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九十四. 1864年、別離~よそもの~

急遽久坂を京に呼び出した。長州人は現在圧倒的に不足している。高杉は彦斎等を助けた手柄に(かかわ)らずすぐ国許に引き戻され、野山獄に繋がれたし、抑々(そもそも)長州には久坂の身を護れる剣豪が在ない。肥後人から彦斎を借り、彼等は馬を駆けて、半日と掛らず京の地に着く。だが刻は既に遅かった。京の或る(とおり)では、横たわる山口を抱えて呆然とする佐倉と、彼等を囲む様に輪に連なって、浪人風の死体がゴロゴロ転がっていた。

・・・・・・鮮血の臭いが風に乗る。刀の磨かれる音が遠く耳を擽っている。長州系志士を狙う敵は幾らでも在る。新たな敵の到来が近い。

稔麿が先に現場に到着した。久坂が河原町の藩邸に寄らず直接現場に着く。久坂はこの時、既に別の情報を握っている。

『・・・一旦離れるぞ』

久坂は山口の死を確認すると、哀しみに暮れる間も無く稔麿に耳打をした。久坂は上がる呼吸(いき)を努めて抑えている。

『新選組がうろついているんだ。俺の乗っていた馬もヤツらに腱を切られて自分で走るこのザマだ。もうすぐこっちに来る』

そういえば彦斎が久坂の傍に居ない。彼等は新選組と鉢合わせしていた。援けに入る側も今や命懸けだった。


山口の(からだ)は・・・・・・置いて行くしか無い。


『―――佐倉』

稔麿が佐倉に指示を出す。此方を向いた佐倉の眼はまるで清流に浸した硝子玉の様で、すっかり生気を失っている。

『先に戻っていろ』

『・・・はい』

佐倉は素直に返事をした。人形の様な反応だった。こくこくと只首を振り刺激に只言葉を組み合わせる、声ある人形の様だった。

久坂と佐倉が藩邸に戻る。稔麿は彦斎の助太刀に奔り、山口の(からだ)は暫く放置された。まさかその山口の(からだ)を狙う者が存在していたとは、この時誰も想像しなかった。




・・・・・・彦斎も随分弱くなった。暫く刀を持つ気にならなかった事も影響しているが、新選組が名立たる剣客集団である事も叉其を際立たせる。彦斎は二の腕より血を散しつつ、跳躍して塀に着地し、駆け出した。久坂を無事に逃した彦斎に新選組など相手にする必要は無い。其よりも、別れて護衛の無い久坂と合流した方が良かった。

何せ、久坂 玄瑞入京の報を受け続々と新選組の隊が京の街に出始めている。彦斎も純粋に一隊のみを相手としている訳ではなかった。(しか)も、一隊を率いているのは沖田 総司。


『怯まない!想定ほど大した者ではない!追って斬り捨てよ!』

『―――言ってくゆんね』


彦斎はイラッとするが、乗せられては()らない。沖田 総司が咳をしている間に塀を飛び降り、路上に出て姿を晦ませる。

彦斎の剣の調子が悪いのは其等の問題だけではない様だった。

・・・・・・彦斎は不意に想い出す。京に潜む幽霊の話を。沖田 総司と刃を交わらせた刻、遠く視界の向うに浅葱色の死に装束を着た不気味な幽霊の姿を見た気がした。

以降、彦斎は新選組を前にすると本来の剣の調子が出ない。彼等とは数々の因縁を持ちながらも、最後まで決着をつける事の出来ない絶不調に見舞われる事となる。




稔麿も永倉・斎藤といった剣豪の隊は敢て避け、彦斎を見つける事を第一目的とした。新選組の内情を稔麿は可也(かなり)把握している。御倉 伊勢武、荒木田 左馬之助といった者達数人を間者として忍ばせておいた。

―――併し、その者達からの音沙汰も無い。

スッ

曲り角が近くなって、稔麿は剣を構える。殺気の充満する街で、新たなる殺気と出会う。

・・・刃と刃がぶつかり合う。だが相手は彦斎だった。互いにほっと息をつき、すぐさま山口の殺された現場に向かう。

けれども現場に辿り着いてみると。

『――――!!』

―――山口の(からだ)は、忽然と姿を消していた。




思えば、松陰を師とした志士の間で決定的な思想の分裂が浮彫にされたのはこの時かも知れない。

山口の(からだ)の不明を知った佐倉は半狂乱になった。形振(なりふ)り構わず藩邸を飛び出し、山口の躯を捜しに行った。

外には未だ新選組が張り込んでいる可能性がある。彦斎が検分役として佐倉の後を追った。

『なんで裏役から検分役を外した!!』

久坂は桂に詰め寄っていた。桂は京都留守居役として逸早く京へ戻り、久坂と稔麿が大坂や江戸に居る間にもずっと京に留まっていた。乃美 織江と並んで、在京する長州系の人間を実質的に指揮できる位置に居た。

『天誅ももう時期ではないだろう』

『そういう事を言ってんじゃねえよ!!』

久坂は怒鳴った。八月十八日の政変で天地が引っ繰り返った事に依り最も皴寄せがくるのは実際に手を下した彼等ではないか。

検分役がきちんと機能すれば“二人だけの危険”で切り離す事は無かった。山口が独りで抱えていた悩みも見過す事は無かった筈だ。

『狙われている可能性があるってあんたにも伝えたハズだろ!?下手したら殺されるかも知れないって事はすぐ分るだろうが!!』

『・・・山口君が外してくれと言ったんだ』

『その言葉を真に受ける方が如何かしてるぜ・・・・・・!』

桂はぐっ,と唇を引き結んだ。黙って烈しい言葉の雨に打たれている。どう見てもおかしい桂の様子に、久坂は必死に心を落ち着けた。

『・・・なぁ、あんた一体どうしたんだ。今迄こんな事は無かった。水戸に薩摩・・・見捨てた事は侭ある。でも意図的に危所に送るなんて今迄のあんたには無かった事だ!!・・・政変の時の彦斎に対してもそうだ。一体何があったんだ。まさか・・・上層部から圧力でも』

『君に私の事情が解って堪るか!!』


―――びりびりとした空気は、人気(ひとけ)を無くした長州藩邸を強く振動させる。

久坂はその剣幕に呑まれ、完全に硬直して仕舞った。



『何故、長州藩(われわれ)他藩者(よそもの)の面倒まで看なければならない』



『――――・・・』


長州藩(われわれ)にそんな余裕は無い。・・・吉田、君が新選組に入隊させた密偵、(ことごと)く死体となって帰って来たぞ。私も、帰京早々新選組(ヤツら)には祭木町で襲われた。一方で長州(くにもと)では浪士達が暴発寸前で俗論派を狙った要人の襲撃まで起きている。長州人が内外の他藩者(よそもの)から攻撃されているんだぞ!?』

―――・・・山口や肥後人まで他所者呼ばわりされ、久坂は言葉を失って仕舞った。之迄の“厚交あることに承及べり”は如何なるのか。其に、彼等は国許の暴発とは何ら関係が無いではないか。割く人員が無いというのは解るが、理由にはならない。



『長州藩は何としても生き残らねばならない。“国”無くしては―――・・・』



――――・・・。稔麿は明瞭(はっきり)と桂に嫌悪を懐いた。桂の身に一体何が起きたのかは知らない。が、自身の想い描く未来に進めない事を過去現在の(つな)がりの所為にする姿勢が、恐ろしく同族嫌悪の情を掻き立てる。



『あなたの言う“国”とは一体何なのか』



其は其の侭“長州人とは何か”という問いかけとなる。『草莽(そうもう)崛起(くっき)』―――最小単位に切り(ほど)いて仕舞えば、其処に残るのは一体何か。―――個人(おのれ)のみではないか。

稔麿は髄の部分で松陰の思想をより純粋に受け継いでいる。―――久坂よりも。稔麿から見て、桂の個人の質の劣化は甚だしかった。


『あなたの様な人格の人間を長州人と謂うのか。あなた一人が長州人の規準であり、あなた一人が長州藩の(すべ)てを背負っていると!?ならば、私は少なくともあなたから長州藩士だと認めて貰わなくてよい!長州男児の質を下げてまで国を残す事に一切の価値も感じない!』


・・・桂は唇を震わせて、面を伏せる。松陰の精神を生き写しと謂える程に突きつけてくる稔麿の言葉は、いつだって桂の心に刺さる。妥協して迄生き残る意味など―――・・・以前も言われた事のある科白(せりふ)だ。が、いつまでも慣れる事無く桂の心に深々(しんしん)と積ってゆく。

『桂さん。私はあなたを見損なった』

稔麿が冷ややかな声で言い放つ。其は正に決別の言葉といってよかった。・・・言った後、稔麿もまつげを震わせて、とても悲しい表情(かお)をした。

『吉田・・・』

久坂が声を震わせる。尊攘派はもう滅茶苦茶だ。最早この拗れた関係をどう立て直せばいいのか彼にも分らない。そこに頭を使うのに先ず充電をしなければならない程なのが今の久坂の状態であった。

『私はあなたが言った事を忘れない。・・・あなたの言動の矛盾も、私は終生忘れない。私は・・・・・・』

・・・ああ、と久坂は思った。ぷつり、と糸が切れたのが分る。自分は稔麿について、どこか誤解をしていた様だ。


稔麿は、佐倉を人形扱いしていたのではない。



『私は、あなたの様にはならない』



―――稔麿が、人形の様だったのだ。


殺してきた感情が、相次ぐ仲間の危機で激しく揺らいでいる。人形の操り糸が切れ、誰にも予測の出来ない歩みを始めようとしていた。



ひとりでに歩く人形が何もかもを壊す。




―――見つかった山口の(からだ)は、壊れていた。

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