辺境貴族領の生活と祭りの準備
各部分で時系列が多少前後しています。移動時間中に空腹を紛らわすために書いていたら、予想以上に早く仕上がったので予約投稿。チョコレートとは無縁です。
あと半月ばかりで『冬篭りの祭り』――冬の訪れと年越しを祝う節目を迎えるというこの時期、ライヒアラ王国の辺境に位置するエロマー子爵領は賑やかさから縁遠い空気が流れている。
辺境へ続く南西街道に刻まれる深い轍こそ深いが、荷を満載した荷車は領都であるこの町に留まることもなく、石畳が申し訳程度に敷かれた中央通りやそこに軒を連ねる商家の店先は閑散としていた。
町の郊外にある通りはもっと顕著で、雪が降る前に王都への帰還を急ぐ荷車が荷を降ろすことなく行き急ぎ、本来宿場町として整備された町ですら閑散としている。
全ては半月ほど前に行われた辺境の町・ロヴァーニへの進軍のせいだ。
数年前からの天候不順と不作続きで、エロマー子爵領は困窮が続いている。
元々税収自体が低い土地柄ではあったが、それでも先代子爵が健在だった頃は秋の収穫だけに頼らないで済むよう鍛冶の工房を招いたり、王国北部で有名な石工の町から跡を継げない職人の弟子を招いて工房を構えさせたりしていたのだ。
それがおよそ三十年ほど前。
大きく状況が変わったのは、先代が急逝した二十年ほど前のことである。
本来後継となるはずだった長兄は、先代の急逝直後に南部貴族領との紛争で負った怪我が元で、二月後に先代の後を追うように亡くなっていた。その後を継いだのが三男――当代の子爵だ。
次男と四男は幼いうちに流行り病で亡くなっており、長女と次女は成人直後に先代の縁組を受け入れ、他領の貴族家へ嫁いでいる。最後に領民が姿を見たのは十年ほど前だが、子供を数人儲けて夫婦仲も円満だったはずだ。
エロマー子爵領にとって最も災難だったのは、跡を継いだ三男が先代と違って虚栄心に満ちた浪費家であったことだろう。
自らの家が代々積み上げた蓄えを数年で使い果たし、王国からの俸給と借金で領の経営を担おうとし、税率を大きく引き上げた。先代の時に四割だった農産物の税は今年の春に六割五分へ、商業の税も四割一分から五割三分に変えられている。
十年ほど前からは結婚税や埋葬税、運送税など王国では廃れていた税まで細かく徴収し、領民から静かな不評を買っている。
さらに先代の頃まで貴族家の借金に応じていた商家は、現当主に代替わりしてから二年おきに発令された膨大な借金の無効命令に憤り、次々に店を畳んでエロマー子爵領を後にした。
先月隣の騎士爵領へ移っていった商家で五十軒目だったはずである。
どんな理由があろうと平民が貴族に逆らうことは許されないため、統治する土地を離れることが平民に出来る最大の抗議に当たるのだ。
ある者は王都や南部、北部へ移り住み、ある者は現在のロヴァーニを始めとした山と平原、荒地を数日経た辺境へ。
移り住んだ土地で新たに森を拓き、土地を開墾して家を建て、生活を立て直して行く必要はあれど、強欲で平民の資産を自分のものと勘違いしている狭量な貴族にはほとほと愛想が尽きたのだろう。
一握りではあるが、移住した南部で大成して、王都や近隣の貴族領でも知らない者がいない工房を立ち上げた者だっている。
二十年近く経った今、移住した人々の何割かは冬の寒さや野盗・猛獣などに襲われて命を落としたが、力強く生き残った住人と集落は未だに残っていた。
晴れの日が多く雨の少なかった夏の天候不順は今年で丸四年。
畑の実りは豊作だった十二年前の三分の一以下で、町に出てくる文官たちは住人の苦言や暴言、視線に篭められた怒りに耐えながら税を徴収している。
文官たちも簡単に宮仕えからは離れられないため諦め顔だ。
「お貴族様、俺たちもこれ以上持って行かれたら次の春を迎える前に死ぬぜ。来年この税すら無くなることを覚悟してんなら構わねぇが、来年も税が必要ならこっちの樽は残してくれんかね」
真冬の氷のように冷え切った視線で睨まれる文官が悪い訳ではないが、徴税を受ける平民たちの怒りは頂点に達している。家屋に併設された倉庫には例年の半分くらいしか収穫を詰めた樽が詰まれていない。
他領では徴税逃れのために床下を掘って穀物入りの樽を隠すこともあったようだが、この辺りの農家は数年前からの不作で保管小屋の床板すら税の代わりとして徴収されたり、冬の暖房用に剥がされていた。
多くの農家で家畜として飼われていて、去年は徴税の作業中でも遠慮なく我が物顔で庭を歩き回っていたルーヴィウスですら一頭も見かけないのである。
昨年まで多く見かけた皮紙や食肉の提供をしてくれるフォーアなど、今年は村の入り口で痩せ細った数頭を見かけた以外、どの農家でも見ていないのだ。
「その――昨年まで庭に放し飼いされていたフォーアは?」
書くことの少ない税収を木板に書き付け、やっとのことで口を開いた二十代半ばの文官が尋ねる。頭では本能的に『聞かない方が良い』と思っていても、このまま戻れば子爵家の当主に不興を買うのは自分だ。
言い訳は聞いてもらえなくても、説明材料だけでも集めておく必要はある。
「夏にあんた様らのお仲間の役人が、領主様の『臨時の税』って言って四頭とも連れてっちまったじゃねぇか。今年の春に生まれたばかりのフォーアまで全部。
せめて雄と雌を一頭ずつ残してくれたら、子を孕ませて増やせたのに……」
農民たちの視線がさらにきつくなる。突き刺すなどという生易しさではない。
敵と定めた者を射貫き、必ず斬り倒して殺す覚悟をした視線。
たとえ力及ばず相打ちでも構わない。叶うなら喉笛を食い破り、腸を裂いて引き千切り、確実に息の根を止めてやるという覚悟という殺意が篭められた視線だ。
まだ若い文官は小さく震えながらそれに耐え、何とか足を踏ん張る。
彼は七代続いたルスア準男爵家の次男で、十六歳で王都の学院を卒業後、職にあぶれて辺境のエロマー子爵領に移り、ようやく下級文官の地位を得られたのだ。
勤め始めてから三年目。当初から徴税担当というのは厳しい仕事だったが、今年はより状況が悪い。東部の影響を受けた不作がじわじわと広がり、今年は辺境との交易も途絶えかけている。
私生活にも大きな変化が出来た。
家臣家の傍流出身ではあるが上司に堅実な仕事ぶりを認められ、今年の春の終わりに同じ準男爵家の十五歳になる三女を娶って領都の辺縁にささやかな家を借り、新妻は現在その腹に子を宿している。
役目が辛いからと簡単に逃げ出す訳にはいかないのだ。
「それは……こちらに報告が来ていなかったようだ。済まない」
「あんた様がやったことではないから仕方が無いがね。冬篭りの準備をするために物を買うにも高いし、畑はご覧の通りだ。秋植えのリースやルヴァッセも芽が出たのは半分くらいだし、根付きもかなり悪い。
貴族様の御入用がどれだけかは知らんが、これ以上わしら農民から搾り取るならもうここでは生きて行けんよ」
睨み付けるような視線を一際強くしてから逸らした農民たちは、そのまま彼に背を向けた。平民は元から礼儀などとは無縁だが、それでも貴族と相対する時は相応に丁寧な言葉遣いもしてきている。
それが今では欠片すら見られなくなっている。
「――済まぬ。何とか上には伝えるようにする」
腹の底から辛うじて搾り出すような細い声で暇を告げた文官は、荷役の男たちに指示を出すと、荷の少ない荷車を引かせて凹凸の激しい田舎道を歩き出す。
農民からの厳しい言葉と態度はこれで朝から五件目だ。
慣れるという訳ではないが、毎度毎度心が削られる思いがする。
本心ではこんな仕事は避けられるなら避けたい。
けれども下級文官の地位だって王都の学院卒業から一年半もかかって得たものだし、彼自身冬を越して子を宿した新妻を養って行かなければいけない。
来年の春には初めての子供も生まれるのだ。
「旦那、今日はあと二件です。さっさと終わらせちまいましょう」
荷役の頭が気の毒そうに声をかけてくる。彼らは傭兵だが、徴税分の運搬を担当することで税の一部を減免されているため、徴収した今年の収穫を子爵の倉庫に入れるまで開放されることはない。
たとえ不作を通り越した凶作であっても、農民たちから殺気の籠もった厳しい目で見られようとも、収穫出来たものから税を取るのが文官である彼の仕事だ。
「……そうだな。其方たちにも辛い仕事をさせるな。済まぬ」
「まだ俺たちは運んでいるだけですからね。正直なところ、十年前ならまだ荷車も重かったが今は三人いれば運べちまうくらいですぜ」
荷役の頭は申し訳程度に左右から荷車を押す男たちを振り返る。
子爵の倉庫を出る時に荷車を牽く担当として就けられたのは頭を含めて六人。
先代から代替わりした当時、多少不作でも農村がある程度食うに困らず過ごして行けた頃の人数をそのまま維持しているのだ。
「昨年も酷かったが、今年はさらに少ない。王都からの補填もそれほど見込めないだろうが、冬をきちんと越せるか……。
町の商人やもう少し辺境に近い農村じゃ、王都に近い貴族領に逃げ出したり辺境に移って行く者もいるらしい。私が懇意にしていた中央通りの商人も、先月店を畳んで北部のアスピヴァーラに親戚を頼って行ったよ」
「うちの隣の商家もだな。旦那の知り合いみたいに頼る伝手は太くないようだが、昔修行した店の縁を頼っていくらしい。
俺たち平民は願い出れば他の土地に行くことも出来るが、貴族様はな……」
溜め息と共に吐き出された言葉に思わず彼も同調する。
逃げ出したところで文官としての仕事は当然失うし、渋々ながら紹介状を書いてくれた学院の助教授の面目も潰してしまう。
仕事ぶりが堅実だからと交際を認めてくれ、同年代の中では可愛いと評判だった三女を嫁がせてくれた妻の実家とも縁が切れてしまうだろう。
万が一職場を放棄して逃げ出すようなことがあれば、腹に赤子がいるとはいえ、離縁されて妻も子を産んだ直後に他の貴族家へ嫁がされるかも知れない。生まれたばかりの子供は捨てられるか、平民へ貰い子として下げ渡されることになるはずだ。
口減らしが珍しくない辺境貴族領では身分を問わず『ままあること』だが、気分の良いものではない。
「お役目だからと割り切るしかねぇですな。旦那、次の町が見えてきましたぜ。
旦那は今年初めて来る場所だろうが、一つだけ忠告です。あの町では今から二年くらい前に、結婚税が支払えない嫁入り直前の商家の娘を代官が犯して結果的に死なせてしまい、役人や貴族様は平民からかなり強く恨まれてます。
実家の者は既にこの領地を出て行ってますが、町での対応は傷口に砂か粒の粗い塩を擦り込むようなもんだと聞いてますぜ。俺らは傭兵ですが荷役の間は武器を持って護衛までは出来ねぇので、気をつけてくだせぇよ」
荷役と道中の護衛を請け負った町の傭兵が低い声で注意してくる。
護衛とはいっても、農民に対する単純な威嚇でしかない。
内容を聞いて胃の辺りが一段と重くなった。王国辺縁の子爵領の片隅とはいえ、何故そのような愚かな者を代官にしているのか分からない。
血縁だけで貴族の地位を笠に着て、自分たちの生活を支えてくれる平民を蔑ろにしているからそのような事件が起こるのだ。その結果民心が離れ、貴族への反発と不服従が広がっていく。何か事があった時にも見放されるだろう。
「慎重に行きましょう。私も死にたくありませんが、民に恨まれやすい荷役と護衛を引き受けてくれた其方たちも死なせたくはありませんし」
「そう言ってくれるのは現場に近い貴族様だけですぜ。お偉方にはその辺が分かってねぇから、無茶な振りから町の人間の感情を逆撫でして、より嫌われていく。
何もかも捨てて逃げ出したくなったら声を掛けてくれ。旦那ならもっとまともな場所で仕事も出来ると思うし」
「俺たちも来年の夏くらいまでに辺境に行く予定だしな。王国で食うに困る生活を送るより、食い物のある安全な場所で働く方が良い。傭兵を続けるにしても、子爵領に金払いの良い雇い先は無くなっているからな」
使い込んだ細身の槍を抱えて歩く荷役傭兵が小さな声で答える。
町の入り口を示す柵までは三百テメルといったところか。
小声ならば何を話しているか聞き取られることも無かろう。
「先週、行商でロヴァーニへ行っていた知り合いから状況を聞いた。今は収穫の時期にさしかかっているらしいが、畑の実りはこの辺りの十倍らしい。
交易を行う市場は辺境の集落から集まった人と物で溢れていて、王国で暮らして行けなくなった農民や平民たちも移り住んでいるとか」
「仕事は? 仕事はあるのか?」
「詳しくはないが、腕っ節の傭兵団が幾つもあるそうだ。王都の方でも名前が通っているという赤獅子の槍とか暁の鷹、ハルキン兄弟団、ノルドマン傭兵団などは辺境を本拠地にしてるからな」
「畑の実りが十倍――何が王国と違うんだろうな」
「さぁな。だが身分だけ振りかざしている子爵様とは違うんだろうさ。畑だけじゃなく、海のものや肉なんかも多いらしい」
「冬を越すのも問題ないのか……羨ましい限りだ」
だんだんと近づく町の空気は活気というものからは遠い。
鬱々とした雰囲気が柵の向こうから漂ってくるような感覚に、文官を始め荷役の傭兵たちの気分まで重くなってきた。
「辺境の話は後にしよう。子爵家の縁戚に話を聞きつけられても敵わないからな。旦那にも迷惑をかけちまうから、宿に戻ってからにしようぜ」
「ああ」
それきり口を噤んで柵を潜り、田舎町の中に入っていく。
柵での審査も文官が皮紙の徴税命令書を見せるだけで形式的なものに過ぎず、荷役の男たちも文官が連れてきた護衛兼下請け荷役ということで通行税すら取られずに入ることが出来る。
その分、町の水汲み場にいた平民からの視線は厳しくなっていたが。
『ここまで住民の感情が悪いとは――』
役目上仕方がないとはいえ、まだ町に入ったばかりだというのに若い文官の胃がまたしくしくと痛んだ。
実りが悪く、大して徴収も出来ない租税を取り立てるために文官たちが必死に子爵領内を駆けずり回ってから数日後の午後。
一軒のみすぼらしい農家に横付けされた荷車の周囲には、田舎の寂れた農村には不釣合いなほど屈強な傭兵たちが周囲を警戒するように立っている。
数は全部で十二人。単なる農村への買い付けだとしても過剰な人数だ。
うち二人は比較的若い女性で、上等な皮の胸当てを着けてローブを目深に被っている。左手に提げた短い杖を見る限り、彼女たちは魔術師なのだろう。
長旅をして来たにしてはやたらと身奇麗で、胸元に垂れている髪は風にさらさらと揺れて金と濃茶色の艶を見せつけていた。
夏ならともかく、普通なら秋以降の旅では沐浴も川での水浴びも出来ず、髪も脂や土埃で汚れて固まってしまうのが普通である。だが彼女たちは――周囲の男性傭兵もそうだが――装備品も含めて、そうした汚れとは無縁のようだった。
御者台にいる者も鎧こそ着けていないが、腰には短剣と投石用の投げ縄を提げており、興味深そうに物陰からこちらを覗く農民を警戒していた。
荷車を牽いている二頭の角犀馬の他にも、単騎で従っているものが八頭もいる。この辺りにはフォーアやルーヴィウスを飼っている家はあっても、角犀馬のような大型の獣を飼う余裕のある家はない。
好奇心の強い子供が近づいて来ないのは武器が怖いからだろう。
剣や槍、弓など、領軍や貴族家の私兵が持っている武器とは輝きが違う。
それと値段の差というよりも、実際の戦闘で使い込まれた武器の凄みや『相手を斃す』ことに特化した品物が持つ独特の気配ゆえなのだろう。
親が力の限り近寄ろうとする子供たちの首根っこを掴まえて制止していることもあるが、気の荒い傭兵や貴族の従える兵に下手に絡んでしまえば、平民や農民など雑草のように斬り捨てられても文句一つ言えない。
貴族が混じっていて不敬の罪に問われれば、最悪の場合は親族共々連座になる。
武装を整え、農村などでは見ることが出来ないほど仕立ての良い服と武装を纏っている傭兵たちは、それだけで警戒すべきものなのだから。
荷車が横付けされた家が昔からここに住んでいる村人で、身形が変わったとはいえその家から二年ほど前に出奔した娘がやって来ていたのでなければ。
「荷車で持って行くものはこれで終わり? 冬の支度は向こうでもある程度揃えられるけど、情勢が落ち着くまではこっちには戻って来られないからね。
庭のお墓も持っていけないから、大事な遺品だけ積んで。あたしの部屋にあったものは、お母ちゃんが十歳の時に作ってくれた祝いの服だけあれば良いよ。
団長と姫様に許可を貰って迎えに来たけど、今年の子爵領内の状況は特に良くないからね。もうあたしの稼ぎで町外れに家も買って、そっちですぐに暮らせるようにはしてあるから。服の買い足しなんかは向こうに着いてから市場で選んで」
粗末な木の扉を押し開けて出てきたのは皮鎧にマントを纏ったレーアだ。
情勢不安から家族の迎えに待ったがかかっていたが、本格的な冬を迎える前に迎えに行くことを嘆願し、護衛付きでようやく認められている。
外で警戒している魔術師はハンネの後輩で錬金術もこなすセラフィと、アニエラと同様に薬師を兼任する同期のリッタだ。
二人とも個人の研究室こそまだ与えられていないが、アスカ姫の開いている魔術と錬金術の講義に毎回参加しており、成長が著しいと認められている。
来年増築が予定されている女子棟にも研究室は作られるというから、おそらくその時に専用の研究室を持てるようになるはずだ。
家を分割払いで購入する目処が立ったのはつい先日のこと。
入団してからこつこつと貯めてきた金と、今年の春以降アスカ姫の護衛として勤めてきた給与の加算分を頭金として十年分割にしている。
危険と隣り合わせの傭兵と、未婚の王族の護衛という文字通り命懸けになることもある仕事の見返りは大きい。普通なら入団二年少々という役職も付かない独身の団員であれば、手当てを入れた年収で金貨三枚から八枚といったところだ。
けれども、アスカ姫の護衛に就いてからの月収は金貨一枚半。
食と住は団本部で保障されているから、月に金貨一枚強の貯金が出来ている。
部隊長の月収には遠く及ばないものの、この半年強で金貨八枚を越える金額が貯まっているのだ。日々拡大を続けるロヴァーニだが、それだけあれば郊外の農地付き一軒家を購入する頭金くらいは余裕で賄える。
農地を広げるために開墾する必要はあるが、既に拓かれた部分だけでも家族五人が悠々と暮らせるだけの収穫を得られ、節制すれば八人家族でも養えるだろう。
ロヴァーニへ家族が移り住み、農業なり他の仕事なりに就いて収入を得られるようになれば、借入金や債務を予定より早く返済出来るはずだ。
「農具も持って行く? ロヴァーニで新しいのを買った方が深く耕せるし、絶対に後々得だよ。こっちで使ってたのは木だから土の表面しか削れないじゃないか。
まだ荷物を置く場所に空きはあるから良いけどさ……。
ロヴァーニは北に鉱山があって金属の農具も使えるし、森のふかふかの土や肥料なんかも混ぜた土地でリースや野菜を作ってるから、収穫量の桁が違うよ?」
縄で一括りにされた農具を担ぎ上げたレーアは、荷車の後部から荷物を載せて、荷台の上で邪魔にならないよう縛り付けている。
木の柄に石の刃を付けた鎌や土との摩擦で磨り減った鍬は、レーアも使ったことがある――というより、食べるために使わざるを得なかった物だ。
レーアはアスカ姫の護衛で金属製の農具が使われている畑や牧場に行ったこともあるし、防壁や街道の工事現場では毎日数百人単位の人間が朝から晩まで力の限り振るっている現場も見ている。
ロヴァーニの周辺から郊外にかけて広がる広大な農地や牧場、そこに実っている重そうな穀物の穂や、豊かに茂った葉を風で揺らす見渡す限りの作物の波。
そして柵の中でのんびりと草を食み子を育てる獣たちなど、豊かになっていく辺境の町の姿を朝晩の行き帰りに見ているのだから。
工事現場に出ず、畑の開墾をする移住者の家族も同様だ。出来る範囲で畑にしても良いと杭を打たれた杭の内側で土を掘り返し、森で掘り出された落ち葉の混じった土や草木の灰、樽に入った真っ黒な肥料を混ぜて行く。
処理が終わった所には細い棒を刺していくが、それが日々距離を伸ばしていくのが何よりも彼らにとっては楽しいのだ。間もなく冬になるが、自分たちが作った畑が来年の秋には今実りをつけている畑に近づいていくのだから。
王国の貴族領に住んで不作に喘ぎながら苦しんでいた時と違い、目標とすべき明確な結果がすぐ隣にある。それが何よりも彼らの励みと支えになっていた。
鳥の嘴のように尖った農具は時として硬い石すらも砕き、木の農具では掘り返せなかった深さまで易々と突き刺さっていく。
それを掘り返して広げていくのも金属製の幅の広い匙で、成人男性の膝の深さくらいまで掘り返した場所には紐が張られる。
子供たちが遊び場としないようにするためだ。
魔術で大人の腰の高さほどまで深く掘り返した畑は別に管理されているが、体重が軽い子供では柔らかい土に埋まったら一人で外に出られなくなる。
遊びに出て夜になっても家に帰らず、心配した家族が自警団に訴え出て探し、胸まで土に埋まって泣き疲れた子供を発見したのは数週前のことだ。以降、約束事や禁止事項を守らない子供たちには親からの鉄拳制裁が待っている。
どれも辺境に近い貴族領や凶作の領地では見られない光景だ。
「ロヴァーニに着くのは開墾も休みになる頃だから、自分の農地を持つのは来年になると思うよ。移住者もかなり増えてるって話だからね。
ヘッタ、カイス、マルック、遊んでないでお父ちゃんとお母ちゃんを手伝いな。日暮れまでに村外れの森を抜けてその先の丘の上まで着かないと、一晩中野獣に襲われながら過ごすことになるよ!」
レーアが叫ぶと、壁の薄い掘っ立て小屋のような家の中でばたばたと足音が動き回り、やがてあちこち解れた衣服を纏った薄汚れた子供が飛び出てくる。
がりがりに痩せ細ったその姿は明らかに栄養が足りておらず、身体も聞いていた年齢より小さい、とリッタは思った。少し離れた場所にいるセラフィの顔をちらりと見るが、彼女も同じ意見らしい。
「あんたたちの居場所は荷車の後ろの方だよ。ヘッタ、一番上のあんたが面倒見てやってね。後で落ちないように柵を付けるけど、村を出て林を抜けるまでは傭兵の訓練を受けてるあたしらでも本気で急ぐから、ふざけるんじゃないよ。
もしふざけて荷車から落ちても、助ける余裕が無いかも知れないからね」
わざと怖い表情を作って妹たちを脅すレーア。だが、実際にはフェイクである。
本当に怖いのは残される村人の方だ。彼らが同行を希望し、足手まといが増えるのは好ましくない。子爵領を抜けて辺境の荒野を駆け、ロヴァーニの勢力圏に入るまで最低でも五日は緊張を強いられる。
毎月討伐を繰り返したおかげで辺境に潜む野盗こそ少なくなったが、獣たちの気性も冬の長い眠りに入る直前で餌を捜し求めて荒くなり、無防備な旅人が武装もせずに彷徨っていれば格好の餌にされるのだ。
「お父ちゃんとお母ちゃんは荷車の真ん中辺りだよ。荷物を置く場所を空けてあるから、適当に腰を降ろしてて。カイス、ルーヴィウスが暴れないようにきちんと抱いてな。マルックはヘッタの言うことをきちんと聞くんだよ」
荷車の後ろに妹と弟を乗せ、次いで痩せ細った両親を乗せたレーアが周囲の傭兵に手で合図を送る。積み込み完了、撤収の合図だ。
本来は人ではなく荷物の積み込みに使うものだが、今は指摘しても仕方ない。
集落からの撤収と森を抜けることの方が遥かに重要なのだから。
「ヘンリク、先行して偵察だ。タルモとカイ、セラフィは最後尾で警戒を。レーアは御者の横について前方の警戒だ。他の者は角犀馬に騎乗、荷車の左右に展開して一気に森を駆け抜ける。
日暮れまでに丘に辿り着けなければそれなりに危険がある。気を抜くな!」
「おうっ!」
団員の返事と共に角犀馬が短く嘶き、斥候のヘンリクが飛び出して行く。
「柵は衝撃で外れないようにしっかり金具を留めておけ。幌に染め抜いてる団の紋章は布で覆い隠してあるな? おう坊主ども、村の森を抜けるまでは荷台で辛抱してろよ。ここから先は遊びじゃねぇからな」
団長から一行の隊長を仰せつかっているダーヴィドが荷車から身を乗り出しかけたカイスとマルッタを睨みつける。
まだ実働五部隊の隊長や副長にこそ昇格していないが、古株の団員で統率力もあり、肥大化しつつある現在の赤獅子の槍で部隊編成を分ける時は隊長候補リストの筆頭に載るだろう。
彼がここにいる理由は、レーアと同じく秋の初めに自分の家族を隣の騎士爵領から連れて来ているからだ。その時の恩返しとばかりに団員の家族の迎えに同行し、今月だけで既に二家族の移送を成功させている。
秋の移送は今回で最後になる予定だ。男爵領に向かっていた隊も自分たちと数日違いでロヴァーニへ到着する予定になっている。
「斥候は五十テメル先行、後方は二十テメル空けろ! 日暮れまでに超えるぞ!」
角犀馬が短く嘶き、重い地響きを立てて走り始めた。
荷車も凹凸の激しい地面の上で激しく揺られながら音を立てて走り始め、わずかに遅れて後方警戒を担当する三名と三頭が追いかける。
ロヴァーニの石畳で舗装された道なら半刻もかからないだろう。だがここは凹凸が激しく、人の足で踏み固められただけの土の道でしかない。
田舎では珍しい角犀馬の姿に集落の子供たちが道へ飛び出そうとしていたが、その後ろでは親たちが慌てて子供たちの足を払って転ばせていたり、背後から圧し掛かってでも全力で近寄るのを止めていた。
角犀馬と子供たちとの体重差が二十倍以上なのに加え、一口に傭兵と言っても、中には継嗣が修行のため身を寄せていたり、家の継承に関わらない貴族子弟が含まれていることもある。
進路の邪魔をして蹴り殺されたとしても、相手からすれば路傍の石を蹴ったようなもので、平民は文句一つ言うことができないのだ。
貴族家当主ではないから不敬罪の適用こそ無いが、それでも平民との間にある身分差は埋めることが出来ないほど大きい。
ましてや身形からして土や垢で薄汚れた彼らとは全く違う。
だから親たちは騒ごうとする子供が気を失うまで殴りつけて黙らせたり、泣き叫ぼうとする子供の口に布を詰めてでも声を抑えさせ、掘っ立て小屋に近い家の戸口に引き摺り込み、固く扉代わりの板を閉ざしている。
一瞬の無礼で処分され命を永遠に失ってしまうよりは、多少強く殴られてでも生き永らえた方が良い。いつか殴り倒されたことを親に感謝する日もあるだろう。
まだ子爵領の軍が撃退されたことは伝わっていないが、明らかに領軍の持ち物と違う洗練された装備を持つ傭兵の不興を買えば、腰に下げた剣が首を薙ぎ、槍が胸板を突き刺し、一家揃って肉の塊となり道に散らばることになるかも知れない。
野盗と傭兵団は全く違うが、農民だけが集まった集落に住む者の認識はその程度なのだから。
その様子は出発した面々にも見えており、子供の泣き声の断片も届いていた。
仲間や自分の家族を迎えに行った団員が毎回のように接してきた光景でもある。
「かわいそうな気もするけど――子爵家との関係を考えたら仕方ないわね」
「まあそういうこった。王都からの最終便も来週には着くだろ。今は俺たち団員の縁続きしか助けられねぇし、それを姫様に求めてもいけねぇ。
姫様は一人しかいねぇんだし、セラフィやリッタよりも年下なんだ。何もかも背負わせるようなことは絶対に出来ねぇし、受けた恩を返すために手を汚す役が必要なら俺らがいくらでも名乗り出てやるさ。
ロヴァーニに来られた俺らの家族は、姫様のおかげで少なくとも飢えて死ぬことからは縁が遠くなったんだからな」
リッタの漏らした言葉に答えたダーヴィドが凄みのある笑いを見せた。
本人は良い言葉を決めたつもりなのだろうが、頬から顎と、額を斜めに横切る引き攣れたような傷痕で怖さの方が数倍増している。
それでも町の子供たちからは人気があるのだから不思議なものだ。
「お前さんの家族も間もなく男爵領から来る予定なんだろ? おそらく王都からの最終便に同行して来るだろうから、今は任務に集中しろ。
水と火の魔術具付き荷車に戦闘訓練を受けた角犀馬が都合十頭、姫様の講義と訓練を受けた魔術師が二名もいるなんて、途轍もなく贅沢な編成だがな」
見た目に違わず豪快に笑ったダーヴィドがリッタの元を離れると、そのまま御者台に角犀馬を寄せてレーアに向き直る。
「レーア、村から離れて辺境街道に入ったら四番の箱を空けてやれ。団長が姫様から預かったもんが入ってる。妹と弟を黙らせておくならそいつが一番だろう。
ロヴァーニに帰るまで補給は利かねぇから、管理はお前がやれ。セラフィやリッタにも後で礼を言って少し渡しておけよ」
「りょ、了解……」
言われたレーアが荷車の中に姿を消す。
幌内の風除け代わりに作った棚の上方に置かれた一抱えほどの木箱には、晶石による鍵が施されていた。平民では開けようとしても一瞬で気絶するほどの魔力が必要だが、アスカ姫の護衛として勤めていたレーアは魔術師たちと一緒に魔力運用の方法を教わっている。
大気に含まれる魔力を意識して鍵の部分に手を触れると、継ぎ目に細く淡い光が走って蓋が持ち上がった。
「……うわぁ」
中には小型の焼き菓子が整然と並んでいる。
女子棟の夕食の後に出てきた果物を載せたデザートとは違うが、土台になっているものはレーアも見たことがある。確かタルトレットと言っただろうか。
小さいが甘いクリームとわずかな酸味を持つ果物が堪らなく美味で、一人二つまでしか食べられなかったのが非常に残念だったのだ。
箱の端には折り畳んだ手紙が挟み込まれており、箱を置いて取り上げるとアスカ姫からのメッセージが添えられている。
曰く、『森岩栗のタルトレットです。甘くて美味しいお菓子ですが、一つで食事一回分くらいの栄養があるので食べ過ぎには注意してください』とのことらしい。要するに一人で何個も食べると『確実に太る』ということだ。
不公平にならぬよう、女子棟の皆にはこれとは別に作ってあるらしい。
傭兵という職についている以上、戦場での身動きに直結する体重には十分すぎるほど気を付けているが、それでも甘い菓子の誘惑というのは幾つになっても女性にとって辛いものである。
ましてそれがアスカ姫謹製の菓子ならば尚更だ。
菓子のレシピや作り方は女子棟で料理を得意とする者や料理長のダニエにも伝授されているが、一番上手で美味なのはやはりアスカ姫の作ったものである。
現在の団の褒章品で一番価値があるとされているのが、アスカ姫御手製の料理や菓子とされてしまっている状況を鑑みれば納得も行くものだ。
その間にも棚から荷車全体へ、そして荷車のすぐ側を走る角犀馬とそれに騎乗する者たちの鼻へと甘い菓子の匂いが広がっていく。
普段から腹を空かせていただろう妹や弟、両親に加え、御者の視線もレーアの持っている箱に釘付けになっている。
「あー……姫様からの差し入れらしいけど、後で晩飯が食べられなくなるから一人一つだけにしておけって。順番に配るから喧嘩するなよ?」
目が爛々と輝いて唇の端に涎が見えている妹と弟二人、そして両親へと順に手渡し、御者台に戻ってから物欲しそうにレーアを見る男にも一つ渡してやった。
力自慢の角犀馬が牽く荷車の速度はかなり速い。村から相当距離を稼げていることで、森の手前で小休止を取る。このまま匂いだけ漂わせていては暴動が起きそうだったからだ。
まさかこんなところでアスカ姫の気持ちを体験するとは思わなかっただろうが。
「うめぇ……貴族領で依頼を受けて褒美に菓子を貰うことはあったが、これと比較しちまうとあっちは泥団子みてぇなもんだな」
「光栄ですぅ。女子棟でもたまにお菓子は出ますけど、森岩栗ってこんなに甘くて美味しかったんですねぇ……」
「お姉ちゃん、こんなおいしいの初めて!」
「姉ちゃん、もうないの?」
「おいレーア、角犀馬の目が怖いぞ。こいつらの分はねぇのか?」
銘々勝手な感想を言っているが、大事なのはダーヴィドが呟いた言葉である。
荷車を牽いている角犀馬の機嫌は絶対に損ねられないし、人間用の菓子の大きさでは角犀馬にとっては砂糖の粒一つみたいなものだ。
助けを求めるようにアスカ姫の手紙を再度読んでいくと、末尾の近くに角犀馬用の菓子の在り処も書かれている。
棚の一番下、青い晶石が嵌っている木箱のようだ。
かなりずっしりとした重さがあり、鍛えているレーアにとってもかなり重い。
「――こいつっぽいね。ダーヴィド、開けるのと配るの手伝ってよ」
「俺に魔術具の開封をしろって? 魔術師でもねぇのに無茶言うなよ。サラフィかリッタ、こいつを開けるの手伝ってくれ」
彼に呼ばれて菓子を堪能していた二人が駆け寄ってくる。
レーアの魔力量では二度目の開封はきつかったものの、魔術師を本業とする彼女たちの手にかかれば簡単だ。一瞬手をかざすだけで封を開いてくれる。
半年以上アスカ姫の魔術講義を受けているのだから当然だろう。
魔力の効率的な運用法や魔術構築の無駄の無さ、自然現象の仕組みや魔術具への応用など、王都の学院ですら教えられていないリージュール魔法王国の知識と最先端の研究内容、それに現代科学で解明されている知識が講義には山と詰まっているのだから。
「おぅ、こいつか。やっぱでかいな」
ダーヴィドが掴んだのは成人男性の片腕ほどもある棒状のものだ。
甘い匂いが強いのはタルトレットと同じだが、森岩栗の他にもエンファ豆、根菜のルッタ、マーィを挽いた粉、旬のムィアを薄切りにして天日で乾燥させたもの、乾果にしたヴィダやティロスがリース粉で練り上げられて焼かれている。
角犀馬の鼻先にそっと近づけると、手を齧りそうな勢いで食いついていた。
「水もあげた方が良さそうですね。この子たちの身体は問題ありませんが、村から離れるために相当急がせちゃいましたから」
リッタがそう言いながら両手で直径五十テセほどの水の球を作り、角犀馬の鼻先に近づける。団員が順に棒菓子を食べさせていく間に、リッタとセラフィ、カイの三人が水の補給をさせていく。
その頃には森へ先行して入ったヘンリクも一旦戻って来ていた。
休憩の合間に斥候役の彼から団員に情報共有がされ、道の状態や危険性の有無、分かる範囲での天候や気温など細かな情報が伝えられている。
「森は今のところ大丈夫そうだが、少し先に森狼の足跡があった。群れ一つくらいだが、陽のあるうちに森を抜けてしまった方がいい。
群れはおそらく十頭弱だろうけど、角犀馬が密集していれば寄ってきても蹴散らせるだろうしな。休憩が終わったらすぐ出発するんだろう?」
「陽が沈むまでそう余裕はないだろうからそのつもりだ。村からは離れたが、子爵領の境である丘までは油断出来ん。比較的まともな騎士爵領から連れて来る時も、領の境までは貴族の私兵や野盗に注意していたからな」
空の色を見る限り、日暮れまではあと鐘一つ分くらいだろう。
ロヴァーニでは団本部や自警団の建物に時間を知らせる魔術具があるが、遠く離れたエロマー子爵領ではせいぜい領都に一つ。男爵領や騎士爵領では高価な魔術具を持つことも難しい。
「なら、角犀馬が息を整えたらすぐに出よう。ここから先は道も狭くなるし上り下りもある。暗くなれば森狼も出てくるだろう。俺たちだけなら問題ないが、レーアの家族に戦いは無理だろうからな」
ヘンリクが荷台で休む痩せ細った彼女の家族を見て小声で言う。
子爵領の辺縁にある農村に生まれ、農民としての生活以外を知らない者に戦闘は無理だ。害獣退治で猟師などと連携して牽制することはあっても、武器を手にして相手を確実に仕留めることまでは求められないし、期待出来ない。
素人が下手に手を出せば、命の危険を招くこともあるのだから。
「よし、ヘンリクは引き続き斥候を頼む。残りの者は鞍と鐙、輓具を急いで確認しろ。問題が無ければ丘まで一気に駆けるぞ」
ダーヴィドの声に団員が一斉に反応する。鞍と鐙の装着・確認も、本部で何度も訓練されてきただけに行動は素早い。
御者とレーアも角犀馬と荷車を繋ぐハーネスの緩みや角犀馬の状態を確認して、状態に問題が無いことを一つ一つ確認していく。
仕上げとばかりにレーアが小さな塩の塊を一つ食べさせると、やる気に満ちているのか大人の靴底二つ分ほどもある大きな蹄が街道の土を掻いた。
「ダーヴィド、荷車も完了だよ!」
御者台に乗り込んだレーアが大きな声で報告を返すと、すぐに彼が後方へ振り向いて「出発!」という掛け声が下る。
荷車の左右に陣取っていた角犀馬はそれぞれに短く嘶きを上げ、身体を一段低くして走り始めた。荷車も遅れじとそれに続いている。
街道をわずかに下り、右手に見えてきた潅木の間を抜ければその先は森だ。
森の入り口に差し掛かるまでは遅くとも四半刻といったところか。
行商人が午前中に歩いて入れば鐘二つから二つ半、角犀馬など乗用の騎獣に牽かせた荷車なら鐘一つから一つ半あれば抜けられるが、あくまでも昼間の話である。夕闇が迫りつつある時間帯から森に入るのは熟練の者でも避ける行為だ。
だが、赤獅子の槍の団員たちは寸毫の躊躇いも見せず、薄暗い森への突入を強行する。
ここは半ば以上敵対しているエロマー子爵の勢力圏内であり、乗せているのは身を守る力も持たない団員の肉親である。
けれども角犀馬という強力な軍用騎獣も複数いるし、その背や荷台には戦闘や魔術を得意とする専門職が十人もいる。
防御力の無い荷車を囲んで守りながら戦っても、実戦経験の浅い貴族の私兵たちや野盗、森狼程度なら撃退することは容易だ。魔術に関してはリッタたちと領軍の魔術師を比べる方が可哀想というものである。過剰戦力と断言しても良い。
予想通り四半刻後に森に突入した一行は、途中でこちらを襲う気配を見せた森狼の群れを一蹴すると、毛皮の採取用に屍骸を荷車の後ろに括りつけ、鐘一つと掛からずに領境を突破した。
そのまま日没を眺めながら丘を駆け上がった一行は、予定通り丘の先の台地に陣取って一夜を明かすことになる。
レーアの両親や妹たちは水や湯が出せる魔術具で大騒ぎしながら身体と衣服を洗い、その度にレーアの大声が野営地に響いていた。
そして昼のように明るい灯りの魔術具に驚き、石鹸によって落ちる汚れに驚き、現在はロヴァーニに本拠を置く傭兵団の標準装備となりつつある保存食――燻製肉や乾燥野菜、調味料を混ぜた粉末から作るスープ、硬く焼き締めたビスケットのようなパンを使った夕食に驚いている。
それらを笑って聞き流せるのは、彼ら自身も同じように飢えた家族をロヴァーニへ招き入れた経験があるからだ。
騎士爵領や男爵領を経由し、子爵領の森を抜けたこの丘で一泊して落ち着く時は毎回似たような光景が見られるのだから。
遠くに見えるはずの農地や集落は既に闇の中に沈んでいる。
明日は丘を下り、鐘半分もかからない森を二つ抜けて昼過ぎに川を渡る予定だ。そこから先は王国の民に『辺境』と呼ばれる未開の地。
けれど、その地にも人は逞しく生きている。
川を渡れば二日ほど荒野を走り抜けて山の隘路を抜け、その先の平野を街道沿いに走ってロヴァーニへと至る。砦の門を潜れば安全圏だ。
幸いにも月は中天にかかっており、周囲の見晴らしも良いため襲撃に備えるには十分である。賑やかな食事を終えた一行は交代で不寝番に就き、思い思いの夜を過ごしていった。
レーアたちが出発して二日目、ロヴァーニは朝から冷たい雨に包まれている。
防壁工事が休止となった飛鳥は団長の執務室に呼ばれ、そこで床に片膝を突き、額が床に触れるほど頭を下げている会計長と料理長のダニエの姿に困惑していた。
元々魔術の講義も錬金術の講義の予定も無かったので自室で編み物をしていたのだが、ネリアがお茶の用意をしようかと尋ねかけた時に団長から声が掛かったのである。
ユリアナやアニエラたち護衛を連れて執務室に入った早々、こちらの世界で言う土下座のような頭の下げ方をされたのだ。
「何卒、何卒姫様のお知恵とお力添えを……!」
三十路も半ばに差し掛かろうかという会計長と、二十代後半に入ったダニエ。
その二人にこうして頭を下げられたままというのも、日本では十代の高校生だった飛鳥の精神衛生的に宜しくない。
まして今の姿は未成年、十三歳の少女である。しかも相当に見目麗しい。
極度に偏屈な変態でもない限り、少女から女性へと成長する過渡期のアスカ姫の容姿を「美しくない」などと言い切れる愚か者は存在しないだろう。
そんな少女に対し、大の大人が二人揃って床に額を擦り付けるほどに頭を下げられていても居心地が悪いだけだ。
アスカ姫の記憶を辿った限り、リージュール魔法王国の王女である彼女に女王様的な気質は微塵も無いし、飛鳥自身もそのような性癖とは無縁である。
側仕えとして着いてきたユリアナも頭が痛いのか、こめかみの辺りを揉み解すように何度も指先で捏ね回している。
鐘半分ほど言い分を聞いてみると、申し出の趣旨は何となく掴むことが出来た。
要は来月早々に行われる「冬篭りの祭り」で、当日団と直営商会が共同で出す出店のメニューが決まらないので助けて欲しい、ということである。
団本部の食堂で出している唐揚げ以外のレシピを出すにはリースなどの穀物以外の食材調達が間に合わないし、何より肉類は狩りの成果に左右されることが多い。
鳥も獣も今年の夏の初めから試験を兼ねて農家に委託し、家族単位の飼育と繁殖を試みてもらっている状態だ。
その成果が出るのは冬を越してからで、現時点ではようやく農家の人に慣れつつあるものの、繁殖という一番大事な結果が見えていない。
「……姫様、お断りしても問題ございませんよ? 何かあってもマイニオ殿が責任を取れば良いだけの事でしょうし。メニューも今の唐揚げと芋揚げだけでも他に差をつけられるのですから、無理に増やさなくても良いでしょうに」
長い溜め息と共に顔を上げたユリアナが首を振りながら主に進言した。
「酷い、それは酷いですユリアナ殿っ! せめて嘆願だけでも!」
「もう秋も終わりだというのに暑苦しいですわ。大体姫様に依頼されるなら、なぜもっと早く申し出ないのです? 時間ギリギリになってから姫様に申し出て、同情を誘って協力頂こうなどと考えていたのではないでしょうね?」
図星だったのか、会計長が片手で胸を押さえるような仕草を見せながら大袈裟に仰け反ってみせる。ダニエは本気で悩んでいるのか無口なまま俯いていた。
実のところ、申し出自体はそれほど難しいことではない。
家事や調理は経験がものを言うことも多いから、飛鳥であれば解決は出来る。
祭りに出しておかしくないもの、材料の制限があっても応用が利くものや、代用品を使えば実現できるものなど、レシピの幅はそれなりにあるのだから。
よく作っていたもので百数十品、弁当のおかずや小腹が空いた時に作るおやつ的な一品程度も合わせるなら五百を超えるだろう。
単に作り方を知っているものや料理雑誌で読んだもの、材料次第で色々と応用が利くレシピを合わせたら一千を越えるはずだ。十代男子にしては異様なほど多い。
本来であればこの場の収拾のため口を挟むべき団長は、眼前の面白そうなやり取りに目を輝かせている副長のスヴェンに仕事をするよう促している最中で、咎められ書類仕事に戻された彼は死んだ魚のような目になっていた。
あまりに混沌とした執務室の様子に、飛鳥も小さく溜め息を吐いて、斜め前に出て控えていたユリアナを振り仰ぐ。
「ユリアナ、ネリアとミルヤたちを新館の厨房に呼んでもらえるかしら。ダニエは酵母の壷とホロゥを用意してください。
ホロゥは細かく粉に挽いて、ボウルに半分より少ないくらいに。種類をいくつか作りますので三つか四つ分用意をお願いします。
それにソレッティエを四本とムィアを三つに、ティロスの乾果を四つ。大きめの鍋にお湯をたくさん沸かしておいてください。
私は一度道具を取りに向こうへ戻りますね。もう昼食は終わっているはずですから、厨房と食堂は夕食前まで関係者以外立ち入り禁止でお願いします。用意をして、午後の二の鐘が鳴ったら厨房に参りますから」
「こちらで準備するのは、それだけでよろしいのですか?」
「ええ。あとの材料は女子棟の食料庫から少し出します。冬篭りの祭りでそのまま出すとしたら採算が合わないでしょうから、今日試作してみるものを自分でも実際に作ってみて、材料の原価と利益の計算をしてみてください。
少量なら手持ちの材料で賄えても、大量に作って出す時には足りないものもあるのです。利益を薄くしても需要と供給が釣り合わないものもありますから」
先に参りますね、とスカートの裾を摘んで見せた飛鳥は、ユリアナたちを伴って廊下に出る。護衛のアニエラやエルサたちも一緒だ。
足早に女子棟へと向かい、新館受付脇の扉から外に出て屋根付きの歩道を進む。
先日の雨の夜、服を濡らして遅番から帰ってきた事務員が危うく風邪をひきかけたため、雨除けと冬に予想される積雪、真夏の日差し除けになるよう錬金術で鉄を加工して作った通路である。
ロヴァーニは冬の積雪がそれなりにあるらしく、一番積もる所でアスカ姫の腰の高さくらいまで届くらしい。過去には大人一人が頭まで埋まったこともあるらしいから、東北地方の北部か日本海側の豪雪地帯並みだ。
当然、雪の重さで潰されるような通路では女子棟が冬の間孤立しかねない。
地下の食料庫を経由すれば新館との行き来は自由に出来るものの、真冬の外気を下回る室温を保つ冷凍室や灯りの乏しい運搬用通路を経由してまで行き来をしたいかといえば、可能な限り避けたいのが飛鳥たちの本心である。
自分の魔術を駆使して作った場所とはいえ、暗闇というものは人間に対して根源的な恐怖や嫌悪感を与えるものらしい。
故に地上の通路を支える柱は耐重量・耐震・耐衝撃性を重視してH字型の厚みのある重量鉄骨にし、魔術と錬金術を駆使してアルミニウムの薄膜を表面に張り、わずか四日で作り上げた。
現代日本に錬金術と魔術があればどれだけ安全で楽だったことか。
屋根の外装は雪下ろしの便と強度も考えて、金属製の折板屋根にしている。
加工がそれなりに面倒な上、鍛冶工房の親方や壁と天井の内装を手伝ってもらった木工工房からの問い合わせも増えたが、錬金術と魔術で大半を済ませている以上『現物を見て盗んでください』と突っぱねている。
新館側通路の見学は団長の許可を取り付けてあるし、模型も端材でいくつか作って渡してあるから、材料と技術が揃えばこちらの世界にも普及していくはずだ。
補修も錆を錬金術で取り除く方法が広く知られるようになったら、学院を卒業したばかりの新米錬金術師でも継続的に食べていく手段が出来る。
宮廷魔術師や貴族家お抱えの魔術師、あるいは学院の教職以外にも視点を移し、自分の身の丈にあった職場を探せば色々と見つかるはずなのだから。
天候と季節に左右される通路とはいえ、見た目に寒々しいのは嫌なので内装には木を選んだが、外装の石壁との間にコルク状の樹皮を並べて断熱も図っており、雨の晩秋でもかなり暖かい。
厚めのガラスを壁と天井へ数テメルおきに嵌め込んでいるし、ランタンを提げる場所も作ってあるから、明かりで困ることもない。
新館側と女子棟側で風が吹き込んでくる部分は何かしらの対策が必要だが。
アスカ姫としてスカートを穿いていると余計に風の冷たさが感じられるのだ。
丈の長いローブを着たり重ね着する程度では解消できないし、暖かそうなズボンやパンツルックは側仕えたちから『優雅でない』と反対されてしまっている。
そうなれば、採れる対抗策や選択肢は自然と限られてくる。
シェランやジェルベリアで作ったストッキングもその一つだ。
「ユリアナはマイサと一緒に地下の冷凍庫へ行ってもらえますか? 秋の初めに届いたイェルムかターラァプが樽に入っていたはずです。それとカンパシンプの貝柱を同じくらいの量だけ、金属製の深皿に半分くらいずつ取ってきてください。
とても寒いから、先日作った防寒具を忘れずに使ってくださいね」
「承知しました。他に必要なものはございますか?」
「リューリとリスティナにはヴィリシとカァナの肉のブロックを――そうですね、ヴィリシは赤身と脂の比率が三対一か四対一くらいのものを用意させてください。
どちらも二ヘルカトもあれば大丈夫だと思います。それとヴィリシの脂身だけを肉とは別に一ヘルカトくらい。
私は野菜と香辛料を揃えます。種類が多いですし、現物と処理の方法を見せないといけないでしょうから。
ライラは厨房から蒸し器を四つ持ってきてください。アニエラは研究室の倉庫にあるジェファラとシエニアを三つずつ、それとハンネはフィッロスの板を一抱え分お願いできますか?」
渡り廊下を歩きながら矢継ぎ早に指示を出し、一人で全部揃えるには量的に大変なものを分散してお願いする。実際に作ったことがある飛鳥にしか分からない食材もあるので、物理的に手が足りないのを補うためには誰かに頼むしかない。
決して非力なアスカ姫が悪い訳ではないのだ。
「フィッロスは洗って加工してしまいますから、土が付いていてもかまいません。それからアーリウは……」
「アーリウなら新館の厨房にもあると思いますよ、姫様」
直径五テセもある太目のネギの姿を頭に思い浮かべていると、ユリアナから助けが入る。素材は日本のものから、こちらの世界での名称はアスカ姫の知識から自然と変換されて出てくるが、保管場所まではいちいち覚えていない。
というよりも、本来であれば王族の彼女が家事の現場に出ることなど想定されていないのだから。
「分かりました。では分担は先の通りにお願いしますね。種類を作って味の違いを見てもらうために小さめに作りますけど、試食は二つまでにしておいてください。
夕食が入らなくなっても構わないのでしたら無理には止めませんが」
飛鳥としては主に体重面を気にした良心から出た言葉だったが、聞いていた側仕えや護衛たちの表情が一瞬で愕然としたものになり固まっている。
彼女たちの主は『種類を作る』と言っていた。そして、それが三つで収まるとは断言していない。それ以上ということも当然ありうるのだ。
「種類は食材が揃えばもっと増やせるでしょうけど、今手元にあるものでは三つか四つですね。冬の間に追々作っていきましょう」
前を向いて歩く飛鳥には、ユリアナ以下側近たちの表情は見えていない。
彼女たちの表情が一様に強張っているのと対照的に、アスカ姫の表情は久しぶりに再現できるかも知れない日本の冬の味を楽しみにしているのか、実に楽しそうな笑みを浮かべている。
結局、飛鳥は一度も後ろを振り返ることなく女子棟に入り、筋力の許す範囲で食材をかき集めると、クァトリとエルサを護衛にして新館の厨房へと向かった。
新館の厨房に湯気がもうもうと舞う。同時に甘いホロゥの匂いも。
湯気と匂いは厨房に留まらず、食堂やその外のロビーにも充満しているのだが、この場にいる誰もがそれを無視している。
――部屋に入って来られない者を気にしたら負けだ。
それに食堂と厨房の入り口にはしっかりと鍵が掛けられ、扉には団長と料理長であるダニエの名で「立ち入り厳禁」の札が掛けられている。
ロビーに面したカウンターでは男性・女性を問わず事務方も気が漫ろで、護衛や採取の依頼でやってきた商人たちも順番を待ちながら、芳しい匂いを漂わせている食堂の扉を凝視していた。
その誰もが、夏の終わり頃から町に流れ始めた噂話を思い出している。
ロヴァーニに本拠を置く商会はいくつもあるが、ライヒアラ王国の王都まで販路を持つ大規模な商会は片手で数えられる。
その中でも団幹部との会食に招かれたのはたった三つだけだ。
王都や各貴族領での『美食』を知り尽くしている彼らが、赤獅子の槍での夏の会食の直後に恍惚と歓喜から滂沱の涙を流して本拠に帰ってきたことは、この町の露天商や行商人でも知っている。
彼らが味わい、その後機会がある毎に同業者へ熱く語った内容も。
一つ一つが宝石細工のように繊細で食べてしまうのが惜しくなるほどの前菜は、花を象って飾り切りにされ、わずかに酸味のあるソースが掛けられた野菜と、火を通した薄切りの肉を花弁のように幾重にも重ねた芸術品だった。
それらが青い夏空に浮かぶ雲の如き純白の皿に並べられ、素材とソースの色を鮮やかに引き立てている。
当たり前のように食卓に並んだガラス製の器はヴィダ酒の澄んだ鮮紅色を見せつけ、会食のテーブルに敷かれた白いシェランの布と対比を見せていた。
王都の貴族なら酒を入れる器一つで金貨一枚半は出すだろうし、皿や銀色に光る食器一式を人数分揃えたら金貨十枚を下ることはないだろう。
次いで出されたサラダは微かに潮の香りが漂う初めて見るもので、しゃきしゃきとした噛んだ時の感触と、口の粘膜を柔らかく刺激する艶めかしさがある。
海の中に生える草と陸で育つ野菜の競演は到底他で味わえるものではなく、このロヴァーニの、しかもこの場所でしか口にすることは出来ない。
甘辛くも主張しすぎない絶妙さを保ったソースは、これまで経験してきた大陸の野菜料理には無かったものだ。
野菜など肉料理の飾りか付け合わせに過ぎないと長年思い込んできた彼らの考えは、目の前の一皿で根底から覆されたのである。
淡く金茶色に輝く透明度の高いスープは銀色の大鍋で持ち込まれ、蓋が開かれると同時に濃厚な香りが部屋一杯に広がった。
灰汁の一片も浮かんでおらず具が一切入っていない貧相な見た目に反して、十数種にも及ぶ高価な香辛料と肉、それに煮込まれた野菜の甘い香りを放つ液体が深皿に注がれ、舌の肥えた商人たちが配膳されるまで一瞬たりとも目を離すことが出来なかったという。
肉と野菜の旨い場所だけを選んで余すところなく煮込み、最上のバランスで混ぜた澄んだスープは喩えられるものがなく、商売や金銭のことを一切忘れた溜め息と笑みしか浮かばなかったらしい。
これまで飲んでいたスープの味が全て霞むくらいの衝撃を受けた、と彼の知り合いの大商人は話している。
町では固い板のようなものしかないパンは、表面にリースの香りが強く漂うようパリッと香ばしく焼き上げられ、中はどうやったものかシェランの白い綿毛のようにふわふわで、噛むほどに甘味が増すものだったと聞いている。
小さく丸い塊がたった二つだけ皿に並んで出てきた時は驚いたらしいが、食事の後で商会主たちがこぞって『製法か流通権を金貨二十枚で売って欲しい』と願い出たほどらしい。
魚料理は泥臭い川のものではなく、半日ほど離れた海辺の集落から届いたもの。
暑い夏場に運んで来れば間違いなく腐るものだが全くそんな様子もなく、獲れた時と変わらない新鮮さのまま調理されたのか、白いソースの掛けられたロヒのソテーはそのまま王宮料理としても通用する完成度だった。
甘味と塩味がバランス良く混じる滑らかな舌触りの中、少し噛むだけでほろほろと形が崩れて旨味を吐き出していくロヒは、内陸で容易に得られるものではない。
もし高位の魔術師に依頼して運ぼうものなら、浜値で銅貨七枚から銀貨一枚程度で仕入れた一尾が金貨に化ける。
肉料理はヴィリシとカァナの肉を丹念に刻み、平たく形を整え焼いたもの。
肉の旨味を限界まで注ぎ込み、辺境では多く見られる様々な香辛料を幾つも重ね合わせて、とろりとしたソースにまとめて肉料理の上からかけていたという。
十分に火を通すと硬くなる肉が多い中、商会主たちが食べたそれは軽くナイフを刺すだけで簡単に切ることが出来、噛んだ直後に熱い肉汁と脂の旨味が口の中一杯に広がったらしい。
最後まで熱いまま食べられるように鉄板と熱を通しにくい木皿を重ねて供された料理は、商人たちを心の底から虜にした。
彼らの心を完全に打ちのめし、臣従を躊躇わぬほどに魅了したのは、最後にガラスの皿に載せられて登場した氷菓である。
ひたすら甘く柔らかく、高価な卵を惜しげもなく使った中央の冷たい菓子。焦げ茶色で甘さの中にほろ苦さを隠し持ったソースが絶妙に合い、その一匙で美食家として有名な商会主は膝を折り、傭兵団の幹部に頭を下げた。
獣の臭いを一切感じさせない滑らかで清らかな白のクリームも素晴らしい。
町や王都で使われる獣の乳は薄い黄色を残しているが、その皿には混じり気のない白と卵の黄色、添えられた果物の果肉の色だけが芸術品のように映えていたと聞いている。
会食中、当たり前のように使われていたという純白の皿も商品としては未だに出回っていない。団直営だという商会の商品にも含まれていないのだ。
そして氷菓を乗せていた透明度の高いガラスの皿は複雑で細かな模様が入り、青や緑の色が内側に封じ込まれた宝物級の品であるとも聞いている。
王都にあれば貴族が競って買い求め、王家への献上品にしていたはずだ。
貴族相手に商売している者であれば、一枚で最低金貨一枚を仕入れ値として提案するだろう。当然、売り値はロヴァーニからの運び賃と手数料でその数倍になる。
料理を作ったのは団の厨房を預かるダニエという料理長だと聞いていたが、彼は辺境の町が大きくなる前から住んでいた住人だ。自ら市場に食材を仕入れに来ることもあり、商人に知り合いも多い。
師匠は平民出身だからそれほどの腕前があった訳でもなく、貴族以上のお屋敷で料理を作っていた別の師匠に弟子入りして習ったのでは、と噂されている。
ロビーからも見える扉の向こうに秘密があるのだろうが、許可も無く団長名の掲げられた札の向こうに行くことは出来ないし、その勇気も持ち合わせてはいない。
有力な取引先を失った者の末路がどうなるか、辺境や貴族領と取引のある商会は何度も見ていた。この夏の終わりには団で保護されている貴人への不敬で『処理』された商人も出ているし、要塞化しつつある団本部に侵入しようとした者がある日突然姿を消したという話も聞いている。
商人の諺には『強過ぎる好奇心は信用と己を殺す』というものがあった。
秘密とされているものに必要以上に近づいたりのめり込んでいけば、商売相手としての信を失ったり、時には己の命すら喪いかねないことを厳に戒めた先人の経験から生まれた言葉である。
実際、この言葉を深く考えることなく商売を進めた仲間は――親しかった友人も含めて――何人も命を落としている。
荒野で、森で、隣人と肩がぶつかるほど人通りが多いはずの街中で。
ロビーで順番を待っていた商人たちは、食後にもかかわらず漂ってくる美味そうな匂いに悩まされながら、じっとカウンターからの呼び出しを待つことになった。
大きな深型の鍋に二つ湯が張られており、その上にはアスカがフィッロスの木から作った丸型の蒸篭が置かれている。
厨房にはアスカ姫に直接教わるダニエや側仕えたちの他、ダニエの弟子が四人とイェンナたち給仕役が八名、見張り兼警備役で団長と会計長が顔を見せていた。
スヴェンは文官五人と執務室で留守番中である。
関係者以外立ち入り禁止を事前通告したことと、違反者への罰則が『試食の半年間禁止』という重いものだったため、ロビーから食堂の中を窺ったり、入ってくるような者は誰一人としていない。
「こちらの蒸篭は祭りが終わり次第返してもらいますが、木工工房に見本として見せても構いません。フィッロスの木を薄く削いで、熱を加えながら曲げて輪にしてから留めてやれば問題ありません。底の部分も単純に溝へ嵌め込んでいるだけですから、フィッロスの扱いに慣れれば作れるでしょう。
下から湯気は通っても中のものが落ちない程度に穴を開けて、湯気の熱で調理するための道具です。森の民が作る所を見せてもらったことがあります」
飛鳥がゆっくり説明していく中、ミルヤが手にした紙にペンを走らせている。
女子棟で植物紙が常用されるようになり、飛鳥が料理や衣服、魔術・錬金術などを教えていくにつれ、記録に木板ではなく紙を使うことが増えていった。
現在はそれぞれの分野ごとにメモが持ち寄られて内容がまとめられ、本の原型が出来かけているという。特に充実しているのは料理のレシピで、次いで魔術と錬金術の講義ノート、衣料品のデザインと縫製、編み物のやり方や型紙、装飾品のデザインの順に充実しているらしい。
レシピの充実に合わせて、これまで文字の読み書きが出来なかった平民出身のダニエやイェンナ、弟子たちも真剣に読み書きを習い始め、魔術師や錬金術師が教師となって毎晩勉強会を開いているらしい。
彼らが学んできたレシピを記録し、美味しくなるように工夫を重ねた内容を記していけば、それも料理人としての財産になるだろう。
「ホロゥの粉はボウルに半分から三分の一くらいまで。ここに塩とガラスの材料作りの途中で出来るソーダ灰、ムィアから抽出した半透明の結晶を入れてください。結晶は冬の間に研究室で作り貯めするつもりです。
こちらのボウルには酵母を一掴みと、砂糖を入れてぬるま湯で混ぜておきます。指先で酵母の塊を潰すようにしながら混ぜたら、すぐにホロゥのボウルに入れて一緒に混ぜます。このボウル一つで四回分くらいでしょうか」
口で説明しながら手早く掻き混ぜ、酵母入りのぬるま湯を粉に混ぜていく。
こちらの世界にはベーキングパウダーもドライイーストも無いから、考えられるものはいくつか試してある。重曹だけでは苦くなったのでいくつか混ぜ合わせるものを試したが、一番相性が良さそうだったのがムィアという秋から春に実をつける果物の果汁から抽出した結晶だった。
果実の味から考えるに、おそらくリンゴ酸のような成分なのだろう。
工業生産されるものがなく、天然ものしかなければ工夫すれば良いだけ。
それでも、アスカ姫が身に付けていた魔術や錬金術の知識が大いに役立っているのは間違いない。
「指を広げて掻き混ぜて、粉がまとまってきたら生地を捏ねていきます。酵母を混ぜた時の固さは耳たぶくらいが一番良いので、加える量には注意してください」
ボウルの中でまとまった生地を取り出して調理台に置くと、へばりついた生地を指先で掬い取りながら一塊にし、ぐっと体重をかけて捏ねていく。
軽い少女の身体とはいえ、肩や肘の関節で腕を固定して上半身の体重をかければそれなりの重量にはなる。体重が四十ヘルカト台としても、最低でもその四分の一くらいは乗せられるはずだ。
生地を二つ折りにして調理台の奥へ伸ばす要領で体重をかけ、何度か繰り返す。
動いて体温が上がってきたのか、掌から先が熱を持っている。
捏ねていたホロゥの生地は酵母や重曹、塩、砂糖が馴染んできたのか、その表面がつるりとした印象に変わってきていた。
「生地の第一段階はこんな感じですね。表面がつるんとしてきたらヴィリシの脂を少し混ぜます。料理に使うヴィリシの脂は熱で溶けたものを一度網や布で漉してから、室温でゆっくり冷やしてあげると良いみたいです。
この脂を混ぜて生地全体に馴染ませたら、中に入れる餡を作っていきます」
体温で溶けていく脂を平たくした生地に挟み込み、何度も折り畳んでは生地と空気、脂の層を増やしていく。手から伝わる熱で重曹と酵母も反応しているのか、だんだん生地から戻ってくる反応が変わってくる。
手が脂塗れになるのは最初から覚悟していたことだ。
作ったのは年に数回とはいえ、妹の葉月と皐月は冬になると「おやつに作って」と強請ってきたし、紫に「料理番組に出るから作り方を教えて」と頼まれた時には自宅のキッチンで二人揃って脂塗れになりながら作っている。
思い出に懐かしさはあるが、今は戻れる可能性が限りなく低い場所のことだ。
胸の奥できゅっと引き攣れるような痛みを覚えるが、引き摺っても仕方がない。
未練を振り切るように十分生地と脂が馴染んできた辺りで生地を丸めていき、つるんとした方を上にしてボウルに戻す。
「生地はこれで第二段階が終わりです。ユリアナ、そこの綺麗な布をぬるま湯に浸して、軽く絞って持ってきてください。ダニエも付いてきていますか?」
視線を移すと、調理台の反対側で同じように生地を捏ねていたダニエが肩で息をしながら生地を丸めにかかっている。
飛鳥の手順を見てから作業を始めているため少々テンポは遅れるが、きちんと付いてきているようだ。
パン作りを半ば専門にやっている弟子も、ダニエの後方で生地を捏ねている。
「こちらの生地はボウルの上に濡らした布をおいて、パンのように発酵させます。大体半鐘の四分の一から半分もあれば膨らんでくれると思います。心配な場合は作業の合間にちらりと確認する程度ならば大丈夫です」
説明するその間に調理台を片付け、ダニエの弟子たちが洗って下拵えしてくれていた野菜を順に並べていく。
飛鳥が目覚めてから辺境の森や原野の各地を探してもらい見つけ出した、食用の植物がずらりと台の上に並ぶ。それでもまだごく一部でしかないのだが。
青味の強い黄緑色の丸白菜は茹でて水気を拭いてからみじん切りにし、さらに軽く手で握って水気を絞る。握力が落ちた飛鳥にはとっては楽だったが、男性陣には水気を絞り過ぎないようにする力の加減が難しかったようだ。
生では辛味がある香味野菜で、直径四~五テセほどもある太いアーリウは土を落とす程度に洗ってから乳白色の茎をみじん切りに。
生姜のような味だが見た目はジャガイモのようなジェファラは厚めに皮を剥き、生え変わった角犀馬の角を加工したおろし器で丁寧に擂り下ろす。
形は違うが椎茸そっくりの味を出すシエニアは、石突きを切ってから錬金術で一度乾燥させて水で戻し、元の大きさまで膨らんだらこれもみじん切りにしていく。
「野菜の下拵えはここまでです。あとは肉や他の具の準備ですね」
ヴィリシとカァナの肉は脂身ごと手動式のミンサーにかけて挽き肉にし、厨房に置いてある簡易秤の石を持って大まかな肉の割合と重さを決める。
ヴィリシを三、カァナを二の割合で五百ヘカトくらい取り分けて、大き目のボウルに入れて全てを手で練りながら混ぜ合わせていく。
余ったら夜の賄いに小振りなハンバーグが数個増えるだけのことだ。
生肉を触る感触に慣れないうちは気持ち悪く感じるだろうが、使い捨てのポリエチレン手袋などない世界では素手で頑張るしかない。
飛鳥の隣ではリューリとリスティナがターラァプを洗って殻を剥き、包丁で深めに切れ目を入れて茶褐色の腸を抜いている。
貝柱のお化けのようなカンパシンプは水で解凍したものをヘルガが裂けやすい方向に沿ってみじん切りにしており、さらにその向こう側ではライラとマイサが飛鳥と同じように野菜を刻んでいた。
マイサとネリアは干したティロスと擂り下ろしたムィア、砂糖で柔らかく煮た豆を裏漉ししてから別のボウルで混ぜており、手の空いていたハンネが錬金術で余分な水気を取り除いてくれている。
アニエラとユリアナは別の鍋の上に蒸篭を置き、細い木の串でソレッティエという長さ十五テセほどの芋を蒸かしている。
焼いても蒸しても甘味の強いサツマイモのような根菜で、春から秋まで植えることが出来、食べられる大きさになるまで最低一月半程度という便利な作物だ。
一つの株から最大三十個ほど採れる上、水と日の光さえあれば砂地でもある程度勝手に育って増えてくれる。連作も出来るが、問題があるとすれば放置していたら勝手に増えていくという旺盛過ぎる生命力だけだろう。
荒地で野放しになったソレッティエは、ヴィリシの大好物でもある。
アスカ姫の国でも名前は違うが農村の救荒作物の扱いで栽培されていたらしく、市場で見かけた際にすぐにそれと分かったのだ。
スイートポテトやグラッセ、タルトやケーキなど作れるものは多いが、ユリアナ以下女性陣の体型を崩さないためにも、レシピはしばらく知らせず伏せておいた方が良いだろう。
けれどもミルヤとリューリ、リスティナは料理を中心に担当するだけあって聡いから、もう利用方法を思いついているかも知れない。
餡の準備が順調に進んでいるのを見た飛鳥は、手に付いた肉や野菜を丁寧にボウルへと落とし、それでも取り切れない分は素直にぬるま湯で洗い落とす。
生地の様子を見るためには仕方がない。
餡を包む時にもう一度汚れる可能性はあるが、厨房にはスプーンも大量に用意してあるからと割り切り、厨房用に砂糖の殻の粉末と保湿成分を足した特製の石鹸で指と指の間まで丁寧に洗っていく。
ダニエも一段落着いたのか、ねちょねちょと脂に塗れた手を気持ち悪そうにしながらも肉と野菜の欠片をボウルに戻し、器用に肘で水を出して手を洗っている。
「終わりましたか? では手の脂を落としたらこちらへ来てください。生地を確認して、発酵が終わっていたら切り分けて餡を包みます」
「あ、はい。餡はこのままで大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。それに、生地がどの程度膨らむかも試しておかないと」
ぬるま湯に浸して絞った布をゆっくり捲ると、三割ほど膨張した生地がつやつやとした表面をこちらに見せている。ベーキングパウダーを使った時は倍くらい膨れていたから、予想より膨らみが小さい。
発酵する力が弱かったのかと思ってホロゥの粉を付けた指を差し込んでみると、見た目に反して弾力自体は十分に感じられた。
「発酵は無事出来ているようですね。一応試してみましょうか」
首を傾げながら細い指先で摘める程度の生地を取り、そのまま直径一テセほどの球を作る。生地作りにベーキングパウダーが使えないにしても、膨らみ方に少々不安を覚えたからだ。
指先に生地の球を浮かべて耐熱・耐水の結界を張っておき、魔術で出した水を錬金術で水蒸気に変えて、熱と圧を高めて一気に蒸し上げていく。
仮想環境とも言うべき結界の中で、熱と水蒸気に晒されて膨らみ始めた生地は勢いよく体積を増し、やがて筒状に張った結界の縁に触れて上へ上へと伸び始める。
結果は恐るべきものだった。
膨張した生地は飛鳥が当初予想していたように「張りのあるもちもちふかふか」なものだったが、膨張率は想定以上。
結界を押し広げるように膨らんだ生地は、直径五テセ、長さ十テセほどの立派な円柱状のパンになってしまっている。
これなら薄い生地で餡を包んでも十分膨らんでくれるだろう。
あのまま何の疑問も違和感も抱かずに生地を切り分けて蒸し器へ入れていたら、ある意味大惨事になっていた可能性がある。
「少し摘んでみますか、ダニエ?」
余分な熱を錬金術でねじ伏せて排気した飛鳥は、蒸し上がった生地の先端を興味深そうに見ていたダニエへと向けた。
ヴィリシの脂の甘い匂いとホロゥの持つ甘い匂いが重なり、見つめていたダニエの喉が思わずごくりと鳴っている。
意を決して指を伸ばした彼は、先端を少しばかり千切って口に含み、ほとんど重量を感じないそれを噛み締めるように味わっていた。
飛鳥はその間にユリアナとミルヤにも試作の生地を食べさせてみて、感想を聞くことにする。ほぼ完全な形で残っていた皮は作業を終えた者たちが順に摘んでいき、間もなく調理台の上から姿を消した。
作業中で食べられなかったリューリとリスティナの二人が悲しそうな顔を見せていたが、彼女たちには完成品を先に食べさせてあげれば良いだろう。
「思ったより生地が膨らんだので驚きましたが、皮として使う厚さと量を調整すれば大丈夫だと思います。餡の準備が出来ていたらすぐに作り始めますが、もう準備は出来ていますか?」
「こちらは問題ありません。ロビーの方が騒がしいようですけど、内側から鍵を掛けてありますし、ランヴァルド様も見張っておられます。厨房にもカーテンを引いていますから邪魔は入らないと思われます、姫様」
自信たっぷりに答えるユリアナに頷き返した飛鳥は、ボウルの生地を取り出して丸のまま伸ばすと、四分割してからホロゥ粉を打ち粉に撒いてそれぞれを丸める。
伸し棒を当てて薄く延ばした皮をさらに八つに分け、その皮に餡を包んでいく。
料理経験があれば、餃子の皮のように見えたことだろう。
膨張の比率が五倍以上だったための安全策だ。量産するなら、ホロゥ粉と酵母の配合比率や膨張率、部屋の温度を細かく試して記録し確かめていくしかない。
小麦とホロゥという『世界を隔てた似て非なるもの』の差を改めて体験し、思い知らされたのだから。
「生地が予想以上に膨らんだので、皮は薄く小さく作りますね。餡と皮のバランスは何度か作ってみて、一番良いと思う厚さを探すしかありません。
餡を作る時に手が汚れるのは、他に方法がないので諦めてください。生地と餡を作る工程の間に毎回手を洗えば問題ありません。
魔術や錬金術で全部解決出来なくもないですけど、普通の魔術師なら生地を作る第一工程の途中で魔力が枯渇して倒れるはずです。
生地は等分に切り分けたら一度丸めて、そのまま鍋に入れた水が沸騰するくらいまで休ませます。私は錬金術で作業を進めてしまいますが、作っている間にダニエの生地が出来上がるでしょう。次の手順を先に説明して行きますね」
説明の通りに伸ばした皮を片手に持ち、反対側の手にはデザートやお茶の時間に使うような小さなスプーンを握る。
「皮はこのように広げて持って、手の上で作業を進めます。餡はお茶やデザートに使う小さいサイズのスプーンを使い、くるりと軽く回転させる程度で。餡を大きく取り過ぎると、後から破裂して中身が零れてしまいますから気をつけて。
中央に餡を載せたら、ごく薄い木の板か植物紙に特製の蝋を染み込ませたものを敷いて、その上で形を整えます。
蝋はティロスの木から採れたものを錬金術で加工しますが、一度で大量に作れるから女子棟に中くらいの樽で一つ分なら在庫があります。
端から中央へ生地を寄せて摘み上げるように、こうやって襞を作っていきます。餡が転げ落ちないように指先で支えておけば大丈夫ですから」
言葉と指先の動きを合わせながら、経木にも似た香りが良く薄い木の板を四角く切り、直径四、五テセの饅頭型に形を整えていく。
饅頭の生地の直径よりも経木の方が倍くらい大きいが、先ほどの生地の膨張具合を考えると妥当な大きさだろう。
それに飛鳥だった時は直径七、八センチのものを作れたのだが、アスカ姫の手の大きさではそれ以下のものしか作れないのだ。
単純な男女の差ではあるが、何となく悔しい。
「襞をこうして寄せ終わったら、最後に上部を軽く捻ってしっかりと餡を閉じ込めます。餡と生地は出来る限り隙間を作らないように。閉じる時に隙間を作ってしまうと、蒸し上げた時に破裂するかも知れませんので気をつけてくださいね。
包み終わったらフィッロスで作った蒸篭に並べておきます。
魔術や錬金術を使わないなら、先ほど生地を切り分けて休ませた時と同じくらい時間を空けてください。
ダニエはそちらの生地を使って、同じように包んでみてください。最初は上手く行かなくても、数を作っているうちに指先が動作を覚えてきて慣れますから」
説明しながらせっせと餡を包み、小さな肉餡の饅頭を七つ作ったところで蒸篭に並べ、魔術と錬金術で温度を調節し発酵を促す。
自身の感覚で三十秒ほどもすると、饅頭の襞が少し盛り上がった気がする。
実際、経木の上で皮の表面に艶が増して一回り大きくなっていた。
「先ほどより襞が盛り上がっているのが分かるでしょう? 普通に並べながらでも生地の発酵は進むので、手早くやっていきます。
蒸篭は沸騰したお湯の上にこのまま載せます。載せる時に湯気が前後左右に逃げますけど、とても熱いので火傷をしないように……」
湯気に向けて息を吹きかけて飛ばし、気をつけて鍋の横から蒸篭を載せてフィッロスを編み込んだ蓋を閉める。
要は竹細工のようなものだ。加工しやすい反面、熱と湿気にも強く軽い。その上綺麗に洗って乾かせば、その後何十年も使用に耐える優秀な調理器具にも変わる。
そんな木が辺境の日当たりと水はけの良い斜面に森の一部として生えているのだから、使わない手はないだろう。
こちらの世界では地下茎こそ無いものの、十数年に一度咲く花から実が出来て、それを双月の重なる晩に木自身がばら撒いて生息範囲を広げるらしい。
地球には存在しない不思議な植物である。
「蓋をして生地を寝かせるのと同じくらいの時間、こうして湯気だけで調理します。湯気で蒸す料理はこれ以外にもありますが、ミルヤたちには別のお菓子作りの時に教えますね。
ダニエにも基本的な料理は教えますから、新しいメニューが出来たら私にも教えてください。肉料理では余分な脂が底板の隙間から落ちて行くので、淡白な味を活かしたいサラダ用の肉の調理などには良いと思いますよ」
味噌や醤油が見つかっていないために作れないが、東坡肉も一時間から二時間蒸して煮込むことで柔らかいものができる。
味と性質が近いヴィリシの肉なら再現出来るかもしれないが、今のところは調味料の種類の少なさが弱点だ・
「今蒸しているのがヴィリシと野菜を具にした肉饅頭で、リューリとリスティナが作ってくれているのが海の素材を入れた海鮮饅頭です。
マイサが作っているのが甘味の強い豆と乾果数種類を具に包んだ餡饅頭、ネリアが丸めてくれているのが蒸したソレッティエを潰して砂糖と干したヴィダの実を加えた餡の芋饅頭ですね。
順番に蒸し上げて行きますが、この大きさなら二つくらいで一食分の栄養を摂ってしまうことがありますから――」
作業を見ていたユリアナや、練り上げた甘い匂いの餡を見つめていたリスティナ姉妹の表情が一瞬で強張る。
飛鳥が試食の数を制限した意味がようやく理解できたのだろう。
「夕食を調整すれば問題ないとは思いますけど、食べ過ぎには注意してください。
今回は皮に包む中身を変えることで種類が増やせることを見せましたが、売り物にするなら値段の設定と買い手の金銭感覚の差や、材料の仕入れ易さと市場に流通する量、作るまでの時間や利益のことも考える必要があるでしょう。
その辺りは私よりもダニエや会計長、直営商会の方が詳しいと思います。
お祭りの時だけの特別な値段で利益を度外視することも出来ますが、後々自分の首を絞める原因にもなりかねないので注意した方が良いでしょうね」
頃合いを計って蓋を少しだけ持ち上げ、並んだ饅頭の直径が三、四倍に膨らんでいるのを見て一気に外し、蒸気を解放した。
経木には饅頭の底から溢れた汁がわずかに染み、暴力的なまでに甘い脂の匂いを周囲に放っている。
部屋の気温と湿度がさらに上がり、同時に厨房から食堂へ、そして扉の隙間からロビーや受付カウンターへと芳しい匂いが床を這って伝わっていく。
夕食時を告げる午後三の鐘にはかなり早いが、小腹が空いた時間帯に美味そうな匂いが漂うのは十分過ぎる飯テロ行為だろう。
ダニエの弟子数人は既に何度か小さく腹の虫を鳴かせているし、丸め終えた饅頭を蒸篭に並べているリューリや記録を取り続けているミルヤも目が潤んでいる。
「出来上がりましたし、早速試食しましょうか。団長、カウンターにいる事務方のどなたか二人と、依頼待ちをしている商人がいたら五人まで選んで、食堂に案内して頂けますか? 人選は団長にお任せします。
蒸し上げるのは人前に出る訳にいかない私が担当しましょう。
厨房との間に目隠しの衝立を立てて、入り口に護衛も立ててください。クァトリとダニエのお弟子さんから二人にお願いします。護衛は途中で交代してあげてください。
それと、ユリアナたちは交代で調理と配膳、試食をお願いしますね」
きちんと側仕えたちにも試食の時間を取ってあげないとかわいそうだし、出来上がった饅頭を食堂へ運ぶ人間がいないのも困るだろう。
執務室で半泣きになりながら書類仕事をしているだろう副長も呼んであげた方が良いだろうか。
アスカ姫が赤獅子の槍に身を寄せているのはロヴァーニの有力者なら知っているし、市場に姿を見せているので町の民も承知しているが、それを声高に広める者は誰一人としていない。
ロヴァーニを半年余りで飛躍的に豊かにさせ、凶作と抑圧に喘ぐ農民や、賄賂と税に苦しめられていた商人たちを受け入れる土台を作り上げた大恩人で、町の民に愛らしい笑顔と慈悲を振り撒く大事な『姫様』だ。
先週末の報告書では、流入者を合わせたロヴァーニの民は二千人を超えている。春の段階でおよそ一千人だったから、倍増以上である。
その基を作ったアスカ姫が『厨房の外に姿を見せない』と決めたのならば、身分を抜きにしても意思を尊重すべきだ。
団長は騎士のように一礼して扉を開けると、慎重に首だけ外に出して二言三言声をかけている。一瞬だけ短い歓喜の叫び声と落胆のどよめきが響いたようだが、厨房で忙しく働く面々には気にしている時間がない。
扉の内側で待っていた会計長や手の空いている側仕えたちがテーブルを整え、扉の隙間から招かれた数人を座らせていく。
蒸し上げた饅頭は順に厨房から運び出されて行き、最後の蒸篭を送り出した後、飛鳥たちは厨房の中でようやく一息吐くことになった。
食堂からは賑やかな声が衝立越しに伝わってくる。
断片的に聞こえるそれは概ね好意的な反応のようで、副長のスヴェンが上げた雄叫びが窓を震わせた以外は大人しい。
「肉まんと海鮮まんは問題無いですね。豆餡まんと芋まんも特に問題なし……仕入れが難しいのが海鮮まんと豆餡まん。肉まんもヴィリシの飼育と繁殖が軌道に乗らないと数が制限されますから、無制限に出すのは厳しいでしょうね」
種類を試したいというミルヤと全種類を半分ずつ分け合い、彼女が書いたメモを確認しながら懐かしい日本の冬の味を思い出す。
アスカの身体になって半年。味覚も男性だった時と好みが変わってしまっているのか、肉まんよりは甘い餡の方が美味しく感じられる。
「ミルヤ、ここはこのままでも良いですが、こちらは材料の比率を少し変えてくださいね。女子棟の厨房でも試す必要がありますけど、酵母の量とホロゥの量の割合、生地を発酵させる時の温度は検証が必要です」
幸せそうに蒸かし立ての芋まんを頬張る彼女の隣で、飛鳥が赤いインクでラインを引いて注釈を入れる。
発酵を左右する室温や酵母の量もそうだが、生地を捏ねる時間と発酵時間は日本で作っていた時と明らかに結果が違っていた。
ドライイーストやベーキングパウダーを使った生地ではせいぜい倍の膨らみまでしか体験していないが、ヴィダやウィネルの実から作った天然酵母はその倍以上の効果を見せている。
「お茶のお代わりを入れますね、姫様。それにしてもこの甘い饅頭というものは、菓子としても優秀に思えます。中身を工夫すればいくらでも種類が作れる手軽さも素敵ですわ」
食堂での世話が一段落着いたのか、静かに厨房に戻ってきたネリアが沸かした湯を使ってテノを淹れてくれた。半年ほど毎日飲み慣れた、安心できる味だ。
飛鳥も何度か淹れ方を習っているが、未だにネリアの領域には及ばない。
「テノの淹れ方では、まだまだネリアに追いつけませんね」
「一つくらいは姫様に教えられるものを残しておいてくださいませ。私もミルヤやリスティナたちにお菓子作りを学んだり、今日のように調理を習っているのです。
姫様に追いつくことは難しくても、そうなりたいという努力はしています。
姫様は私たちの目標であり続けて頂きたいのです」
穏やかに微笑んだネリアは、特に気に入ったらしい芋まんを小さく千切って口にしている。ヴィダの実の乾果と芋餡の組み合わせが好きになったらしい。
今は教えていないが、間違いなくスイートポテトも大好物に変わることだろう。
衝立の向こう側、食堂では時折暴れるような音も聞こえるが、護衛が入り口で警戒している厨房に影響はない。
安心してお茶と菓子の時間を楽しんだ飛鳥たちは、戻ってきたダニエの弟子たちに後片付けを頼むと、使った道具を持って側仕えたちと一緒に女子棟へと戻った。
その夜の食事、ユリアナたちは控えめにして正解だったらしい。
試食の選から漏れた女性魔術師や錬金術師、事務員たちには不満解消のため追加で作った芋まんを提供してみたのだが、材料のコストパフォーマンスに対する体重増加の危険性から、提供は週に一回までという内規がその場で決められている。
世界が違えど、女性にとって体重とプロポーションの問題は常に付き纏うのだ。
アスカ姫の身体は何故かそれらと無縁のようだが、成長期だからだろうか。
翌日以降、会計長とダニエが必死に試作と計算を重ねた結果、冬篭りの祭りで提供されるメニューが決定される。
町の食堂や商人たちと比べて一日の長がある唐揚げと、各六百個を上限に提供を決めた肉まんと芋まん、それにヅェネファ豆のもやしと海草の細切り、炒めたオルニアを二種類のきのこの出汁で煮込み、塩で味を整えたスープ。
在庫が切れたら追加無しで終了にするということになった。
唐揚げだけは四つで銅貨一枚だが、それ以外は全部錫貨七枚で供する。
長い冬を家に籠もって過ごすための景気づけと、新年を祝うための祭りだからある程度は赤字を覚悟し、採算を度外視するのが通例のようだ。
連日仕入れに向かう調達班の人数が増え、非番で本部に残る者たちによる狩りの回数も飛躍的に増える。
直営商会の解体所は連日団員の持ち込む獲物で溢れ、本部と女子棟地下の冷凍庫は通路にまで肉を詰めた箱が積み上がっていた。
飛鳥がアスカとして迎える初めての年の瀬も近づいている。
新しい年と長い冬を迎える「冬篭りの祭り」まで、あと十日。
お菓子業界の稼ぎ時ですが、ゲーム制作の追い込み時期で籠もりきりのため縁も時間もありません。
作品世界ではカカオの類似品も見つかっていないため、代わりに姫様に色々作ってもらいました。
寒い時期のあったかい肉まんは正義。でもあんまんは粒餡か漉し餡かゴマ餡かで仁義無き戦いが起きます。この世界では小豆の代用品・類似品が見つかっていないので、飛鳥も一応自重しました。
作者は横浜中華街に美味い肉まんを食べに行きたい。裏路地に小さいけど美味しい店があるので。
この世界の錫貨は銅貨より額の小さい貨幣で、国により錫貨十枚から十五枚の範囲で銅貨(小銅貨)一枚に交換されています。ロヴァーニでは現在錫貨十二枚で銅貨一枚くらい。日本円の感覚だと錫貨一枚で十円から二十円くらい? 物の交換価値も違うので一概には決めにくいです。




