六十四. 1863年、翠紅館~肥後の政変~
「―――・・・え?」
「何ちゅらっ!?」
併し、“刻”は来たと言った。歯車は既に回り始めて仕舞っている。
肥後の政変は横井 小楠に始った。肥後藩が俄かに、越前藩に対し横井の身柄の引き渡しを要求してきたのだ。肥後藩の実態を知り抜いていた越前藩は、引き渡しの目的を横井の抹殺と見、拒否する。すると、肥後藩は越前藩に之迄に無い圧力を掛けてきたのだという。
「実質的な監禁状態で、会わせる事は叶いません。居場処が外に洩れて仕舞えば、あの人は肥後に連れ攫われて仕舞う」
越前藩士は疲弊していた。まさか肥後藩が自分達に牙を向けてくるとは思わなかったのだろう。戸惑いと圧力の強さに神経を磨り減らしている。
「―――周布さん」
「ああ。こりゃー一刻も早く帰って若さまと肥後さんに知らせにゃいかんろう。長州藩の手には負えんかも知れん」
肥後藩は別に薩摩藩や越前藩の影響を受けてなどいなかったのだ。肥後藩は飽く迄肥後藩であった。肥後藩が見ているものは、一つ。
(・・・・・・京での人気が高いからといって、藩主本人が快く思っているとは限らない・・・っ―――!)
桂は京への帰路を急ぐ。併しもう遅かった。宮部等は無事である。が、彼等はいきなり宮部等に手を着ける事はしない。
土佐の山内 容堂がいきなり武市に手は出さないのと同じ様に。
酒をこの刻ほど毒だと思った事は無かったかも知れなかった。
勤皇党三羽烏「智略の永鳥」―――松陰をして、彼を「宮部以上の僕の理解者」と言い、加え「僕と最もよく似る」とした。
始りはこの三人であった。吉田 松陰、宮部 鼎蔵、永鳥 三平。元来尊皇思想の濃い神話の地九州で、国の理想を語り合った事から、西国の尊皇攘夷は芽を吹く事となる。
彼等は共に東国尊皇の総本山・水戸へ飛び、体系的な学問としての尊皇思想と西国の信仰的な尊皇思想を統合させた。次いで佐久間 象山の元へ行き、西洋兵学について学んだ。詰りは、永鳥も象山の弟子だったのだ。
其から桜園先生の門下に入り、既に門下生であった轟 武兵衛と再会し、佐々を原道館に誘い、松田が宮部に弟子入りし、更にその後彦斎が、そして長州より久坂 玄瑞が肥後に来る。松陰に回帰する。そうして、肥後勤皇党は規模を大きくしていった。
―――世界地図を見るのが好きで、既存の正義に疑問を持つ。幕吏との喧嘩も厭わない、勝気だが少し身体が弱くて世話の焼ける、僕と一番似た友達―――・・・
「―――・・・では、後れ馳せ乍ら、新年を祝って」
「ええ」
二人は盃を合わせた。
―――相変らずの赤い酒。否、正月にこそこの赤酒である。赤というこのめでたき色は、屠蘇にも、そして神酒にもなる。
熊本城下の清正廟(本妙寺)の門前にある佐々 淳二郎の家。雪の夜は障子紙の白を一際白く魅せた。
「結構飲みっぷり良かとですね。意外です」
緒方は嬉しそうな笑顔を浮べて2杯目を永鳥の盃に注ぐ。永鳥は首を傾げてみせ、
「―――ふふ。如何してお前がそんなに喜ぶのかいまいちわからないけどね」
そう言うお前は余り進んでいない様だけど。瓶を緒方から取り上げ、とくとくと酒を緒方の盃に注ぐ。飲ませたがりの顔をしていた。
「僕はそぎゃん酒が強くなくてですね・・・」
「其は鍛われなんね。この藩に居るなら、酒には強くないとでけん」
永鳥が飲ませよう飲ませようと酒をスタンバイさせる。往年の悪戯っ子の表情だ。
「ゴホッ」
(・・・・・・)
矢張り長期戦は出来ないらしい。併し永鳥は酒に躊躇しない心算でいた。最初で最後の宴会だ。自分は只愉しんで飲んでいればよい。
「よかった」
「ん?」
「永鳥先生は僕とは飲んでくれないち思っていましたけん」
「はは、どこからそういう発想がくるんだい。お前もなかなか面白い思考をしているな」
・・・確かに緒方は肥後人の中で飛び抜けて酒に強いという訳ではなさそうだ。顔色には一切表れないが、明るい性格が酒に依って笑い上戸を引き出している。
酒に酔わせて斬るという手は、何処の藩でも例外無く使われる暗殺の手段である。酒に飲まれる事は武士にとって命取りであり、酒に弱い事そのものが人間の弱点とされる社会的風潮がある。
「今夜は無礼講だ。何でも訊くといい。全ての質問に正直に答えよう」
「わぁ。嬉しゅう御座います。僕もようやっと、永鳥先生に受け容れち戴けたいう事ですばいね」
・・・・・・。言い方がいちいち永鳥の癇に障った。併し緒方はどこまでも無邪気である。注がれる侭に酒を飲み、永鳥も合わせて盃を重ねてゆく。永鳥は、酔わない。
「・・・何だか言い方が気持ち悪いな。そっちの趣味がお前にはあるのかい」
「え?」
「うんにゃ、冗談だよ。通じないんだったら忘れてくれ」
まるで“肥後国の猫”だと思った。“肥後国の猫”とは阿蘇の伝説で、人に化けて床を共にし、人を猫に変えて仕舞うのだと云う。
その“肥後国の猫”は七つになると、神宮に仕えるのだと伝わるが。
「永鳥先生の実家って神社ですか」
「―――ご明察。神社だよ。梅林宮」
(・・・・・・)
緒方が僅かに翳のある笑みを浮べた。不気味であると謂うよりはほんの、ほんの少しであるが、哀しげであった。
「―――其が?」
にこっと緒方は屈託の無い顔で笑い直した。
「富永しゃんや加屋しゃんも神官ば遣りよんなはるし、肥後の尊皇攘夷は政教融合の色が濃かなち思いましてね」
「・・・・・・よく勉強している」
永鳥が酒を注いだ。永鳥も飲んだ。二人の飲むピッチは他の肥後人の追随を許さない。まるで地下水を飲むが如く。
「永鳥先生は他藩の志士とも親しそうですし、富永しゃん達にも慕われよんなはる。
・・・・・・永鳥先生が、この政教融合を推進めたとじゃなかかなって少し思いましてね」
「・・・・・・」
・・・・・・永鳥は息を潜めた。緒方は結構酔っている。併し、持病を晒すのはまだ早い。
「そぎゃんだったら、永鳥先生が一番偉かちいう事になりますよね。先生は警戒心も人一倍強い。だけん、先生に認められて初めて活動ばさしち貰えるのかなって思いまして」
「・・・・・・さてね。少なくとも、俺は別に勤皇党で偉い訳じゃないよ」
―――襖を開け、廊下から稲荷寿司の乗った皿を引き摺り込んだ。・・・勝手口の方に影が在る。
「そろそろ食べようか。其とも、狐の好物は好みではないかい」
・・・・・・永鳥が緒方に箸を渡す。
「稲荷寿司は甘かけん好きです。僕は辛党ちいうより結構な甘党でして」
特に牡丹餅なら何個でもいけます、と言った。更に酔った気怠げな声で、―――兄は汁粉が好物とですよ。餡子と餅が逆で面白かでしょう。と、殊更高揚して言った。
―――・・・ 永鳥は微笑んで聴いた。淳二郎との情報交換で、如何やら古閑の中で兄の存在が大きいらしい事を耳に入れている。
「・・・お前は、勤皇党の活動に自分が参加させて貰っていないと思っているのかい」
永鳥は稲荷寿司を何気無く口に運び、尋ねた。
「・・・!」
―――・・・ごほっ!ごほっ、ごほっ!!口腔に空気が多く入り、激しく噎せ返る。・・・もうこの身体は駄目だ。
「―――ええ。というより、忘れられているち思いました」
「―――・・・?」
永鳥は口を押えた侭緒方を見る。咳が止らない。喘鳴が急激に酷くなり、胸を掻き毟りたくなる程の息苦しさが襲う。
「―――僕の名に、覚えはありませんか、先生?」
「――――・・・・・・」
「今宵は俺の質問に、全て正直に答う約束でしたばい」
緒方はふらふらしながら訊いた。酔っている事は明白である。いつの間にか顔面蒼白になっている。感情の振れ幅も、少しばかり大きくなっていた。
「―――・・・緒方「小太郎。肥後勤皇党の党員は皆この名前ば知らっさん」
「―――知る訳が無いじゃないか。皆、お前が初めて逢った“緒方 小太郎”だよ」
「ばってん」
―――永鳥は眼を見開いた。・・・口から離し、畳の上で握りしめた拳の指の間は黒く影を落している。
「河上 彦斎の事は皆知っとりましたよ?」
―――ぴっ―――!
一瞬にして高い音で永鳥は口笛を吹く。即座に襖が開き、忽ち刺客が滑り込んで緒方の首を狩りに征った。
―――そう、自身こそ囮である。だから積極的に酒を取り入れた。
ザンッ!
「・・・・・・」
びっ。緒方は懐の飛道具で最前列の二人を昏倒させる。結構な腕だ。南の人吉藩ではタイ捨流が手裏剣術を教えている。
―――緒方とて囮役であった。緒方を襲う刺客の背後に更に刺客が雪崩れ込み、佐々の家は鮨詰めの屋内戦闘へと発展した。
「「・・・・・・」」
永鳥と緒方は戦わない。危処に身を曝した侭、互いを睨み合っている。酒が尾を引いて戦えぬのである。
・・・斯うせねば、どちらか或いは両方が兜の緒を弛め、丸腰で前に立たねば、内部の抗争はいつ迄経っても終らない。
「緒方だけは必ず殺せ」
永鳥は己の刺客に叫んだ。刺客の母数が増えている。だが分子が増えぬ感覚と違和を、永鳥は敏感に感じ取った。
永鳥の私兵はこの程度の人数ではない。彦斎が犯人だと突き止めた男だ。必ず仕留めねば、今度は居処を特定して京迄追う事だろう。その為に人数は出し惜しみしていない。
更に、私兵は傭兵ではない。
永鳥は外に出て往った。
―――・・・フーフフ。残された緒方は、刀交わり黒い紅が飛ぶ中、独特の口調で不気味に哂った。




