百二十六. エピローグ参 1866年、征討~迎え~
「1866年、征討」
彦斎自身の身辺と高杉の身体に異変が生じたのは、彦斎から急激に人斬りの毒気が抜けた頃だった。
高杉 晋作と沖田 総司では、沖田 総司の方が1年程死期が遅いが、結核が症状として現れたのは高杉の方がずっと遅かった様だ。
代りに、晋作の場合急激に悪化し、最初の症状からして誰もが死が近い事を悟る大喀血であった。
晋作は
「・・・・・・血って、案外綺麗な色をしてるもんなんだな」
と、口説く様な科白を言って、意識を手放した。
御蔭で、彦斎は肥後に帰り損ねた。
「まるで急に、大きな子供を二人抱えた様ですわ」
晋作の妻・まさは愛人のうのに、悲しい乍らもささやかな平穏を得た様な貌で言った。
晋作は、逃亡中にも女性であるうのを連れていたのである。
まるで脱け殻の様に穏かになった彦斎と、彦斎が溜めていた毒気を代りに吸って遣った様に顔色の悪い晋作が庵に居る。
桂の用意した隠れ処で、極々本当に短期間、まさとうの、晋作と彦斎の奇妙な共同生活が在った。
尤も、彦斎の居心地が好かろう筈もなく、三角関係のドロドロに捲き込まれるのは御免だと殆ど姿を見せなかったが。
併しまさ、根はああいう残念な性質なので、同じ女性であるうの相手には箸が転んでも可笑しい年頃の娘みたいに色めいて歓迎し、全く以てそういう事は無かった。彦斎が正真正銘の男であると知って落ち込んでいるのをうのに慰められてもいた。
其は別にいい。
「―――御免」
ごんごんと、すっかり眼の色の変った彦斎が既に開いている戸を叩いて声を掛けた。
「―――おお。来たか抜刀坊主」
「抜刀坊主て・・・」
此処は長州と芸州(広島藩)の境に在る鍛冶屋。彦斎はこのところこの鍛冶屋に足繁く通い、隠れ処には殆ど姿を現さなくなっていた。
「―――入ってよか?」
「ドコに行ったんだアイツは」
晋作は急き込んで言った。
皆が彦斎を捜している。だから身を隠さねばならなかった。晋作やまさ、うのとの共同生活は、長州藩が彼等を匿う為のものでもあったのだ。
「彦斎のヤツ、立場どころか自分の事も忘れちまってんじゃねぇのか。まるで人が変った様だぜ。最後の目撃情報だと、三日程前に津和野辺りを刀も差さずに着流しの侭・・・」
晋作自身の体調が不安定な所為か、飄々と振舞っていても内面の不安定さが滲み出る。まさは良人の強がりを見ない振りをする優しさを見せたが
「・・・つまらん」
「“つまらん”のではなく“心配”なのでしょう、晋さま」
―――衝立を一枚隔てた向うで、うのがやんわりと訂正する。武士の妻と妓女それぞれの、男に対する愛し方である。
「・・・晋さまは、彦さまが心配で堪らないのですわね」
・・・晋さま?まさは大きな瞳をぱちくりさせて、うのに一礼して入室する。手には湯の張った桶と手拭を抱いている。残念なまさの思考はというと、うのが呼ぶその呼び方に驚きとときめきを感じていた。同じ武士でも彦斎の妻がこの場に居たら、少なくとも空気は凍りつく。
「気にしないでお話ししていてくださいな。おうのちゃん」
・・・うのちゃんん?晋作は晋作でまさの「うのちゃん」呼びに度し難そうに元々締りの無い口をあんぐりとさせた。
「・・・・・・之迄通りのアイツだったらこんならしくない心配はしねぇさ。だが今のアイツは、刀を持っていても俺に負けそうだ。今アイツがあの男に出会って仕舞ったら、簡単に連れて行かれて仕舞うだろう。そうでなくとも、赤根の裏切者の所為で藩内に敵が紛れ込んでいる。アイツは長州人じゃないから、どんな目に遭っても長州藩政府が抗議する事は出来ない」
第二次長州征討の時期が近づいていた。捕えた赤根 武人を利用し芸州まで乗り込んで来た幕府大目付・永井 尚志や新選組隊士を始め征討の見積りを立てる為に各藩の探索方が長州に送り来ている。其こそ西から東から。
西側からの使者で、晋作が避けて通れない、併し可也痛い部分を衝いてくる相手が、先日遂に、晋作に会いに来た。
『慶應二年二月是月、熊本藩探索方古閑 富次、太宰府より馬關へ抵り長藩高杉 晋作、前原 一誠と應接す』
「こんにちは、高杉 晋作しゃん。まさか、初めましてなんてつれない言葉、言いなはらんですよね」
古閑 富次、元い肥後藩は、彦斎の事を諦めてはいなかった。肥後藩はこの征討で小倉口の戦いに従軍する事が決り、彦斎を迎えに来たのであった。
「そぎゃん怖い顔をせんでくださいな。今回は、藩の公僕としてのお遣いです。んにゃあん時もお遣いだったとですが、藩主にこっぴどく叱られましてですねえ。僕も大人になりました。加減は出来る様になったんで、安心して河上 彦斎を僕にください」
―――選りに選ってこの男が使いか。肥後藩もなかなか狡猾な真似をする。
「・・・随分今更じゃねーの」
晋作は嫌々乍らも客間に上げ、厚待遇に茶と菓子も古閑に出した。少々の藩や幕府の役人は追い返して仕舞う。併し、肥後藩を御座なりに扱えば今後どの様な手を使われるか分らない。
「今更でもなかですよ。肥後藩はずっと勤皇党員を捜しておりました。一昨年は太田黒 伴雄、昨年は加屋 霽堅を見つけて夫々(それぞれ)確保した。次は彦斎さんの番という事です」
古閑のざっくばらんな態度は健在で、矢張り肥後人らしくない。出された茶菓子を先に頂き、僕は漉し餡の方が好きだなあ、と感想を言った。
「俺等は萩の人間なんだから粒餡に決ってんだろ。で、その人等は今どうしてる」
「しゃんと“保護”されておりますよ」
「政変の時に逮捕した人達は?佐々さんは。永鳥さんは」
「佐々さんは“再教育”中ですね。あの人は勤皇党幹部ですが、名門の出ですからね。佐々の裁量でしよんなはりますよ。
永鳥さんですか?そうですねえ」
・・・古閑は茶菓子を食し終え、銜え楊枝をした。
「死にましたよ」
古閑の表情が不気味だった―――晋作はぞっとし、言い知れぬ不快が胸をむかつかせた。
「死んだ・・・?」
「ええ。昨年・・・だったですか。元々持病はあった様ですが、少々虐めすぎましてですね。松村家は掘れば掘る程出る家でしたから、政変後の追及も激しかったとでしょう。三平さん(おとうと)の方は叉態度が態度でしたし。つい役人の当りもきつくなったとでしょうね。只、その御蔭か松村家の者以外に対する追及は今のところ無いそうです。大成の方もまだ生きてはおんなはる。・・・凡て三平さんの思惑通りという気もしなくはなかですが」
―――併し乍ら、兄の大成も衰弱しており、翌慶応3(1867)年、獄中にて病死する。
「慶応に入る前は藩主も不在気味でしたからね。其迄耐えたという事なんでしょう。彦斎さんについても、そろそろ長州でも持て余している頃かと思って、迎えに来たとですよ」
「持て余す・・・?」
晋作の声が口を衝いて出た。同時に不安と疚しさが晋作の脳裡を掠める。この男は心の内側に在る蟠りを引き出すのが得意だった。だから胸がざわつき、むかつくのだ。
「ええ。―――弊藩の情報収集能力を見縊られては困るなあ。之迄他国と交渉していた椋梨どの達の失脚に、彦斎さんが一役買っとんなはりますね?併し長州藩が其で統一されてから、彦斎さんをどう扱うか、藩政府は悩んでいる。今与えられる仕事というのは、長州人で遣ってゆくものばかりだ―――穀潰しを養う程の余裕は貴藩には無く、其以上に恐ろしいのは彦斎さんが現在の待遇に不満を抱いて人斬りの刃を自分達に向ける事―――違いますか?本当は、彦斎さんが自分から長州を出て行ってくれればどれ程よいか、そぎゃん思うているのでしょう―――?」
「・・・・・・ッ」
晋作は無論そんな事は思っていない。だが、山縣 狂介を始め長州に残って苦労した者、椋梨への恭順に由って一時の安寧を手に入れた者、毎日ゴロゴロ転がる死体を見ざるを得なかった非戦闘員には他所者が田畑を荒らしたという認識の者も在る。
叉、彦斎を庇護する者達にとって彼は、約束を破り、仲間を措いて他国へ逃げ、他所者に尻拭いをさせた自らの行動の汚点の象徴でもある。
彦斎が穢れたところの全てを抱いて神隠しにでも遭ってくれたら、と願う者も確かに在るのだ。
「だから、そろそろ返してくださいよ。其とも、来たる征討戦を彦斎で凌ぐとですか?・・・だとすれば、彼以上の力で以て肥後藩は応戦する迄です。彦斎は肥後の子ですから、如何に人斬りとはいえ肥後藩も止め方くらいは分るとですよ。―――まぁ、若しそぎゃんするとなら、韶邦さま(うちの主人)は先ず長州藩を許さんとでしょうがね。勿論、タダで返せとは言いません」
古閑は楊枝を口から離すと、その先端で晋作を指した。
「長州藩が彦斎さんを大人しく渡すとなら、薩摩・肥後・福岡の三藩で征討の中止を幕府に上奏しましょう。西国諸藩には長州藩を攻める積極的な理由は無かですよ。負担ばかり嵩みますしね。特に今回は、幕府より派遣される小倉口総督と韶邦さまの足並が揃わず幕府にも相当お怒りの様でごたる。・・・脱藩人と謂えど、弊藩も宮部 鼎蔵、松田 重助を始め何人も幕府には殺されて只でさえ欝憤が溜っておりますからね。彦斎(わが子)が帰って来るとなら長州に味方しても已む無し、という韶邦さまの御判断でしょう」
「・・・・・・」
晋作は指された楊枝から古閑に視線を移し、睨む。この時点で薩摩とは既に和解し、薩長同盟を結んでいたが、その最重要機密を古閑が知る筈も無い。知っていたら大問題だ。
肥後藩が味方になるのならあらゆる意味でありがたいが、肥後藩の提案する“四藩盟約”的なものは、薩長同盟とは本質的な意味合いで違う。肥後藩は飽く迄彦斎を罪人として扱い、藩論を変える気は無いのだ。只、友を犠牲にして敵対する勢力に借りを作るだけとなる。
「断る」
晋作はすぐさま拒絶した。
「おろ」
古閑は断られる事が余程意外だったのか、調子外れの声を上げた。
「ええ乗らんとですか!?結構いい案だと思ったとだけどなぁ」
(被ってんぜ。・・・其とも、薩の野郎が同盟と同じ内容を肥後・福岡に提案したか?だとしたら・・・やっぱ薩は信用できねぇな)
「世話になった友を之以上政治の道具に使う気は無い。其に、藩主は確かに彦斎を大事にするかもしんねぇが―――・・・
彦斎を連れて行く先は、永鳥さんを殺した役人の処なんだろう?」
「・・・・・・」
古閑は顎を引いて押し黙る。だが、その顔にはニタリと不気味な笑みを浮べていた。
「・・・・・・一応、肥後藩は6代重賢さまの頃から刑法先進国とですけどね。まぁ、いいでしょう。ならば、幕府の命令の下に肥後藩は長州藩を攻撃します。忠告はしましたけんね」
古閑は其以上取りつく事をせず、小気味好く立ち上がる。併し、古閑および肥後藩はどこまでも一筋縄ではいかなかった。
「そうなれば、彦斎と征討の件は無関係になる。―――自藩士ごと攻撃する事は、韶邦さまの本意じゃなか。だから暫くの間、藩内を少し捜索させて貰うとですよ。長州が戦場となる前にね」
「―――なんだと?」
今度は晋作が声を上げさせられる。
「・・・領土侵犯だぜ。許可無しに藩内をうろつくのはやめて貰おうか。非常識にも程があ―――」
「許可ですか?許可なら得ていますよ」
古閑は意外な返しをすると、懐より手形めいた物を出し示した。そして、全く想定していない名を口にする。
「―――長州藩主・毛利 敬親さまより。互いの藩士には一切手を出さないという条件で。長州藩主もいい加減、肥後藩とは手を切ろうごたる」
・・・・・・。晋作は絶句した。藩主である敬親が決めた事には仮令晋作でも逆らえない。少なくとも晋作自身は、武家社会が軽んじられる世になっても武士たる忠誠心を一分くらいは持っておきたいと想っている。
「長州藩は全く遣り難か。藩主と藩政府のどちらを信じていいのか分らん。之は僕も命懸けの人捜しとなりそうだ。フーフフ」
そう言い乍ら、彼等は自分にとって都合の好い方を信じている。
細川から毛利公へ何らかの圧力が掛った事は想像に難くない。
藩主公を政治的に蔑ろにしようとは思っていなかった。だが、結果的には固めておくべき藩主の脇まで甘くなっていた。
彦斎の事も然りだ。待遇に悩んでいるのは確かだった。古閑に反論できない隙が、古閑を通過させて仕舞った。
―――どうせ、肥後藩とは衝突する事になる。
(・・・・・・勝つだけじゃダメだ。肥後を一度―――完全にぶっ潰さねぇと。そして、彦斎達を自由にする。
だが、彦斎の力を借りずに肥後を攻められるのか―――?)
「・・・・・・」
・・・・・・まさは静かに晋作の身体を拭く。晋作が黙って仕舞ったので、庵は急速に静寂に包まれた。
「・・・・・・」
うのは衝立の向うで体勢を変えた。晋作の方が気になる様だが、まさに遠慮して口を開かない。細い首を高くして衝立を見つめている。
「・・・・・・そういえば、あの日からかも知れませんわね」
まさが二人の気持ちを酌んで、ゆっくりと言葉を紡いだ。晋作は肩を動かして「何がだ」と尋ねた。
「旦那さまが蒼いお顔をされて帰って来たあの日の夜から、河上さまの此処へ帰って来られる頻度が更に落ちた様な気がします。若しかしたら、あの日から陸に帰って来ていないかも知れません。屹度、私達に気を遣う要素がお増えになったのでしょうね」
「―――何?」
晋作はまさの言う事を完全には理解していない様である。
「アイツのドコに気を遣う要素があんだ。大体、アイツは他人に気を遣ってられる立場じゃねーしよ。自分の立場が本当に解ってねーよなぁ」
「御自分の立場をよくお解りだからこそ、気を遣ってくださるんですのよ」
あぁん―――・・・ 晋作は、よく解らなくなっている。其なのに、直感的なところだけ妙に動きは鋭敏で
「お前、アイツにホレたのか」
と、訊いた。
「えっと・・・如何してその発想になったのかはわかりませんけど・・・河上さまにも、肥後に置いて来た妻がいらっしゃるのでしょう?九州男児は一途というでは御座いませんか」
まさはまさで否定し乍らうのを意識し始め、じとー・・・と、衝立に冷めた視線を送る。幾ら武士の妻であっても、否、男の遊びを知らない武士の妻だからこそ、思うところはある。
少々気まずい空気となったところで、晋作の脳みそが漸く空気を読んだ。
「・・・するとお前、俺と古閑(あの男)が会った事をアイツは知ってるという事か。其で逃げたと?」
「さあ・・・そんな政治的なお話はされても知りませんわ。ただ私には、河上さまが立場をお忘れになった様にも御自分を見失われた様にも映らなかったものですから」
まさがそう言うと、晋作は目から鱗の様に「そうなのか」と訊いた。
「私は、あれはあれで河上さまの本質だと思いましたわ。何でも、人をお斬りになる前は本当に苦手なものが多くて、泣く度に宮部さまの鉄拳が飛んできたとか。とても懐かしそうに語ってくださいました」
・・・・・・。晋作は発作的に激しく咳き込むと、死んだ様にその話題への興味を失った。何故だか分らないが、気分を害した様である。この点、晋作自身こそ結構女々しい。
其とも妻の不貞を嫉妬なさってくれればいいのに、とまさは内心想い乍ら、あやす様に晋作の背を摩った。
「・・・本来は優しく笑う感じの方なんだと想ったら、然程疑問にはならなくなりましたわ。私は河上さまの事をよく存じませんので何とも言えませんが―――・・・
・・・・・・旦那さまが『自分の事まで忘れて仕舞った』と思われるのなら、そうさせたのは屹度長州人ですわね」
・・・晋作の肩が僅かに固くなる。まさは其を寛げる様に、後ろからそっと肩に手を置く。
「少なくとも旦那さまは“人斬り”を“人斬り”でなくされました。其を、意思を失った、みたいに仰るのなら、矢張り旦那さまが河上さまの人格を奪われたのだわ。旦那さまにとって」
まさの顔が下りてきて、吐息が耳に触れた。妓女の様な甘い香の匂いはしない。只管に凛としてきた中の哀しい弱さが甘かった。
「―――河上さまの意思とは、人格とは、人を斬る事だったんですね」
まさが小さく囁いた。・・・晋作はまさの肩に置いた手に手を乗せ、そんな事があるかと心の中で反駁していた。だが、改めて顧ると、そう捉えられても仕様の無い不満を自身は確かに口にしていたと納得し、本当に人斬りの像しか彦斎に想像できない事に唖然とする。
晋作が初めて逢った時、彦斎は既に“人斬り”だった。
人斬りであると同時に、憧憬であった。血に濡れたあの手は、未だ唯一夷狄に敗を喫していない。あの手腕なら攘夷が叶う。
そう希望を抱かせた男に、過去を向いて欲しくはなかった。
「でも、意思の無い生き物なんて在ませんわ。一寸の虫にも五分の魂と云いますでしょう。女にもあるんですもの、あの方には今でも強い意思がおありの筈ですわ。意思が無ければ、居なくはなりません。ずっと此処に居りますわ。立場がお解りだからこそ、御自分を自覚なさっているからこそ、何かお考えがあるからこそ、人は離れてゆくのです。大切なのは、そちらの方だと思います」
まさはこつんと頭を垂れた。きつく結い上げた鬢が晋作の耳に触れる。其以上の甘えは、無かった。
「・・・・・・私はずっと、そう想い乍ら、貴方さまの帰りを待っておりましたわ」
・・・・・・まさの声が震えている。武士の妻とは哀れなものだ。・・・・・・うのは呼吸を抑えて衝立に背を向け、散りゆく桜吹雪と満月を障子越しに見つめた。影でも其とわかる。今宵は風が強い様だ。
うのには嫉妬心は無かった。晋作に一方的に見初められ、愛され、買い下げられた。うのは受身の愛だった。
併し、晋作よりはまさの気持ちが理解できる。途方も無く先の視えない時間、犬の様に待ち続けた愛する男が、女だけではなく病も連れて帰って来た。而もその病は不治の病で、共に過せる時間はもう長くない。
まさという女の生き方とは、一体何だったのだろう。
何でもない人生としか言いようがあるまい。其が“妻”の役割である。意味が無くても朝陽は昇るが、役割が無ければ今晩の飯さえ出てこない。
明治初年の者達は、役割を失って初めてその意味の無さに愕然とするのである。




