百二十四. エピローグ壱 1864年、征討
「1864年、征討」
主人公である久坂 玄瑞が死んだ為に、本章より先は実質的なエピローグである。
叉、河上 彦斎のその後の物語でもある。
彦斎のその後は、世辞にも希望が差したとは謂い難かった。寧ろ、人斬りは死ぬ迄人斬り、底辺者は死ぬ迄底辺者である事を証明した。その摂理は、時世が変っても揺らがない。
彦斎は長州で刃を振るい続けた。桂が但馬国出石で新生活を営んでいる時も、高杉が俗論派から逃れ福岡にて野村 望東尼に世話になっている間も、彦斎は逃げも隠れもせず激戦区下関に居る。死んでも悔いなど特に無かったが、人斬りとしての圧倒的な強さは彦斎を容易に死に導いてはくれなかった。
絶望を乗り越える程の生命力があるのではない。生命力に対応して絶望が続くだけなのである。
「・・・・・・」
彦斎の死迄に押し寄せる絶望の期間は、余りにも、長い。
禁門の変から二週間後、彦斎は早くも鳥取藩の日野郡黒坂まで来ていた。黒坂は山地である為に日本海がよく見え、彦斎は其処で第二次下関戦争を目撃している。
高杉も未だ、この時は座敷牢の中に居る。時期が二人を必要とするのは、俗論派が連合艦隊相手に完全に御手上げになった時だ。
イギリスに密留学していた伊藤 俊輔と井上 聞多が急遽帰国、何とか講和し長州側の被害を食い止められないか奔走する。
その段階になって二人は、形ばかりの檻の中から出て来るのであった。
「「――――高杉さんっっ!!と、あ・・・あれ、河上さん・・・?」」
「よう」
「どーも」
当然の如く高杉家の拘禁部屋から出て来た彦斎に、俊輔も聞多も愕いた様だった。
併し、“和”議を結ぶのに人斬りは要らない。軍隊と同じで、不要とされてこそ、平和には近づく。
夷狄が愈々(いよいよ)目の前に上陸し、神州の土を踏むも、彦斎に其を斬る許可は得られなかった。伊藤が固く止めたのだ。伊藤は彦斎の動きを警戒する側へと回っていた。
彦斎が長州に居る理由は、俗論派(長州人)を除く為である。
嘗て肥後藩内で肥後人(同胞)を殺してきた。そこに何ら違いは無い。が、此度からはもう攘夷という“餌”を取り上げて仕舞っている。
「・・・・・・」
彦斎は了承し、高杉等が連合艦隊旗艦ユーライアラス号に乗り込むのを関門海峡で見送った。ユーライアラスは薩英戦争でも活躍し鹿児島を砲撃している。
―――暇であった。
日本史的には重要な出来事がこの時起っているのだが、今の彦斎には関係が無い。教科書に載る歴史は、大半の当時者にとって屹度その様なものなのだろう。
通りには同じく暇を持て余した外国人軍人が散歩やオーシャン‐ビューを楽しんでいる。中には風景をカメラで撮影する者も居た。
近くには破壊された砲台がある。
有名すぎるキューパーとの講和内容についてはここでは省き、飽く迄第三者である彦斎の目線で本章は展開してゆく。日本史的に長州藩的に重要な出来事の為ではなく、肥後の個人のフラグを回収する為に、筆者はこの場面を描いているのだ。
談判を終えて巨大な船から地上へ戻って来た高杉・伊藤等を出迎え、すぐさま護衛に徹する。・・・何も聞かず、知らされぬ侭。
英国王立海軍提督キューパーを迎えに来たのは、如何いう訳か米国軍艦ワイオミング号の艦長・マクドゥガル中佐であった。ワイオミングは昨年の下関戦争で長州藩と一戦交えているが、中でもマクドゥガル中佐の部下は船上にて彦斎と勝負し、引分に持ち込んだ稀有な男となった。
中佐の部下も出迎えの随行員の一人としてキューパーが船より降りて来るのを俟っていた。
此処で出逢うも、叉因縁。併し、夷狄を人間となど認識しない彦斎は、その男を記憶してはいなかった。
記憶していたのは、こちらの男の方である。
「Hey!“BOGLE”」
男は通り過ぎる序でに、気さくに彦斎に話し掛ける。無論、彦斎には通じない。目の前には何も無いかの様に高杉・伊藤等に付いて歩いて行こうとすると
「Hey, wait a minute.」
ガシッと彦斎の腕を攫んだ。聞多が縮み上がる隣で、衣冠束帯姿の高杉もちらと彼等の方を見る。
「Let’s try to settle our fight of then.{あの時の決着をつけようぜ}」
「俊輔、通訳してやれ」
「えっ」
伊藤は跳び上がり、聞多も叉高杉の指示に困惑した。内容が其の侭伝えては危険なものだったからである。
Rudy.マクドゥガル中佐も窘めたが、矢張り蔑視されているのか大して問題にもせずさっさとキューパーの許へ行って仕舞った。
彦斎の攫まれていない片方の腕は既に柄に手を掛けている。
〈フン・・・己の立場も忘れて抜いてみるがよい。化物(BOGLE)がカタナを抜いた瞬間にこの虫けら(BUGS)の如き矮小な国は終る〉
マクドゥガル中佐の部下も叉、彦斎が鞘から剣を抜くのを今か今かと心待ちにしている。高杉は彦斎には何も言わず
「通訳してやれって」
と、伊藤や聞多の方を催促した。波乱の予感に一人愉しそうだ。中佐の部下が何を言っているのかを自分が知りたいに違い無い。
「駄目です!」
併し、伊藤が高杉に逆らい、大きく首を横に振った。
伊藤は男の手を振り払い、彦斎を背に庇う。柄にある彦斎の手に手を重ねて抜刀させまいとした。額には脂汗を浮べている。
「耐えてください河上さん。今は、戦ってはいけない」
「・・・!」
彦斎は細くぎらついた瞳を円くつぶらにした。意図があっての事とはいえ、身体を張って自身を庇おうとする人間に初めて出会った。
{・・・別に、戦争しようという意味ではないんだがな}
部下の男はA-ha,と肩を竦めて軽く両手を上げる如何にも外国人の動作をした。碧い眼は苦笑で三日月形に細くなる。
{抑々(そもそも)、講和を結んだ時点で俺達武闘派軍人は御払い箱さ。其はそちらもそうじゃないのかい。ならばここで戦っても、国と国との戦争にはならないと思うがね}
伊藤はこの戦闘要員としての役目を終えた軍人の一連のぼやきを彦斎に伝えなかった。そうでなくとも彦斎が耳を傾ける事は無かったであろう、が、言っている事が全く聞き取れぬという事は、否が応でも意味の端々が脳内に侵入してきた半次郎との会話とは違う。
{・・・・・・俺達には、拳しか無いのさ。其が俺達の唯一のコミュニケーション方法だ。言葉は通じないし・・・口下手だしな。何よりこのもやもやとした気持ちは言葉に表しようが無いが、BOGLEも同じ気持ちを持っている事は見て判る。其を共有しようと思っただけで、俺達の勝ち負けはしても国の勝ち負けをする心算は無かったよ。交渉人たち言葉を操る者は、いとも簡単に前言に矛盾した事をしてみせる}
男は英国系らしくシニカルに言った。遠くなったキューパーやマクドゥガル中佐をチラリと見遣る事から、伊藤達日本人だけでなく己の上司に対する皮肉でもあるらしい。
{言葉で嘘をつく事は良くて、拳で真意を語る事がいけない理屈がどうも解らないが、まあいい}
時代に取り残される人間は他にも在るという事だ。ここで言葉が通じたのなら、或いは拳を交えていたのなら、異人と謂えど彦斎の心に留まらせるモノはあったのかも知れない。併し彦斎は永遠に、自分以外に時代の変化を恨む人間を知る機会を失う。
自身を庇った伊藤に見とれた彦斎だったが、その伊藤こそが、彦斎を心配する最後の同業者の接点を断ち切った。
{BOGLEに伝えてくれ。また勝負する日が来る迄、バリツとやらのレベルアップに熱中していろ、とな。どうせ俺もBOGLEも一線から外れているんだ。程々に生きている分には問題はあるまい?}
男は意味深に伊藤を仰いだ。人を喰った態度の侭。狼も叉鼻が利く様だ。
Rudolph! マクドゥガル中佐が叱りつける様に呼ぶ。男はおぉ、怖。とでも言いたげに首を竦めると、意外と諦めも良く、Bye.とウインクをして彼等の元を離れて往った。
狼が去るところの、彦斎と伊藤の会話に、遅れて船を出て来たイギリス側通訳のアーネスト=サトウが出くわしたそうだが、伝言と謂える様な内容を話してはいなかったとの事である。
分り切った事だが、狐と狼が再び勝負する日は来ない。
息を吐く間も無く第一次長州征討が開始される。
最早戦う術を失った長州藩は、水面下で俗論党に働きかけていた西郷に乗せられる形で降伏、彦斎が禁門の変にて守り抜いた国司信濃等三家老は切腹を申しつけられ実に呆気無く死に、二人死んで五卿となった三条 実美等公卿は長州を追放(福岡藩が預る)、正義党を支援していた周布 政之助は椋梨 藤太の追及を受け自刃、更には井上 聞多まで襲撃され生死の境を彷徨う。高杉が粛清の危機を感じ俊輔と共に福岡へ逃れると、長州に癸丑以来の革命家は在なくなった。赤根 武人や山縣 狂介は残っているが、頭の良い彼等は俗論党に恭順して仕舞っている。
桂も、燃える鷹司邸の前で長州を守るよう泣きそうな表情で依頼してきて以来、行方不明。
「――――・・・」
―――長州に居る革命家は、河上 彦斎唯一人。
唯一人の奇兵隊とも謂える。
椋梨に拠る正義党の処刑に対応して俗論党の者を殺害した数数多、俗論党に対抗する事が現実的になってきた頃、高杉が下関市功山寺にて決起する。彦斎もこの一団に加わるが、椋梨はこの功山寺挙兵に対し甲子殉難十一烈士という切符を使ってきた為、その代価は椋梨自身の命とする結論に到った。彦斎は下関から萩へ戻り、椋梨を狩る心算である。
長州藩の重鎮を手に掛けるのは、長井 雅楽以来であった。今回は玄瑞ではなく、もう一方の双璧・高杉の依頼に依る。




