百二十七. エピローグ参 1866年、征討~輪廻~
「親仁」
―――ひょっこりと河上 彦斎が戸口より顔を出す。親仁と呼ばれた初老の刀鍛冶は呆れた顔をして
「ふぅ・・・野狐でも現れたかと思ったぞ。お前さんはもっとこうな、胸を張ってででんと出て来れんのかい。小ぃちゃい身体が益々(ますます)小ぃちゃく見えるぞ」
と、言った。
「ででん?」
彦斎は困った顔をして、くそ真面目に聞き返す。
「むぅー・・・この刀がこの坊主の物だとはどうにも信じ難いけぇどなぁ・・・」
親仁が研いだ刀を翳して小首を傾げる。「けどなぁ」と言う辺り、何度か確めて其でも信じる方を選んだらしい。
「刀の方は如何でござるか?」
「こらぁ刀に感謝すべきだぜ。ここ迄酷使されて手入れの利く刀なんてそがいに無いぞ。斬り合いの途中でいつ折れてもおかしくなかった。見てみぃ。必要な部分まで研いだらこがいに刀身が痩せ細って仕舞った。この刀は他の刀の何倍も遣手の命を救ってる」
「はぁ・・・そうでござるか」
彦斎は言われる侭に刀身を覗き込む。が、眼差しは何処か他人事だった。お前さんの刀だぞ、と親仁が腹を立ててぐりぐりと刀の切先を前に押し出すと、彦斎はぅわっち、と妙な声を上げて飛び退いた。
「お前さんは全く、この刀を持つ資格は無いぞ!物にしてから一度も目釘を外した事が無いだろう。柄の内側に血が溜ってえらい事になっていた。ある程度のところまで血抜きはしたが、之以上は無理だ。茎も刀身も、鎬の内の内まで染み込んじまってる。滲み出てくるのを止めたけりゃあ、本体を変える他に無い。全く、刀の血抜きなんて40年刀鍛冶を遣ってきて初めてしたぜ」
普通そうなる前に折れるなり錆びて使い物にならなくなるなりするもんなんだが・・・と親仁は内心この刀を奇妙に思ってもいた。彦斎とこの刀の関係についてもである。
彦斎は親仁から刀を受け取ると、外に出て其を一振りした。じわ・・・と刀身が紅花色に染まる。はばきより血が滲み出し、彦斎の指を濡らす。
「ふむ・・・」
彦斎は指についた血を舐め取り乍ら呟いた。
「また汚れたから手入れな」
親仁が釘をさす。
「おろ!?」
「当り前だろうが!魚が切身で泳いでねぇのと同じ様に、刀も其があるがままじゃねぇんだよ!お前さんの刀はな、奇跡なんだ!」
親仁が彦斎に説教する。彦斎はしゅん・・・と言葉の雨に打たれている。・・・・・・親仁はだんだんと遣りづらくなってきた。
「はぁー・・・お前さんは本当に男かい・・・・・・」
親仁は彦斎から刀を取り上げると、刀身とはばきを確認する。・・・しゃあねぇなぁ、と呆れた様に言うと
「わぁったわぁった。俺が手入れをして遣る。その代り、この刀を使うのはやめて、お守りにするなり産土の神社に奉納するなりして大事にするんだな。其ぐらい、お前さんとこの刀の繋がりは深い」
と、念を押した。親仁の顔は真剣そのものだった。
「・・・・・・“因縁”ですな」
と、彦斎は言った。複雑そうな表情をすると、急激に大人びて(否、大人なのだが)見え、親仁は吃驚して眼を瞠った。
「・・・その刀は別に持主がおりましてですね。之から返しにゆく予定なのです」
その為に刀の調整を依頼した旨を彦斎は親仁に伝える。まぁ、持主の居場処は判らんですがね。と皮肉混じりに言った。
「て事で、拙者はその刀はどうも苦手で。手入れかたじけのうござる~~」
「おぉぅ、待たんかい!」
こーーん。彦斎がすたこら森の奥に消えてゆく。髪が靡いて、尖った耳が顔の隣から垣間見える。禁門の変時に銃で撃ち抜かれて以来彦斎は髪を下で緩く結び、耳を隠していた。
「・・・お前さん、別の人間のモノだったんなぁ」
残された親仁は刀に話し掛ける。腑に落ちた様な、落ちない様な表情である。嫌われてんのか、可哀想になぁ。
「けど、お前さんをこがいにしたのはあの坊主ろうに、のぉ」
さすが刀鍛冶、というところか。遣い手が彦斎である事は確信している様だ。併し、刀に関しては長年生業としていても怪異を見ている気分らしく
「・・・・・・『妖刀と狐』・・・か」
と、呟いた。
「俺ぁ、若しかしてお前さん達に化かされてんじゃねぇんろうな・・・・・・?」
彦斎はこのところ、先程の鍛冶屋の親仁の元に厄介になっている。と、謂っても、親仁に刀を預けているだけなのだが。
広島と山口の境に居を構えるこの店の親仁は、素性の知れない者の対応に慣れている。と、いうのも、浅野家第11代藩主・長訓指揮下の広島藩は土佐の鯨海酔侯(山内 容堂)程ではないものの、幕府と長州、状況に依ってどちらの味方に付くかが変る蝙蝠である。特に長州征討が迫っている今は、長州藩を問罪する幕府訊問使と其に答える長州藩代表者が入り乱れ、その傾向が強くなっている。そういう者は敢て素性を聞かずに通し、一律に親切に接するものだ。
鍛冶屋の親仁は「登」と云うらしく、姓か名かは判らない。只、この地域には「登」と名乗る者が多く在るらしく、職業も鍛冶屋とは限らない様だ。出逢う人出逢う人「登」さんである。女性に逢えば一発で判るのだが。
「・・・・・・」
―――今彦斎の居る処からは、厳島が見える。海に浮ぶ朱い大鳥居が有名な厳島神社のあの厳島である。天気の好い日は朱が見える距離に居る。
厳島と海面で接する大竹(市)・廿日市(市)は芸州口の戦いに於ける激戦地となり、沿岸部の殆どの民家が戦火に焼かれる事になる。彦斎は広島藩領へ出、厳島に向かって歩いた。
宮島街道は、警戒が弱い。
彦斎は幕府訊問使の存在を知らなかった。長州人から聞かされていなかったのである。聞いていればもう少し慎重に行動しただろう。だが幸い、此処は広島藩の指定した中立地帯であった。
・・・・・・複数の視線を感じ乍ら海沿いを歩く。併し誰も捕えに来ない。一刻ほど歩けば、厳島と本土の距離が最も近い大野浦に出る。
もう少し歩いた。
半刻も歩けば目の前が大鳥居だが、彦斎の歩は其より速い。
之も彦斎の知らぬところであるが、対岸の厳島には彦斎を直接死に追い遣る二卿事件に関連する被害者・広沢 真臣を代表に据えて井上 聞多と桂 小五郎が居り、対幕交渉の場としていた。その為に幕府方の人間も広島城より下って来ている。
(・・・・・・)
彦斎は手前の岬に入り、丘に登って其を観察する。
歴史に介入する気は無い。之は河上 彦斎の物語である。
〈―――あれは・・・・・・赤根 武人・・・・・・〉
―――処刑してやると晋作が息巻いていたが。まだ使い処があったのか。
刷り込まれた脳は自身が赤根を屠る可能性を既に想定している。彦斎の頭脳はその準備をする心算で赤根とその周囲に注意を向けた。宮島口の渡し船の前で、えらの張ったがたいのいい男達が行動を共にしている。・・・・・・彦斎は眼を細め、瞳孔を煌かせて視た。
彦斎とは之迄奇跡的に相見える事の無かった男だ。何故ならば。
〈・・・・・・赤根さんよりよほど出来る男だな〉
と、想ったからである。政変が無ければ孰れ天誅の対象に挙がっていたであろう。
その男の隣に、秘書官らしき別の人物が居る。
彦斎が長州を離れる契機が訪れた。
「―――兄・・・さん・・・・・・?」
彦斎の背後で声がした。はっと我に返り振り返る。赤根達に気を取られ過ぎていた。
―――古閑 富次。
併し、古閑も彦斎の事はまるで視界に入っていない様だった。古閑も叉、赤根達に視線を奪われている。
「・・・・・・っ」
古閑は其の侭、彦斎の居る地蔵ヶ鼻には一瞥も呉れず宮島口の方へ憑りつかれた様に進んで往った。
彦斎は古閑が去った直後、内陸の緑地に向かって駆ける。岬を出たところで何者かに突き飛ばされるも、何とか転ばず逃げた。
「待っ・・・!!」
ぶつかって来た男が彦斎を追い駆けようとする。だが、伸ばした腕を何処からともなく出て来た別の腕が攫み
「今は河上 彦斎は放っとき!どうせ中立地帯では捕縛できひん!其よりもあんたはんは宮島口の方へ!」
と、低い声で怒鳴った。
「俺は古閑(尾行てる方)を追う」
そう言うと、その腕は瞬時に消える。男も・・・はい!と肯くと、すぐに街道から姿を消した。
(―――如何いう事だ―――・・・?)
彼等にしても訳が分らない。
(人斬り彦斎(肥後浪人)に肥後藩役人―――?何故?あの藩では今、何が起きているんだ―――・・・?)
現在、傍観に徹していた肥前佐賀藩含めた九州全体の動きが不穏になってきている事を、この2ヶ月の探索で察した。
彦斎(浪人)と古閑(役人)の二人の肥後人の関係は一体何であろう。今回の西下の顔触れは明らかに行動に移し出している者達が揃っている。
まさか、あの人も動き始めたのか―――?
古閑が我を忘れて宮島口へ出る。後を尾行られている事も気づかずに。人を喰った様な性格の古閑でも、心の余裕を失う刻はあるのか。船はもう出航の準備が整っていた。古閑は幕府の人間でも長州・芸州人でもない為、交渉期間中に厳島へ渡る事は許されない。役人手形を示しても、渡し守に依って弾かれる。
赤根達も叉、本来厳島には渡らず岩国を経由して二度目の長州入りを試みる予定であった。なので、遅かれ早かれ彼等は出会していた事だろう。寧ろ今正面切らない形で互いを認識した分、潰し合わずに済んだ。
赤根達は厳島行きの船に乗った。えらの張った男の隣に控える人物が
『弥山に登り、神鹿に旅の安全を祈りて煎餅を供えるも宜しかろう』
と、言ったからである。道を挟んだ向うに彦斎とぶつかった男が居り、同乗はせずとも乗船を促す合図を送っていた。
「おう!鹿と堂々と戯れるのは奈良の春日神社と厳島だけだものな!」
えらの張った男が楽しそうに言って膝を敲く。赤根はその豪快さに少々面喰らった様だった。
古閑が海に面した処にまで出る。船は出航を始めており、距離は少しも縮まる事無く追いかけられぬ海の分だけ開いてゆく。
古閑は珍しく自身が消耗していた。
「―――ま・・・っ、待ってくださいっ・・・・・・!」
古閑が声を詰らせつつ叫んだ。暑い時季でもないのに顔には汗が浮び、大した距離を走った訳でもないのに息が上がる。
本当に、狐にでも憑かれたかの様に別人の表情であった。
「兄さん――――!!」
「!?」
(兄,やと―――?)
古閑を尾行ていた男も彦斎にぶつかった男も、状況を全く読む事が出来ずその場に立ち尽す他無くなっている。二人とも厳島に向かっている船を見るも、其処から答えが示される訳もない。
海上では、赤根 武人が微かに血の気の無い貌をして、同乗した男達を見ている。
如何やら先程の尾行者達の存在を知って、彼等に対する疑心に駆られた様だ。えらの張った男は赤根の気分を直そうと
「いやはや、何だかお騒がせしましたな。赤根殿、どうかお気になさらず。幕府とは何の関係も無い者なのです」
と、明るい声を出して弁解した。この男にしても全く不意の出来事で、そうとしか言いようが無い。恐らく、この出来事に遭遇した者で、事情を全て呑み込めている者は皆無である。
「・・・いいのか?」
男が、同乗した眼元の昏い男に穏かな声で訊いた。その男は意に介する様子も無く
「貫さんの合図を無視すれば、益々彼等に疑われましょう。之以上疑われれば粛清の対象になります故」
と、無愛想かつ直截的に答える。返事を受けた男は、あははー・・・君も大変だな・・・と苦笑した。
その後、近づいてくる大鳥居と雲の無い空を背に手を振る。君の代りに振っておいたぞ、と相手の眼元を覗き込む様にして言った。この男は、不意の出来事に遭遇した者の中で最も胆力がある様だ。
「似ていたな」
「・・・・・・親が違うので其は在り得ませぬが」
相手はすげなく返したが、早くも根負けしている様である。というか、元から頭が上がらない様で、少々長めの息を吐くと咳払いをし
「・・・・・・先生」
「ん?なんだ?」
「鹿です」
「―――おお!本当だ!いっぱい出迎えてくれている!」
船は殆ど対岸に着いており、少々の水には最早怯まない鹿が岸に下りて来ている。船を下りて、漫ろ歩く鹿をも率いてゆく男を呆れた様に見ていた。その彼にも、集団から外れた鹿が一頭ちょっかいを出してくる。
「―――待ちなさい。今は、懐中汁粉しか無いから」
ぽんぽんと頭を撫でて歩いてゆくと、とてとてとその鹿もついていった。・・・・・・赤根は其とは無しに、そちらの彼を注視していた。
その彼も叉、その強い視線に気づかぬという事はなく
「・・・・・・赤根殿」
と、彼岸から声を掛けてくる。そして物語は、終局へ向かう。
話は廻る。
肥後人に最も翻弄されたのは、実はこの赤根 武人だったのかも知れない。
赤根は岩国藩領の柱島という小島に生れた。現在でも300人弱しか人口が無い。厳島と同じく神(御柱)の島として有名で、武人が勤皇の士として活動する様になるのも必然と謂える。
そういう訳で、長州と謂えど本家毛利氏からは憎まれ、防長国では幕府方が容易に入国し易いこの微妙な地が彼の故郷であり、由って長州訊問の案内交渉役が彼の生涯で一番の適職だった。そして、この土地の出身者は靖国神社に祀られぬだけでなく、名誉回復や贈位もされない。
主君が吉川氏だからか。赤根自身も、裏切者の烙印を予め用意され捺された感はある。
赤根はえらの張った幕府方の男達を岩国城まで送り届けた後、引き返して広島と山口の境に出た。長州に居れば危険である為と―――・・・或る人物に出逢う為だ。御癸丑以来に最も近い流れを汲むからか、人物としては割と放胆なのである。
―――森に入る。空はもう昏く、下弦の月が浮んでいる。遠くに川のせせらぎが在って、登の親仁の家も此処から程近い。
風が吹き、カサカサと木の葉の擦れる音がした。軈てその風の強さに葉っぱが数枚千切れた。枝が折れる音がした。
地面の枝を踏み折る音だった。
黒い影が足音を立てて向かって来る。赤根は俟った。髪が戦いで、妖怪じみた耳がくっきり浮き上がる。赤根は気が挫ける事無く
「―――此処に来れば君に逢えると思っていたよ」
と、さえ言った。
「河上君」
赤根が身の危険を冒してまで逢った相手は彦斎だった。之で凡てが円環状に繋がる。
彦斎は緩やかに歩を止めると
「・・・・・・今となっては珍しいですね。私に逢いたがる人が在るとは」
と、とても静かな声で言った。
「併し、貴方の方から来てくれてよかった。私には貴方を探す術が無い」
「君も私に用が有るのか。私を殺すかね?見たところ刀を差してはいない様だが」
「高杉とは縁を切りました」
―――ほう。彦斎が言うと、赤根は興味深げに斯う反応した。彦斎が唯一欺く事を意識して言った台詞だった。否、歴史的には本当にそうなったのだから嘘から出た実と謂うべきか。言霊と呼ぶものかも知れない。
「長州人を斬る大義名分はもう無い。元々、人を殺めるのは好きじゃない」
・・・・・・最早誰にも信じて貰えぬ言葉だ。彦斎の両手に塗れた血は殆どが肥後人と長州人といった本来味方であるべき者達のものである。赤根は併し、肯いた。
「・・・・・・我々の不幸は、肥後という地と岩国という地に生れた事である」
「私は不幸とは想わない」
彦斎の方が其を否定した。赤根の気遣いが宙に迷う。彦斎は明瞭な口調で言った。
「私は肥後を愛している」
―――其が多大なる命の犠牲の果てに辿り着いた答えだった。彦斎の斬人は、幕府の制度を変えても朝廷の権威を上げてもいない。
他の人斬りの様に幕府側の人間を斬る事を、京に出て以降は基本しなかった。自身の斬人の対象が岡田 以蔵や田中 新兵衛の様に在京の者に昇華しなかった理由を、彦斎なりに考えていた。
彦斎は、屈折している。想うからこそ、手を掛ける。愛しているから、傷つける。其を普通としてきた感覚の異常性に、漸く気づき始めた。
人を斬る時に頭に過るのは、いつでも身近で笑う者の事。所詮、国を語る器ではない。
「―――・・・貴方に、聞きたい事がある」
赤根が言う用より早く、彦斎は己の用件を口にした。この密会は、文字通り双方の寿命を削る。




