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二十八. 1861年、江戸のつづき~たれもいない~

「・・・久坂」


久坂が桂との話を終えて長州藩邸を出ると、稔麿と山口が門の前で待っていた。

「・・・色々と見て回ったが、少なくとも松田さんは江戸には居ない様だぞ。永鳥さんは動きが判らないから捜しようが無いが―――」

「居ない、だろうな」

稔麿の報告を聞くなり即座に言い切る久坂。稔麿のみならず、山口も眼を大きくした。

「取り敢えず、行こう」

久坂は二人の間を擦り抜けて長州藩邸を離れた。彼が同志を募る(ところ)は、水戸、薩摩、そして土佐―――・・・

「―――何があった?」

稔麿は速歩(はやあし)で歩く久坂を大股で追った。山口は小走りでついて来る。

・・・稔麿と久坂の会話を、山口は黙って静観する事にした。

「―――桂さんと話をしたがな、長州藩(うえ)は想像以上に俗論派(クロ)だぜ。水戸送還(こんかい)の件も長州藩(うえ)は見過す気でいる」

「な―――!?」

―――結局は内部抗争で足を引っ張られている訳か。而も一番逞しい存在であったであろう桂なる人が如何も今回は味方でないらしい。肥後の人達も彼のあの反応では動かぬ様だ。

・・・そして、もう一人。

「・・・・・・高杉が何処と無く他人事なのは、その藩の事情が絡んでいるからなのか?」

「そういう訳ではないだろうさ。アイツがああいう態度なのはいつもの事だ。只、今回はアイツも居ない事にはどうも変りは無さそうだぞ」

「え?」

「藩命で清国へ渡る事になったそうだ。いつ日本に帰って来るかはわからん」

「―――!?」   「清!?」

外国の国名に余りぴんときていない稔麿の隣で、静観を決め込んでいた山口はつい(おどろ)きの声を上げた。

長州藩は矢張り()る事の大きさが違う。

「・・・多分之も、桂さんの仕業だな」

唖然として次の行動をなかなか起せない二人を余所に、久坂は忌々しげに呟いた。久坂の頭の回転は、外国の名が出たくらいで止めさせられない。

併し、久坂も自覚はしていたが、今回、久坂の背後には誰も在ない。同志が在る、といえば確かにそうではあるが、今久坂の目の前にいる彼等と其とは少し違う関係の様な気がする。抑々(そもそも)同志というものは、隣に並ぶものでありこそすれ背中に立たせるものではない。


「―――今回は、俺達しかいないぞ」


・・・久坂は、稔麿と山口を見つめて言った。

―――久坂等が何か事を為す時、之迄は長州藩という後ろ盾があった・・・より正確には、桂という保護者的な存在が常に居てくれた。稔麿も然り。彼は長州を脱藩しているが、何も独りで身を潜めてきた訳ではない。今でも世話になっている人が在るのだ。

併しその背後が今回は無い。・・・・・・久坂の背中合わせに立って切磋琢磨してきた高杉さえ、今回は桂の息が掛っている。

のちに天誅活動に関る事になる彼等の、初めての彼等だけに拠る活動であった。

「ここは二手に分れよう。吉田は水戸と薩摩の志士の処に行き、情報収集に当ってくれ。・・・正直、薩摩は未知の部分が多いが、柴田さんの筋は信用できる。柴田さんの筋を辿って、薩摩の志士達を多く集めて欲しい。俺は土佐の志士に呼び掛ける。山口は俺と一緒に来い」

・・・・・・。稔麿と山口はこくりと肯いた。稔麿と背中合わせになって、散る。彼等は今後、互いの背中を預ける事になる。




母藩が佐幕である土佐の攘夷志士同士は、一体何処で談義をしていたのか。叉は、土佐勤皇党は江戸の何処で起草されたのか。其が判らないのは小説を書く上で痒い所に手が届かない感じがして気になるのだが、筆者は知らなくとも久坂が知っている。多少不服ではあるもののここは筆者が大人になって久坂についていく事にする。


「武市さん」


武市に教えて貰った土佐の志士達の集合場処を久坂は訪ね、襖を開いて声を掛けた。藩に感づかれたのかと思って身体を跳ねさせた者達の奥で、武市 瑞山は瞳を大きくしている。

「―――久坂さん」

・・・武市は僅かに吐息を漏らし、低音の声で言った。

「桜田門外に関った水戸の志士達が、水戸に送還されるという話を知っているか」

「―――何?」

武市は僅かに眉を動かし、傍に居る大石 弥太郎に耳打をする。大石は身の(こな)し早く久坂の許へ歩み寄り

「まぁまぁ、落ち着きんしゃい。中に入って詳しく聞かせてくれんがか。土佐郷士(オレたち)にはそういう情報はなかなか入ってき難いんじゃ」

と、部屋に迎え入れた。その時、久坂について其の侭室内に入ろうとする山口に気づき

「ちゃっ!?おまん、いかんぜよ。迷子かの?久坂さん、思いっ切り聞かれとるが!」

と、慌てて彼の襟首を掴んだ。幾ら顔立ちが大人だとはいえ、久坂と比べると矢張り顔の造りは幼い。大石より背が高いので足が余って投げ出す形になる山口のぶら下がり具合に苦笑しながら

「悪い。放して遣ってくれ。以前江戸に居た時からの俺の同志なんだ」

と、久坂がフォローを入れる。大石はきょとんとしながらも部屋に入れて遣るが、武市も山口を一瞥しただけで

「・・・久坂さんが認めた人なれば大丈夫かろう」

と、然して素性も訊かずにすぐに自身の斜め前に坐らせてくれた。正面は久坂である。


土佐人の久坂に対する信頼は突き抜けて高い。というのも、土佐の攘夷志士の首領である武市が久坂に絶対的な信頼を置いている。

今回の水戸送還の話に関しても、土佐の志士は他のどの藩より早く立ち上がり


「土佐は協力させて戴く」


と、言った。

「武市さん・・・!」

久坂は、この時ほど他藩の同志達を有り難く想った事は無い。逆に言えば、土佐の同志達は松陰の七光も桂の力も受けずに久坂自身が己の力で説き伏せた者達である。だからこそ、土佐の者達は久坂の働きかけに応えてくれる。

「土佐に居る同志にも声を掛けてみる事にしよう。此度、土佐勤皇党の血盟者名簿を作成する為に使者を土佐に遣わせている。血盟者は200名になる予定だ。其だけの署名を提出すれば、少しは幕府にも影響しよう」

「200・・・!」

久坂は武市と話をすると無邪気な子供に戻る様であった。まさか200もの援軍を貰えるとは久坂も思わなかった。感情の起伏が余り表情に出ない久坂も、この時は仄かな紅みが差した。

「助かる。今、水戸と薩摩の有志にも声を掛けているところだ。之だけの他藩の同志が立ち上がれば、長州藩(うえ)屹度(きっと)黙ってはいられない。あすこは結局は勤皇だからな。其で長州藩が引っくり返れば、この勝負は確実に俺達の勝ちだ」

只、土佐だけでは力不足である事を久坂は理解している。否、土佐だからではなく、一藩だけの協力というのがこの場合は足りない。複数の藩が運動を起せば幕府も無視は出来ないが、出自を同じくした者達の衆では少数派はどこまでいっても少数派でしかない。逆に藩の教育が疑われよう。特に、親玉が強硬な佐幕派である土佐では尊攘志士に対する愛着も慈悲も無い。名簿の使い方を誤れば、武市以下200名の首が()ぶ可能性だってある訳なのである。

―――武市も、そこを理解した上で久坂に協力すると言っている。久坂に命を預けると言っているのだ。

・・・その点では、西国が立ち上がらないのは非常に苦しい。只、この土佐勤皇党員の署名は起爆剤となり得る。何せ数が多いから、そこから他の藩が立ち上がる可能性が期待できる。水戸と薩摩の二藩が加われば。

「ありがとう、武市さん」

久坂は礼を述べ、忙しくも立ち上がる。山口が続いて立ち上がって礼をし、武市に背を向けて部屋を出ようとした。

「―――久坂さん」

大石と挨拶を交して去ろうとする久坂の背中を、武市が呼び止める。久坂が不思議そうな顔をして振り返ると、武市は

「―――貴方からの呼び掛けであれば、我等土佐勤皇党はいつでも応じる」

と、言った。・・・・・・。改まった態度に慣れていない久坂はどんな顔をしていいのかわからず、より一層子供の様な笑みを浮べた。




「随分な信用がある様ですね」

山口が冷静な声で、一歩先を歩く久坂に言う。久坂は未だに先程と同じ笑みを浮べて

「ああ。ありがたい事だ」

と、嬉しいのか照れくさいのか判らない様な口調で答えた。

「・・・吉田の方はどうなったかな」


「久坂!」


久坂が丁度そう呟いた時、背後で稔麿の声がした。弾かれた様に久坂は振り返り、

「―――どうだった?」

と、間髪入れずに訊く。稔麿が二人に追い着いた。

「・・・・・・駄目だ」

・・・・・・稔麿は、二人の間に入ると方々(ほうぼう)に向かって申し訳無さそうに言った。 ! 山口が目を(しばたた)かせる。

「―――駄目とは何だ?」

・・・久坂は目を(すが)め、つい責める様に稔麿を問うた。土佐よりも水戸や薩摩の方が寧ろ容易に動こう、というのが共通の見解であった。水戸や薩摩は久坂だけでなく桂・稔麿含めた長州志士との関係基盤が其形に出来上がっている。藩士の抱く尊攘思想も歴史がある分強固で、情報収集法も確立されている。稔麿が呼び掛けざるとも動く事はあれ、稔麿の呼び掛けに応じぬ事は無い筈だが。

「柴田さんは―――!?」

「・・・久坂」

・・・稔麿が落ち着かせる様に久坂の名を呼んだ。稔麿に当っても事態が如何となる訳でもない。其は解っているのだが。



「もう江戸には誰も居ない」



稔麿が逆襲する様に低い声を張り上げる。山口が少しばかり怯えた。久坂も少し怯み、大きく開いた(ひとみ)に光が入り、眼の色が変る。


「は―――?」


「・・・久坂」


稔麿はもう一度名を呼んだ。


「・・・俺達が思っていたよりも、状況は厳しかったらしい。桜田の志士達の水戸送還が決ってすぐ、水戸の志士達の隠れ処を幕吏が襲撃し、浪士狩りを始めた様だ。恐らく、反対運動が起る前の粛清だろう。何人かは捕まって桜田の志士達と同じく水戸に、残りの志士は散り散りになって今は何処に居るのか判らないと聞いた。江戸を既に出ているという話もある。・・・(いず)れにしても、水戸の志士達は運動どころじゃない。自分達が標的となっているから其は仕方が無いだろう」

「・・・・・・」

―――時勢は再び佐幕の方向へ流れ始めているらしい。正直、久坂自身、幕府を見縊(みくび)っていた感は否めない。腐っても幕府、久坂が幕府の上方であっても真先にその手を打つだろう。

「・・・じゃあ、薩摩は?」

水戸の事情ならばまだ理解できる。では、薩摩は?柴田 東五郎がまさか自分達を誑かすとは到底思えない。そのメリットも無い。

「―――柴田さんを通じて、薩摩屋敷に居る樺山 三円さんと話をした。薩摩の志士は皆江戸を出て、京へ向かっているそうだ」

「―――京へ?」

樺山 三円ならば久坂も知っている。その筋なら確実に信用できる。

この時久坂は、遠く西の最果ての国で何が起ろうとしているのかを知らなかった―――凡ての物事は、奥深くで繋がっている。

「ああ―――薩摩島津公が京へ挙兵するという情報が、在藩する薩摩の志士達から(もたら)されたそうだ。薩摩だけではない。九州の志士達も島津公の上洛に先立って京への集結を始めているらしい。尊皇攘夷の拠点は、江戸から京へ移ろうとしている」

「そういう話じゃないだろ」

と、久坂は言った。が、そういう話ではないにしても、其が原因で薩摩の志士が江戸から消えたのである。肥後勢も若しかしたらこの情報を聞きつけて、一旦薩摩のすぐ北の地へ引っ込んだのかも知れない。京へ拠点を其の侭移すのであれば彼等なら、自分に何かしらの情報を与えてくれる筈だ。

「水戸、肥後、土佐、薩摩・・・・・・他に思いつく藩はあるか、久坂・・・・・・!?」

「・・・・・・」

・・・無論、この4藩だけにしか志士が在ないという訳ではない。併し、他は志士の規模が小さく、距離も遠く、其こそ南国の土佐、西国の肥後や薩摩に人脈を(たよ)らなければならない。後は・・・・・・久坂の現在の人脈(ちから)では、及ばない。

「如何する、久坂・・・・・・?」

稔麿が問う。久坂は暫く黙っていた。頭脳をずっと巡らせている。久坂の頭脳の事だから、浮ぶ事は浮ぶのであろう。併し、其が実行力を伴うものであるか如何かは叉別の話である。

(―――武市さん・・・・・・)

・・・・・・数に屈したといえば、確かにそうかも知れない。土佐一藩のみの署名を出したところで、最悪の場合土佐の志士200名と水戸の志士を一遍に失う事になる。そして、その可能性は決して低くはなかった。長州藩にも桂という壁がいる。江戸は幕領で親幕派が多い。守るべきものは多く、敵も多く、だが戦力は少ない。博打紛いの事は出来なかった。


「・・・・・・ああもう」


久坂は拳を握りしめ、呟いた。辻風が吹き込んでくる。・・・山口は、風が髪を巻き上げる事で見える苦渋と怒りの表情に、・・・・・・ああと思った。


・・・・・・ああ、この人は


「・・・・・・武市さんに、署名を返して来る」

踵を返し、稔麿に背を向けて歩き始める。久坂の出した結論に稔麿の視線は激しく揺らぐも、・・・・・・ああ。と堪える様に目を伏せた。

「―――俺も行きますよ、お兄さん」

―――山口も長い(まばた)きをした末、振り返って久坂について歩き出した。

「土佐の方達に謝る心算でしょう?別に、お兄さんが頭を下げる必要は無いと思うんですけど、下げるにしても、兄さん一人に下げさせるのも微妙ですよ。一緒に行動していた俺も一緒に謝ります」

「・・・山口」

久坂が隣に並ぶ山口を見る。山口は、呆れた様に溜息を吐いた。そんな二人のちらちらと交す横顔に、稔麿は暫く眼を瞠らせていた。


・・・が、(やが)


―――稔麿も、諦めた様に一度頭を垂れ、再び上げると二人の処に歩を進める。

「―――俺も行く。何も、之は久坂だけの責任ではない」

「吉田―――・・・」

久坂は呟いた。其でも、久坂の表情は晴れない。浮かない顔で・・・ありがとな。と言って前を向く彼に、山口はもう一度、・・・・・・ああもう、と思った。

先程滲ませた怒りの表情は、自分に対する怒りなのだ



土佐の志士達の隠れ処に通された久坂は、潔く署名を武市に返上し、水戸の志士を救う事の出来ぬ己の無力さを認め、正直に詫びた。久坂は、個人の為に頭を下げる事の出来る男である。

他の者達は、各藩の勝手で動いている。桂とやらにしても、桜田の志士という“個”よりも長州藩の都合を選んだ結果が斯うなった。薩摩にしても、よくは知らぬが肥後にしても、そして最終的には水戸にしても、個人を助けようとするより自分達の藩の事情で右へ左へと勝手に動き、結果的に同志を見捨てている。結局は藩の枠から出る事は出来ず飽く迄その藩の中の少数派として風見鶏の如く生き、藩を越えた個人的な“誰か”の危機に頭を下げたり、己を顧ず救おうとしたりする事など無いのだろう。

併し久坂は、藩と無関係に“個人”の為に、また久坂“個人”として、命を懸ける事の出来る男だ―――と山口は想った。彼の心に、長州藩の体面や都合、思惑など一切絡んでいない。凡ては彼の意思、人情、信念から発信されている。

―――だから惹かれるんだろうな、と、山口は武市に頭を下げる久坂の背を見ながらしみじみと感じた。山口には藩の事などよく知らないし、藩の存在する価値や重要性もよくわからない。だからこそ、諸藩の保守的な態度や幕藩体制そのものを非常に冷めた眼で視ていた。

「―――貴方が謝る事は無い、久坂さん。貴方が悪い訳ではない」

・・・武市は久坂に、山口と稔麿が掛けた言葉と似た言葉を掛けた。武市の歌舞伎役者の様な目尻は流れるが如く下がり、どこか安堵している様にも見える。

「―――・・・貴方に、土佐勤皇党を預けて良かった」

武市が僅かに口角を上げて微笑む。久坂の奔走に凡てを委ねていただけか、と山口の捉え方は結構峻烈(しゅんれつ)である。

・・・土佐も叉、藩の都合で動いている。


「・・・なれど、尊藩も、弊藩も、愈々(いよいよ)俗論派を如何にかせねばならぬ様だな」


武市はさらりと共闘を提案した。久坂はのちにそうであると気づく。併しまだこの時は、武市のこの台詞に長井 雅楽の姿を脳裡(のうり)に浮べる以外は無かった。




―――其から程無くして、桜田門外の志士は水戸へ送還された。之にて久坂の差し当っての活動の中心は、対幕府の薩摩・土佐と協同での和宮降嫁阻止と対長州藩の長井 雅楽に拠る公武合体の阻止の二つに絞られた。

前者は仲間がいるからよかった。併し後者は、山口の言葉を借りて謂うのであれば、久坂等“個人”の戦いとなる。そして前者を達成する為には、先ず後者を達成させなければならない。


久坂は藩を敵に回した。久坂は初めて、育てて貰った自分の藩に反発心を懐くのである。同時に、藩という後盾(おや)を持たぬ心許無さを学ぶ事になる。

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