24 アナタダケ
『セルイラ様、大丈夫ですか?』
『……。ええ、大丈夫よ、ニケ』
セルイラには自身すらも忘れてしまっている記憶の欠片が存在していた。
今までは疑いもしなかった。けれどメルウとニケの言葉によって呼び起こされたのは、確かに自分の記憶の断片だったのだ。
『……セルイラ様の記憶に混乱が見られるように、おそらく魔王様も、何らかの術中に掛かっていると思われます』
歯切れの悪い様子のメルウは心底悔しそうに拳を握り締めていた。
『……魔王様がご自分から望まれてあなた様を人間の領土へお返しになったなど、絶対にありえません。あの時の私は何も知らない子どもでした。ですが、魔王様がお変わりになり始めていたのは分かります。セラ様が、セルイラ様の存在が、魔王城に光を灯してくれていたのです。きっと、魔王様は今でも──』
『……ニケ、やめて』
震える声音でセルイラはニケの言葉を制止する。まだ、その先を聞く勇気が今のセルイラにはなかった。
自分が予想にもしなかったことを一気に知ってしまって、全部を受け止めるだけの覚悟が決まっていなかったのだ。
(もし、その話のすべてが真実だとして……そうであるなら、わたしは……)
浅くなった呼吸をゆっくりと整え、セルイラはそっとメルウとニケの顔を見る。
『……ミイシェのことを、まだ聞いていないわ。ナディのことも』
魔王のことで激情にかられてしまっては精神的にも参ってしまう。
ここは一度胸に蓋をして、把握しておかなければならないことを聞いておくのが先決である。
『……母様は今、ユダの侍女をしております。同じ城にはいますが、私も顔を合わせる機会はほとんどありません。母様はあの女のそばにいることを余儀なくされているようです。ミイシェ様は……』
そこでニケは一度、隣に立つメルウに目配せをした。この話も悪いものなのだろう。ニケの表情には陰りがある。
結んでいた唇を開いたのはメルウだった。
『ミイシェ様は……眠っておられます。200年前から。今まで一度たりとも目を覚ますことはなく、この棟の一番奥にございます部屋で』
『眠った、まま? 200年前からって……』
『一見するとただ眠っているだけなのです。ですが、何らかの圧が掛けられております』
喉がひゅっと乾いていく。
ミイシェは眠ったまま起きない。けれど呼吸を繰り返し生きているというのだ。
眠るミイシェは現在、人間に例えると七歳くらいの見た目をしているらしい。
ちょうど200年で魔族が成長する体躯の半分ほど。一体なにがミイシェの体を脅かしているのか特定できていないが、呪術に近いものが掛けられ、本来の成長の妨げになっていると言って間違いなかった。
驚くことはもう一つあった。つい最近までミイシェは姿も赤子のままだった。けれどそこに変化が現れ始めたのは、今から約十八年前。
ある日を境に、ミイシェは少しずつだが成長していったのだという。
『その日は、わたしの生まれ日だわ……』
『……誠でございますか?』
『え、ええ、そうよ』
セルイラがこの世界に新しく生まれ変わった日、時を同じくしてミイシェの時間がゆっくりと進みはじめた。
偶然なのかは誰にも分からない。それでも運命的なものをセルイラはひしひしと感じていた。
『……ミイシェには、会えるの? 姿だけでも見ることは出来ないの?』
ゆるゆるとメルウは首を横に振る。
『今はまだ、出来ません』
『それは、どうして?』
『ミイシェ様のお部屋には、常にアルベルト様がおられます。寝台をもう一つ用意し寝起きもそちらで』
それはアルベルトなりにミイシェを護るための行動だった。たった一人の妹を兄として、今まで大切に見守っていたのだ。
『そう、そうなの。あのアルベルトが……』
200年前の自分のささやかな願いは、アルベルトに伝わっていたのだろうか。
「この子を守ってあげられるようなお兄ちゃんになれるといいね」と、小さかったアルベルトに言っていたセルイラの思いが。
『……それなのに、あの態度は頂けないわ』
これまでのアルベルトの振る舞いを思い出してセルイラは懊悩する。
するとニケがおずおずと庇護するように発言した。
『あの、セルイラ様。たしかにアルベルト様は横暴者ですが……それは周囲を欺くためでもあるのです』
『欺くため?』
『はい。アルベルト様が城中で愚者であればあるほどユダの注意が逸れます。アルベルト様が何をやっても、また王子の戯れだと』
『意図的なものだということ? あの夕餉の間でのことも……』
『その、そういった部分もあるにはあると……すみません、それでも魔力縛りはやり過ぎだと思いますが……』
『ニケが謝ることじゃないわ』
『お心遣い痛み入ります。ですが、あのようにアルベルト様が暴君であるが故に、あの女は油断しているのです。この200年の間そのようにして隙をつき探ってきました』
決してユダの気を逆撫でてはいけない。そうすれば危害が及んでしまうのは──
(それじゃあ、あれも?)
セルイラは夕餉の間でのノアールの異変を思い返した。
あのとき突然にノアールは苦悶の表情を浮かべていた。まるで首を絞められているみたいに、耐え忍んでいるように眉間に深く皺を刻ませていたのだ。
『……セルイラ様、あなたのことをアルベルト様にまだお伝えできないのは、アルベルト様にもまた、私どもが察知していない呪術が掛けられている可能性があるからです』
『……それは、何を根拠に判断しているの? メルウさんやニケには、その術が掛かっていないと断言できるの?』
『ええ、恐らくは』
確証がある様子でメルウはしかと頷いた。
『セルイラ様は、水の神の聖水をご存知でしょうか』
『……それは、もちろん。オーパルディア国民なら誰だって知っているわ。水神様の御加護が一番色濃くあるとされる泉に流れる神水のことでしょう?』
産まれたばかりの赤子は、水神の加護が受けられるようにと聖水で体を清める風習がオーパルディアにある。
加護が強いとされているのは王都の神殿にある泉であり、なかなか王都に来られない地方の者には神官を通じて他の神殿にも送り届けるような決まりを設けていた。
『左様でございます。飲み込んだ程度で呪術などを浄化は出来ませんが、体が何らかの力によって脅かされているかどうか、判断基準にするには十分です』
『それは、どうやって……』
『呪われた者が水神の聖水に触れると、触れた聖水の表面が黒く濁ります。ミイシェ様はもちろん、アルベルト様にもその反応がありました』
呪術には種類が多くある。相手の髪など体の一部を用いて行われる呪術、人の形を模した人形を用いる呪術や、不眠不休で文字を唱え続け起こす呪術。
そして呪術の中でも最も強力であり、危険を伴うのが──真名の契りを交えた呪術だった。
『アルベルトやミイシェ……それに、魔王も……真名を使った呪術に掛けられているかもしれないということなの?』
『……ええ、そうでございます』
メルウやニケが難しく顔を歪める理由は理解できる。
魔族にとっての真名は己の心と同等のもの。つまりは一歩間違えれば命取りになるのだ。
よほど気心の知れた相手でないと打ち明けることはなく、親しい間柄とて気軽に言えるものではない。
(……真名を使った、呪術)
ノアール、アルベルト、ミイシェ……それぞれの真名を知っていた者は数少ない。
ましてや魔王の真名などセルイラが知る限り──ただ一人しかいなかった。
(……ルア……ノアール、ロード……クロシルフル)
心の中でセルイラは唱えた。
ルア・ノアール・ロード・クロシルフル。それは魔王ノアールの真名である。
200年前にノアールが教えてくれた真名。
お互い言葉は通じなかったけれど、目を合わせ、幾度も幾度も、繰り返しノアールは語りかけていた。
セルイラの方向を指さし名前を呟くと、今度はこちらの番だと言うように、ノアールは自分を指さして、大切な真名を何度も自分に。
──ノアールに真名を教えてもらったその日、セルイラはナディエーナにある魔界語の意味を尋ねていた。
『ねえ、ナディ。アナタダケって、どういう意味?』
『セラ様、いきなりどうなさったのですか?』
『さっきノアに言われたから。アナタダケって』
『まあ、まあまあ! 魔王様も隅に置けませんね!』
『え、どうして?』
『ふふふ、アナタダケというのは人の言葉で……貴方にだけ、という意味ですわ。セラ様、一体魔王様になにを言われたのですか?』
どこか楽しげな様子のナディエーナに気恥ずかしくなったのを覚えている。
ノアールのぎこちない動作で、彼が言っていたのが真名であるというのは理解していた。
つまりは、セルイラにだけ、魔王ノアールは真名を教えたということを意味している。
(……一体、どうなっているの?)
メルウすら知らなかったノアールの真名を知っていたのは、セルイラだったのだ。
ありがとうございました!
魔界語の表記が『』であるため、過去の言葉とごっちゃになっている可能性があります。
分かりずらくて申し訳ありません(›´ω`‹ )




