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百二十二. 1864年、鷹司邸~絶望の赤~

「1864年、鷹司邸」



建物が崩落してゆく。



「・・・・・・・・・!!」

緋い緋い色ばかりが視界を支配する。万丈な気焔が大いなる熱を吐き、久坂の行く手の邪魔をする。視覚も聴覚も奪われる中、火の粉や木片の雨だけでなく弾丸の横殴りの雨も本格的に降り始める。

まるで嬲り殺しにされる様だ。弾丸が身体のあちこちを掠る感触を残された五感で感じ(なが)ら、幾度も転び、這って、立って進む。

「・・・・・・っ!」

此の侭では、鷹司殿下に願いを聞き届けられる前に死ぬ。其だけは如何しても避けなければならなかった。之以上被害が大きくなると鷹司自身が邸から避難して仕舞うだろう。

「鷹司さま―――っ!!」

外聞も無く久坂は叫ぶ。刀を抜き、燃え上がる障子を切り倒し叉倒れ込んだ。室内は意外にも火の手が回らず、煙も立ち込めていなかった。


部屋の二面を囲む障子は炎を上げている。けれども、燃えているのは障子紙のみであった。格子状に視界が(ひら)け、緋い背景に白い衣の袖の組紐がしなやかに弧を描いたのが目に入る。加えて、その装束が右から左へ、部屋を出ようとしている動きが視えた。



「鷹司さま!!!」



久坂は無我夢中で叫んだ。白装束の纏い主はびくりとぎこちない動きをすると、そそくさと床を摺る足を速める。久坂は


「鷹司さま!!お待ちくださりませ!!久坂 義助―――・・・玄瑞に御座ります!!」


ドンッ。力を振り絞り、体当りで障子を破った。鷹司 輔煕(すけひろ)が窪んだ眼をぽっかりと開いて、横たわる久坂を怯えた様に見下ろす。

久坂は鷹司の着物の裾を掴み

「無礼を先に御詫び申し上げます。なれど殿下、こちらも何百・何千の命が(かか)っている!如何か、如何か長州の意見を聴いてくださりませ・・・・・・!」

平伏した侭鷹司に追い縋る。伏せられた顔にはありとあらゆる処から血が流れ込んでいるが、顔を見ずとも鷹司が鳥肌を立てる程に全身が血に呑まれていた。


焼けた髪、爛れた頬、穴凹だらけの四肢。(かつ)て公家に対して攘夷期限を迫った男とは思えぬ程の不様な姿態を晒す。其でも久坂は朝廷へと続くこの裾を離さない。鷹司は自身等の運命を決める最後の(たの)みの綱だからだ。


「久坂・・・・・・」


鷹司は所謂長州系公卿と呼ばれた者だった。三条 実美等七卿と同類である。細川 韶邦(よしくに)が暴露した詔書の書き替えに携っていた最たる公卿で、参預会議に於ける島津 久光の追及に因り官位を剥奪された。


「そなたに従うた結果、我は何もかもを失うた。そなたは今も、我を業火に捲き込んで殺そうとしておる。御所に向かって自ずから砲を放つなど、正気の沙汰ではない。即ちそなたらは―――・・・狂うておる!」

「・・・・・・一部の者の暴走を止められなかった事を、重ねて御詫び申し上げます。只、彼等、そして我等なりに皇国を想って起した行動である事を理解して戴きたい。私は助命を乞いに参った訳でも、戦に参った訳でも御座いませぬ。―――責任を果しに参りました。

・・・総ての責は私が負い、切腹致します。故に陛下に対し弁明の機会を。之より陛下に謁見為さるるのであれば、何卒御供をさせてくださりませ・・・・・・」


久坂は膝を折り曲げて、いつの間にか土下座をしていた。“狂”・・・・・・膝の激痛に朦朧とする久坂の意識に、その言葉が最終的に残る。


「・・・ならぬ」


と、鷹司は言った。



「そなたは若すぎる。そなたの命のみでは軽すぎるなり」



鷹司は裾を振り払った。血刀握る武者をまさか、朝廷に率いる訳にはいかない。只でさえ火災の中逃げねばならぬこの状況で、逃げ遅れ、更に炎から逃げても天皇の元に辿り着く前に幕兵に一緒に殺される危険を強要する久坂を、愚かだと想った。久坂は、もうしがみついて来なかった。

・・・代りに


「・・・・・・ならば・・・・・・」


久坂は懐を(まさぐ)り、文を取り出した。孝明天皇に取り次いで戴く為の書状である。この中に、孝明天皇に直接願いを聞き届けて貰う為の内容が記されている。

「せめて・・・・・・この書状を陛下に・・・・・・」

・・・弱々しく手を伸ばし、書状を宙に彷徨わせる。鷹司はぽっかりと口を開く。・・・迷った様なそぶりを暫しした後、其を引っ手繰(たく)って速歩(はやあし)で去った。



「・・・・・・・・・有り難う御座います・・・・・・・・・」



―――久坂は今度こそ、顔を上げぬ侭床に崩れた。鷹司が本当に孝明天皇にその文を取り次いでくれるかは分らない。だが、己の懐で共に燃えるより遙かに良かった。

「・・・・・・・・・」

・・・・・・焦点の定まらぬ瞳には、赤い色しか映らない。自らに相応しい最期だと想った。・・・敵も、部下も、すべてを(あか)に汚した己は、赤に抱かれて死ぬのが相応しい。


眠る様に、眼を閉じた。




―――ごうごうという音が、遠く、心地好い響きで聴こえてくる。




だが其は、赤が凡てを黒へと変える音だ。自分も随分な悪趣味を持って仕舞ったなと内心笑う。

之が走馬燈というものか。過去へ返った様な気分になる。松陰が凄まじい速さで通り過ぎ、次に宮部が通り過ぐ。月性が其より少しゆっくりとした速さで通り過ぎ



『―――・・・秀三郎』



―――・・・帰って来た。玄瑞はそう想った。


幼かった玄瑞は、その日高熱を出していた。子守唄代りに説いていた海防策と尊皇攘夷論がこの日ばかりは鬱陶しくて特によく記憶に残った。

身体を拭いてくれようとする。




―――ふわふわと浮いた感覚に、玄瑞はうっすらと眼を開く。背中に温かさが伝わる。




入江 九一と寺島 忠三郎が、傍に居て、玄瑞の身体を抱え起していた。


「久坂―――・・・!」

「―――――」

玄瑞は瞳を大きくした。背中に伝わる温もりは本物だった。否、(むし)ろ其以外が夢であった事を逆に可笑しく思う。昔に起った出来事を夢に見るなんて、らしくもない。

「くく・・・はは、はははは」

「!?」

「久坂!?」

入江と寺島が驚く。だが、玄瑞が余りに無邪気に笑うので、二人もつられて頬を綻ばせた。がらがらと梁や柱が崩れゆく中、三人は大いに笑い、一頻(ひとしきり)笑った後


「馬鹿だな・・・・・・来たのか」


と、玄瑞が(なじ)った。

「馬鹿はお前じゃ・・・来ると言うたろう」

「あなたを置いて行けるか・・・」

入江と寺島が口々に言う。寺島の呼吸が少し荒いが、併し今の玄瑞はもう其には気づけなかった。

・・・・・・入江が玄瑞を抱える寺島を支える。

「空気を読めない馬鹿か、若しくは悪趣味だろう・・・不様な姿を見に来るなんて」

友人(とも)だからいいじゃろ」

「お前・・・其を言えば何でも許されると思っているだろ」

三人は笑い合った。いつしか其が、松下村塾生の間でも合言葉となっていた。だが、長州に於けるその言葉も今日この場で以て死ぬ。



「俺は・・・・・・帰るよ」



入江と寺島は不思議そうな顔をした。一方で玄瑞も、何故その様な言い方をしたのか分らない。夢を引き摺っているのであろうが、妙にしっくりくる言い方だった。

・・・ああ、と想った。

「・・・まさか、お前等も来るとは言わないよな」

・・・・・・ 二人は困惑し乍らも、(やが)て寺島の方が悲しげに微笑んだ。・・・ゆらりと身体が傾く。寺島は傷を負っていた。(しか)も背中である。

「背に傷を創っては、最早長州(くに)に帰れない。連れて()ってくれ、久坂さん。俺にはもう、帰る場処が無い」

玄瑞は寺島を凝視する。入江は静かに唇を噛みしめている。其は玄瑞には判らない。

「・・・・・・仕方ねえなぁ・・・」

玄瑞は初めて寺島を弟の様に感じつつ、了承する。自分が寺島の背に傷をつけた様なものだ。一刀を浴びた程度で、この為体(ていたらく)である。

「・・・・・・介錯してやるよ」

と、玄瑞は笑った。一発撃たれて痛みに恐怖した自分に他人(ひと)の事は言えないかという自嘲も含んでいる。

(あか)には慣れた心算でいた。死への恐怖には打ち克った心算だった。併し己が流す(あか)の痛みを、玄瑞はこの刻初めて経験した。

「・・・・・・」

頭では理解していても、越えられない壁は多い。寺島には越えられそうにないところに、裏役との違いと、松下村塾の兄貴分としての責務を感じた。



「・・・・・・お前は、来るなよ」


玄瑞は入江に言った。



「俺が死んでも、長州が死ぬ訳じゃない。長州が死ぬ時は、毛利家の血が絶えた時だ。俺には結局、死んで務めを果す事しか出来ないが、お前は選べる。高杉は生きて務めを果すだろう。・・・・・・死の先に在るのは地獄だけだ。お前は事の顛末を国許に報告し、生きて何かを救い、何かを生み出せ。希望を生み出す事が出来るのは、生者にしか無い神秘的な特権だ」



入江は涙を堪えて玄瑞と寺島を見る。入江はこの時迄は奇跡的に無傷だった。併し、後世に有名である様に、入江も邸より直接御所外へ続く穴門を通過した矢先に幕兵の槍に眉間を突かれ、一瞬にして死体に返る事となる。

穴門に続く奥の間の裏口だけが、焼け落ちずに入江を待っている。


「・・・・・・なら、地獄(死)に帰るお前の為に、希望を残して此処を去ろう」




空が赤い。

紅い天気雨が降る。赤黒い(もや)を伴って。

赤黒い靄は今や、御所だけではなく京都市中に範囲を広げ、市民と荷物が通りにごった返し、ドンドンパチパチと鉄砲玉の花火が上がった。

格子から絶叫が上がり、紅い海が生れ、平野 国臣の身体がその中に沈み、古高 俊太郎の首が胴から離れる。

居合わせた藤堂 平助が紅を失い、山南 敬助が奉行と言い争う。

赤が人々を絶望の淵に追い込む。其でも。

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