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百二十三. 1864年、鷹司邸~赤い感覚~

其でも。―――



「河上さんは、生きちょったよ」



―――玄瑞は眼を見開く。


「・・・此処に戻る直前に、見たんじゃ。血に(まみ)れた笛を持って。屹度(きっと)友人(とも)が死んだんじゃ。其でも、頑張って堺町御門(こっち)の方に来ようとしちょった。あの人は高杉に味方してくれる。だから、長州は死なん。―――だから、俺は死ぬ事を選ばない」

・・・入江は眉間を震わせて、微笑った。

「・・・・・・お前等の死を、悲観したりなぞ、せんぞ」

入江は立ち上がり去った。入江の死は、玄瑞達よりも早く訪れる。


「・・・・・・・・・。何だアイツ、生きてたのか」

玄瑞は素っ気無く言った。口は何処と無く残念そうでもある。だが、表情は晴やかで

「・・・・・・不死身のヤツってのも、いるもんだな」

―――嬉しそうだった。死なない奴を心配したのは馬鹿らしい気もしたけれど、自分にはどんな不屈の神も人並みに傷つく友人にしか見えない。結局はそんな存在なのだと、この膝の傷が証明してくれた。

「・・・・・・・・・よかった・・・・・・・・・」

玄瑞が志士として生きる意義に、ぶれは無かった。

「・・・・・・ああ」

寺島は(うなず)いた。

「介錯してくれるって言っていたが、出来るのか?」

寺島が玄瑞を坐らせつつ訊いた。傷の深さを見ての事だろう。だが玄瑞は

「舐めんな」

と、巫山戯(ふざけ)た調子で返した。

「お前ほど(やわ)な神経はしちゃいねえよ。血なんてお前の何倍も間近で見てきてる。・・・腹に力を入れた後は、俺に任せろ」

「・・・・・・」


寺島は微笑んで、首を縦に振った。震える手で己の刀を抜く。・・・よろよろと玄瑞は立ち上がって、刀を構えた。


「・・・・・・気を遣わせたな、久坂さん」


玄瑞は今日、生れて初めて、人を斬る。その相手が寺島となる事は、皮肉としか言いようが無い。


「・・・・・・」


玄瑞の手も震えていた。併し、既に前に出て腹を寛げている寺島に、玄瑞の手許は見えない。




「ありがとう」




―――一呼吸置いて、寺島が腹に力を入れる。作法通りに刃が腹を切り裂いた瞬間、玄瑞の刀が寺島の首を刎ねた。



寺島の首は勢い余り、転がらず遠くへ飛んで往く。

音も無く黒煙の彼方に消え、最期まで手の掛らない後輩だった。



玄瑞の刀は力が余って畳床まで斬りつけた。

寺島の生んだ紅い海に玄瑞は手を着く。身近に在り乍ら感じてこなかった感触が、全身を駆け廻る血液を一気に沸騰させる。

・・・人を斬り殺した刻の感覚とは、この様なものだったのか

同時に知る、味方を殺した刻に得る絶望感を。あいつらはずっと、この様な感覚の中で、生きていたのか。



「・・・・・・・・・」



併し乍ら、玄瑞の役目は終った。全ての責任を回収し終えた。

玄瑞は、寺島の血が滴る刀を逆手に持ち替え、物打ちの背に左手を添えた。刃を内側に向け、首の後ろに構える。



流れる血の分だけ、平和と希望に包まれた世に早く移り変れればよいと思っていた。併し、新時代への道程は余りに遠い。

時代は之からも多数の血を必要とする。弁を開いた自分自身が血の濁流の一部となり、最も絶望の大きい時代の谷の部分で息をつく。自らの生んだ赤は結局、絶望しか生み出しはしなかった。自身の命は其を乗り越える程の力も無い。


だが、()うも思うのだ。自分の命は絶望の只中に尽きるけれど、其を乗り越える程の不屈の生命力、例えば・・・不死身だったら如何だろう。



「・・・・・・後はもう、希望(うえ)へ向かうだけだ」



玄瑞は叉、眼を閉じる。




鮮血が(ほとばし)る。




鮮血の(あか)は霧となり、焔の(あか)と一体となってゆく。




鷹司邸が焼け落ちる。凡てを包んだ赤い色は、軈て黒い色へと変り、絶望を生む深い闇の底へと帰って往った。




・・・・・・熱い。




「・・・・・・・・・」



入江 九一の遺体を抱えて、彦斎はぼんやりと焔に包まれる邸を見た。瞳孔に、焔と血の赤が交る。

どくどくと、(ほう)り投げ出された刀からは再び血が流れ出し、高木の笛はその中に沈んでいった。


彦斎も今回は、些か血を流しすぎた。焦げた黒い臭いに中てられて、強烈な眠気が襲ってくる。ごぽりと血を吐き出して、前のめりに倒れた。

そんな彦斎を(つな)ぎ留めるものがまだ在った。



「河上さん!!」



背後から腕を掴まれ、彦斎はふと目が覚めた。口の中が慣れない感触で気持ちが悪い。堪らず地面に吐き捨てて、袖で口を拭った。


「・・・・・・桂さん」


彦斎をまだ必要としたのは、他藩士の彦斎からすれば池田屋事変以来さっぱり名を聞かなくなった桂 小五郎だった。桂は池田屋事変時の対応を乃美に暴露され、「逃げの小五郎」と揶揄されて立場が失墜して仕舞っている。

「・・・・・・今迄、何処に」

彦斎も若干の苛立ちを孕み乍ら入江の遺体を桂に引き渡した。桂は彦斎が怖い様だった。同時に、戦闘の結果を有りの侭寄越されて其にも怯えている様だった。

「・・・・・・」

彦斎は立ち上がる。ぽたぽたと血が地面に落ちた。


「往かないでくれ」


桂の力強い声に、彦斎は立ち止った。


「之からも、長州(われわれ)と共に居てくれないか」


彦斎は振り返った。・・・振り返ったところで、桂に彦斎の傷は視えない。



「之からは久坂達の代りに、高杉を助けて遣って欲しい。アイツは長州の切札なんだ。アイツの動き無くして、久坂の志は果されない」



「・・・・・・」



彦斎は之を、まるで他人事の様に聴いていた。実際、意識は桂に向いておらず別の事を考えている。

彦斎はこの刻、蛤御門を開いた後の半次郎との対峙を想い返していた。




蛤御門が開いた際の衝撃は凄まじく、人斬り同士と謂えど暫くは全く戦闘にならなかった。

・・・ぴくり、と指先が動いても、立ち上がる迄に時間を要した。立ち上がれても、刀を振るに至らない。その刻の会話である。


『・・・・・・薩摩(こっち)に、付かんね』


半次郎は腕が使い物になる迄の時間、彦斎に交渉を持ち掛けた。


『貴方の様な手練れといつまでも敵対しているのはこの国の為にもならない。薩摩だって、新時代を創造するべく動いているんですよ?(いず)れは長州も味方に引き入れる心算だ』

彦斎はこの刻も、何処か他人事の様な心持で半次郎の科白(せりふ)を聴いていた。薩摩が長州を積極的に攻撃するのは、幕府の眼を欺き、且つ長州より圧倒的優位に立った上で政権を手にする為である。その様な政治抗争に肥後(たこく)の浪士・河上 彦斎の出る幕は無い。

『貴方を先に薩摩(こちら)に誘うのは、俺と西郷先生の真心だ。・・・之以上、長州とは(かかわ)らない方がよい。あの藩は他藩の者に報いないとよく聞く。宮部先生亡き今、貴方は只長州にとって()い様に使われる。貴方のその“手腕(うで)”は、より都合の好い道具としてしか見られなくなるだろう。貴方が人間でなくなる事、其が他人事でなく心配なのだ』

『・・・・・・』

彦斎は反論しなかった。松陰と玄瑞が長州人でも稀有な人種である事に、(かす)か乍ら気づきつつある。併し、宮部が積み上げてきた長州人との信頼感を蔑ろにする事は出来ず、藩主より教え込まれてきた薩摩人への敵愾心を拭う事も叉、出来ない。

『西郷先生の事は信じてよい。西郷先生の源流は菊池で、150年程前迄は肥後人だったのだ。貴方の主人である長岡 是容先生とも交流があった。先生は今でも、肥後さぁの事を気に掛けておられる』

・・・・・・ 彦斎は刀を手にする。自身にはそんな器用な生き方は出来ない。元の同胞が来島狙撃の指揮を執っていたと知れば、猶憎い。


彦斎と西郷に纏わる逸話が実は一つあるのだが、そちらには辿り着く事無く本作は物語を終えるのだろう。




「御願いだ、河上さん・・・・・・」



桂が両手を着いて頼む。全ては長州藩が生き残る為。たった今この瞬間から、長州藩に“尊皇”“攘夷”というスローガンは消えた。

彦斎は、高杉 晋作等正義党が藩内で政権を再び手に入れる為の道具となる。

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