62 ごめんなさい、ノア。
鋭い剣先が、ノアールに向けられる。
ノアールは動じずにそれを見据えた。
『これじゃあ、刺しにくいんだけど。ひれ伏しなさい』
『……っ!』
ユダの言葉ひとつで、ノアールはその場に膝を着いた。
ノアールの足元には、赤黒い色で描かれた陣がある。その中央にノアールは居た。
(だめ、だめ……ノアっ!)
ユダによって動きを封じられているというのは、セルイラも聞いていたので分かっている。
ただ、気になったのは、ノアールの表情と態度だ。
どういうわけか、ノアールはユダの気を荒立たせ、わざと早く儀式に持ち込むようにしていた。
焦りと不安が、セルイラに押し寄せる。
体温は下がり、指先がどんどん冷たくなっていく。
──聞こえるか?
ビクリとセルイラは体を震わせた。
声がした。頭の中から、ノアールの声が。
(ノアールなの?)
自分は声を返すことができない。これは、念話だ。
──このような事態に巻き込んでしまってすまない。怖い思いをさせてしまっただろう。もう少しだけ、辛抱して欲しい。
頭に流れるノアールの声は、セルイラを優しく気遣い、慰めているようだった。
あまりにも穏やかな声音で話すので、セルイラの目元には涙が浮かんでしまう。
──もうすぐで、終わる。私を、信じてくれ。
ノアールの声は、そこで途切れた。
(……ノア)
もうとっくに信じている。
けれど声は出せない。伝えたいときに、伝えることができない。
(……っ、待って、もうすぐで終わる? なにをするつもりなの?)
ノアールの言葉を思い返して胸が急く。まさか、彼が今からやろうとしていることは。
(まさか)
……確か、メルウが言っていた。ノアールの様子がおかしかったと。彼と相対した時、吹っ切れたような、思い切った感情がノアールから感じたのだと。
(まさか、ノア……あなたは)
冷や汗が背中を伝う。セルイラが信じたくない彼の思惑に気がついたとき、鈍い打撃音が耳に入ってきた。
無様にもがきながら、セルイラはその場所を見る。
思考も胸の内も、どうしようもなくぐらぐらと揺れてしまう。
『これなら、刺し違いはないわね』
陣の上に居たノアールの胸元を、ユダが片足を上げて思い切り踏みつけていた。
確実に仕留める。ユダの目は、恐ろしく血走っている。
ノアールは静かに、突き立てられようとしている刃を見つめていた。
(やだ、いやだ……ねえ、お願い。やめて)
この声が、彼に届くことはない。痺れまで出てきた体を、無理にでも抗おうとした。
セルイラは手を伸ばす。前へ、前へと、動かして。
それでも、届くことはない。
(どうしてわたしは、こんなに無力なの。なにもできない。またこうして、見ているだけしかできない。あなたが今、目の前で)
その命を擲とうとしているのに。
『最後ぐらいは、楽に死なせてあげる。ここに一突きでね』
ユダの持つ剣先が、ノアールの心臓目掛けて振り下ろされる。
一寸の狂いもなく、息の根が止まる場所へ。
(――ノア!!!!)
どうかわたしを、あの人のそばに、連れて行って。
ぴちゃん、と。水音がする。
夢か幻か、セルイラの視界には、透き通る色の美しい糸があった。
それは一切の絡まりもない。セルイラとノアールを結ぶように、真っ直ぐと二人を繋いでいた。
── それなら、運命にかけようか。
── 心が互いを求め続けているのなら、必ず巡り合える水神の糸を。
── 僕は君たちの運命の行方を見たいんだ。
ぽこぽこと、セルイラは水の底へと沈んでいく。いいや、セルイラではなく、この体はセラだ。
オーパルディアでの暮らしの中で、同じ夢を何度も見ていた。
魔界で幸せを感じていた頃の記憶と、薄暗い水底を漂う自分の記憶。
そこで、セルイラの記憶は終わっていた。
けれどそこには、続きがあった。
暗く染まる視界の先で、まばゆい一筋の光。
── これはすべて、水神のきまぐれだから。
ああ、そうだったんだ。
わたしは、水神の気まぐれで、大切な人たちに、逢えたんだ。
◆
燃えるような疼痛が、セルイラの右胸にあった。
「……ご、ふっ……っ……」
セルイラが咳き込むと、口から血が溢れ、ぽたぽたと彼の綺麗な顔に落ちていく。
セルイラの体の下敷きになっていた彼は、目の前で起こっていることに頭が追いついていない様子だった。
それは、ユダも、そしてユージーンも同様に。
「セルイラ、ちゃん……?」
なぜ、魔力縛りで動けなかった少女が――魔王ノアールを庇うように、間を割ってユダの剣に身を貫かれているのだろう。
『ちょっと、なによ。どういうこと!? ユージーン! なんであたしの器が、動けてるのよ!?』
耳障りな高音がするが、セルイラにはどうでもよかった。
ただ、目の前の人の無事を確認することだけ。それが痛みで気を失いそうなセルイラを、突き動かしていたのだ。
『――ごめ、なさい。汚し、ちゃった』
セルイラは、がくがくと震える青白い手を、ノアールの頬へと持っていく。
自分の吐いた血が、ノアールに付いている。それを申し訳なさそうに、弱々しい圧力で拭った。
『な、にを……』
耳鳴りを起こしていたが、掠れたノアールの声はしっかりとセルイラに届く。
こぷこぷと、剣が刺さったセルイラの体からは、とめどなく血が流れていた。
一度自分の体に視線を下降させ、ノアールの体に刃が触れていないことを確認すると、セルイラは心からの笑みを浮かべた。
『ごめんな……さい……ノア。あなたがしようと……していること……わたし、どうしても……止めたくて』
また、ぼたぼたと血がこぼれる。
セルイラはまた拭おうとするが、その手をノアールは包み込むように握った。
瞬きもなく、これでもかと開かれたノアールの瞳。美しい紫が、セルイラの姿を反射させている。
ただ目の前のセルイラだけを、一心に見つめて固まるノアールに、セルイラは再び悲しそうに微笑んだ。
『こんなに……勝手で、ごめんなさい。あなたばかり、辛い思いをさせて……ごめんなさい。あなたのそばに、いられなくてごめんなさい。あなたを置いて、死んでしまって、ごめんなさい……』
もう、うんざりなのかもしれない。
独りで抗い続けて、独りで耐え続けて、あなたは護ってくれていた。
もう、疲れてしまったかもしれない。
それでも自分は、後悔したくないから。
あなたと、子どもたちと、大切な人たちの未来を、諦めたくはないから。
『……ノア、わたしは……あなたに…………生きていて、欲しいの』
くん、と。ノアールの鼻がわずかに反応する。
次の瞬間、彼の顔が、確信に染まった。
『――……セ、ラ?』
そう呼びかけたノアールの目から、朝露のような光がこぼれ落ちた。
同時に、巨大な爆発音がした。石壁が崩れ落ちてきたかと思うような、轟音。
アルベルトの魔法によって、王座の間の扉が、崩壊したのである。




