46 誰も知り得ない独白
※前話からの別視点入ります。
その夜、メルウは魔王の寝室へと訪れていた。
月明かりのみが照らされた室内で、我が主の姿を探す。
そこまで中は広くないため、メルウはそう時間を掛けずにノアールの姿を見つけた。
『──魔王様』
珍しくノアールは、露台に出ている。
うっすらと目を細ませ月を眺めていたのだ。
『来たか』
メルウがここへやって来るのがわかっていたのだろう。ノアールは部屋に入ってきたメルウの姿を確認することもなく、ずっと空を見上げている。
ふっと肩の力を抜いたノアールは、青白い輝きを放つ満月に身を委ねた。
『……あの子たちは、どうしている?』
『ご兄妹は寝室でお休みになっております。ミイシェ様のご容態を考慮し、アルベルト様がご自分の寝台で共に横になるようにと』
『……そうか。…………兄妹、か』
ふと、感慨深くノアールは言った。
『……本来ならば、これが当たり前の形であったのだろう』
『魔王様……』
『メルウ、談話室でのアルベルトの様子はどうだった?』
『それはもう、かなり取り乱しておりました』
メルウは談話室で起こった騒ぎを思い出し、ひとつ頬に汗を浮かべた。
普通ならば信じられないセルイラとミイシェの言動も、アルベルトが気を乱す要因のひとつではあったが──もうひとつの原因は、父親のノアールにあったのだ。
『アルベルト様が心を乱すのも無理はありません。父親である、あなた様の命が残りわずかなどと聞かされれば』
『……』
ようやくノアールは、背後に佇んだメルウを見やった。怒りを隠しきれていないメルウの声に反応したからである。
ノアールは涼しげに目元が緩ませると、細いため息をついた。
『……そうは言っていない。まったくあの子は、気が早い。私に今までの鬱憤を言いたいだけ言って出て行ってしまった。だが、アルベルトにそうさせてしまったのも、私なのだろう』
『では、なんとおっしゃったのですか』
『……。この先の話をしたのだ。私がいなくなったあとのことを、魔界のことを頼みたいと。それに玉璽について、良い機会であったから先ほど少しばかり説明を──』
その後もつらつらとアルベルトとの会話をメルウに聞かせたノアールだったが、聞けば聞くほどメルウの額の青筋がはっきりと浮かんでいった。
自分がいなくなったあとの話など、直接的でなくても意味はさほど変わりない。
談話室でアルベルトの様子がおかしかったのは、まさしくこれのせいだとメルウは納得した。
『いったい、なぜそのような戯言を……』
『メルウ』
目頭をきつく押さえたメルウに、ノアールは静かな温度で言いかぶせた。
『戯言では、ないからだ』
星々の煌めきが混じるノアールの瞳は、恐ろしいくらいに綺麗で、それでいて穏やかだった。
宝石のように美しい紫の眼がすべて真実だと語っているようで、気圧されたメルウは黙り込んでしまう。
そんな彼に見て欲しいと言わんばかりにノアールが懐から取り出したのは、ちいさな小瓶だった。
手に収まるほどの小瓶には、透明な液体が入っている。
『アルベルトの呪いは薄まっている。完全ではないが、もうまもなく解かれるだろう。だが、私は──』
言葉の続きを、ノアールは口にすることができなかった。
それはユダと交わした誓約が反応したからである。
『ぐっ……』
『魔王様!』
なんの予告もなく突然に心臓を鷲掴みにされる感覚がノアールを襲った。
決して言ってはならないと、ノアールの身体を脅かすユダの忌々しい誓約が、息をすることすら許さないというように喉元を締め上げてくる。
ユダに関してのこと、そしてユダと交わした誓約の内容すべてをノアールは口外することを禁じられていた。
たった今ノアールが発言しようとしたことも誓約に触れていたのだ。
『魔王様、どうぞおつかまりください!』
『いい……じきに引く』
メルウの支えを拒むと、ノアールは小瓶の中に入っていた液体を自分の手のひらに落とした。
手に触れた瞬間、無色透明であったはずの液の色が、黒々しく変化し始める。
『これは……水の神の聖水でございますか』
『ああ、そうだ』
天を彩る夜空の比ではないほど暗くおびただしい色の水滴は、ノアールの長い指をするりと伝って地面に落ちた。
呪われた者が触れると黒く変色する水神の聖水。アルベルトやミイシェよりも、ノアールに触れた雫の濁りは濃くなっていた。
自分の呪術はまだ解かれていない。
アルベルトやミイシェと違いノアールの呪術をすべて解くには、呪いをかけた者の存在が絶対に必要であった。
その理由は、ノアールが自分の意思でユダと真名を介した『誓約』を交わしたからだ。
200年前、ユダはまず、アルベルト、ミイシェ、セラに向けて呪術を使った。
しかしそれは、ユダからの一方的な呪いである。ノアールと同じく真名を用いてかけられた呪術でも、片方からのみ圧力が加わる呪いには限界があった。また術者が力量不足であるなら、長い時間の中でほころびが起こりやすい。
だが、ノアールの場合は違った。
ユダはアルベルト、ミイシェ、セラの三人を人質に取ることで、ノアールの意思で真名を介した呪いの誓約を結ばせたのだ。
……もしユダにノアールの真名が知られていなかったら、状況は違っていたのかもしれない。
非道な手とはいえ、両者の合意があることではじめて効果を発揮する誓約は、一方的な呪術の何倍もの支配力がある。そして他者が介入できる隙も一切残っていなかった。
もしもこの世に誓約の呪いを完璧に解く者がいるとするならば、それは呪術の誓約に縛られたノアールの力を超えた者でなければならない。
ノアールの力は歴代のどの王たちよりも強大であり、そんな彼の誓約を解除できる者がいるなら、おそらくそれは神の力を与えられた眷属か、もしくは神本人だろう。
どちらもこの時代には、現れることのない存在だ。
誰もノアールの誓約を完全に解くことができないならば、あとに残っている手段は一つだけだった。
『200年だ。この200年、どれだけ待ちわびたことか』
『魔王様、何をする気でいらっしゃるのですか……?』
メルウはその身を震わせる。
言い募るノアールの覚悟を決めたような表情に、その不安は増すばかりだった。
『……ミイシェが目覚めるきっかけになったのが水神によるものなら、深い感謝をしなければならないな』
そして、彼女にも。ミイシェの言葉どおりセラが水神の加護を受けていたおかげで、ミイシェの血に反映されたというならば。
(私はあなたに、どれほど救われているのだろう)
『いや……私に感謝されることすら、皮肉になってしまうかもしれない』
それでも、これで心残りがひとつ消えてくれた。
ユダの呪いがすべてなくなったとき、ミイシェが眠ったままだったらという懸念があったから。
(今度こそ、終わらせよう。大丈夫だ。幼かったアルベルトはああも成長してくれた。ミイシェはこれから、多くのことに触れて育ってくれるだろう。メルウやニケがそばに居るのなら、二人が道を誤ることはない。そしてすべてが片付けば、ナディエーナも力に……いいや、気が早いか)
すべてを終わらせるためには、ユダと対峙する必要がある。
もう二度とこのようなことが起こらないように、させないように。
思念すら残さないように。確実に。
(あの女も、この時を待ちわびていたのだろうな)
もともと、用意された残りの時間は少ないものだった。
ユダの方も、そろそろ行動に移す頃合いだろうとノアールは読んでいたから。
(私の誓約や、二人の呪いに変化が起こったのは、あの女が今、一点のことに意識を集中させていることもあるのだろう)
この時期、ユダは必ず城を離れる。
ノアールの実父、前魔王の遺骨が埋められる石碑へと足を運ぶのだ。
そして、長い年月をかけて前魔王の思念をかき集め、またしても禁忌を犯そうとしていた。
その企みにノアールは気がついていたが、誓約の効果で阻むことは不可能であった。
またユダの最も憎むべき相手のノアールが、200年もユダの誓約の中で生きていられたのは、ユダが犯そうとする禁忌にノアールの存在が絶対不可欠であったからだ。
(本当に、皮肉なものだ)
不意にノアールは、あの男の言葉を思い出した。
──“俺とうり二つじゃあないか。気色が悪い。”
酒を煽り、女をはべらせ、最後はノアールによって葬られた、前魔王。
そんな男に心酔するユダは、もうじきこの城へ戻ってくる。
(死後の世界などありはしない。だが、もし私が、あなたに言葉をかけることを、許されるのならば)
ノアールが200年の間、待ち望んでいた。
ユダを討つ、絶好の機を。
(セラ……肉体を離れ、心と魂だけとなる私に、どうか耳を貸して欲しい)
悔やみ続け、打ちひしがれ、それでも色褪せずにそばにあり続けたのは、かけがえのない思い出。
大切なあなたの記憶を消してしまった自分は、あなたが忘れていったその悲しき記憶たちを、今度こそ弔うことができるだろうか。
なにが正解なのかはわからない。誰にも話すことのできない胸の内ではあるけれど、けっきょくのところノアールの決意は固まっていた。
──ノアール自身が命を賭して、ユダを自分の誓約ごと消滅させる、と。
それがセラへの罪滅ぼしであり、残された者たちへの明日に繋ぐ手向けであり、200年間、密かに抗い続けた魔王ノアールの悲願だった。
(思えばあの女性に、なぜあれほどミイシェは……。それに妙だ。セラと彼女はべつの人間であるはずなのに)
ノアールは、くっと眉を潜める。
セラの顔を脳裏に浮かべるとき、ノアールにはもう一人、重なるよう別の顔が浮かんでいた。




