九十一. 1863年、別離~轟 武兵衛との約束~
轟 武兵衛とも別離となった。轟は十郎と共に捕えられる。轟と十郎は長州へ下ったのち、佐幕が肩で風を切る熊本に帰ったのだ。
―――三条 実美の命に依って。
七卿落ちで長州へ遁れた公卿の一人・三条 実美。その絢爛たる経歴の中に、肥後人との関係は一切抹殺されている。だが、肥後人側から語るのにこの三条卿の名を欠く事は出来ない。
轟、十郎、彦斎、宮部。彼等含めた肥後の志士は三条卿の私兵の様に使われた。この人の為に肥後人は結構な無茶をしている。
『肥後へ帰れ』
と、彼等が命令を受けた時、宮部もその場に居たが、あの時の絶望は今も忘れていない。
・・・・・・三条卿には、淡い期待がある。
『韶邦は話の分る男じゃ』
・・・・・・。宮部は頭がくらくらした。松田、永鳥、佐々。彼等があの様な目に遭っていて、藩主が味方してくれるとは到底思えない。
併し、可能性の点でいえば最早三条卿の檄文しか無かった。
『韶邦は我が姉・峯を妻としておる。詰るところ、吾と韶邦は兄弟仲―――・・・吾の呼び掛けに応じぬ訳にはゆくまい』
話し方が藩主・韶邦と重なる―――年齢も殆ど変らず、同時期に先代である父を亡くし、名実共に互いの家長として均衡した関係を保っていた。
・・・只、三条卿は少し思い違いをしている。
八月十八日の政変で、三条卿は官位も役職も剥奪されている。現在は公卿ですらない。身一つの三条 実美なのだ。只の、否、天皇を敵に廻した今の三条 実美に肥後熊本54万石の大名細川 韶邦が耳を貸すか如何か。
・・・その点、韶邦の方がまだ現実家で、そして人情味がある。
「・・・・・・」
韶邦は檄文を黙殺する。一読してすぐに捨て措い(お)た。檄文は家同士の繋がりを強調するが、では今実美の背負う“家”とは何だ。
今年の初めに松平 春嶽が同じ様な手を使ってきたが、そう遣って妻子や兄弟姉妹を人質に使えるのは“家”がきちんとあってこそ。只使われるだけでも不快に感じるのに、家長の行動を省みず猶家族をダシにしようとする実美の為人を韶邦は感じていた。
更には、九州全体がピリピリしているこの状況に、指名手配している藩士を使者として遣い、母国へ帰国させるとは。
当然、逮捕である。
「・・・・・・我が子をも道具に使うか。三条よ」
肥後人は三条卿にとって単なる使い捨ての道具に過ぎなかったのかも知れない。轟と十郎が逮捕されるとすぐに他国に居た彦斎を呼び轟等の穴を埋めている。その彦斎も叉、明治に入ると捨てられ処刑台送りにされて仕舞うのだが。
「貴人、情けを知らず」という事であろう。
(・・・・・・三条の家ではゆかぬ。早く我が子を取り戻さねば)
『フ・・・・』
轟は哂った。極めて落ち着いている。轟ほどの力が有れば、或いは捕吏達を蹴散して生きて長州に戻る事が出来るかも知れない。
併し、轟にはその気が無い様だ。
『余生は矢張り故郷で過したいものですな』
『轟さん・・・!?』
『解り申した。我が藩主にお伝えするだけお伝えしてみせまする。まぁ、恐らく黙殺されましょう・・・・が』
轟は歯に衣着せず言った。轟は無学の振りをしている。林 桜園門下の人間だからそういう事は無いのだが。
『宮部等は忠君愛国の武士ゆえ、どの様な命も命を賭して受けましょう。なれど、拙者は一介の剣術家・・・・甚だ無学にて、失礼を承知で申しまするが、御公卿も人間であらせられまするな』
藩主・韶邦と同じ事を轟は言った。轟には他の志士と違って情熱や理想、使命感は無い。有るのは純粋な武人の腕と研ぎ澄まされた野性の勘のみであるが、其が逆に将来の明治政府の在り方も見透した。
『―――轟さん・・・・・・』
『宮部』
打ち拉がれる宮部に轟は言った。
『生きろ』
『―――!』
『捕まっても死ぬ訳ではない』
ぴくりと宮部が顔を上げる。―――不思議な事に、そうなのだ。
肥後ではこの凡そ110年前の第6代重賢の治世以来、死刑や追放刑を原則避け、笞刑或いは懲役刑に切り替え、逸早く労働力の確保と罪人の更生・社会復帰に力を入れていた。この所謂自由刑(自由を奪う刑罰)は明治憲法下の刑法の手本となり、肥後人が多く司法省に登用される事となる。
第11代韶邦は特に死刑を避けた。逮捕した志士の扱いは政治犯ではなく脱藩者で、韶邦は脱藩者に死刑を適用していない。その為、逮捕された志士の方が生き残るという不思議な現象が廃藩置県前の肥後では発生した。死にたがりの肥後人には強制労働と再教育を含む懲役刑が生かさず殺さずの苛酷な刑に映る事もあった様だが、其でも彼等は新時代を見届けた。
『俺はあの藩主が別に嫌いではない。なかなか死なせてくれぬとぼやく奴もいるが、自己満足で死んでも意味は無かろう。藩主と同じ道を歩んで滅ぶのも叉一興・・・・―――少なくとも、公卿についてゆくよりはな』
・・・・・・宮部は暗い表情をした。轟の言いたい事は解っている。之が“尊皇攘夷” ―――・・・桜園先生の仰った“皇国”とはこの事なのか。
だが、寅次郎と約束した。長州藩が大変なのだ。寅次郎がいなくとも、彼の教え子達が約束を引き継いでいる。頑張っている。
最早、公卿ではないのだ。
『おぬしが肥後を迎えに来るまで、俺が獄内の党員を見ておいて遣る。藩主はよいが、佐幕の藩吏がのさばっているだろうからな。
だから尊皇攘夷を成し遂げて帰って来い。其がおぬしの主君への忠誠心の示し方なのだろう』
『・・・・・・はい』
・・・・・・宮部は肯いた。大義を果し、肥後に報いるまで生きる事を約束する。その約束は、結局果せなくなって仕舞うのだが。
轟 武兵衛は1867年に釈放され、初め明治政府に勤めるも、すぐに辞して隠居に入る。新時代を形だけ見届けるも完全に国事から退いた。




