86 湖底の都
お待たせしましたー!
八十六
見上げればアクアリウムのような青に満ちた空が広がる幻想的な景色の下に、より多くの人々で賑わう場所がある。そこは、商業区画とされており、生活や冒険に欠かせない品々が並んでいた。商人の中にも、五十鈴連盟に協力する者が多数存在しているようだ。
扱っている商材が分かり易いように看板を掲げる店舗が軒を連ね、ところどころに屋台も見られる。
商店街と化したその区画内を、ミラはあちらこちらと巡っていた。
(随分と賑わっておるのぅ)
すれ違う人や、先を行く人々は、どこぞの博覧会かという程に多様に富んでいた。メオウ族にガリディア族、ドワーフ族とエルフ族もいれば、妖精族や、竜人、魔人といった希少種まで網羅しているのだ。更にはその服装も様々で、実用性に特化した鎧や、使い込まれた武具を身に着けた、言うなれば冒険者風。形状、色使い、そしてどこか目を引く特徴のある民族衣装。専門が一目で判断できるマークの付いたエプロンを着た職人。かと思えば、シャツにパンツ姿のラフな恰好の者や、いつか見たジャージ姿の者も居る。
入れ代わり立ち代り目まぐるしく流れる人々の中を、精霊達もまた舞うように流れていた。
カグラから貰った引き換え符は、大量の食料に変換された。こんなに必要なのかと疑問に思いながらも受け取った後は、武具屋や薬屋を覗き、ゲーム時代からの細かな差異も把握して、今は自由に散策しているところだ。
ふわりふわりと屋台から立ち上る匂いが、そんな人の波に紛れてはどこからともなく漂い香ってくる。立ち止まり周囲に視線を向けると、ミラは誘われるように屋台にひょこりと顔を出した。
(ぬ、あやつは……)
更なる香りに誘われてふと顔を上げると、ミラの視線の先には祈り子の森で見かけた幼精霊の姿があった。五十鈴連盟と初めてであった湖で、蝶を追いかけていた幼精霊である。今は、空の湖面の揺らぎとともにちらりちらりと地面に映る光を追いかけて、行ったり来たりと遊んでいる。
あの後、五十鈴連盟に無事保護されたのだなと、ミラは楽しそうな幼精霊の姿に安堵した。
と、その時であった。ミラは突然、背に衝撃を受けてつんのめり、そのまま突っ伏すようにすっ転んだ。
「なにごとじゃっ」
真っ先に顔だけを上げて周囲を睨むミラ。
「ああっ、ごめんね、ごめんねー」
するとそんな声と共に、ミラは腰にそっと腕を回されると、そのまま抱き起こされた。振り返れば、薄い紫色の髪をおさげに結ぶ、淡い色合いのローブを纏った女性の姿があった。どこか幼く見える顔立ちの女性は「ごめんね」と繰り返しながら懸命にミラの服の汚れを払っている。
「いや、問題ない」
ミラは、そう言いながら女性の顔をじっと見る。違和感、というより、どこかで会った、または誰かに似ている気がしたからだ。その内に汚れを払い終わった女性は顔を上げると、ミラを真っ直ぐと見つめ返し、そしておもむろにぎゅっと抱きしめた。
「なにごとじゃー!?」
ゆったりとしたローブからは分かり辛い柔らかな肉感を頬で感じながら、ミラは突然の抱擁に驚き、反射的に身を滑らせるようにして脱出する。
「あ、ごめんね。つい……」
女性は、しゅんと肩を縮ませ、ミラを抱きしめていた両手を所在無げに彷徨わせる。ミラもまた、頬に残る余韻を思い出しながら、改めて残念そうに肩を落していた。
悲壮な面持ちのそんな二人の方に向かって、恐る恐る一人の男が声をかける。
「リーネ。……やっと見つけたと思ったら、何やったんだ?」
リーネと呼ばれた女性は「ぶつかっちゃったのー」と返事をすると、思い出したかのようにミラの身体に触れる。その手付きは優しく、同時に白い光に包まれていた。
「ごめんね。怪我は無かった? 本当にごめんねー」
リーネの手の光は、聖術によるものであった。その手がミラの身体に触れると、気にする事でもない程度の僅かな擦り傷の痕が、淡い光と共に消えていく。男は、何があったのかを大体察すると、ミラの身体を癒し終えたリーネの頭を小突く。
「まーた幼精霊でも見ながら歩いていたんだろう。まったく」
どうやら男の言うとおりだったようで、リーネは言い訳する事もなく「うん」と返事をすると「ごめんねー」とミラに向かい頭を下げる。だが顔を上げて、真っ直ぐミラを見つめると、またもその両手は少女をぎゅっと抱擁していた。
「どうすれば、いいのじゃろうか?」
今度は抵抗せず、ミラは、されるがままの状態で知り合いであろう男に視線を向けて問いかける。そして、今のミラには先程のような下心は無かった。見つめられた時に浮かんだ、リーネのどこか悲しそうな表情がそうさせたのだ。
「だめだぞ、リーネ」
男が囁くようにそう言うと、リーネは名残惜しそうにミラを放して、深く溜息を吐いた。
その男、年の頃は三十を少し過ぎたあたりだろうか、程よく引き締まった体躯をしており、髪は稲穂のような金色で短く刈り揃えてあった。軽装に身を包み腰の左右に剣を帯びている。そして切れ長の目に、細身の眼鏡を掛けており、思慮深く落ち着いた印象だ。男は、どちらかと言うまでもなく、美丈夫である。
「僕はアシュリー。こっちは、妻のリーネなんだが、どうやら妻が失礼をしてしまったようで。すまなかった」
アシュリーと名乗った男は、心底申し訳なさそうに表情を曇らせ頭を下げる。
「いや、別に気にしておらぬよ。どうにも訳がありそうじゃしのぅ」
多少は驚いたものの、気になるような実害はなく、それどころか何度も何度も謝られるので、ミラはどこか気の引ける思いでそう答えた。
「ありがとう」と、頭を上げたアシュリーは、少しだけ寂しそうな顔をして続ける。
「僕達は夫婦でね、今年で十になる息子がいるんだ。だけど、事情があってもう何年も会えてなくて。その反動からか、リーネは幼精霊をずっと眺めたり、歳の近そうな子を衝動的に抱きしめたりするようになってね。人にぶつかるのも、もう何度目か。その都度言ってはいるんだけど」
そう言ってアシュリーは、リーネをそっと抱き寄せる。それは何かからか守るように、または何かを守るかのようであった。
「難儀じゃのぅ……」
息子恋しさの余り、子供の姿をした幼精霊を目で追ったまま歩き人にぶつかる。そして、見た目は子供であるミラの事を同じ理由で抱きしめる。そんなリーネの行動の訳を知ったミラは、同情の念を抱きながらも、その事情が気になった。それほどまでに恋しい息子に会う事の出来ない理由とはなにかと。
「差し支えなければで良いのじゃが、訳を聞かせてもらってもよいか?」
「ああ、構わないよ」
ミラが訊くと、アシュリーは躊躇う様子もなく頷いた。そして、抱擁していたリーネをそっと離し、その頭にぽんと手を乗せる。
「リーネは精霊とエルフのハーフなんだ」
「ほぅ……。そうじゃったか」
言われてミラは、リーネに視線をやる。すると、その視線に気付いたリーネは両手を広げて、胸に飛び込んで来いとでも言いたげに陽気な笑顔を浮べた。
どうやら、本人はこれから話す事情に関しては、全くといっていいほど気にしていない様子である。それを確認すると、ミラはアシュリーに視線を戻す。リーネは、静かに両手を下ろして項垂れた。
「聞いた事あるかどうかは分からないけど、精霊とのハーフとして生まれた者は、特殊な技能を持っている事があるんだ。そしてリーネは、力の強い精霊を惹き付ける技能を持って生まれてね。当然、キメラはその技能を利用しようと狙ってきて、その時に僕達は五十鈴連盟に保護され、今ここに居るというわけなんだ」
そこまで言うとアシュリーは周囲、五十鈴連盟の本拠地である湖中の都を見渡してから、愛する者を守り切れない自分の不甲斐無さに苦笑する。
「だけど、奴らはリーネの事を諦めてはいないようなんだ。即座に監視の網が敷かれてた。どこにその目が光っているか分からないから、下手に出て行って息子と会っているところを見られたり、リーネの子供であるとばれたりすれば、あの卑劣な奴等の事だ、きっと息子に手を出してリーネに言う事を聞かせようとするだろう。だから、この戦いが終わるまでは一切接触しない方がいいって……ね」
アシュリーもまた息子に会えない事は辛いようで、リーネの行動も分からなくはないと言い、ミラの頭にそっと手を乗せた。
アシュリーの言うように、精霊と人族の間に生まれた子供は、何かしらの特異性を持つ事がある。中でもリーネの技能は、キメラクローゼンからしてみれば、その目的達成に計り知れない程の効果が期待出来るものだ。だからこそリーネは、執拗に狙われた。本部に送り届けられる途中に数十もの襲撃があったのだ。その為、途中で子供を連れ出す事も出来ず、更には関係性をキメラクローゼンに微塵も悟らせる訳にはいかないのである。
事情を理解したミラは、笑顔を曇らせているリーネに、無言で頭を差し出した。
「おお、アシュリーとリーネではないか。それと、お嬢ちゃんもか」
遠くから見れば仲の良い親子のようにも見える三人に、買出しの為に商業区画を訪れたアーロンが声をかける。アシュリーとリーネは、アーロンと顔見知りのようで「こんにちは、アーロンさん」と笑顔で答えた。
「どうやら、ご夫人がまた発作でも起こしたようだな」
アーロンは、撫でられ過ぎて髪を乱しに乱したミラを一瞥すると、真面目そうな顔つきのままアシュリーに視線を投げかける。幼精霊を目で追いかけてぶつかったり、子供を見ると抱きしめるといったリーネの行動は、ここでは随分と有名な事のようである。
正にうってつけとも言えるミラの姿を目にすると、アーロンはずばりと言い当てた。
「だが、それももう暫くの辛抱だ。これから重要な任務が開始される。状況が大きく動くはずだ。決着も近いだろう。きっともうじき子供に会えるぞ」
アーロンはそう力強く言葉を続ける。アシュリーとリーネは驚いたように顔を見合わせてから「本当ですか!?」と、期待に満ちた声で聞き返した。
「ああ、本当だ。とても強力な助っ人が来てくれたからな。お前達はこのお嬢ちゃんが何者か聞いたか?」
「そういえば、まだ名前も聞いてませんでした」
アシュリーは思い出したように言うと、銀髪の少女を真っ直ぐと見つめ、リーネもまた熱い視線を送った。ミラは、そんな二人の注目を受けると、胸を反らして顎先を指でなぞりながら威厳たっぷりに声を作り「ミラじゃ」と答えた。
「最近、キメラの構成員を捕まえたという話があっただろう。このお嬢ちゃんの手柄だそうだ。しかも、ウズメの嬢ちゃんが認める実力者だ。どうだ、心強いだろう?」
そう言ってアーロンは、口端を上げてにかっと快活に笑ってみせた。普段は余り笑わず、鷹のように静かに構えたままであるアーロンの珍しい表情に、アシュリーとリーネもつられるかのように笑顔になる。
「そうだったんですか。それは頼もしいですね!」
アシュリーは、驚嘆したように目を真ん丸く見開き、同時に歓喜した。五十鈴連盟の総帥として君臨する、ウズメことカグラ。その実力は、その下に集まった誰もが畏敬の念を抱くものであり、また畏怖する程のものでもあった。故に判断基準は高く、アシュリーが知るウズメに認められた者といえば、Aランク冒険者と、それらに匹敵する者の中でも更に上位の一握りである。
可愛らしい服に身を包む銀髪の少女をまじまじと見つめてから湖面揺らめく空を見上げ、アシュリーは世界の広大さに笑い、小さく溜息を漏らした。
「任せておくが良い。わしも約束しよう。近いうちに決着してみせると。だから、もう少しの辛抱じゃ」
親にとって、子供に会えないというのはどれほど辛い事か、ミラはまだ理解出来ない。だが、親に会えない子供の辛さは痛いくらい分かっている。ミラは、安請け合いは出来ない問題だと自覚しながらも、そう言わずにはいられなかった。
「もうじき、会えるのね。もうじき……」
ミラの事をじっと見つめていたリーネは、一切の曇りもない堂々とした少女の物言いに、安堵するかのように呟いて瞼を閉じる。そして、大事な何かを守るかのように両手を重ねて胸に抱いた。アシュリーは、そんなリーネの肩にそっと手を置くと、ミラとアーロンに無言のまま小さく頷くように礼をした。
「ではな。吉報を待っていろ」
アーロンはそう言うと、手を重ね合わせる夫婦を一瞥してから、明日の準備をするためにと商業区画へ去って行く。ちらりと垣間見せたその眼差しは刃物のように鋭く、それでいて優しさに満ちた、御剣のような輝きを湛えるものであった。
「まあ、そういう事じゃ。お主らは、お主らで出来る事をすればよい」
本拠地から動けずもどかしい思いをしている二人の気持ちを察して、そう声をかけてから、ミラもまた帰路につく。
リーネだけでなく、アシュリーもまたキメラクローゼンに顔を知られているので、希望しても外部の作戦に参加できない。二人は、堂々として頼もしく見えるミラの背中を祈るように見送った。
帰路の途中、街灯が点き始めた大通りを、ミラはアシュリーとリーネの顔を思い浮かべながら歩いていた。
(……はて、アシュリーとリーネ。どこかで会ったかのぅ)
そう、僅かに記憶に残るその名前を反芻するが、結局、思い出す事は出来なかった。
主に食料の買出しを終えたミラは、カグラに言われたとおり大内裏に戻ると、女中に案内されて奥座敷に通された。そこは、五十鈴連盟の総帥の私室であり、最初に会った時とは違う簡素な服装のカグラが居た。
「なんというか、相変わらずの恰好じゃのぅ」
カグラの姿を見たミラは、開口一番にそう言った。
「だって、一番落ち着くんだもの」
赤いジャージを着込んだカグラは手元の書類から目を離し、ちらりとミラに視線を送る。
「で、準備は出来たかしら?」
「一通りのぅ」
「そう」
カグラは短く答えると立ち上がり、部屋の隅の座布団の山から一枚取って座卓の脇に置く。
「おじいちゃんの話を聞かせてほしいわ」
元の場所に戻りながら、カグラは好奇心に駆られた子供のような顔で言った。
「わしも、色々と聞きたいところじゃったよ」
ミラもまた、同じような事を考えていた。カグラはこの世界でどのように生きてきたのかと。望むところだとばかりに、ミラは座布団にどかりと坐りカグラと対面する。
それから二人は、この世界での経験を大いに語り合うのだった。
ミラにとっては一月ぶり、カグラにとっては十数年ぶりの語らいで盛り上がる。五十鈴連盟創設の経緯を知り、また、キメラクローゼンの事が解決したら九賢者としてアルカイト王国に帰るという約束を取り付けたミラ。カグラもまた目標達成までの間、ミラの助力を確約させていた。
それから話は、徐々に雑談に変わり、塔に連れ帰ったピュアラビットのルナにカグラが食いついたところで、湯殿の準備が出来たと女中が伝えに来た。
「じゃあ、行ってくるわね。後でルナちゃんの事、詳しく聞かせてもらうわよ」
そう言ってから、カグラは一番風呂に向かった。戸が閉まると、板張りの間には深い静寂が訪れる。
ミラは、どうしたものかと、改めて室内を見回した。中央には円い座卓が置かれ幾つかの書類が積まれている。その上の天井からは笠のついたランプが吊り下げられ、室内を明るく照らす。部屋の隅には堀があり、光を受けて霧を吐き出す薄霧草が植えられていた。
(随分と大人しい部屋じゃな)
カグラの現実の部屋を見た事のあるミラは、そんな印象を受けながら、もやもやと霧を吐き出し続ける薄霧草を眺める。そしてふと先日の夜が脳裏に浮かんだ。
(折角じゃ。風呂に入る前にアレをやっておくとしようかのぅ)
思い立って直ぐに立ち上がったミラは、カグラの私室を後にする。
ミラは若干道に迷いながらも、サソリと模擬戦を行った中庭に到着した。回廊を照らす燈籠から漏れた明かりが、生垣を越えて中庭に潜む夜の闇に微かに染みている。
するとそこに、ぽうっと光の球が現われて周囲の闇を一掃した。ミラの無形術による照明だ。
黄土色の地面に立ち、一呼吸おいてから構えると、ミラは本格的に稽古を開始した。
ミラが稽古を始めてどれだけ経っただろうか、不自然に明るい中庭を確認しようと訪れたサソリが顔を出す。そしてそこで、術士とは思えないような体捌きで銀の残光を帯びて飛び跳ねるミラの姿を目撃する。
(あれは……ミラちゃんか。あの動きは何かの武術かな? 巴派に似ているけど……)
決められた武術の型を反復しているかと思えば、合間合間に召喚術や仙術を織り込んでは、予想のつかない攻撃の分岐を繰り広げていくミラ。
「そんな動きも出来るんだね。それってなんかの流派なの?」
興味をそそられたサソリは、中庭を囲む生垣を軽々と飛び越えると足音すらさせずに着地して、爛々とした目を向け問いかけた。
「まあそうじゃな。名前は忘れたがのぅ」
ミラは、猫のように音もなく生垣を越えてみせたサソリに、感心しながら答える。サソリは「そっかー」と残念そうに肩を落した。
「それも、賢者ダンブルフから教わったの?」
「うーむ、そうなるかのぅ」
実際には、仙術の賢者メイリンから教わっている。ミラの返事は若干歯切れが悪くなったが、サソリは別段気にした様子はなく、それどころか心底嬉しそうな目でミラを真っ直ぐ見た。
「ところでさ、練習相手とかほしくない? 体術なら、付き合えるよ」
サソリはそう言うと、準備運動代わりに曲芸的な宙返りをして、そのまま適度な間合いを取って着地し構えをとる。予備動作が小さく、それでいて高く舞い上がるサソリの跳躍は確かな足腰に支えられたものだ。そしてミラは、その実力を十分に理解している。サソリはダークナイトと正面からぶつかり、十数体を倒した腕前だ。単純に体術だけとなれば、ミラよりも上かもしれない相手である。
「ふむ……」
ミラは、サソリと正面から向かい合い呼吸を整えると、口端を吊り上げて言う。
「では、胸を借りるとしようかのぅ」
同意の言葉にサソリは、ぱっと表情を輝かせて、身体のあちらこちらに仕込んであった暗器を地面に投げ捨てた。
「それは、あたしの言葉だよ」
そうして、二人の稽古が始まる。ミラは術を使わず、サソリは武器と技を使わず、それは純粋に身体のみのぶつかり合いであった。
稽古は、女中が湯殿が空いたと呼びに来るまで続いた。稽古の終わり時を見失っていた二人は、女中の声が聞こえると瞬く間に崩れ落ちる。ミラは髪を乱したまま天を仰ぐように坐り込み、額や頬を止めどなく流れ続ける汗を袖で拭う。サソリは全身を伝う汗を気にせず、屈み込むような姿勢で大きく肩で息をしながら地面に染みていく雫を見つめた。
それからミラは、女中に湯殿まで案内してもらった。サソリも当然といった顔でついて来ている。
大内裏に造られた湯殿は内装の全てが石造りで、まるで洞窟のようであった。たっぷりと湯を湛えた湯船は大きく、十人は楽に浸かれるだろう。
無骨な天井から落ちる滴露が湯船に波紋を広げるも、その音は滝のように流れ落ちる湯の響きに溶けて消える。心地良く響く水の音と、柔らかな絹の衣のように身体を包む、しっとりと濡れた空気が湯殿に満ちていた。
(ふむふむ、引き締まった良い身体じゃな!)
視界は湯気で微かに白くぼやけているものの、それでもミラは明確にサソリの身体の凹凸を捉え、満足げに頷いた。
湯船に浸かった二人は、稽古の時に気付いた互いの癖や特徴についてあれやこれやと湯よりも熱く意見を交わす。
浴室という誰もがありのままを晒す魅惑の空間に響く話し声の内容は、一切の色気もない暑苦しいものであった。
二人の意見交換会は白熱したのち、どちらともなく響かせた空腹を訴える腹の音で幕を閉じる。それから、また明日と挨拶を交わし、サソリは大内裏の自室に帰って行った。
ミラはというと、用意されていた浴衣を着て、女中に連れられるままカグラの私室前にいた。女中が戸を開けると、室内から腹の虫を躍らせる匂いが放たれる。座卓には、品良く彩り豊かな料理の数々が並べられていたのだ。
「早く早く」
向かい側に坐るジャージ姿のカグラが、急かすように手招きする。ミラが風呂から上がるのを待っていたので、カグラもまた空腹のままであった。
「これはまた、豪勢じゃのぅ」
ご馳走を前にしてミラは声を弾ませると、猫のように俊敏な動作で空いている座布団に坐り、部屋の主であるカグラをじっと見つめる。
カグラは、姿が変わったとはいえ久々に会えた懐かしい友を迎えた。
夕飯は、二人の再会を祝しての乾杯から始まるのだった。
書籍化作業とか……やって、ましたー!
詳しくは、こちらです。
http://micromagazine.net/gcn/




