百二十五. エピローグ弐 1865年、回天
「1865年、回天」
ゼェ――――・・・ゼェ――――・・・・・・
ヒュウ――――・・・
椋梨 藤太は既に萩を離れ、岩国に向かって逃亡していた。岩国藩は毛利家の分家・吉川家の領地であり、関ヶ原の戦いで毛利を裏切った暗い過去から、主家長州藩の者の言う事には藩主であっても拒む権利は皆無である。椋梨は藩主・吉川 経幹と太いパイプを持ち、時に傀儡として操り毛利に従わせてきた。岩国城に立て籠り、形成逆転の機会を窺う心算である。
椋梨は息切を喘鳴に変え乍ら、速度が落ちつつも全力で逃げていた。
何から逃げるべきかは分っていた。高杉の用意した殺人兵器からである。
あれも今は、下関に下っている筈―――逃亡を知ったとして、到底追い着けない程に距離を稼いだ筈だ。
其なのに、今にも目の前に現れる様な不安が全身を駆け廻ってくる。
「はあ・・・・・・あ・・・ああ・・・・・・あ――――・・・」
椋梨はひとり、己の足で逃げていた。本来は防府から船に乗って岩国にゆく手筈だったのが、暴風の発生に因り海が荒れ、急遽陸路で逃げざるを得なくなった。
(神風――――?いや、まさか――――・・・)
暴風が吹いたのは偶々(たまたま)だ。幾ら高杉や殺人兵器でも、天候を操る事など出来はしない。自身の海との相性が偶々合わなかっただけだ。だから、ほら、錦帯橋が見えてきている。
錦帯橋を越えれば岩国城の敷地。更に橋を落して仕舞えば、追って来る事は完全に不可能だ。
詰り、錦帯橋を渡り切れば椋梨の勝ちである。
錦帯橋の前まで遂に辿り着いた。
「―――ふふっ・・・・あは、あははは・・・・・・ついた・・・・・・!ついたぞっ・・・・・・!!」
椋梨は狂喜した。
「人斬り彦斎より早く着いた・・・・・・!!どうだ高杉っ!!これでっ・・・・俺の勝ちだ!!お前の刺客から逃げ切ったんだっ!!見たかっ!!人斬り――――」
――――・・・・ 椋梨は呆然と立ち尽した。橋の真中に人影が在る。欄干に腰掛けて、三角形の携帯食を噛み切っていた。春の訪れを告げる錦川のせせらぎに水をさす様に、パリッと乾いた音が冷たく響く。
「―――待ちくたびれたばい」
・・・食事を終え、その者はペロリと指先を舌で舐める。併し椋梨には、新たな食餌を発見して舌舐めずりをしている様にしか見えない。
「そ・・・そっ・・・・・・そんな!!何故・・・・・・・・!!」
赤い着物に高下駄を履いて―――・・・
からん,ころんと扇状の木の橋を下駄の歯が転がる。
色鮮やかな面と漢竹の笛は跳ねる錦鯉の如く背景によく溶けて、川下に吹く風そのものは冷たくも柔かかった。
「―――“何故”?」
その者は中央の扇の頂点に立ち、編み笠を外して素顔を晒した。能々(よくよく)調査をした筈だ。だから一目ですぐに判った。
黄色い来光も視力を援けている。
「簡単な事です。貴方は徒歩ばってん、僕は馬で来ました。今回は追い着けんと思ったけんね」
―――小柄で色白、左目の下に泣きぼくろ。間違い無く河上 彦斎だった。
「・・・ばってん、馬の足を借りんでも間に合った如る」
橋の下の土台となっている石畳に其らしき馬が居り、錦川の水を飲んでいる。
馬の足も計算して此処まで来たのに。
「っ!!」
椋梨は欄干から身を乗り出して馬を見下ろした。―――あの馬を奪えば。だが、橋は結構な高さがある。後を追って飛び降りられたら彦斎の方が必ず巧く着地するし、川を渡って岩国城へ突破するにしろ岩国城を諦めて引き返し逃げるにしろ、橋の両端にしか土手が無い為其処まで行かなければ川から道へは出られない。橋の上に居る者が圧倒的に有利な状況だった。
百に一つも人斬り彦斎に勝てる要素が無い。
「往生際が悪かですね。椋梨殿は」
―――彦斎がいつの間にか椋梨のすぐ後ろに居る。椋梨は怯え切った顔をして振り返り、欄干に背を自ら張りつけた。
「・・・長井 雅楽殿はもっと潔かったとですよ」
「長井・・・・・・だと・・・・・・!?」
椋梨はカタカタ震える手を、刀の柄を握らせる事に漸く成功した。
「2年前の長井の死・・・・・・其に人斬り彦斎が関っていたというのか・・・・・・!お前が、お前が長井を殺したのかっ!?」
「如何にも。僕が長井殿を自害させ、その首ば獲った。あれは久坂 玄瑞の依頼に依るもんだった。今回は高杉 晋作の依頼です。
―――椋梨 藤太。私怨は無いが、長州藩の未来の為に貴方には消えて頂きます」
椋梨が刀を抜くより速く、彦斎が椋梨を橋から突き落す。椋梨の胸を手でとんと押すと、椋梨の身体は真っ逆さまに墜ちていった。
・・・・・・欄干に手を掛け、彦斎も橋より身を投ずる。何故だかは判らない、だが何と無く、この橋の上で刀を抜くのは気が引けた。
バシャッ
錦川の浅瀬に着地する。・・・・・・彦斎の周囲だけ、水の色が紅く染まった。
「でやああああああぁぁっ!!!」
水浸しになった椋梨が濡れた刀を振り回す。前脚を掻き暴れる馬の手綱を掴み、引き摺られ乍ら乗ろうとする。彦斎は当然、逃がさなかった。
川の水がバシャリと撥ねて、雨の様に錦帯橋に降り注ぐ。
―――快晴の中に雨、そして橋に架る虹。天気と狐は、全力で椋梨の敗北を祝福する。
「貴方にも、長井殿と同じ質問ばします」
日光の三分の一を赤い翳りが遮った。鳥居の色の着物を着た狐の長が、蒼ざめた馬の背にとんと乗る。手綱を取って椋梨を振り落し
「殺さるるか、切腹さるるか、どちらかをお選びください」
と、選択を迫った。
「~~~~~~~~~~っ!!!」
椋梨は猶も逃げる。・・・・・・。彦斎は手綱を引いて馬を大人しくさせると
ザンッ!!
跳躍し、川底の石に足を取られる椋梨に刀を振り下ろす。グッ・・・!!椋梨は顔の至るところから水分を出して川に突っ込む。
バシャッ!!と水が勢いよく吹き上がるが、その中に一滴の血も混じってはいなかった。
「・・・・・・」
彦斎は、峰打ちをしたのだ。
「な・・・なぜ・・・・・・何故だ・・・・・・!」
椋梨ががぼがぼ言い乍ら岸へ這い上がろうと水を掻く。其を掬ったのは彦斎で、衿刳りを掴んで浅瀬へ連れ込むと、仰向けに叩きつけ馬乗りになった。
髷を掴んで顔を固定する。椋梨の首は耳まで浸かり、声が聴こえぬ恐怖といつ溺れるか判らぬ恐怖が同時に跫を立てて遣って来る。
「お前は長州人じゃない・・・・・・なのに何故そう長州人の争いに首を突っ込んでくるんだ・・・・・・!“人斬り彦斎”・・・・・・おぬしのその剣は、尊皇攘夷の為の剣・・・・・・行く行くは異人に向けられるものだと聞いておった・・・・・・なのにいざ異人が遣って来ると、その剣は全く揮われず、俗論党ばかりを襲い来る・・・・・・高杉の依頼だとお前は言うが、其をおかしいとは思わないのか・・・・・・高杉もお前も、当初の目的を違えている・・・・・・同時にもう解ってもいる筈だ・・・・・・この四面楚歌の状態で、当初の目的を果す事は出来ないと」
口を開く度に川の水が口内に入ってくる。幾度も溺れ、噎び乍ら、椋梨は彦斎に訴えた。自身の声が届いているのか、抑々自身が何を喋っているのか不安になる程に、彦斎の貌に反応が表れない。
椋梨の目から出た涙を、錦川の水が浚う。
「こんな事をしても意味は無い。其はお前が一番よく解っている筈だ・・・・・・なのに、何故お前は飽く迄高杉に付き従う。高杉に脅されでもしているのか。・・・・いや、其程の手腕を以てすれば高杉とその周囲を葬る事も造作無いだろうに。何故志を枉げてまで、長州藩の内戦に手を貸そうとするんだ・・・・・・」
「・・・・・・私は」
・・・彦斎が顔を上げる。直射日光が椋梨の顔に降り注いだ。
一方で、彦斎の顔は暗くなる。
「僕は長井の時と同じく、正義党に長州藩の政権を取らせる。その為だけに長州に残って戦いを続けてきた。そして椋梨 藤太、俗論党の頭である貴方の首を獲る事で、僕はその役割を終える」
彦斎は髷を掴んで押えつけた侭、刀を握る手に力を籠めた。椋梨の首にじりじりと其を近づける。
「あぁたの言う通りたい、椋梨しゃん。晋作達と僕の志はとっくに違えとう。だけん、あぁたば晋作に渡したら、僕も長州から離れる心算でおる。あぁたがこの人斬り彦斎の、最後の犠牲者ばい」
「そこまで心が離れているのに・・・・・・如何して・・・・・・!」
「たとえ心が違えても、友が窮地に居るのなら放っておけんのが人情てもんたい。俺は其処まで落ちてはおらん。
ばってん、長州藩はもう独りで立っておられる。・・・・・・あぁたさえ居なければ、な」
―――彦斎は刃を返した。
「諦めるがよか。長州藩にはもう用済の存在とよ。あぁたも僕も」
玄瑞と稔麿が5年前に橋上に立った日と同じ色の空の下で、鍔鳴りの音が響いた。
「―――――」
―――彦斎はゆっくりと立ち上がる。
椋梨は気絶していた。頸元にくっきりと峰の痕が浮び始める。
彦斎は最終的に、椋梨 藤太暗殺の選択を採らなかった。
「・・・・・・あぁたには然るべき処に出て貰おう。其で、晋作と戦うがよか。俗論党の正義を、正義党に声高く叫んでみよ」
彦斎は全身を澄んだ水に濡らして椋梨を縛り上げると、引き寄せた馬に乗せた。
錦川に血は流れない。
『無理に殺さなくていい』
高杉が斯う言った事が、彦斎をこの様な行動を起させた。
高杉自身、毛嫌いしている大楽をさえも生け捕りにして尋問する元来聴く耳のある男である。彦斎の心が荒んでゆくのと利用し続けている事に心痛めてもいたのだろう。彦斎が下関を出立する前、高杉が追いかけて来てそう言った。重ねて
『待ってるから、ちゃんと帰って来い』
と、彼にしては締りのある顔で言う。
『この恩には、必ず報いる。新政府が生れた暁には、お前等肥後人を必ず俺が取り立てる。動乱が終るまで俟て。
・・・そして、動乱が終っても、離れて往くな』
彦斎はこの時何と返したか。
桂 小五郎が幾松に発見され、彼女と共に長州に帰還したのは本の数日前の事だった。
彦斎は郷里で迫害に耐える妻のていを想い返す。
『・・・ふっ』
彦斎は鼻で哂った。
『其は友ではなく、妻に言う事ぞ』
高杉はホッとした様だが、彦斎にとっては最後通牒であった。
―――志は違えても、友は友。別に二六時中一緒に居なくても、距離が遠くなろうとも成り立つ、気楽で、気の置けない関係。
長州人と目的を違え、長州に於ける役割を解かれる今、彦斎の使命と役割は肥後に在った。
高杉が椋梨に勝とうと、長州と薩摩が仲良くなろうと、肥後の獄に繋がれている佐々達は解放されない。後者の薩長の動きは特に、肥後藩全体が影響を受ける虞がある。
桂が幾松ともども持ち帰って来た案で、土佐の坂本 龍馬が絡んでいる様だ。
桂は話す心算が無かったみたいだが、高杉が彦斎に横流しした。桂自身、薩摩と和解する事を相当渋っているのだという。
高杉は即座に却下したそうだ。
・・・斯うして、人斬りをやめ、自ら価値を落し、買い手のつかないタダ同然の河上 彦斎になると、結局は肥後にあるものしか、或いは其だけは猶、残っている。
―――長州は之でよいが。
彦斎の意識が故郷である肥後に向かうのは、極めて自然な成り行きであった。
併し乍ら、肥後に居る彼等を救わねばという使命感よりは一目無事を確認したいという想いに変っていた。投獄されて2年も経っているのだから、死んだ者もいる事であろう。どちらかといえば郷愁に近い。
「・・・・・・肥後に、帰ろうか」
彦斎は川下を視線で追って、南西の方角を見た。錦川そのものは視界の中でも東に大きく折れて瀬戸内海に注いでいるが、南西其の侭の方向に瀬戸内海を越えれば、故郷九州の熊本に繋がっている。
その視線の方向、錦川が蛇行している対岸で、生い茂る緑に蔽われつつも朱い鳥居が顔を覗かせているのに彦斎は初めて気がついた。本物の狐が本当に見届けていた様である。




