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百三十三. エピローグ伍 1872年、東京

彦斎はその後、如何いう訳か新選組からも肥後藩からも逃れ、大坂富田林の松田の旧知の許に泊った。そして、最後の挨拶を交したのち大坂藩邸の藩吏に捕えられ、肥後へと送られる。


小倉口では高杉と彦斎の藩主(あるじ)細川 韶邦(よしくに)が猶も激戦を繰り広げていたが、彦斎逮捕の報せを受けて韶邦は兵を撤退させた。藩士(わが子)が帰って来たからという理由だけではなく、藩主不在で叉も苛烈な環境になる領内の獄にて、彦斎が薩長同盟の存在を匂わせたからである。具体的な内容は彦斎も知らない。だが、薩摩と長州が連携する、肥後を動揺させるにはその情報だけで充分だった。

何故ならば、肥後は長州と薩摩に(くに)が挟まれている。

「おのれ島津・・・・・・!!」

薩摩が兵を北上させる可能性は、歴史を鑑みて大いに()り得る事だ。彦斎の自白は肥後を守り、同時に肥後藩相手に苦戦を強いられていた高杉も守った。



「――――彦斎のヤツ・・・・・・本当に、兵を止めやがった・・・・・・・・・」



()うして肥後人は完全に長州人の前から姿を消した。肥後人を最後に“友”として接した高杉も、維新を見ずに此の世を去る。友情は()くも脆い。新時代が訪れた時、松陰は神となり宮部は罪人の侭で(その後、明治24年に従四位を贈られる)、住む世界を根本から変えられた。神と罪人が同等な立場の筈は無い。理屈として、“友”という繋がりは初めから存在していないのだ。




肥後人が再び長州人の前に姿を現すのは、明治4(1871)年の事である。この年、廃藩置県が行われた。

木戸 孝允と改名した桂 小五郎の元に、高田(こうだ) 源兵(げんべい)と名乗る肥後人が現れる。正確には、木戸の方がその人物を呼び出した。

その肥後人は木戸と全く同じ格好をしていた。ざんぎり頭を木蝋で撫でつけ、役人の配慮で傷のある耳は髪に隠されたが―――身体のラインが明瞭(はっきり)と判る所謂三つ揃えのスーツに身を包み、靴製の短いブーツを履いている。之が、怖ろしく似合わず、人間、余計な部分を(こそ)ぎ落したら之程にまでコンパクトになるのかという位、小さかった。人形の様だった。

こんなちっぽけな人形に、自分は之迄怯えていたのか。

人形に憑りついた稲荷という化物(けもの)も、文明開化の音に依って祓われたらしかった。

その人形は、西洋椅子に座っている。否、座らされている。

「・・・・・・西洋の衣服も、動き易くて悪くないだろう」

木戸は参議室の窓から東京の景色を見ながら言った。乾き切った声だった。



「河上さん」



・・・・・・高田 源兵の正体は、河上 彦斎であった。

彼は今、罪人として木戸の前に居る。

彦斎の両脇には大日本帝国陸軍軍人がサーベルを引っ提げて立っていた。

どんなに機能的に優れた服を着せられても、手足を椅子に固定されていては動けない。技術がどれ程革新されても、人の()る事は変らぬ様だ。

「・・・・・・之でも、考え直してはくれないか」

・・・・・・乾いているのに湿っている。聞き取り難い掠れた声を、彦斎は唯々静かに聴いていた。(かん)の虫を起した子供の様だと密かに想う。木戸は確かに病んでいた。原因不明の頭痛と其処からくる精神不安である。


「・・・・・・“約束”を更新する気が無いのなら、之迄の“清算”をしてくれ給え」


木戸が腫れた眼を彦斎に見せた。・・・・・・彦斎はその貌を見て、皮肉混りに微笑む。



「あなたは、本当に動乱から長州を守ってくれた・・・・・・長州の汚点である大楽 源太郎にまで手を差し延べて。あなたにはとても感謝している。だが、その約束を最後の最後まで果して貰いたいのだ。


あなたには二卿事件および大村 益次郎・広沢 真臣暗殺事件の肩代りをして欲しい。何れも長州人が主犯で長州人が被害者の事件だ。そんな不祥事、他県の者の耳に入っては薩長土肥の示しがつかない。日本(くに)を分裂させる隙を与えて仕舞う。・・・・・・其に、長州藩はもう存在しない事は君も解っているだろう。彼処(あそこ)は山口県になった。私は、河上さん―――・・・過去と訣別(けつべつ)したいのだ。関ヶ原で敗れ、“長州”と本来は無かった名で呼ばれ、裏日本の一角に押し込められた、怨みの歴史を―――・・・長州藩という270年続いた(くに)そのものを存在しなかった事にしたいのだ。この藩は―――(わたし)は、実に様々な事をした。私の消したい長州(かこ)について、君は深く知りすぎている。君に意思を持たれていては、私は枕を高くして寝られない。


君は立派な長州人、いや、長州藩そのものだ」



・・・・・・皮肉混りの彦斎の笑みに、哀しみが差した。




「長州藩の闇を抱いて、長州と共に死んでくれ」




彦斎は静かに眼を瞑り、ゆっくりと開いた。顔を上げ、一つ、首を縦に振った。




明治4年12月4日(1872年1月13日)、木戸は岩倉使節団の一員として、米国サンフランシスコの茫洋たる空海を船上から眺めている。

木戸の心もこの空海の様に広く澄み渡っていたに違い無い。その筈である。彼はこの日、新しく生れ変った。


彼は山口県人になった。




(しか)(なが)ら長州人もまだ絶滅してはいなかった。木戸に長州人だと認められた彦斎はあの後



『・・・・・・俺は長州人ではない。肥後熊本の人間だ』



と、明確に否定した。長州人のファンである熊本敬神党の人間だと。この男はいつの間にか、自身の故郷に対して胸を張れる様になっていた。




明治9(1876)年10月28日、山口県萩市にて萩の乱起る。指導者は前原 一誠、松陰より松下村塾で指導を受けた最後の生き残りであり、松陰に最も近い人間だと云われた。

この乱には多数の現松下村塾生・元塾生が参加し、本家吉田家・実家杉家・叔父玉木家といった松陰の親族が中継となった。その責を負い、松陰の死後7年に再開した松下村塾は再度途絶する事となった。

前原にこの士族反乱を決意させたのが、この4日前に彦斎の同窓および親友が起した神風連の乱である。神風連の決起を聞いてすぐに前原は萩の同志集会を開いたのだと云う。

神風連の乱は一晩で、萩の乱は一月で鎮圧された。

彦斎は約束を果した。

肥後人も長州人もこの士族反乱で滅び、凡ては何も無かった白紙の頃に戻された。

翌年の西南戦争で、凡てのものが燃やし尽される。




あの時に日本人は一旦皆在なくなり、明治維新から数えて第二の世界が新日本人に拠って創られた。

第二の世界は戦争の時代で、約70年間続いた後、西南戦争と同じ様に国土ごと燃え、新日本人も在なくなった。


第二次世界大戦後、今度は新人類の手に拠って、第三の世界が創られる。



第三の世界は、戦争を知らない時代だ。



第三の世界が創られて、今年で70年が経つ。70年とは言わずここ4,5年で変るものは変った。併し変らぬものは変らず、筆者は今日もテレビを通じて長州閥に拠る政治を見物しながら、彼等の創る平和の箱庭で呑気に茶を啜っている。





完 

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