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40話

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ミランダが持って戻った聖書を受け取ったフェルディナンドは色褪せ角が丸くなったそれをテーブルに置き、ページを捲る。

マリアにとって教本でもある聖書は現代のテスパラル語とは少々言い回しが違うもののマリアでも十分読み解ける範囲だ。


「グラダファ神の降臨やその御業については割愛しよう。

 マリアに関りがあるのは、始まりの聖女サミリアが現れた所だ」

「始まりの聖女サミリアは…グラダファ神の魂から分かたれた神の娘、ですよね?」

「うむ。彼女はこの世界をより正しく導くために生まれた存在。

 グラダファ神により土と海の水から作られた私達の祖先は彼女の導きのおかげで今こうして人として文明を持ち生きている」


フェルディナンドは羅列した文章を指さしながら語り始める。


「聖女サミリアは神であり、私達と同じ人でもある。

 グラダファ神が世界を作ったのち天へと帰る際、彼女は共に戻る事をせず留まった。

 人を愛し、人の中で生きていく為に神としての身体のみを父神に返し、人の身にその魂を移したのだ」

「そして人々と共に暮らし、人としての生を終えた…」

「あぁ。だが死を迎え神の国に旅立つ人の魂とは違い、サミリアが宿していた神の魂はその役目を果たす為この世を廻る。

 この世を見守り続ける為に姿を変え、何度も人としての生を繰り返す…かつて我が国に誕生した波の聖女エリアナもサミリアの魂を持っていた」


そこまで話すと、フェルディナンドは口を閉ざし瞳も閉ざした。

数秒、一分にも満たない短い時間だが部屋の中を静寂が包みミランダとマリア、二人の視線が彼に集まる。


二人の視線を受けたフェルディナンドは立ち上がり、テーブルを挟んだ向かいに座るマリアの足元に跪き小さな手を恭しくとった。


「そして、お前もまた…」









ランティス邸にはいくつか未使用の部屋が存在する。

それはなにもランティス邸に限った話ではなく、貴族家は複数人の子を儲ける家が多い為いつでも子供部屋にできるように設計段階からそういったものが加えられているのだ。


マリアは今、その目的の定まらない空き部屋の隅で膝を抱えている。


空き部屋と言えど使用人たちが定期的に清掃しているその部屋は清潔で、床の上に座っても衣服が汚れる事はない。

もし埃が積もった不衛生な部屋だったとしたらここに入る事は出来なかったはずだ、今も扉の向こうで控えるリンダが頷く筈がない。


アントニオが帰宅するまでにはここから出て、夕食に備えて支度を整えよう。

そう思っているのに、マリアの足も心もこの静寂に縫い付けられたように動かない。

思考も記憶も何もかも浮かんで消えていくばかりで纏まらず、うっかり吹いた小麦粉のように正体なく飛ばされてしまう。



ガチャ、


「………エリヤ?」


どうしようかとそればかり考えていたマリアに降り注ぐ、レースカーテン越しの柔らかな夕日を遮ったのはエリヤだった。

少年の細い体の影がしゃがみ込むマリアにかかる。


「はい、お嬢様」


距離を保った、平坦なエリヤの声は意外なほどすんなりとマリアの内側へと染み込んでいく。

そんな微かな光に縋るように、正面で床に膝をついたエリヤの袖を引き、隣に座るよう促した。


「エリヤ、あのね」

「はい」

「私、聖女の魂を持ってるんだって」


先程まで考えては霧散していた言葉が、フェルディナンドから聞かされたマリア自身知らなかった真実が、その唇から零れ落ちた。


フェルディナンドの鑑定は、マリアの二組の両親の名だけではなく創造神グラダファの名も並んでいる事を見抜いた。

つまりマリアはグラダファの娘であり、はじまりの聖女サミリアの魂を持って生まれた聖女という事になる。


グラダファ教についてまだ知らない事の方が多いマリアでも、国にとって聖女が産まれる事がどれほど重大な事かはわかる。

女神の魂を宿した唯一無二の貴重な存在…この世代においては、マリアが生きている以上他の聖女が産まれる事はない。


ミランダは無邪気に喜んでいたし、恐らくアントニオも喜ぶだろう。

(腹芸ができないという理由で事前に知らせる事はないが)


しかし、当の本人はそれを手放しで喜ぶことができなかった。


「ねぇエリヤ、アンジーを見た?

 アンジーは…怒っていなかった?悲しんでは、いなかった?」


マリアは、この国の人間ではない。

アンジーと共に海を渡ってきたリャンバス人だ。


魔力契約を結んでいるのなら問題ないとフェルディナンドから全てを聞かされたアンジーの顔を、その眉間に皺が寄る様をマリアは見てしまった。


程度は違えど同じ宗教を信仰するなら、リャンバスにとっても聖女は極めて重要な存在になる。

そんな聖女が…故郷から逃げ、別の国の聖女になるということは生まれた国を、フィーガスの祖父母を裏切る事に繋がるのではないか?

二人に忠誠を誓ったアンジーが自身をどう感じたのか、マリアは恐ろしさに顔を背け逃げ出した。


マリアはまだ自分で立つ事がやっとの子供に過ぎない。

聖女であるという自覚などあるわけがなく、むしろ今この瞬間はそのせいで身近な人間が離れてしまう可能性に怯え膝を抱えていたのだ。


「お嬢様」


エリヤのまだ高さの残る少年の声がマリアを呼ぶ。


「アンジーは扉の前にいます。

 お嬢様の為に、私をここに連れてきてくれたのはアンジーです。怒ってないし、悲しんでもいません」

「…本当…?」

「はい、お嬢様が恐れる事は起こりません」


マリアの手を、彼女のそれよりも大きく硬い手が握り締める。父とも母とも違う、少年の手だ。


「…どうか()を信じて、アンジーを呼んであげて…()()()()

「エリヤ…」


マリアはその声にエリヤの顔を真っ直ぐ見つめ…彼の顔を正面から見るのが随分久しぶりな事に気が付いた。


あの日アンジーと共にテスパラルへやってきてすぐ出会った不思議な少年は、当時と違って貴族に仕えるに相応しい清潔な衣服を身に着けている。

黒髪もあの日に切り揃えた長さを保つよう整えられているし顔も手も汚れてなどいない…微笑む唇も言葉も、全て粗など全く見当たらないまで整っている。


少し前、マリアはその変化が寂しく、そして申し訳なく感じていた。

エリヤが持っていた自由が自身のせいで失われてしまったと、そう思っていた。


けれど今マリアを見る彼の黒曜の瞳の輝きは、何一つとして変わっていない。

全てを託されるような全幅の信頼と献身が込められた視線がただマリアに向けられている。


(あぁ、まただ)


エリヤのその目は、貴族とはいえマリアの年齢ならまだ身に着けるべきではない、上に立つ者なのだという自覚を促す。

主としてその忠誠に応えたいと思わせる、裏切りたくはないと感じさせる目だ。


アンジーに拒絶されるかもしれないという恐怖が、エリヤからの信頼に少しずつ和らいでいく。



「………アンジー」


それは虫の羽音のように頼りない声だったが、扉の向こうで耳を澄ませていた彼女にはきっとよく聞こえたのだろう。

ドアノブを捻る音と足音が追いかけ、そして、けして拒絶する事はない腕がマリアを包みこんだ。


「…ごめんなさい、ごめんなさいアンジー…知らなかったの…私が、聖女だなんて…!」

「…いいえ、謝ることなどありません。

 私がお嬢様に怒るなど、ありえません」

「でも…」


あの瞬間のアンジーは確かに、いつもは静かな水面のような顔を歪め怒りを露わにしていた。

思い出し言葉を詰まらせるマリアに、アンジーは抱き締める腕の力を強める。


「…烏滸がましいとは存じておりますが…私は、グラダファ神に怒りを感じてしまったのです」

「…グラダファ神に…?」

「お嬢様が聖女と…グラダファ神の御子というのであれば、何故、お嬢様がここにいるのか、と。

 偉大な神であるならば、何故お嬢様が辛い思いをしている時に、救いの手を伸ばしてくださらなかったのかと思うと…悔しく…怒りが、抑えられませんでした…」


痛みを感じるほどの抱擁はアンジーの中でまだ怒りが消化されていない証拠だ。

拒絶されていない、それどころか自分の為に怒ってくれていたのだと知ったマリアはその強く抱き締める腕の中で一筋、安堵の涙を眦から零した。


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