七十九. 1863年、八十八~破局~
その頃、京でも異変が起きていた。
ドォンッ!!
「――――っ!?」
久坂 玄瑞は耳を突き破る様な爆音に愕いて顔を起した。机上に己の身はあった。
机上で仕事をしていた筈だが、いつの間にか眠って仕舞っていたらしい。急速に訪れる倦怠感を押して障子を開くと、空が紫に染まり始めていた。
桂が既に外に出ている。
「あれは御所の方ばいな」
佐々が廊下を歩いて来た。佐々の脳は夜明けにも拘らず明瞭と覚醒している。というより、この男はまだ寝ていない様であった。
衣服も未だ袴をつけている。
「御所・・・・・・!?」
御所には堺町門を警備する長州藩御親兵の他、宮部と彦斎、そして下関にて戦功のあった轟が肥後藩御親兵として出動している。
「あれは大砲の音だ・・・・・・」
久坂も呟く。果して間違えよう筈が無い。自身が下関にて敵艦隊に向け放ったものなのだから。
大砲を放つとしたら矢張り御所以外には考えられない。
「あの・・・」
そしてこの娘が大人しく黙っている筈も無い。佐倉が着替えと刀を抱えて、佐々の居る方向から歩いて来た。佐倉も叉、覚醒している。
「湯浴みしていたら轟音が聞えてきて・・・一体何があったんでしょうか」
「は!?」
何でこんな時間に湯浴みを、と久坂は不粋な疑問を抱いたが、突っ込んで訊く余裕は無い。
・・・・・・。佐々は黙って佐倉の湯上がり姿を見下ろしていた。
「・・・丁度いい。佐倉、今から俺と一緒に来い。いいか、確り護衛しろよ」
「――えっ?」
「佐々さん達は決して藩邸から出ないでください。肥後の様子も俺が見て来るので」
久坂が着流し姿の侭、すぐ下駄を履き門の外へ走る。
佐倉も久坂の後を追い、薄手の茶羽織と刀だけを持って駆ける。佐々の至近距離を佐倉は通り過ぎ、着替えを久坂の部屋へ投げ込んだ。
―――佐々が佐倉の正体に気づく。
「桂さん。今から御所の様子を見て来ます!」
「俟て久坂!!」
桂が重役との話を中断させて彼等の後を追う。佐々も叉、彼等を追って長州藩邸の門へ行く。行って仕舞った。
彼等が門をくぐって外を見た時、久坂と佐倉の姿は既に無かった。
「行って仕舞ったか・・・・・・!」
桂が膝に手を当てて悔しがる。佐々は佐々らしいともらしくないとも謂える冷めた瞳で誰も居ない砂利道を見つめていた。
・・・之が、幕末最後に見る外の世界の風景と知らず。
「―――フーフフ」
気配無き声に、桂と佐々は背後を取られる。桂が辛うじて鯉口を切った程度であった。佐々は武器を持っていない。
「・・・佐々 淳二郎先生、め~っけ」
「・・・・・・っ・・・・・・!」
・・・・・・佐々の顔が引きつった。決して凄みのある声ではなかった。寧ろ穏かな声である。併し、この声が京に在る意味を即座に解する頭脳を持つ佐々には、十分戦慄に値した。
〈・・・緒方・・・さん・・・・・・!!〉
緒方 小太郎が京に来ている。―――長い前髪が風に戦ぐ。併し、真黒に塗り潰された虹彩が夜闇に紛れて眼元を視えなくしていた。下がり気味の口角だけが偽りの笑みを浮べている。
「長州藩直目付・桂 小五郎殿とお見受け致しまする。・・・なるほど、お噂通り聡明そうで、話の通じそうな方にあらるる」
反射的に左手が反応しても、刀を抜こうとはしない桂の手許を緒方は見る。・・・手を伸ばし、桂の刀の柄に不躾に触れた。そのさまが余りにも空気を動かさず無防備だった為、桂はその手を払い除ける事が出来なかった。
併し其より。
ち ん 。
・・・鍔が鞘に触れる。・・・・・・っ!!桂は背筋が凍りついた。刀に触れられたからではない。狂気に触れた様に感じたからだ。
「私は肥後藩探索方の古閑 富次と申しまする。長州藩が聴いてくだされば、肥後藩も悪い様には致しませぬ」
古閑が柄より手を離し、桂の顔を覗き込む。佐々は驚愕を禁じ得なかった。緒方の正体を、佐々自身は初めて聞かされた。
「肥後藩探索方・・・・・・!?」
「―――ええ」
・・・・・・唖然とする佐々に、古閑はにっこりと大人の笑みを向けて言った。
「・・・お兄さま方がお待ちですよ、淳二郎先生。さあ」
古閑が遠くの十字路で待機する駕籠を示す。・・・・・・佐々の脳裡に、最悪の想定が過った。
一方、京都御所に駆けつけた久坂と佐倉は、長州藩が警固している筈の堺町門が種々雑多の兵でごった返している場に直面する。
「はぁっ・・・はぁっ・・・な―――・・・」
久坂は横腹を押え前屈みになる。だが顔は正面を向いていた。堺町門に掲げられた旗を凝視している。本来は毛利の一文字に三つ星の紋が其処に在る筈である。併し、今は―――・・・
「なんだ・・・・・・ありゃあ――――・・・・・・!?」
薩摩島津の丸に十の字の紋が掲げられ、警固を罷免させられていた筈の薩摩藩兵が封鎖している。
(・・・・・・薩摩だけじゃねえ!!)
葵の紋・・・会津藩兵も堺町門を囲んでおり、この時になって久坂は漸く自ら敵地に飛び込んだ事を知った。
「先生っ!!」
ギン!久坂の背後に迫り来る刃を佐倉が受け止める。併し、その佐倉に異変が起った。相手の力を受け流し切れないのである。如何に突発的であったと謂えど、佐倉が実戦に於いて相手の攻撃に耐えられなかった事は之迄無かった筈だ。が・・・
(―――っ!!何なのこれ・・・・・・!?)
―――凡そ刀を受けた時の感覚ではない。大木で撲られた様な衝撃が佐倉を襲う。力技一本とも謂えるその剣に、女である佐倉が耐えられない方が当然だった。
「佐倉・・・・・・っ!!」
あれが若しかしてジゲン流・・・・・・!?漢字の表記さえ明らかにされぬ薩摩藩御留流の剣術で、一撃必殺を法とすると聞いた事がある。法の通り初太刀に全身全霊が注がれる為、初太刀を受けてはならないと噂されていた。初太刀を躱す事が出来れば後は並みの剣客でも太刀打できる程度の技だそうだが、初太刀を受けると斬られずとも腕が麻痺、ひどい場合は骨が折れる事もあるのだと云う。
佐倉とは相性最悪の剣だ。
「逃げてください・・・!久坂先生っ・・・・・・!!」
久坂が居れば佐倉はその場より動く事も出来ない。久坂が佐倉から離れる。佐倉が敵に圧されて一気に後ずさる。其でも何とか一の太刀を凌いだ。
「お前も退けっ!佐倉!!」
堪えてはいるがその腕は刀を落さぬだけで精一杯の筈だ。久坂は自分が衝動の余りとんでもない行動に出て仕舞っていた事に気づいた。
「受けるな、佐倉!!」
―――この娘を怪我させてはいけない。・・・とんだ見込違いだった。長州藩士が公然と襲われるこの状況も、護衛を護衛として扱い切れなくなっているこの情況も。
・・・・・・今更気づく。
「――――・・・」
・・・佐倉が痙攣した手で構える。
「やめろ―――!!」
佐倉と相手が同時に足を踏み出す。―――その時、上空でキラリと星が光った。強烈な流れ星だった。
ドッ ドドドッ カッ
―――間合を詰める二人の間に、其が其の侭墜ちてくる。二人は飛び退いて事無きを得た。苦無が地面に深く突き刺さっている。
「久坂先生の言う通り―――」
苦無に気を取られて、多くの人間は一緒に降って来た男の存在に声を聞く迄気づかなかった。佐倉と久坂の間に男の存在はある。
「・・・やめておいた方がいいですよ。怪我する前に、お互いにね―――・・・」
「・・・山口・・・!」
久坂が声を震わせる。山口は佐倉に刀を納めさせ、自身や久坂の許へ来るよう指示した。一方で、自身の左手は終始鯉口を切っている。
「久坂玄瑞を失うと長州藩は怒り狂って何を仕出かすか判らなくなりますよ。其は薩会も避けたいでしょう?」
・・・薩摩藩士も刀を納める。
「堺町門に一定距離近寄ると容赦無く斬り捨てるとの沙汰が先程下されていたんですよ。早く射程から出ましょう」
山口が簡潔に説明し、久坂と佐倉を誘う。久坂は動揺しつつも一先ずは従う。
彼等が堺町門から離れると、薩摩藩士の男は去って往った。
「―――あの男は中村 半次郎という者で、田中 新兵衛に成り代る薩摩の人斬りとして重用されているそうです。といっても、藩側の人間なので我々の敵ですが。そういう訳で、真面に斬り合ったところで勝てる相手じゃない」
「お前・・・・・・」
何処からそんな情報を仕入れてきた。ヤバいんじゃないのか、という予感が久坂の頭に過る。長州藩邸にも居なかっただろう、今夜。
「そんな仕事・・・頼んでいないぞ」
「頼まれた仕事しかしない武士が何処にいますか。あなたも随分な無茶をしてくれましたね。普段のあなたからは考えられない無茶ですよ、もう」
山口が呆れながらも微笑む。その表情が余りにも悟り尽していて、久坂は鳥肌が立つ。喉が震える。最早感情を隠し遂せる程、久坂の心には余裕が残っていない。
「お前・・・・・・一体・・・・・・」
「・・・その話は後程。長州藩兵は今、鷹司 輔煕さまの御邸に移動しています。久坂さんも藩邸に戻るよりは其方に行った方がいいでしょう。折角長州尊攘派の筆頭が自ら来たんだ。あなたが言えば何かが変るかも知れない」
「・・・・・・!」
久坂は呼吸を殺した。・・・そうだ、ここで冷静にならなくて如何する。自分が感情の侭動けば動く程、犠牲が増える事になる。
「・・・・・・お前、その様子なら肥後の状況も掴んでるな」
部下が先回りして有能に動いている。其を活かせずして何が尊攘派の筆頭だ。
「・・・あなたが無茶しないって約束できるなら言います」
・・・久坂が肯く。覚悟を決めた。己の胸を強く掴み、痛みで流れ込む感情の苦しみを遣り過す。
「・・・・・・肥後はもっと凄い事になっていますよ」
『・・・おい宮部。おぬしも今回は刀を抜けよ。この数では俺も河上もおぬしを護りながら切り抜ける事は難しい』
『解っておりますよ轟さん―――さればとて、想像していた以上に呆気無い破局でしたな。・・・故郷への挨拶は済ませたかね?彦斎』
『親族には一応。なれど肝心の心の準備が出来ておりません。之は斬った後に泣く事になりましょう。
が、その前に―――・・・』
・・・三人は背中合わせとなって周囲を見渡した。何処を見ても、薄闇に光る、眼、眼、眼。―――肥後の藩兵、300人。
彼等は御所の内構建春門から彼等の外の警備場処・寺町門を出たところ、之等兵に囲まれた。御親兵総監。その脇を固める幹部二人。一親兵として寺町門を護っていた勤皇党の部下達は、如何やら既に捕えられた様だ。
『―――一人百人、相手にせねばなりませんね。百人斬りとは、まさにこの事を云うのでしょうか』
「肥後人同士の血みどろの争いが始っています。恐らく、尊攘派に正式な逮捕令でも出たのでしょう。
・・・見渡す限り御所には、もう佐幕派しかいませんから」




