12 ニケ
前世、セルイラが初めてニケを目にしたのは、セラとして魔界へ来たその日だった。
訳の分からない魔界語を喋りながら現れた女性の後ろに隠れていた、あの小さな少女。
あとにその女性が、セラの専属の侍女であったことを知った。
名はナディエーナ。魔界の暮らしに慣れないセラにとって、彼女は数少ない気を許せる相手となった。
そして、ナディエーナには一人娘がいた。
五歳ほどの見た目をした少女は、名をニケと呼ばれ、いつもナディエーナの後ろにくっついて歩いていた。
セラのナディエーナに対する警戒心が薄れたのは、ニケがいたからといっても過言ではない。
仲睦まじい母と子の姿を見て、魔族にも愛情があるのだと知るきっかけになったのだ。
『セラー』
ある晴れた日のこと。自室に籠っていたセラに駆け寄ってきたニケは、にっこりと笑顔を浮かべた。
『あのねー、これあげるのー』
「え? なんて言ってるの?」
セラが魔界へ来てからすでに数ヶ月が経っていた。いつも母親の後ろに隠れていたニケだったが、その頃にはセラにも懐いて彼女の部屋によく遊びに来てくれるようになっていたのだ。
相変わらず言葉に苦戦するセラは、ニケがなんと言っているのか理解できなかった。けれど、身振り手振りで察することはできた。
「このお花の冠を、わたしにくれるの?」
『セラ、いっつもお部屋にいるからね、外に咲いてた花でつくったのー』
ニケはぐいぐいとセラの腕を引っ張ると、しゃがむように促してくる。
セラは戸惑いながらも、言う通りにした。
何をされるのか先が見えたセラは、大人しくニケの行動の終わりを待つ。しばらくすると、頭の上にほんのりと重みが加わり、甘い香りが鼻をくすぐった。
『セラ、かわいいー! お姫様みたい』
「これ、くれるの? ありがとう」
『お姫様!』
「……?」
やはりセラには、ニケの言葉がわからない。花の冠を頭に乗せたまま首を傾げると、部屋の扉からクスクスと肩を揺らすナディエーナが姿を現した。
『ふふ、ニケったら。それを言うなら、お妃様でしょう? セラ様は魔王様の奥方様なんだから』
『あ、ママ!』
「ナディ」
セラとニケが、同時に彼女を呼ぶ。
ナディエーナの手には淹れたばかりの紅茶のセットがあった。セラのために淹れてくれたのだろう。
『あのねー、ママ。セラはお部屋から出ないでしょ? だから、お外は楽しいことがいっぱいって教えたかったのー』
ティータイムの準備をしているナディエーナの横で、テーブルに顎を乗せたニケはそう言った。
ニケも人間の言葉は話せないため、母に助けを求めたのだ。
「セラ様」
「どうしたの?」
「ニケがこう言っています。外は楽しいことがたくさんありますと」
「セラ。そ、と、タノシ!」
ニケがナディエーナの真似をするように復唱する。
ナディエーナは、魔王城内でも人の言葉を流暢に話すことができる数少ない魔族の一人だった。なんて言っているのか理解できても、逆に話すことのできない使用人の魔族が多い中、ナディエーナはどちらもある程度は理解していた。
『セラ、お庭にはね、きれいなお花も、大きな水たまりも、動物もいるんだよー。だから、一緒にあそびたいな』
「魔王城の裏手にあります野原には、野生の草花や泉、それに飼い慣らされた魔獣もいます。ニケはセラ様と共に見て回りたいそうです」
「だ、だけど……」
セラは気まずそうに親子から目を背けた。
部外者の自分がウロウロしていい場所ではないし、セラ自身もそれを望んでいなかったのである。
ここ数ヶ月、魔界へ来たセラは、魔王ノアールと手で数えられるほどしか顔を合わせていない。合意なく初夜を迎えて以来、セラが魔王と肌を重ねたのはいつだっただろう。正確に記録はしていないが、かなり時間が経過していたはずだ。
どちらにせよ、二回ともセラにとっては苦痛でしかなかった。諦めて委ねる身体とは裏腹に、心がはっきりと拒絶していたのである。
夜を共にするタイミングは魔王次第。それ以外で彼と会うことのないセラは、一日のほとんどを用意された自室で過ごしていた。
「わたしが部屋の外に出るなんて、いい気がしないと思う……」
「……そんなことはありませんわ。ニケが好きに城中を歩き回っているんですもの。セラ様が赦されないはずありません」
オブラートに言葉を包んだナディエーナだったが、もっとはっきり言うならば、魔王は関心が無いのである。
セラがどこでなにをしようと、どう過ごそうと、彼にとって微々たる……いや、全く持って「どうでもいい」ことだった。
だが、そんなことセラに伝えられるはずもなく、ナディエーナは少々申し訳なさそうに目を伏せる。
『あの方も、長くそのような扱いの中で生きてきたから……』
ナディエーナと魔王は、同じ時代に生まれた。そのため両親からは、よく彼の城での扱いについて聞かされていた。
接点といえば、城で催されるパーティーの際にダンスの相手として手を取り合うぐらいの関係であったが、同じ時期に生まれたのに全く異なる境遇にいた彼を、ナディエーナはいつも不憫に思っていたのである。
『……もしも、魔王様が、セラ様に心を開いてくれたのなら』
暗く寂しい魔王の住まう城に、明かりが灯るだろうか。
そんな儚い幻想を抱くナディエーナは、慌ててそれを打ち消した。
(まずは、セラ様がこの城で健やかに過ごせるよう努めないと)
そのためには、試しに野原に出てみるのも悪くないのではとナディエーナは考える。
「セラ、そと、イコ!」
「え、ええ……」
セラは曖昧に躱している。
可愛い娘の提案に乗るのもいいのではないだろうか。天気が良ければセラにとっても気分転換になるだろう。
ナディエーナは、ちょうど良い温度になった紅茶をカップに注ぎながらセラとニケの会話を聞いていた。
数日後、強引なニケに背中を押され、セラは野原へと赴くことになる。
そして、偶然にも魔王ノアールとばったり出くわしたセラは、吐き気を催し、その場に倒れた。
お腹に子が宿ったのだと知るのに、時間はかからなかった。
どこか不機嫌そうな魔王に抱えられ自室に運ばれるセラを、城中の者が目撃していた。なんの変化もなかった城内が、この日は密かに大パニックになっていたという。
引きこもっていたセラと、夜伽以外で会うことがなかった魔王を偶然にも引き合わせたのは、他でもないニケだった。




