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二十七. 1861年、江戸のつづき~桂の陰謀~

「・・・・・・玄瑞と晋作は、一旦離した方がええ」


―――周布 政之助が桂の背後に立ち、彼が作成中の書類を覗き込んだ。幕府船千歳丸の上海視察幕府使節随行員名簿。その募集に乗る形で、高杉の名が長州藩代表として記入されている。

「・・・ええ。私もそう思いますよ―――」

桂は男にしては長いまつげを伏せて言った。「村塾の双璧」と云われるのは、単に松下村塾の二大人物という意味だけではないらしい。確かに、個人だけを見ていれば桂一人で彼等夫々(それぞれ)を抑える事は出来る。久坂は恐ろしい迄の頭脳を持つものの若さ故の未熟さでまだ自分の頭脳を使い熟せていない様だし、高杉も電光石火の実行力を持つが論に甘く、理詰めで説けばふて腐れながらも素直に従う。長州人というのはそういう性で、そこが叉哀しいところでもある。

だが、この頃は久坂の言う事が段々と過激になりつつある。桂の様に頭脳が冷徹なだけでなくその扱いに関しても冷静でいられる者から見ると、松陰の思想を色濃く継ぐ久坂の論は其だけで充分現実性に欠けている。抑々、思想などという形も答えも無いものは只人を惑わせ、狂わせるだけ、というのが桂の捉え方であった。巷で「天誅」と騒ぐ志士に対しても桂は冷めた眼で見ており、桂にしてみれば、現実性が無いという点で久坂も巷の志士達も同列である。


久坂だけでは実行にはなかなか到らぬ為、大した脅威にはならないのだが、久坂の之に刺激される形で高杉の内面からも沸々と不満やら(桂から見れば)狂気やらが滾る様になってきた。高杉は不満を(いだ)けば行動せずにはいられぬ男だ。藩の役人という地位で縛りつけてはいるものの、そろそろ限界が近い事や限界の壁などあっさり爆破する爆弾持ちである事は長州藩士であれば誰でも知っている。

久坂は役人ではない為藩の上層部は彼の行動を制御できない。となれば、高杉の方を遠くに置く事であった。

「水戸浪士の送還の話も、玄瑞の耳にはもう届いとろーな」

「ええ。高杉も知っていますし、先程吉田 稔麿も藩邸に来ました」

「入れたんそ!?送還の話から火が点いて、長井さんに妙な事をせんちゃーええが」

周布が薄くなりつつある頭を掻きながら言った。桂も周布も、どちらかといえば水戸送還の件ではなく飛び火の方を懸念している。

・・・でなければ、桂だって水戸浪士を死地に(おく)る事を大いに抗議している。

「そちらについても既に手を打ってあります」

―――桂は極めて淡々と、無慈悲ささえ感じる声の響きで言った。恐らく之迄の、どんな刻より冷酷な声をしていた。

「―――場合に依っては、彼等を一時的に牢に送り込む事も私は辞しません。周布さん・・・」

・・・ 周布は、このいつだって腹を括っている生真面目な男を見下ろして苦笑した。藩内で争う事を断じて許さぬとする男が目の前の者達を一方的に排除する事で、その先に在るものの穏かな解決を図ろうとするのである。

「まぁ、肩の力を抜きんさい。小五郎・・・」


桂さん。久坂の声が障子の先から聞えてきた。来たな。周布が踵を返した。周布が障子を開け放して久坂 玄瑞を迎えると、桂は顔を上げ、じとりと久坂の正面を見据えた。




「“せいかん”・・・・・・?」

久坂は一応史実には相当な頭脳派の筈である。が、リアクションのせいか残念ながら本作の久坂は余り頭が良い様には見えない。

・・・・・・。もう一回、という風に、耳に手を当ててその指先をピロピロと小刻みに動かしている。厳粛さで徹そうとしていた桂は怒りに拳を震わせながら

「・・・・・・きちんと真面目に聴いているか・・・・・・?」

と、震える声で訊く。脱力に張り詰めていた力の持って行き場が無い。久坂は力の抜けた声ですいません、冗談です。と言った。

「併し、意外でした。桜田事変の志士達が水戸へ送還(おく)られるのを、黙って見ていろと桂さんが仰るとは」

久坂の態度にはまだまだ余裕がある。併し、久坂にしては少々言葉に(とげ)が含まれていた。


「水戸藩士と長州藩は確か、長州藩(うち)の船で盟約を交していましたよね?確かその盟約を結んだのが桂さんだったと」


丙辰丸(へいしんまる)の盟約の事を言っているのだろうと桂は察した。丙辰丸の盟約とは、昨年(1860年9月)に水戸と長州の尊攘志士達の間で交された密約であり、長州軍艦『丙辰丸』の船内で行なわれた為この名がつく。久坂はこの時萩への帰途についていて盟約の事を知らなかったが、松田経由で情報を仕入れた稔麿より、江戸に再訪してすぐに聞かされた。

「『成破の盟約』―――・・・」

とも云う。『成破』とは即ち『建設』と『破壊』を示す。既存の悪政を『破壊』し、総てを灰燼に帰した上に新たな政治を『建設』する、幕政改革に関する密約である。この際、長州藩が『成』を、水戸藩が『破』の役割を担うと決めた。水戸が壊して長州が創る―――・・・桜田門外の変より続く坂下門外の変、第一次・第二次東禅寺事件、天狗党の乱等水戸浪士に拠る一連の破壊行動は、この盟約を下に敷いている。


「水戸は『破』の役割をきちんと果している。俺が江戸に来る前にも、水戸藩士は英国公使を斬っているらしいじゃないですか」


その通りである。併しその水戸浪士がイギリス公使を襲撃したその事件こそが、桂が水戸浪士達の水戸送還を静観しようとする直接的な理由となっている。

「盟約を守っている水戸の志士達を見殺しにする事が、我々長州藩のする事ですか―――?」

「――――」

久坂が桂に問い掛ける。久坂はまだ知らないのだ。―――凡てが水面下で繋がっている事を。

「・・・・・・何をそんなに気にしているんですか?」

・・・・・・久坂は何かを察した。『航海遠略策』や桜田志士達の薩摩藩邸勾留に通ずる陰謀のにおいである。でなければ水戸志士達に対してあれ程協力的であった桂が今更渋るとも考え難い。

「・・・・・・まさか、長井どのの策に屈した訳ではないですよね?」

久坂は一応兄弟子とも謂えるこの先輩に対し、少々意地悪な質問をした。・・・・・・。桂は何も言い返さないが、久坂の推測は半分は正解であり、もう半分は不正解と謂えた。


正確には久坂がここで言っている“長井どのの策”とは『航海遠略策』を指すが、桂が屈したのは『航海遠略策』ではなく長井そのものの“策”である。

水戸浪士に拠るイギリス公使襲撃事件―――この事件には続きがあり、彼等は襲撃に失敗した後、同盟国である長州藩の桂 小五郎を訪ね、長州藩邸を切腹の場として貸して欲しいと言って来た。桂は之を断り、逆に切腹を思い留まるよう説得を試みるも、目の前で腹を切られて仕舞ったのだ。之に因り、水戸と長州の繋がりが疑われ、桂は免職の上藩邸内に監禁されるというトラブルが久坂の居ぬ間に起っていた。

監禁中に行なわれた幕府の執拗な取調べから桂を救ったのが、紛れも無い、長井 雅楽(うた)なのである。

久坂や稔麿は桂が(こうむ)ったこの事実を知らない。

謂わば長井に借りを作った桂が長井に逆らう事は叶わない。斯ういう事情があるのだが、併し、この事実を決して外部に洩らす訳にはいかないのだ。


「・・・・・・君達の最近の言動は、目に余るものがある。今ここで君達の言う“運動”を許せば、次は何をするかわからないというのが、長州藩の見解だ」

「・・・・・・桂さん?」

久坂はまだ笑みを崩さないものの、眉間に皴を寄せ、少しばかり軽蔑した様な視線になっている。

「・・・・・・論点が少しズレてる様に思うんですが。俺は、今後の活動の事ではなく水戸の志士達が送還されるのを・・・」

「どちらも同じ事だ」

・・・・・・。久坂の表情から笑みが消える。観察する様な鋭い眼で桂の眼を見つめた。桂は視線が揺らぎかけるも、彼とて譲れぬ為に逸らさない。暫くの間睨み合いが続いた。

「・・・そうですね。長井どのの御機嫌を窺う意味では」

・・・久坂は再び、口許だけで微笑んでみせた。眼はもう哂っていない。

長井 雅楽が邪魔だ―――・・・この想いがここ迄強くなったのは、久坂の胸の内でも初めての事かも知れなかった。

「・・・俺は、同志(とも)を守れない人間に国なんて守れないと教わりましたがね」

「同胞を守れない人間にも国など守れないと思うが」

桂は流石にその受け取られ方は不本意だと思い、反論した。長井に借りを作る結果となったのは確かだが、長井が同胞である自分の為に尽力してくれた事実は変り無い。

「俺は別に、水戸の志士達を救いたいとは言ったが長井どのに手を出したいとは言ってませんぜ」

「君達ならこの件に便乗して遣り兼ねないと長州藩は視ているのだ」

・・・桂は久坂等若者に対して懐いている見解を包み隠さず明かした。凡てお見通しなのだと、よい牽制材料になればいいと思った。

併し―――意外にも、久坂は甚だしく不快な表情で桂を睨んだ。

「―――そんな事、しませんよ」

―――この刻に、久坂は桂が自分達とは違う人種である事を悟った。桂はもっと・・・実利と策の中に生きている。

嘗てこの男を憧れに上府した過去があったから、そう感じた時の落胆は彼の中でも激しいものがあった。

―――松陰先生の思想は、もう過去のものとなって仕舞ったのか

「・・・もういいです。今は同胞(藩)の事よりも同志(とも)の前途の方が優先度が高い。志士(オレ)達で何とかします。志士は藩に縛られず全国にいる。松陰先生と同じ思想を持つ人は、西には沢山いますけぇな「―――言っておくが」

立ち上がり、出て行こうとする久坂の背に桂の冷やかな声が掛る。―――ぴたりと久坂はその場に(とど)まった。


「肥後の宮部さんなら動かないぞ」


・・・久坂は振り返って桂を見た。


「・・・君は恐らく、肥後に手紙を送ったのだろう。だが宮部さんは今長州に居る。宮部さんには既に私から文を送ってある」

「―――何故長州に?何故文を?」

・・・・・・久坂は叉も先手を打たれた。否別に、久坂は宮部等に動いて貰おうと思って手紙を書いた訳ではない。・・・只、動くだろうとは思っていた。

同志の危機である。今回水戸へ送られようとしているのは、肥後人にとっても決して無関係の者達ではない。松陰先生の為に泣いた彼等なら、知らされぬ事がどれだけ身の裂ける思いか想像が出来る。そして起つ事も。

「宮部さんには今、長州藩の依頼で兵学と国学の講師をして戴いている。・・・・・・俗論派(長井さん)に対抗する志士を育成する為に」

「・・・・・・宮部先生は、梅田 雲浜先生のお弟子さんを捜す旅に出ていて何処に居られるか判らないのでは?」

・・・・・・久坂は努めて低い声で訊いた。叉も陰謀、叉も根回しでいい加減嫌気が差した。而も藩内の問題に、他藩の者を捲き込んでいる。

「勿論、梅田先生のお弟子さんを見つけた後という事で約束をした。・・・偶然にもその後、長州藩内で梅田先生のお弟子さんが見つかったのだ」

「へえ・・・そんな偶然もあるんですね」

久坂は薄く笑った。()て何処迄が偶然かな、と、久坂はこの時初めて物事の一連の流れというものを疑い始める。

「―――その宮部さんに、君達から何か呼び掛けがあっても決して応じないでくれと文を送ってある。・・・長州に居る若者達にも、派手な動きを控えるよう呼び掛けて貰えると助かると。君より私の文の方が宮部さんの手許に届くのは早いだろう。だから・・・運動を起すのは諦め給え」


「・・・・・・桂さん」


・・・・・・久坂は静かな声で言った。物事の流れというものは、時流というものは、自然と流れているのではない。時代が流れを形づくるのではなく、人が流れを(つく)り、他人を其処に踊らせるのだと身を以て知った瞬間だった。古高を捜すと言った宮部を長州に留め置く様にしたのは、宮部の居処を固定して久坂等の行動を抑制させようとする為か。宮部は長州という(くに)に人一倍甘い。長州藩から頼まれれば断れない事は容易に想像がついた。



「―――その遣り方は、汚い」



―――久坂は流し眼で桂を視ると、背を向けて部屋を出て往った。・・・極めて静かな視線、落ち着いた所作、穏かな足音であった。

「・・・・・・」

桂は極めて冷静な視線で、久坂が部屋を出て往くのを見送った。暫くして隣の部屋に続く襖が開き、周布 政之助が入って来た。

「宮部さんは事情を話したら快諾してくれちょったけんどなぁー」

日光が届かなくなり暗い部屋、冷たい視線が飛び交ったしっとりと薄ら寒い部屋に、からりと明るい周布の声が響く。

「小五郎、玄瑞に話さんでええちゃったんか?お(みゃ)ー、悪者になっちょるそ」

「・・・・・・いえ、いいんです。之で」

周布の心配を桂はすぐに返した・・・久坂の言った事は全く違っていない。自分は吉田先生の友人を長州藩の為に利用している。どの様な言い訳をしようと、其が事実である事は決して変らない。

併しその様な汚い手を使ってでも、久坂達が長井を手に掛ける事を防がねばならなかった。長井を手に掛ける様な事があれば、久坂、高杉、松下村塾生、長州を牽引する有用な者達を(ことごと)く処刑台に(おく)らねばならない。

同時に、藩論は矢張り尊皇攘夷に戻さねばならぬと桂は考えていた。松陰亡き今、彼の終生のライバルであった長井に対抗できるのは最早宮部しか在ない。

・・・其に、桂は如何しても力ではなく話し合いで藩を一つにしたかった。之は桂にとっても挑戦であり、併し成功すれば立派な証明となる。

血で血を洗わなくとも、藩内の問題を解決できる方法が他にあるのだと―――・・・

松陰の弟子であった事は松下村塾出身で非ずとも桂とてそうであり、松陰の友人の幸せを願っている事には変りが無い。いつ自滅に追い込まれてもおかしくはない友人達へ、別の道を彼は示して遣りたかった。




併し、桂の願いも空しく、長州藩は更なる苛烈な闘争へと発展してゆく。

そして、彼の最も望まぬ形で、長州藩の内部抗争は収束へ向かう事になるのであった。

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