八十二. 1863年、八十八~人質~
―――内部抗争の成れの果てがこの紅の世界だ。
『――――・・・』
劫火に燃えて緋くなった藩邸は存在するかも知れないが、血が嘗め尽した藩邸は恐らく此処だけであろう。
空が濡れ、月が赤く錆び、太陽は燃え、雲が耀く。鮮血を被る顔に眼だけ爛々と光らせて、或る一点を見つめていた。
―――古閑 富次。
『――――・・・・・・河上 彦斎』
・・・・・・古閑は仇敵の名を呼んだ。飄々としたこの男でも、流石にこの血の池地獄の惨状をひとりで作り出した黒稲荷こと人斬り彦斎に射竦められては怯まぬ事は無理だった。・・・髪に隠れた額には玉の汗が浮ぶ。
『・・・・・・漸く逢えた。貴方に逢える日を、どれ程待ち侘びた事か』
ひた,ひた,,と液体を含んだ足音を立てて、河上 彦斎が近づいて来る。人としての表情を捨てた修羅の形相に、本来味方である筈の勤皇党の若者も後ずさる。
・・・役人の方が流石に胆は据わっており、彼等を前に突き出すも。
『どうも初めまして、河上 彦斎さん。私は肥後藩探索方・古閑 富次と申します』
古閑は笑顔を崩さずに、先輩に対する礼儀も忘れず頭を下げた。・・・チャリ、と彦斎が刀を構える。
此の侭首を切り落し兼ねぬ彦斎の剣気に、役人達が立ち上がる。古閑が其を制止して、頭を上げると
『フーフフ。ひどいなぁ。僕はずっと貴方とお話ししたかったのに』
と、急に馴れ馴れしくなった。
〈『僕』・・・〉
彦斎は理性の残る頭で思う。
『・・・おぬしか。志士に成り済まして永鳥さんや佐々さんに近づき、在熊の勤皇党員に危害を加えたのは』
『本当は貴方に近づきたかったのですが、流石に勤皇党も防御が固い。貴方は京にばかり行っているし』
『―――其でこんな茶番か』
ちん、と彦斎は刀を納めた。袖口の襦袢を引っ張って顔を拭う。更に近づき、古閑と対峙した。
『フフーン?義兄さんは、こんな可愛らしい人に襲われたのか』
『・・・貴様は単なるお喋りをする為にこんな大掛りな膳立てをしたのか』
腰の物を抜け。手加減して遣る。彦斎は己の刀に手を掛けずに身を晒して言った。
『貴様の名には覚えが無い。が、どうせ仇討か何かだろう。標的は目撃者含め総て消す方針だが、姓の異なる縁者までは突き止められないからな』
『―――之は・・・拷問の必要は若しかしたら無いのかな・・・自白として充分な材料ですよね、今のは?』
『御託を並べるのも大概にしろ、小僧』
其ともまだ近くに来て欲しいか。彦斎がずんずん前へと進み出る。容易に刀を抜けない距離にまで古閑に接近した。
『・・・藩政府を抱き込めば己が血に汚れずに仇討を果せると思ったか。御蔭で今日が肥後藩の命日になるかも知れんな。
佐々さんは何処に居る?永鳥さんは如何している。其方の人質は俺が肥後で天誅をしていた頃には勤皇党に加盟していなかった者達だ。解放しろ。之等の要求に貴様が応じれば、黙って討たれて遣ってもよかろう』
・・・彦斎が威圧的な口調で言うと、古閑は何が可笑しいのやらくすくすと笑い始めた。彦斎は三白眼で古閑を睨む。
一頻り笑うと
『・・・・・・“人斬り”って、可哀想ですね』
と、言った。
『ねぇ、おキツネさん』
古閑も叉彦斎に歩み寄る。余裕な事に後ろに手を組みながら。彦斎には古閑の一挙一動が癪に障った。
『・・・僕は別に、仇討の為に貴方を呼んだんじゃないんですよ。―――そんな獣の様な事、忠実なる藩の公僕がする訳無いでしょう?彼等は彼等で逮捕状が出ているんですよ。あぁ貴方達は知らないかなぁ?長州藩は本日を以て京を追放される事になりました。だから貴方達御親兵も長州藩に与したとして・・・ね。彼等を人質にして貴方を指名したのはその方が貴方を捕まえ易いと思ったから、かな?通常の方法では黒稲荷を捕まえるのは難しいから』
彦斎が刀を抜いた。古閑の着物の腹が裂ける。併し間一髪で飛び退き、血は出なかった。
『ふひょーーん、つくづく気の短いお人だ』
古閑が駕籠の屋根に手を着いて転回する。彦斎が古閑の手を目掛けて二刀目を繰り出す。だが駕籠に近づくのを警戒した為刃が届かなかった。
『―――邪魔な駕籠だ』
何にせよ得体の知れぬ駕籠が在っては気が散る。地面に着く程身体を落し、駕籠の上部を切った。
御簾が簀巻になって地面に落ちる。駕籠の中が明らかとなり、彦斎は其を目前にした。
『・・・・・・―――――』
・・・・・・彦斎は徐々に眼を見開いた。極めて限られた時間であったが、そう感じられた。彦斎の動きが完全に止る。
『―――其と、貴方に呪いをかけたので、心しておいて貰いたくて』
パ ンッ
―――刀が折れて刃先が吹っ飛ぶ。刀を安物で妥協したが故に激しい戦闘に耐える事が出来なかった。彦斎が均衡を崩して地面に手を着いた。其でも彦斎は駕籠の中に釘づけになっている。
くるくるくるくる・・・
刃の切先が空中を回転する。朝焼けは急激に鎮火が始り、雲の光は淡くなり、空の色は通常の青へと移り変ってきていた。
ザク
『―――彦斎っ!!』
空気に乗って誰かの叫ぶ声が聞えてくる。だがそうあって猶、彦斎は駕籠の中に魅せられていた。
駕籠の中には――――
「ゴホッ、ゴフッ!」
竹志田がひどく咳き込む。松田と吉村が白日夢から一気に目覚める。全員に体力の限界が近づいていた。
「熊雄っ!?」
内田が松田から隠す様に竹志田を蔽った。―――!?松田は構わず内田を退かせ、竹志田を見た。ここにきて松田は竹志田の病を知る。竹志田は必死に咳を止めようとする。だが、自身ではもう制御が出来ず、益々咳はひどくなっていった。
口を覆う手拭に紅い玉が散り、滲む。
「お前―――・・・」
「如何した―――?」
・・・・・・。松田は竹志田の背中を摩る。・・・力を抜いて寄り掛れ。竹志田に言うも、頑なに拒まれる。内田を呼び、交代すると心なしか背中を預けた。
・・・水と桶を持って行き、内田が受け取って水を飲ませる。
「・・・・・・後輩が血を吐いた」
「な・・・・・・!?」
吉村が身体を起そうとする。お前も安静にしていろ。松田は吉村を寝かせる。落ち着かせる様に言ったが、彼自身内心混乱情態だった。
(如何する―――!?)
最早、竹志田に自分の足で歩けと言うのは酷な話だ。併し、此処に留まっていても孰れは囲まれる。細川の包囲網を出ずとしても、捕まって仕舞っては元も子も無い。
健常者三人に傷病者二人―――・・・移動するにも時間が掛る。
(まだ何も沙汰の無い今の内に距離を稼いでおくか―――)
「松田さん!!」
―――外で見張りをしていた中津 彦太郎が屋内に飛び込んで来る。之には松田も嫌な予感しかしなかった。全員が中津に注目する。
「此処はもう離れた方がよかです!白装束の者達がちらほら見えてきよる。大和行幸の格好をしよるが、動きは完全に兵ですばい!」
「まじかよ・・・・・・」
松田は頬を引きつらせる。或いは笑うしか無かった。如何して斯うも細川が絡むと自分は間も運も悪いのか。まぁ大凡の予想はつくのだが。
「・・・・・・絶体絶命、だな」
・・・松田は内田と中津に言った。其でも脳の中では、考えろ、考えるんだと自我に向かって叫んでいる。
〈・・・彦斎だな〉
彦斎の姿が佐々の視界にも入って来た。そうでなくとも血の臭いが藩邸に拡がってゆくのが判る。彦斎だとすぐに判った。
・・・目を凝らして見る。矢張り古閑の目当ては彦斎だったか。永鳥にせよ自分にせよ、あの場に並ばされている後輩達にせよ彦斎を引き摺り出す為の道具に過ぎなかったという訳か。
時習館党代表を殺害した当時、“黒稲荷”は何人もいた。おまけに修好通商条約の影響で浪人や殺しが横行した時代でもある。だがここ4,5年の内に他の黒稲荷が死に、他藩の志士の認知も高まると“人斬り彦斎”と特定の個人を指す様になっていった。古閑は其迄只管刻を俟ったというべきか。佐々等に接近した時には既に彦斎に的を絞っていたと謂えよう。
そこ迄わかっておきながら、放っておく。というか、泳がせている。岡田 以蔵逮捕の時の土佐もそうであるが、藩というのは時に鈍感と思える程に度胸があり、執念深い。藩主にしろ明治後の藩主の弟にしろ、彦斎を人斬りと理解しておきながら自身の傍に置くのである。
〈・・・・・・〉
・・・古閑と彦斎が武器を納めて対峙している。
今の状況は長くは続くまい。古閑のじれったさに彦斎が耐え兼ね、すぐに再び剣を抜く。
佐々は別の事が気になっていた。―――また駕籠が在る。人質は、外に全員揃っている。同志の数は彦斎も把握している筈だ。ならば中に誰が入っていようとも駕籠を斬る事に何も躊躇う事は無い。
併し、彦斎に剣を振るわれて困るは佐幕派である。だから佐幕の人間が駕籠の中に入る訳は無い。ならば何故また駕籠が在るのか。
見かけ倒しか?其では彦斎の動きは止められぬ。彦斎の動きを止め、かつ身柄を確保せねばならぬのだ。
彦斎が古閑の着物を裂く。古閑の卑劣な遣り口に、彦斎はまんまと乗せられている。之は、効き目が大きいだろう。
『―――!!』
―――佐々は気づいた。矢張り“人質”だ。最初の予感は的中していた。駕籠は―――・・・三狐神に対する供物の容れ物だ。
『―――斬るな彦斎!!』
佐々は叫んだ。身体が僅かに前に傾く。手首が欝血するばかりでこちらから行動を起す事は出来ない。
此の侭では―――・・・斬られる。
『駕籠の中には―――!!』
―――斬ッ!!
・・・・・・駕籠の御簾が地面に落下した。駕籠の上部が外れ、柱が倒れて中から人が頽れ出てきた。
『・・・・・・―――――』
―――・・・血が紅々と布を濡らしていた。・・・長い髪が地に落ち、すぐに顔を蔽って仕舞ったが。
『――――永鳥、さん・・・・・・・・・?』




