五十三. 1862年、長州屋敷~恋の季節~
久坂が一人で長州藩邸に戻って来た事に、山口は声が裏返る程に愕いた。
「佐倉は!?」
山口の衝撃具合に久坂も大いに愕く。ものすごく子離れ出来ていない親みたいな挙動なのだが。佐倉に結構依存している?
「坂本と医者に行ったぞ」
「え゛゛!!!???」
どこから出ているのかわからない山口の声に、久坂は珍しく気圧されまくる。山口がここ迄取り乱すさまは久坂も初めて見る気がする。
「久坂さん、寝不足で判断力が鈍くなっています!?!?そういえば昨夜も赤本描いてましたもんね!?」
「佐倉が心配なのは解ったから言い方にさりげなく毒を含むのはやめんか。少年だった頃の直球の方がまだ始末に負えるわ」
久坂は呆れた溜息を吐いた。
「大丈夫大丈夫。露見てもいい医者見繕ったから。あそこには突飛な娘さんも居るし」
「露見てもいい医者なんて在るんですかっ!?坂本さんですよ坂本さん!流石に一緒に行動させたら露見ますって!」
「えーよくね?別に」
「はあっ!?」
山口も佐倉が女であると知っている。というか気づいている。敢て教えた訳ではないが「本当に男なのか?」と問われて「女であれば辞めさせるのか?」と答えた。
久坂自身は、凡ての人間は平等に扱われるべきだと想っている。意思を前にしては特にそうだと。女とて其は例外ではない。そして之は、稔麿と高杉も共通して持っている意識である。
「佐倉が困ると思ったなら医院を変えて実家に協力して貰うだろ。其くらい自分で考えられるだろ」
・・・・・・。山口は複雑な表情をして頭を掻いた。方針や考え方としては理解できる。だが・・・
「・・・・・・求めるものがちょっと厳しすぎる気がしますけどね・・・・・・」
久坂は要求水準―――否要求は特にしていないので判断基準か―――が如何しても高めだ。頭が良すぎるが為にそこは仕方が無いにしても・・・放任というか、何でも彼でも当人の自主性に任せっきりなのは如何なものであろう。信頼していると謂えば聴こえはよいが、久坂は他人の決断で何度か失敗している。
「堅苦しいのはいつもお前の方だよ」
と、久坂は冷ややかな表情からくっと笑った。
「・・・大体、アイツ天誅以外は滅多に外に出ないだろ。坂本は遊ぶ気満々だったし、偶には昼の京に出て連れ回されて来ればいいさ。お前の話では、アイツは碁盤の目で偶に道に迷ったりするんだろ。京住いなのに何でだよ・・・」
「はあ・・・・・京に越して来たのは半年くらい前で、其から家の手伝いで殆ど外出しなかったんですって」
山口が寛ぎ顔で言う。久坂は山口の顔を見て、すとんと己の口角を落した。
「・・・・・・佐倉はお前にはぺらぺら話すんだな」
「えっそうですかね」
久坂が言うと、山口はぱっと顔を上げた。その表情も叉、之迄見た事も無く嬉しそうで、久坂は思わず眼を瞠った。
「・・・物騒な世界なんで、その中で少しでも安心させて遣れたらって思うんですよね」
・・・・・・。久坂は山口と佐倉の間に、新たな関係が芽生えつつある事を察した。
―――数刻後、いつまで経っても佐倉が帰って来ないので、山口に遣いをさせた。余りに帰って来ないので、坂本とはぐれて道に迷っていたのではないかと思った。
「そうか、楢崎先生が・・・」
佐倉は探偵の心算で自分を医院に行かせたのではないかと不満そうだが、正解其も含んでいる。だいぶ勘が働く様になってきている。
佐倉に行かせた『楢崎医院』は、中川宮侍医・楢崎 将作の経営する医院である。楢崎家は元は長州藩士で、京に引っ越し医院を開業して以降も長州藩士との交流は続いており、加えて皇族との繋がりがあった。謂わば、古高と似た位置に居た。彼も叉、安政の大獄で捕えられ、釈放されたものの病に罹り、佐倉の聞いた話に由ると3ヶ月ほど前に亡くなったらしい。
「で、坂本は?」
佐倉と山口が二人で仲良く帰って来たのを察して、久坂は坂本の行方を訊いた。
「あぁ・・・楢崎先生の娘さんと、大坂経由で江戸に向かわれました。あ、娘さんは大坂だけです」
・・・は?無理やり話題を転換させられたのかと思い、久坂は絶句した。如何して先生の娘さんが坂本の話題に上ってくるのか。
「大坂って・・・遠回りじゃねぇか」
而も話題が「娘さん大坂にゆく」で、何とまぁ活動的な。娘さんのじゃじゃ馬っぽさも佐倉とどっこいどっこいなのではないか。
「その方お龍さんというんですが、事件に巻き込まれて大坂行くことになって、坂本さんがお龍さんに惚れたとか言って、手助けに一緒に行かれました」
・・・・・・???
「よく分からねぇが、多分坂本はやっぱり変わり者なんだな?」
久坂には其しか分からない。そういう事なんだろうと思います、と佐倉は非常に漠然とした言い方をした。だろうな。
よって佐倉と負けず劣らずの“おもしろき女”の名は『楢崎 龍』であるが、之が後に龍馬の妻となる。
(―――・・・恋の季節か・・・・・・?)
もうすぐ冬に突入するのだが。何だか縁結びの神的な役回りになっている久坂である。
「あ、そうだ」
久坂が床に広げた書簡を拾い上げた。
「今度、粟田口に在る感神院新宮(粟田神社)で松陰先生の慰霊祭を遣る。その都合で、高杉を始め松下村塾生が京に遣って来る。吉田もその時期に合わせて帰京って来るんだとさ」
「へぇー、本国の方はもう大丈夫なんですか?」
佐倉が久坂と山口の顔を交互に見ながら頭を傾げる。佐倉も山口同様、藩と余り関係の無い世界で生きてきた。感覚的にもよくわからない。
「決着がついた」
―――山口に問われると、久坂はいつもと少し違う笑みを浮べた。
「長井の奴が免職されたそうだ」
・・・・・・久坂には遊ばれている事が多いからか、佐倉には久坂がこんな表情をする事が意外だったらしい。併しすぐにその表情は消えた。
「何なんだろーなー。俺あんなに頑張ったのにな?こっちは命を取られかけてあっちは政権取るとかさ」
「あの人はもうその為に生れた様な人ですから・・・;比べちゃダメですよ」
久坂が膨れる。命を取られかけたと聞いて、佐倉は愕いた。
「で、慰霊祭の話に戻るが、その日は長州藩邸も人が出払って静かになる。ちと驚くかも知れないが、気にしないでくれ。後、その日から長州藩邸で泊っていく奴もいるから、人の出入が多くなる。其だけ気をつけておいてくれ」
・・・ま、見られても小姓とか言っときゃいいけどな。と、久坂は言った。
「山口なんて、自分が言わなくても可也の確率で俺の小姓と間違われるしな」
「其ってアンタの手が掛るからでしょう・・・?」
山口が呆れ声で返す。佐倉は何故か感心した顔をして二人の遣り取りを見ていた。“小姓”って斯ういう意味なんだと学習していたのかも知れないし、“久坂は世話が必要な生き物なんだ”という事を学んでいたのかも知れない。
兎にも角にも、この日を境に久坂の“小姓”は本格的に二人に増えた。
余談だが、稔麿が帰京し、久坂や山口と行動を別にしても佐倉の“小姓役”は生きていたらしく、稔麿と佐倉を置いて江戸に出た時は江戸に着いて最初に届いた稔麿からの書簡に「茶を煎れたり膳や風呂の用意をしていたりするのだが、此の侭受けていていいのだろうか」と動揺を隠し切れていない筆跡で書かれていた。その相談に対する久坂の返事は「感謝して受けなさい。ちゃんとお礼を言いなさいよ」である。




