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四十二. 1862年、松本村~思惑~

―――長閑な朝である。




「1862年、松本村」



文が器を渡す。山口が受け取り、口許に器を近づける。彦斎が器を口につけ、ゆっくりと其を傾けた。


ずずーー・・


―――1月23日、晴れ。朝陽が雪を反射して透る柔かな光の中、彼等が優雅に味噌汁を飲むのを、久坂は横になってテレビを観る親父のポーズで布団から覗いていた。表情は恒例の顔芸である。

昨日の今日での命の危機の後に、余りに平和すぎないか・・・・・・?

因みに味噌汁の具は、油揚げである。

彦斎がこんなにも大食らいだとは知らなかった・・・米飯と味噌汁を何杯も御代りし、文は幾度か少々お待ちくんさんせ、と言って奥へ引っ込んだ。其でも尽きずに用意する事の出来る文が寧ろ凄い。

「お前・・・絶対今の内に食えるだけ食っとこうと思ってるだろ・・・・・・」

久坂が布団に(くるま)った侭彦斎に声を掛ける。彦斎は襖一枚隔てた向うから

「ぬしのせいで京入り一日遅れるけんな。代償はきっちり貰うよ。食費浮いて逆に幸運ね」

と、物凄く吝嗇(けち)臭い事を言った。・・・そうだった。この狐は、駕籠代を払う位なら十里でも自分で歩く程に吝嗇なのである。

山口も呆然とした顔で彦斎の口に食べ物が次々吸い寄せられてゆくさまを見ている。

だが文も負けてはいない。暫くして彦斎が箸を()くと、彼女は

「もう宜しいですか。なんでしたら」

と、尋ねた。まだ用意があるらしい。

「うんにゃ。腹八分目が僕の習いです」

彦斎は彦斎でまだ入る事を仄めかしている。之はどちらが先に音を上げるか賭けるべきだったのだろうか。

「では、食後のお茶を」

「あ、文どの」

彦斎が立ち上がり文を引き止める。文は女性でも小柄な方だが彦斎は彼女より少し背が高い程度である。横顔になると黒子(ほくろ)が並んだ。

「飯の礼に僕が茶を()てましょう。之でも家老の茶坊主を()っとりましたゆえ。美味い茶を点てるのは得意です」

「いえいえ。そんな、お構い無く」

文の方が愛嬌のある貌立ちだけにまだ女らしい。其にしても坂本に劣らぬ馴染みっぷりである。山口と久坂があんぐりと口を開けた。見た目まんま女子会だが、その逞しさは男以上だ。


―――平和な朝である。


山口と文と彦斎が優雅に茶を飲んだ。其を久坂は、叉も例の全てが重力に逆らわない顔で見ていた。布団に居ながらにして。

「・・・・美味い・・・・」

「まぁ、美味しい」

・・・起き上がるとまだ頭に響く。悪化した風邪は一日二日寝込んだ程度では去ってくれぬものらしい。昨日の記憶は殆ど無く、気がつくと離れの松下村塾で寝かされていた。

杉家には壊れた玄関や土足跡、破れた襖障子等、事件の痕跡が残っているが、外れた戸等は彦斎と山口で直したらしい。

出ずる日の(もと)では緊張感の無い顔で茶を嗜んでいるこの男が、あの夜に月と同じ眼の色をして言った事―――・・・



『殺すか殺さないか、今択べ―――・・・』



「・・・・・・・・・」

・・・・・・玄瑞は仰向けになり天井を見上げた。―――訊かれた刻、彦斎を一瞬恨んだ。



『何をさせようと―――!』



まさにその気持ちだ。捲き込まれた思いさえした。何故事後報告にしてくれなかったのだという思いまで(よぎ)った。天誅(ころし)は彦斎の―――


『――――・・・・・・』


ずっと友や同志だと思っていたが、この刻は矢張り人斬りなのかと想った。死は知っていた心算(つもり)だった。だから受け容れた気になっていたのだ。


―――ならば、何の(えん)(ゆかり)も無い、通りすがっただけの者に人を斬らせるのか?


捲き込まれたのは、どちらなのか


長井 雅楽(うた)の暗殺を頭の片隅で考えていた事が茶番にさえ思えてくる。命を奪い、奪われるとは、()ういう事なのだ。

彦斎を甘く見過ぎていた。

「―――・・・お前が肥後を出るなんて珍しいな。・・・熊本城(おしろ)勤めは?」

・・・久坂が寝転がった侭言う。手の甲で両眼を覆って、光を遮った。

「暇貰う事になったね。今は休暇中よ」

久坂は眼を見開いた。

「・・・・・・お前・・・・・・其、若しかして俺の所為で」

「何言うとっか。変な絵以外全部燃やしたし露見(バレ)る訳無かね。絵も子供のイタズラ言ったら納得されたよ」

ちゃんと取ってるんだ・・・ツッコミ要員・山口が先ず初めに目をつけたのはそこであった。次いで、子供のイタズラで通せる久坂の画力について。久坂の意を汲んだ様にシナリオ通りなのが抑々(そもそも)すごい。

「・・・・・・俺、お前のそんなトコ好きだわ」

「は?」

彦斎の声が裏返る。久坂が何を思ったのか想像のついた山口は何と無く自分に嫌気が差した。

彦斎が立ち上がり、久坂の居る部屋に移動する。この男は、というか肥後人は、明確に線引をするのがスタンスだ。山口がついて入ろうとした時

「山口しゃんは聞かない方がよか話よ。捲き込まれるのは本意でなかろ」

「今更・・・・・・」

と、山口は苦笑した。彦斎はそっちの話じゃなか・・・と呆れた声で言うと、懐を探り、巻物を取り出して山口に渡した。

「之は・・・?」

「玄瑞との書簡で伝え切れとらんかった事が書いてある。玄瑞じゃなくてぬしに遣ろう。之から宜しく、我が同志」

其ば読みながら待っちちはいよ。そう言って彦斎は襖の戸を閉めた。意表を衝かれ、山口は、あ。と声を上げた。



「・・・・・・京へ行くのか」

久坂が寝返りを打って起き上がる。寝ときんしゃい。彦斎がぴしゃりと言い放つ。病人に対して優しいのか厳しいのかよくわからない。

「京に宮部先生が居るゆえね・・・下見をして、僕はその後江戸に行く。ぬしが俗論派に襲われた事は、桂しゃんに伝えとくよ」

・・・・・・。久坂は益々活動の自由が奪われていく予感がした。御目付役が増大していっている気がする。より現代的な言い方をするならば、久坂は今、尊皇攘夷運動の今日に理想と現実のギャップを感じている。

「・・・・・・俺はお前の事、味方だと思っていたんだが」

「あたさっきから頭大丈夫か?風邪で頭遣られたとね」

長州藩の息が其だけ肥後人にも掛っているという事である。・・・坂本にはああ言ったものの、早々に脱藩したい心持ちになってきた。

「桂しゃんは味方だろうもん」

久坂は彦斎のその台詞にほっとする。持っている情報のレベルが同じ友人がいるのは意外にも大事だ。其だけで他意が無い。そして、この男は遣る事は物騒だが性格は染まっていない。人を信じている。そこが、自分と似ている。

「またなんで京の下見を・・・薩摩島津公絡みか?」

「うんにゃ」

彦斎は清々しい程即座に否定した。


肥後(うち)細川(との)さまが動きなはるごたる」


「―――!?」

久坂はごほごほ咳き込みながら起き上がった。最早寝ながら聴いている方がつらい。併し身体がきつい事には変らず、已む無く壁に寄り掛って聴く事にする。

「何故今肥後藩が―――?」

「今ではなか―――其も、別に打って出る訳でもない」

実は、肥後藩が動くに到る迄に百聞せねば理解し難い程に複雑な経緯があるのだが、彼等はその一部しか知らない。

この京都御親兵の根本的な原因は、孝明天皇である。皇女和宮はこの年の2月11日、遂に徳川第14代将軍家茂と結婚するが、和宮の降嫁を許す代りに破約攘夷をいつ迄に実行せよという攘夷期限を、朝廷は幕府に突きつけた。破約とは、不平等条約である日米和親条約・日米修好通商条約の破棄を示す。この攘夷期限は攘夷親征、即ち孝明天皇が攘夷祈願を行なう大和行幸と繋がりがあるのだが、彼等がこの時点でここ迄知っていた可能性は、恐らく無いであろう。只、桂は知っていたかも知れない。

この攘夷親征に肥後藩が関っている。尤も長州藩も関っており、後に久坂が指揮を執る事になる下関戦争は攘夷親征の一環で、攘夷期限を示した幕府に圧力をかける材料であった。

()て、肥後藩。肥後藩はその長州藩のアシストにも回る事になるが、この段階で彼等が裏で進められている下関戦争の計画を知る筈も無く。


彦斎の情報は()うであった。


「天皇陛下の攘夷親征に肥後藩が参加する事になった。其に伴って、親征の護衛および京都御所の警備ばせよと、藩主宛に朝命の来たらしか」

之は、実は可也凄い事だ。肥後藩はこの時、御所警備で天皇の住む内裏を囲む内構六門、更に、宮家や公家の住む築地を囲む外構九門を命ぜられているが、下関戦争での長州藩援助も加えて之だけの親兵を任されているのは、数ある藩の中でも肥後と水戸だけである。

而も、この攘夷親征および京都御親兵は非常に政治的陰謀色が濃く、長州藩は勿論薩摩・土佐・水戸など所謂“天皇を如何にかしたい人達”が挙って手を挙げ、警戒した会津・出雲等の親幕藩が其を蹴落す壮絶な攻防戦が水面下で繰り広げられていた。朝廷・幕府・諸大名の信用を得た大藩でなければ全う出来ない(薩摩や水戸は途中で罷免させられている)が、肥後は下知という形で之を引き受け、全うしている。


併し、ここで肥後の者達は勘違いしてはならない。



「―――お前んとこの藩主(とのさま)、すげぇな―――・・・・・・」



之が細川の力なのである。この細川の強さが肥後勤皇党を悲劇に導く事を、彼等は知らない。


「僕はその御親兵に選ばれて京勤めになる事が決った。其で熊本城(おしろ)勤めから放免ね」

「出世したんだな」

久坂は純粋に寿(ことほ)いだ。彦斎が実直にコツコツ歩んでゆくのを見ると、藩主の細川が朝廷・幕府双方に信頼される理由が解る気がする。

「僕が京で活動するゆえ、代りに永鳥しゃんが肥後に残る事になった。僕が茶坊主ばした家老は尊皇攘夷派ね。僕が居なくなると、藩内佐幕派に殺されるかも知れん。あたみたいにな。・・・人斬りは何処も人手不足ばい」

趣味の悪い冗談である。其にしても藩の血腥い内情は変らない様だ。併し、其が藩庁内部にまで及んでいる事は知らなかった。

そういえば、藩や勤皇派の動きについて自分から言いに来てくれた肥後人は彦斎が初めてだ。


「“人斬り”といえば、長井 雅楽暗殺の件」

「あ」

と、久坂は少し大きめの声を上げた。


「・・・・・・大楽さんがお前の処に行ったんだろ。悪いな。捲き込む気は無かったんだが」

「別によか。ばってん、其どこじゃない事はわかったど。・・・あたを殺そうとしたは、長州藩士(しりあい)だったとよな。雇われた暗殺者(ひときり)であったらば、長井どのを斬れば問題無かろうが、長州藩士だったら今長井どのを斬れば真先にあたが疑わるる。命を縮める事にしかなるまいね。御癸丑(ごきちゅう)以来に凡てを任せて藩を離れたがよかよ」

「・・・・・・そうだな」

・・・・・・久坂は呟いた―――・・・結局、あの晩、久坂は彦斎に暗殺者を斬らせなかった。




『・・・・・・』

―――彦斎は狐の様に眼を光らせて玄瑞の返事を()った。同じ色の月が彦斎の背後で輝いている。

『・・・・・・』

・・・・・・玄瑞は彦斎を睨んだ。憾みに想ったのはこの刻だ。

『・・・・・・斬る事の利点は』

極めて事務的に話は進められた。玄瑞の胸中に彦斎は干渉しない。罪悪感に駆られるならば、斬らせなければよいだけの話だ。

只、綺麗事では最早生きてゆけぬ。

『人間、死んだら終りとよ。当然、もう襲って来る事無いな。藩内俗論派ば減らす事なるけん藩論統一にも貢献するね』

・・・・・・山口は正論を唱える事も忘れ、ただ呆然と二人の遣り取りを見ている。

『―――欠点は』

久坂が間髪入れずに訊いた。・・・彦斎は少し面喰らって

『・・・大事になる可能性高いね。尤も、長井どのを斬る大義名分が出来たばってん、僕も先を急ぐ。今日明日で斬らないけん』

と、答えた。

『其とも奉行所突き出すか?―――藩政が長井どのの手に在る限り、長井どのを刺激するだけで奉行所の意味は無いね』


―――――・・・・・・ 長い、睨み合いが続いた。・・・・・・。併し、彦斎の表情が少しずつ崩れていった。口角が本の少しだけ上がっている。が、笑っているとも言い難く、諦念を感じさせる様な、久坂に対して何かを諦めている様な表情をしていた。


『―――・・・お前なら、如何する』


久坂が血の気が引いた顔の侭尋ねる。


『・・・・・・決められまいか』

・・・・・・彦斎が若干の諦めの表情で訊き返した。

『・・・・・・最終判断は自分で下すさ』

・・・・・・久坂も、険しい表情の侭、口角だけを上げて答えた。

『・・・只、決めるのは俺だが遣るのはお前だ。お前の意見も聴いておくのが筋というものだろう。無茶なんて幾らでも言えるからな』

『・・・・・・ぬし・・・・・・』

彦斎が真意を測り兼ねた様に表情を硬くする。

『――――・・・』

彦斎は血の色に濡れた唇を結んだ。・・・軈て、深い息を吐き、口を開いた。

『―――肥後でなら殺す。長井どのと同じ地位に当る重役諸共今夜の内に。ばってん、長州の治安ではもっと綿密な計画ば立てな足が着く』

刺客(こいつら)と長井は如何しても同日に殺したいか』

『芽は摘むだけでは足りぬ。根絶やしにするべきよ。ばってん、僕は斬ったら死体を見せしめに晒す事が多いけん、彼等斬っても見つからんよう処理する自信が無か。刺客だけ斬っても死体が見つかれば、長井どのはあたに疑いを掛けてくるど』

『・・・・・・一気に殺れば長州は内乱状態になる。薩摩も土佐も志士が圧迫されている今、長州まで武力衝突に走ると夷狄どころでなく幕府にまで付け入れられる』


彦斎は久坂の表情を見た。久坂が自身の意見を言う。彦斎は納得すると


『―――殺ろうと思えばいつでも殺れる。だけん色々ともう少し詰めるべきね。残念乍ら僕の技量では今夜この刺客だけを斬る選択肢は無か。大切なのは―――“刻”よ』


『―――其は俺も大いに同意だ』


久坂も肯いた。

『・・・・・・単に殺しを奨めるんじゃなかったんだな。試されたのかと思ったぜ。・・・人を殺すのは矢張りつらいか』

『あたも僕を試したな。殺すと言ったら軽蔑したか?・・・でも其でもよか。人斬りの都合を考えるのはあたくらいばい』

・・・・・・。山口は痛み分けで終えた二人を見つめて立ち尽していた。・・・二人とも、理屈で話を進めてはいるものの、彦斎からは“斬りたい”と、久坂からは“選びたくない”という想いが未だ滲んでいた。

・・・・・・彦斎は未だ無防備に倒れている刺客を見つめ、刀を握る手に力を籠めた。山口には其が明瞭(はっきり)と見えた。

『――――・・・・』

―――“殺ろうと思えばいつでも殺れる”のは、彦斎だからである。逃がした刺客は再びこの家に来る。

『河上さん。いえ、河上先生』

山口は唾を呑むと彦斎に話し掛けた。彦斎は山口を不思議そうに見上げる。

『お前の弟子だよ・・・・・・彦斎。間接的な、だがな』

『弟子・・・!?』

彦斎は細い眼を大きくする。言っている事が全く理解できない様だ。

『お前の書簡を俺が翻訳したヤツを江戸で読んでたんだよ、コイツ。・・・・・・山口、お前、関るのか』

『・・・其は今更というものでしょう』

山口が脂汗を浮べて笑う。久坂は溜息を一つ吐くも、其以上口を挿まなかった。

『俺は山口 圭一です。久坂先生の事は心配為さらないでください。俺が―――何とか出来ると思います』

彦斎はきょとんとした。全然話を呑み込めていない様である。恐らく、何が出来るのかも判っていないのだろう。

『―――あなたの剣術を、其の侭の形ではありませんが学ばせて頂きました。あなたの剣術は、俺の家系に伝わる流派と似ている。その所為か、俺の身体に非常によく馴染みました。先程、玄関から侵入して来た刺客を俺が倒せたのは、あなたの技を咄嗟に(つか)えたからです』

馬鹿が・・・ 久坂は胸を押えつつ、心の中で毒づいた。山口に対してではない。稔麿に対してである。矢張り少々厳しくも戒めておくべきだった。

確かに自分も山口に自由に書物を見せた。見せたが、飽く迄図書館の様な形態であり、書物をくすねでもしない限り全容を知るにも至らない。貸すなど求められた事さえ無い。山口は(ぬす)む事や洩らす事に対して厳格だ。嫌ってさえいる。そんな山口を信用して疎外感を与えぬ程度に情報を公開していたに過ぎない。実技を仕込むなんて以ての外である。稔麿は其を知ってか知らずか御丁寧に稽古までつけたのだろう。

『・・・正直、俺はあなたの様な剣を遣う人が好きではありませんでした。でも、あなたを実際に見た今は違います。すると、自ずと俺の中で燻っていた家の流派の使い道もわかりました』

彦斎は相変らず童と勘違いする様な大きな瞳で山口を見ている。


『―――だから、俺も人を斃せます。思想や人を守る為なら』


『おい・・・・・・』

お前、自分から彦斎や稔麿と同じ道に入る心算か。久坂はぴくりと眉間を痙攣させた。

『あなたの技があれば俺でも先生を護る事位は出来ます。だから技の方を之からも遣わせてください』

――――・・・ 彦斎は変らず童の様な瞳の侭だったが、何処と無く他人事の色を発していた。否、以前にも見た超然とした色味である。其でも真直ぐに山口を見つめていた。

『―――別に僕の技ではなかろうに。好きにすればよか。ばってん―――・・・人形にはなるなよ』

『―――!!』

―――? 山口の過敏な反応に彦斎の方が驚いた。山口は一瞬、我を失っていた。

―――久坂は其どころではなかった。頭痛の波がどんどん大きくなってくる。その所為か眼球が細かく振れる感じがし、視界が揺らいでいる。ものが殆ど視えない。


久坂の記憶があるのはここ迄だった。次に醒めた時には広い天井が遠くに在り、温かな光が差していた。寝返りを打つとコトッ,何かが当り、気怠く伏せた瞼を開くと、きじうまの円らな瞳が死んだ魚の様にこちらを見つめていた。

『!』

玄瑞は驚きの余り激しく咳き込み、あわや朝餉(あさげ)の準備中の文と山口まで駆けつける大事になるところであった。当のお面の持主はつんと玄瑞を覗き込み

『・・・玄瑞、あたその風邪といいいまいち気合い足らんよ。鍛え直すか』

と、例の八の字眉に糸目で言った。要は呆れた顔である。

『・・・お前、体育会系超えて最早精神論者だよな・・・・・・そんなカオしといて・・・・・・』



―――1月23日、晴れ。ここから本項の冒頭に繋がる。きじうまの面はまだ、玄瑞の方を凝視している。

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