四十五. 1862年、京都~細川と古高~
「おぉ久坂君。山口君」
部屋に入ると真先に宮部が二人に気づいた。彦斎以下、肥後の志士と思しき者達がざっ・・・と振り返り、二人に鋭い視線を注ぐ。多分本人達にそんな気は無い。共通した狐の様にぎらついた瞳孔の所為であろう。
(う・・・・・・っ)
只其を抜きにしても、肥後人だけで固まると降霊術の最中の如く暗く厳かな空気が張り詰めている。
(蝋燭に赤酒に叉も稲荷寿司・・・・・・)
・・・・・・。古高が戸に張り付いて震えている。
一般にこの頃の肥後は、肥前佐賀ほどではないにしても陽気な薩摩と対照的に気質が暗い(というか、気難しい)と云われている。
「ん?何止っているんだお前達?入れ」
完全に引いている気持ちを意に介さず、松田が彼等をぐんぐん促す。お前もだ、俊太郎。松田が古高の襟首を撮んで中に入れる。序でにいうと、この二人は同い年である。
玄瑞と山口は果然彦斎の隣の席を取りに行った。だって他の面々は初対面の者からしたら怖いんだもん。
「何ね。あーた達ゃ」
のちの神風連首領・太田黒 伴雄なんて、明治後彼自身が神格化されるだけあって現時点で既にこの世の者でない空気が流れている。
「・・・?」
併し、神格化されるという事は人望篤いという事でもある。太田黒は自身が怖がられている事に気がつくと、自ら彼等の許へ出向いた。神風連副首領となる加屋 霽堅も続き、その後一人ずつ出向いて恭しく挨拶をする。この重々しさが松下村塾生とは随分違うと山口は想った。
他に、竹志田 熊雄、内田 弥三郎(何れも天誅組の変に関る)、松田の実弟である山田 十郎、永鳥の甥・松村 深蔵、松田に感化され志士となった元力士・中津 彦太郎、兄の遺志を継ぎ雉子車となった堤 松右衛門、勤皇党で最も若い藤村 紫朗がこの会合の場に居た。藤村は山口より年下である。
松田が山田の隣に敢て腰を下ろす。彼等も似ているが、血の濃い永鳥一族である松村 深蔵の方が叔父に生き写しな位貌が似ている。この様に、一家が揃って勤皇という点が長州勢とは異なる。
狐の様に、眼を開けていなければ皆とても愛想が好い。根は皆優しい。
「赤酒と稲荷寿司をどうぞ」
と、にこにこしながら勧めてくれるが、生憎玄瑞達は狐の好物ではテンションは上がらない。
「まぁ俟ち給え、加屋君。我々の好みは結構少数派なのだ。我々の好物を彼等も好きかというとそうでもない。古高君」
宮部が古高に注文を頼む。玄瑞と山口は訝しんだ。まるで古高がこの店の主人の様ではないか。
「取り敢えず、清酒と魚を出しとけばいいよな?」
「何ですかその長州人にはコレ食わせとけばいいだろ的な。山口は長州人じゃないですよ。山口だけど」
「?山口だけど??」
久坂はもう宮部にも容赦しない。宮部に追い着いたといえばまぁそうかも知れない。屹度近い内、敬語すら遣わなくなるだろう。
山口は肥後人が真面な基準を持っていると先程感じたのは幻想だったのだと思い直す事にした。高杉と何ら変らない集団だった。
軈て、古高が料理を運ぶ女中と共に部屋に戻って来て女中のみ帰すと、本題に入った。
とはいえ、本題についてここでは余り文字を割かない。之まで記述した事の繰り返しになる為だ。
新しい情報としては肥後勢の之からの動き。宮部と彦斎、加屋は御親兵の準備の為肥後へ、太田黒は参勤交代に随う為江戸へ、藤村は久留米へ、深蔵は豊後へ、山田は薩摩へ夫々(それぞれ)ばらける。堤と竹志田、内田は京に残り、玄瑞等に協力するとの事であった。
「俺と彦太郎は暫く大坂に隠れる。京には島津がそろそろ上がって来て、有象無象の志士達が決起するだろうが、この際無視してくれ。
玄瑞、圭一、お前達もだ。島津の底意は判っている。島津が志士の味方になる事は十割無い。罷り間違っても薩摩の定宿である寺田屋には行くな。島津は自藩の志士を粛清する心算だ」
「・・・・・・!!」
彦斎さえも僅かにはらはらと目の下のほくろを左右に揺らした。だがこの稲荷は口を挿まない。飽く迄“神の視点”でいる。
「・・・いや・・・・・・同志が義挙するのを黙って見ている事は出来ない。粛清の対象になるなら猶更」
「・・・・・・玄瑞」
松田が鋭い眼で睨みつける。松田の視線が怖かったが・・・・・・山口が、そうですよね、とばかりに肯いた。寧ろ松田に幻滅する程だ。
「桂から聞いたぞ。水戸浪士の件でもそう遣って駄々を捏ねたんだとな。其は“正義感が強い”とは言わない。只お前が青いだけだ」
松田と桂は同じ事を言っている。“見殺しにしろ”だ。そして、水戸浪士を結果的に見殺しにした事に、玄瑞は負い目を感じている。
「正義とか青いとか、そういう次元の問題だと松田さんが思っておられる事に驚きだ。どう転んでも無視するという選択肢は無い筈でしょう。そんな小さい事を言わずに数を集めれば、十が一に振り切れる事もあるのでは?」
その可能性があるのが、薩摩と土佐の二藩。だから同盟を結んだ。だが其でも、薩摩の真実については隣国肥後の方が把握していた。
「其が在り得ないから言っているのだ。・・・玄瑞、お前の藩と違って、大半の藩主にとって藩士など微々たる存在だ。石高が長州藩以下で藩主の方向性がぶれている土佐藩でさえ、気紛れに志士の命が散っているだろう。加賀100万石に次ぐ強大な力を持つ薩摩の藩主やその父が、自藩の藩士どころか縁も所縁も無い烏合の衆に耳を貸すと思うか。志士の機嫌を窺う必要が無い程にあの藩は膨れ上がっている。全国の志士の人数が消えたところで痛くも痒くもない」
薩摩藩の話であるのに、まるで親の仇の様に松田は激越な口調で扱き下ろす。
「あそこの藩主は強硬も強硬な公武合体派だ―――この情報はガセではないぞ。島津が肥後の滞在時に細川にそう言ったらしいからな。そうだろう、彦斎」
「はい」
彦斎が平然とした顔で答えた。彦斎とて茶坊主である。樺山ほどではないにしても、肥後藩主君の視点で精度の高い情報を得られる。
「噂に流れる程だから振り切れる望みが残されているだなんて思うな。噂は意図的に流されるものだ。お前が首を突っ込んだとて薩摩の内部抗争に捲き込まれて無駄死にするだけだ。お前が思っている程藩事情というものは甘くない」
「ならば」
玄瑞は容赦無く反駁する。其でも、桂と言い争った時より当りは柔かい。が、内心では桂の時より骨が折れていた。
松田もいつも長州人の味方であった。藩包みで幾度と無く助けて貰っている。否、今この刻も松田は久坂に味方している。
だからこそ、不思議である。
「無理だと思うんなら何で志士の決起を止めないんです?俺達が無駄死にしないよう止めるのと同じ様に、何で他の志士が無駄死にしないよう止める事はしない?」
純粋に疑問だった―――肥後人の線引きというのが実は玄瑞にはよく解らない。長州人である自分達の味方ではいてくれるのに、何故志士の味方ではいてくれないのか。何故単独でいたがる。
「止めたさ」
ギ・・・と松田は握り締めた拳の関節を強く床に押しつける。彦斎はふっ、と視線を伏せた。宮部はひどく醒めた眼で彼等を視ている。
「・・・・・・?」
肥後人の態度が何処と無く余所余所しい。否、肥後人の態度はずっと斯うだった。彦斎との距離が近くなったから、その他人行儀さに気づいただけなのだ。
「・・・・・・だが所詮、“佐幕志士”の言う事など誰も聴き容れはしない。
そう遣って周りを固めていくのがあの藩主の遣り口だ」
―――因縁めいた言葉を吐き捨てる。松田は間違い無く幕藩体制を憎んでいた。之は保守的な傾向がある肥後人には珍しい。
松田は薩摩を通じて己の藩を視ていた。
藩外での活動の日が浅い他の肥後人は知らぬ苦悩がこの男にはある。
一方で、玄瑞は朧げにだが其を掴んだ。「肥後さん」と呼べど、個人対個人で接していたので彼等の背後に在るモノの事を意識した事が之迄多くなかった。彼等も藩に所属する人間である事を忘れがちだったのである。そして叉、忘れる程に彼等の藩は寛容であった。
・・・・肥後藩主が動き始めた―――?
――――・・・・・・。玄瑞は肥後藩の実体の見えなさを不気味に思った。・・・松陰を受け容れてくれた藩である。其だけではない。桜田門外の変では水戸浪士を保護した。助けようとした。玄瑞が遣りたかった事を遣ってのけた藩なのだ。とても偽善では出来ない事だ。
詰りは肥後の志士と同じく肥後藩に対しても叉、他人と思えぬ味方の意識が玄瑞にはある。故に。
―――肥後藩が何をしようとしているのか、全く想像が出来ない。
何処の藩も内部抗争は愈々(いよいよ)以て盛んである。が、何れの藩も、藩主の父、家老等、表に出たがる独裁者が在る。其が、薩の島津 久光、長の長井 雅楽、土の吉田 東洋と山内 容堂だ。各藩の志士は皆、之等を打倒する事を目的とする。この時点で既に人物が明らかで、人物に纏わる情報も集められ、独裁者、延いては藩の塑像がある程度形となっている。
だが肥後はそうではない。独裁者といえる人物が存在しないばかりか、水戸浪士の保護という徳を施した時に代表者が出しゃばる事も無かった。指示をしたのは当然藩主であった細川 斉護であろう。藩の最高権力者でありながら、飽く迄控えめであった。
だからこそ恐ろしいものがある。
控えめで、寛容な藩主であるにも拘らず勤皇党の彼等は未だ藩を覆せてはいない。彼等ほどの力が有れば、少々の藩ならば完璧な勤皇藩になっている筈なのに。
少々の藩ならば、加えて藩そのものに遠慮が無ければ玄瑞だって捨て措いておく。併し、長州藩を勤皇に引っくり返した後の話として敵として立ちはだかられると最も恐ろしいのは土佐藩でも薩摩藩でもなく、肥後藩なのではないかと想ったのである。
更に、肥後細川はその存在だけで薩摩島津のおさえとなっている。肥後54万石、というが、其では77万石の薩摩を押える事は出来やしないだろう。実際の肥後藩は薩摩藩と拮抗した力を持つ筈だ。
猶、表向きの石高(表高)と実際の軍事力(内高。内高の内で充てられる軍事費は藩に依って異なる為、内高が純粋に軍事力を反映しているとはいえないが、参考にはなる)が異なる藩は珍しくなく、玄瑞は後に自身が藩政を握った時、長州藩の内高に大いに愕く事になる。
―――ともあれ、肥後とて薩長土と藩内状況は実は全く違わない、という事を今更ながら実感する。只、孝明天皇の攘夷親征には長州毛利次代藩主定広と並んで随行する意図が今度は理解できなくなるが。
「ならば、其こそ」
併し、孰れにしても遣る事が特に変る事は無かった。肥後藩は想い入れの有る藩だが、目の前に居る彼等は直に接する肥後人達だ。
「―――長州藩の出番だ」
―――山口が微笑む。彦斎はきょとんとして玄瑞を見る。・・・・・・宮部は変らず凍てついた眼で玄瑞を観察している。
「長州藩の隘路は長井 雅楽が邪魔―――・・・只其だけです。他の藩と違って圧力というのはありませんでね。長州藩士が言えば聴いて貰えるかも知れない。肥後さんはどうぞ、自分達の志士活動に邁進してください。肥後人が出来ない事は長州人が遣りましょう」
「おい、玄瑞っ」
松田が切羽詰る。そういう意味じゃないと言いたげである。肥後人は個人主義的でありながら、斯くも過保護な教育者である。
「やめておけ。アイツらは最早暴徒化している。お前がここで捲き込まれれば」
「松田君」
はっ、と尾の様な髪を跳ね上げて松田は宮部を見た。・・・黙る。その声に皆が口を鎖すが、僅かに首を傾けて目を瞑り、ふっと短い溜息を吐いた宮部からは一瞬にして角が消えていた。
「―――彼等ももう、子供ではないという事さ」
宮部が深い笑みを浮べる。・・・・・・っ。松田は急にばつが悪くなって言葉を詰らせた。宮部から見ても松田は過保護な兄貴だったらしい。
「―――其に、弱みを見せた時点で君の負けだぞ、重助。水戸の件からもわかるだろう、そんな面を見せれば久坂君は絶対に引かない。久坂君も結局は、寅次郎と同じなのだ」
・・・・・・。松田は酒が進んでいる訳でもないのに顔を朱くして黙り込んだ。以降、話の主導は宮部へと移った。
「・・・だが、重助の言っている事が事実である事に変りはない。寺田屋には矢張り近づいてくれるな。君が赴くのではなく、君が招くのは如何だろう?寺田屋でなければ、薩摩の志士が粛清される事もあるまい」
「其はいい」
玄瑞は表情を明るくした。併し彼等は京に来たばかりで地理も余り判らない。
「祇園に『小川亭』という肥後人が世話になっている店がある。鴨川に面した素晴しい眺望の店だ。あの店の女将さんは勤皇家で、志士の事情もよく解っているから恃むといい。之から案内しよう」
小川亭の前身は、肥後藩御用達の肴屋『魚卯』である。由って、勤皇佐幕に拘らず肥後人の多くが出入をした様だが、いつしか全国の志士の謀議匿いの場になっているのが叉不思議な事だ。
「そしてこの店―――『枡屋』。枡屋の主人はこの古高君が遣ってくれる」
「!!?」
玄瑞と山口はびっくりして古高を見る。古高はその反応にびっくりしてはわわ、はわわ・・・!と混乱した。
「まあまあ落ち着き給え。諸君にも忠告だが、古高 俊太郎という名は御癸丑以来でも最重要のものだ。そうだな、どれ程のものかといえば、人相書の松田 重助くらいのものか。名が露見れば即刻逮捕、ひどい場合は処刑だ。だから、外では冗談でもその名を出してはならない」
殊に、松田は移動すればよいが、古高の場合見つかれば致命的だ。其でも古高を定住させたのには其形の思惑がある。
「―――『枡屋』の先代主人は喜右衛門といってな、分家筋ではあるが肥後細川の血縁なのだ。分家の家族は絶えているが、本家が勤皇一族で、万が一に捜索されても本家の力を借りて細川の保護を受ける事が出来る。―――彼が古高 俊太郎だと露見なければな。彼はこの度養子入りして『枡屋 喜右衛門』と名乗る。外では必ず、この呼名で通す様にしてくれ」
詰り古高は、長州藩次代藩主毛利 定広の義兄であり、有栖川宮家との繋がりがある事に加え、肥後藩主細川(この時は韶邦)の親戚という事になる。
この当時、血筋や親戚筋という繋がりが非常に重要視されていた。
其だけに、玄瑞は肥後という藩が益々わからなくなった。
「―――大丈夫なんですか、その・・・本家は」
と、玄瑞は思わず尋ねた。個々に裂かれた感情が同居する矛盾がここにも在る。
宮部は肯き、稲荷寿司が一つだけ残る皿の端に添えられたがりを食した。
「古くより付き合いのある者だよ。重助や古高君もよく知る友だ」
湯浅 五郎兵衛という男である。桂と行動をともにしていた為に池田屋事変で難を逃れた者だ。薩長同盟の隠れた功労者の一人でもあり、新選組にも幾度となく狙われた。出身は丹波・園部藩(京都)であるが、維新後は肥後藩に尽した。
「肥後から紹介できる宿屋は之等2軒だ。長州藩も、追々(おいおい)そういう隠れ処を見つけておいた方がいい。勝手が判らぬ時は、古高君、若しくは松右衛門等に訊き給え。その為に彼等を京に残しておくのだから」




