九十三. 1864年、別離~山口 圭一の死~
「裏役を、辞めさせてください」
京に来てすぐ、突然の事だった。佐倉が“人を斬るのをやめたい”と言ってきたのは。
稔麿は眼を見開いた。・・・併し、すぐに瞼を伏せる。“突然”ではあるが、前兆は以前より見られた。
・・・・・・佐倉は憔悴し切っている。
京を離れていた今日迄の間、稔麿は佐倉があの日から刀を抜いた事があるのかさえ知らぬ。少なくとも稔麿はその期間、佐倉に仕事を与えていない。
久坂が京と大坂、長州を何度か往復しているそうだから、佐倉に何がしかの指示をしているかも知れないが、久坂の性格上、傷ついた人間に無理な采配をする事は考えられなかった。
佐倉は長州藩の混乱に乗じてあの侭姿を晦ます事も出来たのだ。併し、態々(わざわざ)戻って来た。その真面目さが、脆さである。
その真面目さが、佐倉の剣を抜けなくした。
「もう、斬れないんです・・・・・・」
佐倉は振り絞る声で言った。表情が今にも悲しみで崩れそうだ。
―――昨年の晩秋、山口が死んだ。
天誅組の変の後、久坂や宮部等よりも早く稔麿は大坂長州藩邸を後にし、京を経由して江戸へ向かった。異変が起るのは、江戸へ向かう途中の京都潜入時である。
攘夷親征以来中断していた天誅を再開すべく、山口と佐倉に指示を出し、恙無く任務が遂行されたところ迄は良かった。斬った相手にも間違いは無い。只、或る対象の殺人を機に尾行される様になったと彼等より報告を受けてから、天誅活動も少しずつ予期せぬ方向へ道を外れてゆく。
『―――尾行から三月・・・か』
稔麿はその三月の間、江戸に滞在していた。朝陽丸事件(下関戦争で長州諸隊が小倉藩の砲台を占領した事は前に述べたが、その際、長州藩と小倉藩の仲裁の為に派遣された幕府軍艦『朝陽丸』も叉、長州諸隊が乗っ取り、立て籠った。結局、船内に居た小倉藩士二人が自刃し、幕府使節三人が殺害されたので斯う云う)の調停に奔走する傍ら、山口と佐倉を狙う影に関する情報や現段階の状況の確認を山口自身や検分役と遣り取りしていた。可也の手練れを雇っているのか“影”の正体が判明しない迄も、目的は視えつつあり、折を見て京へ戻って来た。
『尾行はまだ続いているのか』
『はい。寧ろ、当初より今の方が視線が強い様な』
山口は参った、と苦笑しつつ言った。併し何だか妙に吹っ切れた様な顔つきで、ふざけている様にさえ見える。稔麿は違和感を覚え、眉間に皴を寄せた。
『・・・・・・お前は何か判っているのか?』
『あら』
と、山口は間抜な声を出す。
『吉田先生は余り突っ込んで訊かない方だと思っていたんですけど』
『知らぬ振りをして遣る役は久坂で充分だろう。―――裏役は仕事だ。仕事に支障が出る以上、現場を取り仕切る私が無視する訳にはいかない。・・・・・・あの子を危所に放り込まぬ為にもな』
・・・ぴくり、と山口は肩で反応した。あの娘―――・・・佐倉が絡むと途端にこの男は己の身に対する判断が甘くなる。稔麿が険しい眼をすると
『・・・あはは、吉田先生と斯ういう話をするのって、そういえば初めてですね』
と、山口は益々(ますます)おどけてみせた。
『・・・・・・からかうものではない』
『からかってなんていませんって』
『久坂から一連の働きは聞いている』
・・・・・・。山口の笑顔が翳りを帯びた。稔麿は不快の余韻が消えぬ渋さを表情に示しながらも、淡々と続ける。
『八月十八日の政変の時に完全に尾を掴まれたな』
『・・・・・・』
“奴ら”の目的は“長州藩の影”―――・・・恐らくは、推測ではあるが、薩摩の手の者が長州藩の事をずっと探っていたのだろう。
“長州藩の影”即ち裏役の存在に薩摩が気づいたと考えた時、其は文久3年5月26日の田中 新兵衛自刃が切っ掛けとなろう。
裏役には裏役のコミュニティが存在する。抑々(そもそも)が暗殺を稼業とする者の数が少ない為、藩の垣根を越えて彼等は粗全員が顔見知りだ。現に、山口も田中 新兵衛や岡田 以蔵と知り合いだし、彼等は他に“雉子車”を継いだ堤 松右衛門とも仕事をしている。以蔵は彦斎と関りがあるし、他とは会わせない様にしていた佐倉でさえ彦斎とは繋がっている。実に狭い社会なのだ。
一人の身許が明らかとなれば芋蔓式に他の暗殺者も浮上する。
更に、田中 新兵衛自刃の理由は公家の殺人容疑がかかったからであり(朔平門外の変)、その御蔭で薩摩は御所親兵を追放されている。新兵衛が尊攘志士側の暗殺者であると判明した時点で、薩摩は御親兵追放を「長州の陰謀」と捉えた様だ。
八月十八日の政変は薩摩側の復讐だ。その際、混乱する長州藩に最も適確な情報を齎したのが山口であり、彼を“長州藩の影”の正体だと薩摩が認識してもおかしくはない。
山口だとバレる決定的な要素がある。山口は、あの人斬り半次郎の前に姿を現したというではないか。
立て込んでいた久坂や佐倉には伝えなかったが、稔麿は中村 半次郎の事を多少耳には入れている。
・・・新兵衛の死後、蹲る岡田 以蔵に接近する男の姿を目にした事もある。
『之からは俺がおはんの味方でごわす』
・・・と。
あれは中村 半次郎が「人斬り」の異名を利用して裏役のコミュニティに潜入しようとしていたのだろうか。
稔麿はこの事を久坂に言っておくべきであった。池田屋事変で彼が物語から退いた後、禁門の変までの混乱を極める長州藩の藩邸に中村 半次郎は間者として出入するからだ。
『―――長州藩で保護しよう』
稔麿は言った。幾ら地に墜ちたとはいえ、長州に与する山口の力は大いなる脅威であろう。薩摩の様な「論を言うな」で皆が皆親分に頭脳を任せてついていく、といった藩にとって最も脅威なのは、頭脳で手助けをする人間である。
長州と薩摩が之程にも反目し合うのは、薩摩は薩摩で長州人の優れた頭脳が怖いからだ。
『・・・・・・長州藩にそんな余裕無いクセに』
・・・・・・山口はくすっ,と叉笑う。稔麿は眼を見開いた。
『・・・俺、長い間藩なんて如何でもいいと思っていました。ま、今でも思っているんですけどね。―――でも、長州藩は別だと最近は想います。長州藩だけは何が何でも生き残らないといけない。浪士達に足を引っ張られてばかりはいけませんよ』
『・・・・・・山口』
『長州人は人が好すぎます。・・・・・・もう少し、浪士にも厳しくならないと』
『・・・・・・』
稔麿にはその言葉の意図が解らなかった。彼も叉、久坂と同じ様に藩と無関係に“個人”を見ている。山口は嘗てその姿勢を称賛していた筈だが・・・・・・時勢と自身の置かれた情況が、山口の考えを変えたのかも知れない。
『・・・・・・一人にはなるな』
稔麿は念を押した。だが、山口はのらりくらりと器用に擦り抜けて仕舞う。山口とは之でもう、二度と逢わない気がした。
『佐倉と行動を共にしろ』
『・・・・・・俺と一緒に居ない方が、アイツは安全なんです』
・・・・・・山口は平静を繕った。違う。稔麿は即座に否定する。山口が微かに肩を震わせたのが判った。
『お前は己の身を心配すべきだ。狙っているのが薩摩の手の者ならば猶更、佐倉と共に居るお前に手は出さない。中村 半次郎は佐倉と刀を交えたのだろう。ならば佐倉をより警戒している筈だ』
剣に優れた者ほど佐倉が簡単に手を出せない相手だと判る。肥後出張の時に手合わせをした彦斎もそうで、様子を見つつ戦い方を変えた。其は佐倉の“将来性”か、其とも相手を乱す“何か”が在るのか。
『佐倉はお前が守らなければならない程に弱くはない。・・・其に』
この点、より他人である稔麿の方が正確さを突いていた。否、山口も頭では理解しているのかも知れない。只、感情に引き摺られる。
『あの子が只守られている人間には、私には見えないがな』
『・・・・・・』
やっぱり、自己満足ですかね。と、山口の口は動いていた。併し、声には出さない。
其でも守りたいんです。
―――男として。之まで女として接して遣る事が出来なかったから。
『・・・・・・』
稔麿と山口は擦れ違う。・・・矢張り言っても利かぬか。この男が心の内を打ち明けた時には、最早介入の仕様が無い程に決意が固まっている。
『―――検分役!』
監視の為に彼等に付かせていた検分役を呼ぶ。併し、検分役が稔麿の声に応じる事は無く、初めから感じていた怖ろしい程の気配の無さの答えを無言の返答は彼に教えた。
『・・・・・・!』




