペレーから横槍を入れてくる連中がいるかも知れねぇ。

 雪の辺境街道を往復するのは骨だが、春になってエロマーの連中に介入されるのを待ってるよりはマシだ」


 腕組みと共に思わず溜め息が漏れる。左右にいた二人も同様だ。


 ハルキン兄弟団とノルドマン傭兵団でも新規の傭兵とその家族の受け入れをしていて、家や農地の世話、移住手続きや協議会との折衝、家族の仕事先の斡旋、中央市場との遣り取りで一月半以上忙殺されている。

 移住が本格化したのは秋になってからだったので、その頃には討伐や商隊護衛の仕事も落ち着き始めており、町中の仕事も多く出回っていて問題はなかった。

 雪の深い冬に移動するのがどれだけ危険か、彼らも辺境を拠点としているだけによく分かっている。


「とりあえず先に飯にしましょうや、ランヴァルドの旦那。腹が減ったまま話をしても頭に入ってこねぇ。ご実家の文官さんとそっちの若い文官はすぐにも仕事の場があるだろうが、傭兵たちと農民の方はえらく長い話になりそうだ」


「ですな。班長、自警団から町に伝令を出してくれ。レイオーネとノルドマン、ハルキンの本部にそれぞれ『今夜は帰れそうにない』と伝えてくれればいい」


 サンテリとマルクスが諦めたように天を仰ぎ、盛大に溜め息を吐いた。

 春以降、エロマー子爵の私兵か領軍と一悶着あるかも知れない。それだけは覚悟した方が良さそうだ。もっとも、領地貴族の戦力などたかが知れている。


 普通の子爵階級の経済規模で総動員をかけたところで、三百から三百五十が良いところだ。平民から無理に徴兵しても五百といったところか。

 しかし自主・自立・自衛が基本とされる王国版図外の辺境なら、半数を商隊護衛に派遣していようとも、傭兵団全体で当たれば兵数は互角以上。

 武器の質や個々人の練度を考慮すればもっと大きな差がついてしまうのだ。


「それと俺たちが泊まる部屋の準備も頼むぜ。夜中にサンテリのいびきが聞こえてこないなら、応接室のソファに毛皮でも構わない。寝酒もあるなら嬉しいが」


 その言葉にサンテリとマルクスの間で小突き合いが始まるが、発散できる先があるならじゃれ合いのようなものである。


 一方で雪深い街道を強行軍で迎えに行く必要があるかも知れないため、ランヴァルドの心は重い。雪がなければ街道沿いに五日で到着するが、この時期は天候が荒れやすいし、何よりどこにどのくらい雪が積もっているのかすら分からないのだ。

 王国でも辺境でも冬は備蓄した食料と資材で引き籠もる生活になるため、起伏に富んだ街道に出るような自殺行為は基本的に誰も行わない。


 生きるか死ぬか、人生をかけた選択でもしない限りは。


「班長、伝令に一つ追加を頼んでくれないか。今から本部へ手紙を一通書く。それを受付経由で姫かユリアナに手渡して欲しい」


 会議室の扉が開いて食事を乗せたワゴンが運び込まれ、機能優先のシンプルな机の上に大きな角盆と木皿が数種類並べられていく。

 枝を編み込んだ籠には少し(いびつ)なパンが盛られ、五テセほどの高さがある深皿には根菜数種とヴィリシの肉をイェートのミルクで煮込んだシチューが注がれた。


 ここまでは砦に駐在する自警団員たちと全く同じメニューだ。

 隔週交代でダニエの弟子がこちらに出向き、管理棟の食堂に詰める団員や料理人に作り方を教えているので、アレンジを加えることもなく基本に忠実なメニューが揃っている。塩などの加減は厨房の担当によって多少異なるが、数ヶ月前までの野営用の非常食に比べたら味も内容もはるかに良い。


 もう一つの皿には潰したターティと少量の苦草(パセリ)、ヴィリシの骨周りの肉を削り取って刻んだものを混ぜ、油で両面を焼いたコロッケが一つ追加されている。

 傭兵と平民に与えられた食事が麦粥(フットゥ)一杯と大鳩(トーレ)の腿肉の串焼き一本だったのに比べると大きな差がつけられている。それでも冬の食事としてはかなり上等な方だ。


 食料品の備蓄が潤沢な団本部や女子棟なら肉料理か魚料理がもう一品とサラダ、食後のデザートが付く。ヴィダ酒や麦酒が無いのは残念だが、ヴァルトとの話が一段落ついたと言っても職務中であるし、他の団の重鎮の手前自重せざるを得ない。

 明日自分の部屋に戻れば、アスカ姫特製のヴィダ酒のボトルが保管用の棚で待っているのだから。


 食事の準備がされていく合間に文官に声をかけたランヴァルドは、自警団の公用便箋に五行ほどの短文を書き付け、植物紙の封筒に入れて封蝋を施す。

 この会議室には熱源となる暖炉やランタン、蝋燭はないが、今や団幹部の必須品となった印璽(シール)ならば手間はかからない。ごく僅かな魔力を意識して流すだけで印璽面自体が発熱し、熱源が無くとも蝋を溶かして封をすることが出来るのだ。


 この印璽は各部隊の副長以上に昇進した者が必ず持たされる備品で、貴重な真銀と純度の高い晶石を使っているため多少値は張るが、材料原価は金貨一枚程度。

 アスカ姫に作り方を教わった団の錬金術師でも作ることが出来、印璽の版面自体は金属細工を得意とする工房で外注することが出来る。

 小さな文字や紋章などを刻む繊細な加工が多いため手掛ける職人の技術力も飛躍的に上がるらしく、冬の内職としてじっくり取り組めると歓迎されていた。


 直営商会経由で金貨二枚程度の価格で販売し始めたが、封蝋程度の大きさならば手が出しやすいのか、あるいは便利さに気づいた商会が多かったのか、研究に忙しいはずの錬金術師たちの冬の内職としても定着し始めている。

 ロヴァーニの五大商会の会頭たちは既に冬篭りの祭り直後から使い始め、今発注されているものは春の街道解放と共に各地の支店長へと渡されるらしい。商会本部で使われるものも含めて各商会とも十数個ずつの発注になっており、材料の取り寄せ待ちになっている分もある。


「へぇ……便利なものだ。ランヴァルドの旦那、魔術具ですかい?」


 興味深そうに横から見ていたサンテリが手元を覗き込む。


「ああ。魔力をほんの僅か流してやると、この印璽の面が熱を持って封蝋を適度に融かしてくれる。魔術具の重要な核に貴重な素材を使っているらしいが、手鏡一枚くらいの値段で購入できて、ずっと使えるからな。

 金属の版面は普通の金属細工の工房で作れるから、もし傷むことがあっても簡単に交換することができる」


 直径二テセほどの印璽面は既に熱を失っており、素手で触れても大丈夫らしく、ランヴァルドは手のひらに押し付けて安全性をアピールする。

 手に残っているのは純粋に金属面の凹凸による圧迫の凹みだけだ。その痕すらも数瞬で消えるのだが。


「蝋燭で炙ったり暖炉の火の前でしゃがんで待つよりは便利そうだな。うちの兄貴は書類仕事に関して壊滅的だが、団長という立場上対外的に出さなければいけない通達や手紙なども多い。

 今までは封蝋担当の文官を置いていたが、部隊長たちだけなら自前で()させても良さそうだ。後で商会に紹介状を書いてもらえないか、団長殿?」


「それくらいなら問題ない。金属細工の工房は三週ほど順番待ちらしいが、魔術具は二週ほどもあれば用意できると思う。魔術具の核になる部分を加工できるのは、姫を含めてまだ十人もいないんだ。春頃にはもう四、五人ほど増えるらしいが」


 団の若手の錬金術師や学院を卒業したばかりの新人たちには他にも仕事がある。

 ガラスの生産と鏡の加工、鍛冶場の精錬の手伝い、植物を素材にした紙の研究、自身の専門分野の研究と実験、薬師への協力、それにアスカ姫による教育。

 大事な魔力運用の訓練や最低限の自衛手段を身につけるための護身術訓練もあるため、時間はいくらあっても足りないのだ。

 研究費を稼ぎ、いずれ自分の研究室を持つためにも内職は重要だが、使える時間は物理的に限られている。


 もう二枚の公用便箋に直営商会への紹介状を書き付け、三つ折りにした裏側を封蝋で留めてマルクスとサンテリに渡す。印璽の魔術具の仲介だけなら納期調整もしやすいだろう。他の魔術具までは責任を持てない。

 供を別室に送り出して食事休憩を取らせ、自分も印璽を仕舞ってペンを置く。


 向かいの席に座るヴァルトとヨナスの視線はテーブルに並んだ料理に釘付けだ。

 道中の食事としてライヒアラ王国産の保存食を持ってきたのであれば、湯気を立てる温かい料理というだけで十分なごちそうになる。

 ムィアの酵母が使われた焼き立てパンの匂いは空腹をさらに刺激する。


「面倒事は残っているが、まずは食べよう。正式な移住は少し先になるだろうが、ヴァルト、ヨナス、ようこそロヴァーニへ」


 その言葉と同時にマルクスとサンテリの手がパンへと伸びた。イェートのミルクシチューを掬うスプーンの動きも忙しない。

 慣れた手付きで食事を摂るランヴァルドたちの様子を見てヴァルトたちも再起動したのか、木製のスプーンを使って一口シチューを頬張る。


 そこから先は無言で、ひたすら食事を胃に押し込む様子だけが見られた。



まだ多忙が続いていますが、先に書き上がって校正が終わった分だけ。(アップ後、一部微修正しています)

今週末は冬コミの原稿を進めたいけど、取りかかっている仕事の指示出しや上がってきた各種データの確認もあるので、自分の時間がどれだけ確保できるかは未知数。もうちょっと『姫様』の更新頻度も高めたいんですが、並行して進めている裁判の準備が色々と面倒です。


冬コミは普段書いている伝奇ものに加えて、『飛鳥がアスカとして経験することになった、姫様(女性)としての生活あれこれ』なものを出せるかどうか。

※いずれも男性向けになりますのでご注意ください。

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