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九十五. 1864年、別離~糸の切れた人形~

山口の身体は試し斬りに使われ、本来あった場処とは全く異なる処に打ち棄てられていた。


その変り果てた姿に、稔麿は思わず久坂と桂に遺体を見ぬ侭藩邸へ帰るよう促した。

無論、現実から目を背ける事を良しとしない彼等である。其に、佐倉の様子が気になった。16の子供が直面している現実を受け止め切れぬ筈が無いという傲りが若しかしたら働いていたのかも知れない。



『―――吐くよ』



いつまでも納得しない久坂と桂に、彦斎が横から警告する。手を煩っていた稔麿は頭を下げて彼等の許を離れた。


『中途半端に情けを掛けても、互いに火傷を負うだけね。・・・いっその事、何も見らんで使い捨てて貰った方が、人斬り(こっち)も惨めな気持ちにならんで済む』


桂は揺らぐ瞳を彦斎に向けた。彦斎は瞳を合わさない。避けもしないが、知らない他人同士が往来で擦れ違う時の様だった。

・・・・・・山口が、最も惨めだ。

『・・・藩邸に帰る』

と、久坂は言った。

佐倉は壊れた山口の前に膝を着いている。両眼をいっぱいに見開いて、まるで記憶に写し録るかの様に観察していた。

稔麿が羽織を脱いで佐倉の頭に被せる。佐倉の視界から山口の姿が消える。もう見てはいけなかった。併し、一足遅かったのだ。

佐倉の泣き叫ぶ声が路上に響き亘った。稔麿曰く、あの後の佐倉は彼の力でも止めるのが大変だったらしい。

山口でないものを山口と呼び、山口の身体が去っても、稔麿には視えない何処かに向かって、ずっと、ずっと、手を伸ばして名を叫び続けていた。



―――佐倉の心が、壊れて仕舞った。



久坂が彼等を見ずに藩邸に引き返したのがせめてもの救いであろう。山口は見せ物にされる事を望まなかったに違い無い。叉、佐倉も正気であればあの姿を決して見られたくなかったであろう。

『・・・・・・・・・』

稔麿は独りになり、(ようや)く壁に(もた)れ掛った。・・・・・・稔麿は凡てを見つめていた。人斬り(かれら)の末路を。己の、未来を。




(うなず)く他は無かった。

佐倉の心もふっつりと糸が切れて仕舞っている。とても復帰できる様には見えなかった。この期に及んで働かせようとも思わない。

其に・・・・・・約束があった。

「・・・・・・承知した」

と、稔麿は言った。佐倉は頭を下げる。

「今迄・・・・・・御苦労だった」

「・・・・・・お世話になりました」

二人は別離(わか)れた。稔麿は京都の藩邸には戻らず、その足で大坂の長州藩邸へ向かった。大坂には久坂が居る。


久坂は山口が死んでから佐倉が辞める迄の間に家の石高を加増され、名実共に長州藩の重役となっていた。異例の出世と謂ってもよい。

代りに『奉勅始末書』なる長州藩の権威復帰の嘆願書作成に携る事となり、薩会や朝幕との駆け引きを続けていた。(しか)し、この度朝廷より「否」の返答を戴き、久坂は数日後には長州へ帰るところであった。来島のお守りをしなければならない。

彦斎は山口の件を片づけた直後に三条 実美の呼び出しを受け、長州へ下っていた。轟 武兵衛と山田 十郎が逮捕されたのと同じ頃である。


「・・・・・・どうした?」

久坂は柔かい声で訊いた。稔麿は久坂を見ると息を一つ吐いた。・・・少しだけ、表情が和らいだ様に見えた。

「―――久坂」

稔麿が口を開いた時、びちっ、と何かが切れた音がした。―――稔麿の元結である。

豊かな髪が腰まで流れ落ちる。

「髪結でも呼ぶか」

重い髪を(つか)ねる稔麿に、久坂は冗談で言った。稔麿からは相変らず真面目な答えが返ってくる。久坂はぶーぶー言いつつ元結を出して()った。

が、出す元結出す元結、結ぶ途中で(ことごと)く切れ、四度目になってやっと結べた。

「・・・・・・」

久坂は段々と気味が悪くなってくる。何かを察したかの様に態々(わざわざ)大坂の藩邸まで来て、元結を三度も切るこの男の運命を。

「佐倉を抜けさせた」

「!?」

―――結び終えた後、稔麿は(おもむろ)に言った。稔麿は、別離(わかれ)を伝えに来たのだ。

「どういうつもりだ」

・・・久坂は不吉の理由が掴めた気がした。

「本人が辞めると言った」

人形がひとりでに歩き始めたのだ。久坂が最も(おそ)れていた事態が起きた。(しか)

「そう言われれば“逃がす”よう、桂さんとも約束をしていた」

と、この男は言う。

「桂さんかよ・・・」

久坂は思わず(こうべ)を振った。御癸丑(ごきちゅう)以来がどうとか本人は言っているが、今の桂も十分、人斬り達を壊れた人形に変える死神だ。

稔麿は約束を破れない。たとえ不仲になった桂が相手でも・・・・・・否、桂が相手として在るからこそ。稔麿は桂を反面教師としている。


まさか、この男は本当に別離(わかれ)を言いに来たのではないだろうか


「アイツはずっと山口と共に居たんだぞ?嫌でも知識が身に付くわ。しかもアイツにゃ佐幕だ尊皇だいう思想がねぇ。自分なりの剣がふるえる場所求める時が来たら向こう側につく可能性は十分ある。そうなった時にだ」


思想は無くとも意思はある。知識があれば世界を知る。

久坂はこの時になって叉、宮部のあの言葉を想い返していた。


矢張りあの娘は松下村塾に入塾させるべきだった。久坂が直々に教育するべきだったのだ。



佐倉(アレ)はいずれお前の最厄を連れてくるぜ」



本作では描く事が無いであろう。故に今の内に触れておくが、稔麿の下を離れた佐倉 真一郎こと真砂は、之より一月(ひとつき)余りのち新選組に入隊し、彼が果てる歴史的舞台の池田屋事変では敵として彼の前に立ちはだかる事となる。彼女が―――・・・新選組という最厄を彼等の元に連れてくるのだ。

当然、久坂はその事は知らずに世を去る。

併し其は、久坂の死と無関係ではない。池田屋事変で長州は遂に怒りを爆発させ、あの神風特攻隊にも近い玉砕の悲劇を繰り広げるのである。


「・・・・・・その時には」

・・・・・・久坂は敗戦を予期していた。だが稔麿は確信していた。最終的には志士側が勝利するのだと。


「もしその時が来た場合、あの娘にはもう不幸しかないだろう」


自分は死ぬ。だが、自分達の理想を沢山の死と引き換えに形にし、完成されてくれる者が必ず現れる。志は決して死なない。

―――只、自分は佐倉に対して責任がある。

「あの娘がそれでも剣を取るようなら」

彼女に自分は何も教えて遣らなかった。ただ利用しただけだった。剣を取る事の意味を、人を斬る事の重みを教えず、ただ斬らせた。その事が彼女の心を壊し、破壊の道へ進ませて、同志(とも)を、思想を、この国の未来を、壊そうとするのであれば。

「不幸の道に進むことの出来ぬあの娘の運命を其処で終わらせる」

―――自らの死と共に、彼女(それ)も連れて往かなければならない。

・・・・・・自らが生んだ“糸の切れた人形”なのだから。


「・・・・・・」


・・・・・・決意を固めたこの男に、久坂から言って遣れる事はもう無い。

・・・只、縁と云うのは不思議なもので、時に小気味好く、洒落た廻り合わせを演出してくれる。

「・・・俺はもうすぐ大坂藩邸(ココ)を離れるが、お前はゆっくりしていけよ」

「え?」

稔麿は聞き返した。・・・稔麿は結局、いい子な孝行息子なのだろう。(おとな)う彼自身が知らず此処に居るのを滑稽に思う反面、・・・哀しい。

「お前の親父さんが藩命で近く大坂(こっち)にいらっしゃるのさ。・・・会ってやれ。之が最後の機会かも知れないだろ」

そう言って久坂は箪笥に入れていた金を出し、稔麿の懐に捻じ込んだ。偶には親子水入らずで食事にでも行けという意味を込めていた。

・・・・・・久坂の予感通り、彼等はここで永別となる。

「・・・・・・ありがとう、久坂」

稔麿はにっこりと微笑んだ。素直に金を受け取ったのは、久坂の表情を見たからであろう。矢張り稔麿は、別離(さいご)を告げに来たのかも知れない。




稔麿はきちんと父親と会った様である。

この時、稔麿は父親に或る物を渡している。「三つ物」と呼ばれる物で、小柄(こづか)(こうがい)・目貫の三種を指した。

稔麿が攘夷親征時に藩士となった際、藩主・毛利 敬親より拝領した物で、彼は之を宝物とし、肌身離さず携行していた。


『預っていてください』


稔麿はそうとしか言わなかった様である。藩士でない父はこの三つ物が如何様な物かよく分らなかった様だが、息子のそぶりから只ならぬ物である事は察したという。そして、自分達が持っておくよりは同じ志をもった松下村塾の若者が持っていた方が良いだろう、と思ったのだという。




その三つ物を、今は久坂が持っている。

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