九十. 1863年、別離~何も無い維新~
宮部が再び京へ上ったのは年が明けてから(1864年)と、他の志士より少し時期が晩い。そうというより他の志士と入れ違う様に出て来て、桂や少数の長州藩士しか京には滞在していなかった。
―――他には、八月十八日の政変時も努めて沈黙していた『枡屋』の主人・喜右衛門こと古高 俊太郎。
宮部は在京中、自身の脱藩に因って家族が離散したものの、宮部家への忠義を猶も尽す為に自身を追いかけて来た従僕・忠蔵と共に枡屋に潜伏していたが、ある時、ふと何と無く、普段宿泊するだけでは立ち入らない処へ踏み込んでみた。
・・・重い音を立てて、蔵の扉を開いてみる。
「・・・・・・」
・・・・・・宮部は蔵の中を見て、密やかに眼を昏くした。中に入り、転がっている焼玉を緩慢な動作で拾い上げた。
「あ・・・っ、み・・・宮部さん・・・・・・!?」
宮部と忠蔵が部屋に居ない事を心配した古高が草履を突っ掛けて捜しに来た。開いた蔵に二人が居るのを発見すると、古高の顔は一気に色を失った。
「―――――・・・・・・。――――古高君」
宮部は先に口を開く。・・・・・・かなり時間が経ってから言葉が出てきた。
蔵には、焼玉、火縄銃、鎖帷子、手槍等の武器弾薬がぎっしりと詰められている。
「・・・・・・・・・之は、何だね」
色を失ったのは宮部も同じだ。宮部は近い内に自分は爆死するであろう事を悟った。“御癸丑以来”という名の爆弾に因って。
―――池田屋事変の序章である。
「1863年、別離」
宮部はとんでもない真実を知って仕舞った。
古高に出させた書状や連判状の一式を片っ端から読み、終えて、脱力する身体を支える様に紙散ばる床に両手を着いた。
「は――――・・・・・・」
枡屋は確かに宮部や松田が手配したが、志士の隠れ処や集会処となる事を目的としている為様々な人間が出入して然るべき場処だ。宮部自身は京都御親兵やら八月十八日の政変後は京に居なかった事もあり、枡屋には半年ほど顔を出していなかったが、その間にまさかこの古道具屋が武器弾薬庫にされているとは思わなかった。
だが、特に不思議ではない。
「申し訳ありません・・・・・・」
古高が謝る。併し、古高は神経が濃やかで報連相無しに事を進めるなぞ在り得ない。口止めさせられていたに違い無い。
「いや・・・君の所為ではない」
宮部は優れぬ顔色の侭言った。・・・連判状を手に取る。古高は悩んだろう。併し、孰れにしろ古高も彼等の暴走を止める事は出来ない。―――“御癸丑以来”の。
「―――天誅組が孝明帝を大坂へ擁し拐い、真木さん達が枡屋の焼玉を使って京を焦土にする事で大坂に都を遷す。其処で討幕の勅を―――というのが、八月十八日の攘夷親征の裏にあった癸丑後の知らぬ真相か。勅命が下るのが後少し遅ければ京は危なかったのだな」
御癸丑以来は幕府をどんな手を使っても潰したかったのだ。その為には天皇さえ利用する。天皇の御意思を尊重するか、無視するかで自ずと尊皇攘夷派と倒幕派の違いは視えてくる。其が其の侭、穏健派と過激派に分類される。御癸丑以来は俄然倒幕派で過激派だった。尊皇攘夷派と倒幕派の志の違いは今や同じ計画の異なる解釈に表れ、溝が深くなってきている。桂や久坂等最早穏健派と呼ばれる嘗ての過激派が止め役に回り聞き分けが無いので、彼等は自分達の動きについて隠す様になっていった。
子供にありがちである。厳しくしすぎると隠れて勝手をする。そうなられては困るから、肥後勢は極力主張せぬ様にしていたのだが、そのつけが枡屋に回ってきた様だ。
話は之で終らない。
「八月十八日に実現できなかった計画を今こそ、か・・・・・・」
要するにそうであろう。古高がこの後新選組に捕えられ、拷問の末に自白する内容は
『御所の風上より火を掛ければ、瞬く間に京の町は火の海と化す・・・・・・この一大事に参内する親幕派の公家や守護職・・・・中川宮と京都守護職・会津容保を血祭りに上げ、連中の手から帝をお救い申しあげ、長州へ御動座頂く』
であるから、都が大坂から長州に変っただけで計画は粗同じである。新選組側はどうも『御所焼討、徳川 慶喜・松平 容保暗殺及び孝明天皇拉致計画』と御上に伝える様だが。
この計画も叉、真木和泉や来島 又兵衛が中心となっている。
「・・・・・・面白い事に」
と、言いながら、口調は皮肉混じり、だが面持ちは沈痛であった。名簿の表面を指先で軽くなぞる。
「・・・・・・私の名がある」
而も、知らぬ内に作戦の立案係にされていた。宮部自身は元々兵学師範であったから、其を買われたのだろう。詰り、遠からず暴発に捲き込まれる運命だったのだ。
此処を武器弾薬庫にされて仕舞えば、幾ら細川所縁の家と謂えど踏み込まれるともう誤魔化せない。動きが薪炭商・枡屋 喜右衛門の枠を超えて仕舞っている。勤皇志士古高 俊太郎であると露見るのも時間の問題かろう。
かといって、之だけの量の武器弾薬を廃棄すれば其も叉疑われる。・・・改めて、御癸丑以来の影響力に平伏する。
「――――・・・」
宮部は観念した様に眼を閉じて長い息を吐いた。・・・壁に凭れて頭を擡げる。
この頃になると、大半の勤皇志士は疲れ切っている。と、いうより、天皇の御意思の下に攘夷を行なう事を大義名分としてきた純粋な勤皇志士は、天皇が攘夷意思を撤回された事で拠り処を失った。依って、始めから、倒幕派の勢いには敵わないのである。
・・・自然、過去を振り返る事が多くなる。
「思えば、八月十八日の政変から叉色々な事があった」
宮部は懐かしげに言う・・・・・・が、八月十八日の政変から半年余り、彼等の物語は実に“別離”しか無かった。
仮令どんな悲劇の物語でも、別離しか描かれない物語はそう無いと思われる。併し、彼等に関しては見事に別離しか描く部分が無い。
天誅組の変の後に続いた生野の変にて、総督平野 国臣が捕えられ、六角獄舎に繋がれた。平野が獄を出る事は無い。後に収容されるこの古高と共に、禁門の変の際に生じたどんどん焼けに伴い斬首される。
―――生野の変に伴う残党狩りが漸く鎮静化しつつある日の夜、彼等肥後人は別離の盃を交した。
まだ療養の必要な松田、竹志田 熊雄の最期を看取ったのち大坂の長州藩邸に来た中津 彦太郎と内田 弥三郎を残し、宮部と轟、山田 十郎は四国経由で長州に、彦斎は久坂の護衛で京へ向かう。・・・夫々(それぞれ)に、新たな別離と出逢う為に。
『十郎っ!無事に着いたら文を寄越すんだぞ!宮部先生と轟先生が御一緒だから大丈夫だとは思うが、一応な!』
『わかった、わかったけん兄さん。だけん、もちっと大人しゅうしとって・・・;』
松田は過保護な位にうるさく弟に言い聞かせた。その兄馬鹿っぷりも今となっては微笑ましい。あの時の盃が兄弟の永遠の別れとなった。
松田は身体の機能を取り戻したのち、池田屋事変の前に定広公と長州へ下る機会があった。併し、宮部や彦斎、更に在京藩士であった久坂や稔麿迄もが総浚い長州に召喚された事態の中でも、十郎と松田が逢う事は無かった。
十郎は肥後藩に捕えられたのだ。
十郎のその後の人生は不思議なもので、囚われた御蔭というべきなのか、激化する内戦に捲き込まれる事無く生き延びて、1867年に釈放される。松田はその頃生きていない。
木戸 孝允等の創った明治政府に佐々 淳二郎等と共に出仕するが、すぐに解雇される。木戸等明治政府は、肥後勤皇党と敵対していた開国派の横井 小楠等実学党を必要としたのだ。通常の公務員試験を突破して官僚となるも、実学党の陰謀ですぐに辞めさせられ再び投獄されて仕舞う。彦斎の処刑はこの頃である。叉、この頃は廃藩置県に依って細川家の藩主(知藩事)としての権限が凡て失われており、勤皇党残党および時習館党(佐幕派)にとって暗黒の時代が来た。之迄の復讐とも謂える凄まじい弾圧である。
・・・結局、十郎は2年もの歳月を獄に繋がれ、其を救ったのは自身を不要とした明治政府であった。見兼ねた明治政府が実学党を排除したのだ。
その後、谷 干城(土佐)、児玉 源太郎(長州)等が熊本城に入り、熊本の政治は明治中央政府に委ねられる。
肥後には何も無くなった。細川が消え、勤皇党、時習館党が消え、蠱毒の勝者である実学党も消され。国人一揆の再来である神風連も散り、熊本城も燃える。肥後の地は、加藤 清正が熊本城を建築する前の豊臣政権下に戻った。
「肥後の維新は明治3(1870)年に来た」と徳富 蘇峰の弟・蘆花は書くが、其は矢張り実学党の視点で言ったものであろう。全体から視れば「御一新」は、まさに凡てが真っ新となった明治10(1877)年以降を呼ぶに相応しいのではなかろうか。




