八十六. 1863年、八十八~藩主と藩士~
―――・・・銃弾が松田の身体を貫く。
「松田――――!!」
松田が倒れる。韶邦がピストルを隠し持っていた。
―――わらわらと肥後の藩兵達が現れ出でる。
「何故だぁ―――っ!!」
韶邦に攫み懸る吉村を、藩兵が引き剥す。
「・・・丁重に扱え」
「はっ、さればとて」
藩兵が戸惑いながら吉村を保護する。無礼さも怪我をするかも知れない域である。其を気にしない韶邦には藩兵も流石に困惑する様だ。其なのに、身内に対しては容赦が無い。
吉村は半狂乱になって叫んだ。
「何故、貴様はその情けを自藩士に掛けて遣らない・・・・・・!他藩士に情けを掛ける余裕があったら何故そちらに回さない・・・・・・!其とも、土佐藩から何かを引き出したいのか・・・!」
・・・・・・っ・・・!松田は鎖骨を押えて必死に痛みに耐えている。鎖骨に銃弾が貫通し、肩から先の感覚が一瞬で吹き飛んで仕舞った。
「何を申しておる」
韶邦の鋭い口調に、目に入れた事さえ無い土佐藩藩主と自分達下士を直接的に虐げてきた土佐藩吏の影を韶邦に重ねた。吉村は思わず畏縮する。
「そなたは他国の客人、重助は我が藩の子である。客人を厚く持て成し、悪い事をした我が子を躾けるのは至極当然であろう」
“我が子”・・・・・・?吉村はよく判らずに聞いていた。我が子を銃で撃ち抜く親がいて堪るものか。
「躾、って・・・」
「藩主には藩士の行為を正す責務がある。この男は再三の警告を無視して肥後へ帰らなんだ挙句、斯様な反乱まで謀り天下に迷惑を掛けた。故に、実力行使に移した迄の事よ」
・・・・・・。松田が唇を噛みしめる。撃たれた側の腕を引き摺りながら、這って起き上がろうとした。地面に紅が満たされてゆき、崖を流れて血の滝が出来た。
「違う・・・・・・!この武力蜂起を謀ったのは俺だ、松田は其を止めに来たのだ!・・・俺の所為だ。だから、罰するならば俺を・・・・・・!」
「だから申しておろう」
韶邦が切り捨てる。吉村は黙った。韶邦は、吉村の言っている事に聞く耳を持たない様だった。
「そなたは客人であると。罰するか否かは我が決める事ではない。我は重助に頼まれた通り、そなたを客人として扱うのみ・・・されどその事と重助個人は叉別の話よ」
韶邦は視線のみ松田に宛てて言った。
「・・・帰って来い、重助。貴様が藩外へ出たは間違いであったわ。余計な風を肥後に送り込んでくれた。天下の事に首を突っ込まず安寧の中に生きるが貴様にとっても幸せであろう。まだ間に合うぞ」
「・・・・・・間に合う・・・・・・だと・・・・・・?」
松田が荒い息で言った。己の血で濡れる土を握りしめる。
「はは・・・・・・」
拳を握りしめて・・・・・・笑う。
「そういうお気楽な脳みそをしているから放っておけないのさ・・・・・・」
細川が民を守ろうとしている事は松田も理解している。だが、足利の時代より変らぬ細川の「仕える姿勢」では最早守れぬ事も解っていた。
・・・・・・其に、松陰や桂等長州人と出逢い、真の“自由”を知って仕舞った今では。
「・・・用意された枠の中で生きる事だけが幸せな訳じゃない・・・・・・確かに・・・外れの無い道で幸せな時も其形にはあったが・・・・・・其だけでは幸せを掴み取れない世に今はなっているんだ・・・・・・!わかるだろう・・・・・・従うだけではだめだ・・・・・・慶順、お前が真に天子さまを想うのなら・・・真に徳川家を存続させたいと願うのなら・・・・・・俺の行動の理由が理解できる筈だ・・・・・・!」
ドン!!
「――――――・・・・・・」
松田の脇を2発目の銃弾が通り過ぎる。韶邦が威嚇の為に再度放ったのだった。
「なれば国人は黙っておれ!!」
韶邦が声を荒らげる。
「・・・其が貴様の本心であるというのであれば、之以上我の手を煩わせるな。・・・・・・違うであろう。貴様が我の元より逃げるは、同国の者を躊躇い無く殺すは―――長州に同調するは、余計な欲を身につけたからであろう」
・・・・・・っ。松田は再び崩れ落ちる。・・・・・・空気が重く圧し掛る感覚がした。
「吉田 松陰と桂 小五郎・・・之等長州の者が、貴様に余計な事を吹き込んだ。肥後国人の培ってきた尊皇思想とは本来、私利私欲で動くものではなかった筈・・・その思想を長州は穢した。徳川を倒せば一国を与えて遣るとでも約束されたか。貴様の尊皇攘夷とは所詮、帝も夷狄も視野になど入れず、欲という命を吹き込まれ、長州の掌の上で弄ばれる事で生れた傀儡。・・・・・・我は其を、憤懣遣る方無く思うておる」
「其は・・・・・・違うぞ、慶順・・・・・・!」
「・・・・・・重助、汝が悪い訳ではないと、この慶順、了解しておる。由って死罪にはせぬ故安心するがよい。只、汝には教育を施さねばならぬ」
―――捕えよ。韶邦が低い声で命ずる。藩兵が松田を引き起し、両腕を後ろに回した。肩を動かされた際の激痛が全身を貫く。
「ぐ・・・・・・!」
・・・・・・意識が飛んで頭を垂れる。すぐに眼を開くと、其処には割れた地面が在った。
韶邦が松田に背を向ける。一歩踏み出そうとして、其の侭立ち止った。藩兵は剣や銃を構え、全て一方向を指している。
「―――稔麿・・・!!」
・・・松田は汗ばむ顔を上げる。吉田 稔麿が肥後藩主韶邦に対して太刀を向けている。
「稔麿・・・・・・!?」
毛利 定広公も草陰より慌てて出て来る。長州藩兵もだ。兵を分散させている肥後藩兵の方が数が少なく、逆に彼等が崖に追い詰められた形となった。
併し。
「申し訳ありません、若君―――・・・併し、私はこの者を許せない」
肥後藩側が本格的に臨戦態勢に入る一方で、長州藩側は蒼褪めていた。他藩の藩主に刃を向けるなど、言語道断・・・・・・
「馬鹿!お前、何遣って―――」
松田も痛みを忘れて怒鳴る。だが、稔麿は毅然としていた。
「馬鹿は今に始った事ではない。松陰先生、高杉・・・松下村塾に脈々と受け継がれているものだ」
だからといって高杉が藩主に刃を向けたかというとそうではない。精々将軍徳川 家茂に「よっ!」と声を掛けた程度である。
『屠勇隊』の事といい、この男は突き貫ける時は高杉以上に突き貫ける。
「・・・・・・其に、吹き込んだのは松陰先生の側ばかりではない。
斯う遣って、危険を冒してでも守る価値のある“友”の存在を教えたのは、肥後人だ」
松田は眼を見開いた。・・・・・・韶邦は兵を下がらせる。藩主世子さえ止められぬ中、夫々の頭目は韶邦と稔麿であった。
「・・・他家の者に藩主が刀を向けられるは、第5代以来120年振りぞ」
―――ピストルの銃口を稔麿に向ける。周囲は更に緊迫した空気に包まれた。
「―――が、他家の子となれば、関ヶ原以来初めてよ」
やめるんだ稔麿! 定広が叫ぶ。韶邦は横眼に定広を見ながら小さく息を吐いた。
「・・・藩主の子の小姓でありながら、教育というものをまるで受けずに育ったと見ゆる。
―――どれ、我が教育の手本を示してみせようか」
「自国の藩士に怪我を負わせる者に藩主である資格など無い」
・・・韶邦が引鉄に指を掛け、稔麿が構える。どちらかでも手を出せば両家取り潰しの危機だ。其を理解しているのは、120年前に改易の危機に遭った細川の方である。
其とも、徳川から何か特別な命でも受けているのか―――・・・
肥後の藩兵が稔麿を囲む。長州兵は爆発寸前だったが、定広が必死に彼等を止めた。
「銃を下ろせ、慶順!!」
「稔麿―――!」
―――傍から見ると、其だけで充分戦争だったであろう。
パァンッ!!
・・・・・・韶邦が眼を見開く。・・・引鉄から指を離し、己のピストルの銃口を確認する。煙は出ていなかった。詰り、弾は放たれていない。一方で、稔麿等長州人も韶邦が引鉄を引いたのではない事を理解していた。在らぬ方向から弾が来たからだ。
そして、その弾を受け止めたのは稔麿ではなかった。
―――肥後藩兵を振り切って稔麿の前に飛び出して来た、吉村 寅太郎であった。
吉村が頭から血を散して倒れる。人間が瞬間にして人形へと変るのを、藩主も藩士も、長州人も肥後人も境無く見つめていた。
「―――――・・・・・吉村ぁっ!!」
松田が叫んだ。稔麿が吉村を抱え上げる。即死の様だった。吉村はぴくりとも動かなかった。
(津藩兵・・・)
韶邦は早くも吉村を撃った者を連れて来るよう命じ、長州藩定広公も呼び寄せる。更に松田を捕えている兵に対し
「・・・よいか、決して重助を逃すな。・・・不謹慎だが、今が好機ぞ」
と、釘を刺した。・・・・・・地面が深く沈み込んでゆく重さを彼等は感じた。
『兄・・・・・・上・・・?』
・・・・・・彦斎は、己が刺し貫いた相手の顔を呆然と見ていた。佐々と似ている。国友 半右衛門が古閑を庇って彦斎の刃を受け止めた。
『国友、さん・・・』
古閑も刃の徹る国友の背中を唖然として見つめていた。頬に跳んだ血に気づかない。あの古閑が。
・・・・・・金縛りに遭った様に動けないでいる彦斎に、国友は更に呪いの言葉を吐く。
『左・・・様・・・・・・』
・・・・・・彦斎が国友の身体から刀を引き抜こうとする。併し、国友は刀を掴み、抜かさない。刀身を益々深く己が胸に喰い込ませる。
彦斎に、佐々の兄の死から目を逸らさせなかった。
『俺・・・が・・・・・・佐々 淳二郎、の、兄・・・・・・だ・・・・・・・・・』
―――同志の身内まで斬る。同胞だけでなく。この手は。彦斎は直視する。
『死ん・・・・・・でも・・・弟、は・・・・・・渡さ・・・・・・・・ぬ』
国友は事切れる。彦斎の腕の中で死んだ。彦斎は明瞭と、呼吸が止るのを眼で肌で感じた。
佐々の兄を。
―――同志の身内を、遂に殺した。この手に掛けた現実が、目の前に生々しく存在している。
『・・・・・・・・・・・・・・・』
・・・・・・国友が生命の色を無くして斃れると、彦斎もその場に膝をついた。川底の様な地面に両手をつく。
彦斎の動きは完全に止った。彦斎は、自ら首を差し出していた。とどめを刺す状況は完成された。併し、彦斎の真正面に居る古閑も彦斎と同じものを見つめた侭、動かない。
『――――っ』
肥後藩探索方で佐々一族の桜田 惣四郎が陰より飛び出し、彦斎の首を狙う。だが、惣四郎が石畳の道を横切るその瞬間、藩邸の門の扉が蹴破られて開いた。
『――――!?』
入って来たのは2頭の馬だ。
地響きが鳴り、砂埃が藩邸の敷地内に吹き上がる。併し地面が崩れ落ちたのはこの藩邸ではない。




