32 不思議な少女がいた。sideノアール
本日2話目の投稿です。
──もうまもなく、満月の夜がやってくる。
200年もの間、ノアールはその日が訪れるのを幾度も幾度も待ちわび続けていた。
理由は、満ちた月の力が魔力の光となって魔界に降り注ぐからである。ノアールは満月の晩、少しだけ自分の身を脅かしている『誓約』を弱めることができた。
砂時計の落ちる速度よりも、ゆっくりと、少しずつ。ノアールは体の魔力、満月の魔力、そして自分の寿命である生命力すらも魔力へと変化させ、誓約の効果を薄めていた。
最愛の人が残した息子のアルベルトと、娘のミイシェ、そして今やユダの侍女となってしまったナディエーナにも掛かっている真名を介した呪術に、200年という時間を費やしてゆっくりと、けれど着実に抗ってきた。
真名を介して行われた呪いの誓約は、他者に口を割ろうとすれば気が遠くなる苦痛がノアールに襲うよう施されていた。
自分だけが痛みを受けるのなら構わなかった。けれど、あの女の執着は、息子や娘……そして彼女にまで火の粉が及んでいた。
それを知ってからノアールは、孤独の中にひとりでいることを選んだ。
この誓約を誰にも話せないのなら、自分自身でどうにかするしかないと。
時が経つにつれて、ノアールは自分の立っている場所が分からなくなっていった。
それはまるで光の届かない夜の真ん中にいるような、虚しい心地だった。
──200年前、彼女の死を告げられた時、ノアールは感じたことのない絶望という仕打ちに呑まれてしまった。
後悔、喪失、哀惜。体に植え付けられる傷の痛みなど比ではないくらい、心に負う傷の痛みの辛さをノアールははじめて知った。
それでもこの200年間、地に足をつけて立っていられたのは、彼女の大切なものを守りたかったから。
父親として未熟な自分は、大したものを与えることができなかっただろう。ましてや娘は呪術に体が耐えきれず成長を狂わせてしまった。
──あなたは、どう思うのだろうか。
時おりノアールは、もし彼女がこの状況を知ってしまったらどう思うのかを考えた。
意外と頭に血が上りやすいから、怒りにまかせて渾身の一撃を振るうかもしれない。
あの頃は教育上乱暴はよくないと、力の加減を知らずにいたノアールにそう伝えようとしていたが、ここぞという時には意味のある一発をお見舞いする、そんな人だったから。
ああ、そうだと、衝撃でノアールが思い出したのは、もはや芸術的といってもいい彼女の寝相である。
一人で眠るときの自分の寝相の悪さは自覚しているようだったが、ノアールやアルベルトと共に添い寝をした時のことを、彼女は知らない。
起床して就寝前と変わらず位置にいるので、誰かが隣にいれば寝相も酷くないのだと彼女は勘違いしていたようだったが。それを正していたのは、言わずもがなノアールであった。
初夜の時、そして二度目の夜伽の際は緊張が勝って身動きが取れなかったのだろう。
けれどときどき添い寝をするようになってから、ノアールは相手の寝相の悪さを身をもって体験した。
鳩尾に拳を落とされそうになったとき、何かの奇襲かと勘違いしたほどだ。初めは魔力縛りを掛けて動きを封じていたが、苦しそうにしていたのですぐに止めた。
日を重ねるごとにノアールの中に芽生えてゆく温かな感情と比例するように、寝相が悪い彼女の対応を変えていった。
彼女が目覚める前に執務で部屋を離れていたから、気づかれていないだろうが、最終的なノアールの寝相の対処は抱擁という、本人の無自覚な情の表れとなっていた。
動きを封じるならばこちらのほうが余程いい。
野放しにすれば足元にまで頭を移動させかねない彼女だが、そうすることで幾分マシになるのだ。
その様子に呆れながらも、ノアールは決して腕の力を緩めようとはしなかった。
そしてある日気がついた。いつの間にか彼女が、ノアールの腕の中にいる時だけは、おとなしく眠りについているということを。
そんなことに、ノアールは堪らない心地になった。
──これらすべては、ノアールだけが知っている、大切な記憶だ。
『……』
そんな些細な記憶に縋りつくことが、200年もの間の、彼の唯一の救いだった。
『……恨んで、いるのだろうな』
未だに夢に見る、忘れることのできない最後。彼女が向けた怒りと悲しみの刃が、今もノアールの胸に突き刺さっている。
決して抜けない、辛い記憶となって。
『水神よ、どうか──』
ノアールはひたすらに願う。彼女が──セラが大切にしていた者たちの安寧と、セラ自身のことを。
本来魔族が信仰する神とは、魔王の血族が古より眷属として忠誠を尽くしたとされる、魔神であった。
けれどノアールが祈りを捧げるのは、人間の国であるオーパルディアを加護する水の神だ。
肉体の死の先には、魂と心の離脱が待っている。水神は、死んだ者の魂や心を溶かして後世へ送る力があるとされていた。
ゆえに水神へ願いを込める。
『あなたが、救われることを──』
どの口が言っているのだと思うだろう。それでもセラの亡き今、ノアールは大切な人の来世を思うことでしか罪滅ぼしが出来なかった。
だからノアールは、水神にこうべを垂れることすら厭わない。
セラに対するノアールの願いは、200年前から何一つ変わってはいないのだから。
◆
──その夜。ノアールが向かう先には東の棟があった。
目当ての部屋の前までやって来ると、ノアールは扉に左手を付き、目を閉じて神経を研ぎ澄ませる。
次の瞬間、ノアールはカッとまぶたを持ち上げ、扉の先にある部屋に魔法を掛けた。
(……眠っているようだな)
中に入ると、一番初めに目に付いたのは寝台で眠ったアルベルトである。部屋に入ったノアールの気配に反応出来なかったのは、あらかじめ気配操作の魔法を施していたからだった。
アルベルトのすぐ近くには、幼い少女が仰向けになって小さな寝台に横たわっている。こちらも起きる気配がない。
(ミイシェ)
起きないのではなく、目覚めることが出来ない娘のミイシェの姿に、ノアールは表情を歪ませた。
真っ白な寝衣を着せられたミイシェは、人形のようにただ眠っていた。
アルベルトの赤みがかった黒髪とはまた異なり、ほんのりと淡紅色が混ざった黒髪は、波打つように美しく胸下よりもずっと長く伸びている。
赤子であったミイシェの体に変化が起きたのは、約十八年前。
詳しい原因は不明となったが、ノアールが思うに何らかのきっかけで呪術がまた弱まったのではと推測していた。
(……)
優しく頭を撫でながら、ノアールはミイシェの体に少しずつ魔力を移していった。内側から呪術を解かしていくように、打ち消すように、ゆっくりと。
幸いユダは今、魔王城にはいない。ナディエーナを連れて遠出をしているのだ。この時期はいつもそうである。
明後日には満月になる。少しぐらい無理をしてもいいだろうと、ノアールは生命を削って魔力へと変えていった。
それを慎重にミイシェ、そしてアルベルトの身体へと流す作業を繰り返して数分──ノアールの呼吸が乱れ始めた。
(今日は、ここ、までか……)
鉛のように重くなった全身を引きずりながら、ノアールは眠った二人の子どもを愛おしげに見つめる。その顔は、慈愛に満ちた父親の顔そのものであった。
『……良い夢を、みなさい』
力を振り絞ってノアールが唱えたのは、癒しを施す些細な魔法だった。
『……っ』
今夜は無茶をしたようだ。そう思いながらノアールはふらふらと魔王城の廊下を進んでいった。
体の魔力が枯渇するだけでも下手すれば死を伴うというのに、ノアールの場合は寿命を縮ませているのだ。生命力を削って魔力にするなど、普通なら考えつきもしない。
そんなことをすれば、待っているのは死なのだから。
そしてその反動は年々、ノアールを蝕んでいった。いつもならば寝室に転移するくらいの力を残しているというのに、加減を完全に間違えてしまった。
人目のつかない場所で休もうと歩いていれば、たどり着いたのは小さな中庭。
意識したわけではないのに、ノアールはまたしてもここへ来てしまった。
これまでも何度かここを訪れたことがある。花について詳しく知らないノアールだったが、花壇で必死に生きようとしている植物を見つけては魔法で水を浴びせてやっていた。
(今宵は、それもできそうにない。すまないな)
立っていることすら億劫なノアールは、よろけた拍子に近くの椅子を蹴ってしまった。力を振り絞ってテーブルに手を付けるものの、しばらくは動けそうにない。
(こんな時間だ。誰も出歩いてはいないだろう)
そう、高を括っていたノアールだったが、その予想は大きく外れることとなった。
◆
ようやく倦怠感から抜け出せたノアールは、先ほどの出来事を思い出して眉間に皺を寄せた。
(あの女性は……そうか)
初め少女が姿を現した時、月の光に包まれているからか、その類いの精霊が出たのかと勘違いをした。
少女が人間であったと再確認するのに時間は掛からなかったが、見覚えがあると思っていた顔は、あの夕餉の間で自分に近寄って来た少女だった。
アルベルトが何やら企んでいることに勘づいていたが、まさか人間の女性を召喚するとはノアールも考えが至らず、頭を悩ませている。
夕餉の間で人間の女性に魔力縛りを行使したと聞いたときは、ノアールも黙っていられなかった。
かくいうノアールも、昔に魔力縛りの加減を間違えてセラに恨まれた経験がある。だからこそ諭したのだが、アルベルトは分かってくれたのだろうか。
(人間の女性を花嫁に、か。なにを考えているのだ、あの子は)
父親として会話が出来ていない自分を棚に上げるつもりはないが、ノアールは深々とため息を吐く。
(……?)
テーブルに肘をついたノアールは、ふと地面に落ちるハンカチが視界に映ってピタリと動きを止めた。
のろのろとした動きで拾い上げる。それは先ほどの少女が持っていた、水に浸したハンカチだった。
(……あれは、なんだったのだろう)
アルベルトの花嫁候補としてやって来た少女であるのは間違いない。
念話でメルウを呼び寄せ、部屋に送るよう命じたが、どうにも引っかかった。
(恐ろしかっただろうに、よくあのようなことが出来たな)
震える手でノアールの額を労わるようにハンカチを当てられたときのことを思い出して苦笑する。
自分に気圧されて身動き出来ない者は少なくない。それなのにあの少女は、なぜ。
(匂いが、不思議だった)
少女と目が合ったとき、ノアールは体調とはべつに動くことが出来なかった。
それどころか、少女に強く惹かれている自分がいたのだ。
姿形ではなく、少女が身に纏う空気に、どこからともなくやって来た懐かしい香り。体臭や香水とは違う、妙な香りの少女にノアールは目が逸らせなかった。
魔族特有に嗅ぎ分けられることのできる心の香り。それに影響されてどうしようもなく胸が打ち震える自分がいた。
(……嗅覚すら使い物にならないとは、疲れているな)
次々とやってくる思考を打ち消し、ノアールは吹かれる夜風に身を任せた。花壇に生きる白の花の匂いが物悲しさを誘っている。
ノアールの手には、不思議な少女の落としたハンカチがしっかりと収まっていた。




