百十八. 1864年、蛤御門~来島 又兵衛、散る!~
「・・・・・・」
御所より揚る噴煙を、久坂や入江、寺島等は息を呑んで見た。
「―――斥候」
久坂は斥候に命じ、直ちに天龍寺隊の戦状探索に行かせた。・・・そして再び、御所の在る北東の空に視線を遣る。
彼等は桂川を越えたところで、九条通から烏丸通へ入れば堺町御門だ。
(・・・・・・間に合わなかったのか―――?)
・・・眉を寄せ、僅かに目を細めた。爆風か、だがそうとは思えぬ柔かな風が久坂の頬を撫ぜる。久坂は静かに目を閉じて、御所方面から流れ込んでくるその風を感じた。
空が急速に明るくなり、皆互いの顔を視認できる様になってくる。
「・・・久坂・・・?」
兵達は先程の噴煙に非常に動揺していた。騒めきが今でも聴こえてくる。併し、指揮官久坂の顔を見ると皆不思議と鎮まった。
・・・闇から明けへの久坂の変化を、間近に居た入江は最も強く感じていた。
「―――煙の流れをよく見てみろ。西(御門)から東(内庭)に向かって流れている」
・・・この男は、どこ迄成長し、どこ迄強くなるのだろう。年上の入江だからこそ久坂のその移り変ってゆくさまをより刻々と感じる事が出来た。
・・・・・・入江には最早、その鉄面の下で久坂が何を考えているのか、分らない。
「東(内庭)で発生した風が、南西(此方)に吹き込んで来ている。天龍寺隊が御門を開いた証だ。分は長州軍にある。この波を途切れさせず山崎隊も内庭へ入る。だから、決して後れは出すな」
入江は頬を撫でてくる風に触れる事が出来ず、自らの頬に触れる。・・・この風と同じで、この空と同じ。本当の久坂が何処に居るのかは分らない。
「「「「「「おう!!」」」」」」
併し其を大人になったのだと、強くなったと謂うべきである事を、入江はちゃんと知っていた。・・・・・・この男はまだ、強くなる。
生きてさえいれば、凡てを乗り越え、凡てを受け容れ、よい国を創造した筈だ。
精悍な指揮官の貌で久坂は命ずる。兵は怒濤の如く前進した。・・・本心を完全に隠し切り、男は人を動かす。
―――蛤御門が破られ、来島隊が乱入する。
砲撃の後、高木 元右衛門を先頭に抜刀隊が討ち入り、会津他、禁裏を護る4藩の生き残りと戦闘を繰り広げる。敵味方が一気に交り藩同士の連携が取れていない幕軍の兵はこの乱軍に同士討までする展開となった。
『ふむ・・・』
已む無く中立売・乾御門に配備されていた薩摩の刀槍隊も門内に入り戦闘に加わるが、長州勢の勢いは止められない。
「進め!!次は内門じゃ!!」
来島 又兵衛が馬上で長槍と扇を振り回して兵を鼓舞する。来島は戦わせても指揮を執らせても強かった。伊達に御癸丑以来でない。陣羽織に立烏帽子に、黎明の下血で大量に濡らし、口だけでない事を証明している。
「・・・っ、我が隊も後に続けっ!!」
国司も己を奮い立たせて指揮を執る。下立売御門に分れていた隊も合流し、内庭は長州勢だらけになった。
東の門を護る藩にも伝令がゆく。
兵の先頭が建礼門に到達する。高木が二刀を振るって諸藩兵を蹴散し、槍隊が建礼門を突いて抉じ開けようとする。建礼門は天皇のみ利用できる門。向かい合う承明門を越えれば、其処に天皇が居られる。
「―――っ、長州を赦せえっ!!」
高木が腹の底から声を上げた。その声は大きく、殆ど御所中に響き亘る。仙洞御所の一角に控えていた彼の保護者・細川 韶邦は蛤御門の方を向き
(元・・・)
・・・その声は悲痛に張り裂けそうであり、友の名誉を守りたいという強い願いが伝わってきた。
――――・・・ 来島の大きく見開かれた瞳から、大粒の涙がぼろぼろと零れる。その涙は透明な硝子玉の様な球体で、綺麗だった。
「―――長州を赦せ!!」
来島が高木に続いて叫ぶ。更に言葉を継いで別の者が
「長州を赦せ!!」
と、叫んだ。訴えの輪は瞬く間に拡がってゆき
「長州を赦せ!!」
「「長州を赦せ!!」」
「「「長州を赦せ!!!」」」
ある種デモの様な形となり、禁裏の中に居る公卿達の心は、槍先が門から覗き始めている事や銃弾が天皇の居はさる御常御殿の軒端に当っている事もあって相当に揺らいでいた。・・・恐怖である。狂気と謂う他に無い。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
「御座所は何処じゃ!!天子さまは何処に居はさる!!!」
「長州を赦せえぇーーーー!!!」
来島も高木も、そして国司も、半狂乱となっている。
建礼門は耐久の限界を迎え、みしみしと音を立てていた。公卿の中でさえ
「ちょ、長州を赦せ!!赦して遣ろうぞ!!」
と、喚く者が出てきた。あと一・二撃で内門も開いて仕舞う。開いて仕舞えば、数えられる程度の兵衛しか居ない。自分達は一瞬で殺され、天皇は長州へ連れ攫われるであろう。
ドンッ!!
「あ・・・っ」
建礼門の突っ支いが外れる。公卿達の眼は絶望に染まった。―――禁裏の中へ。遂に、天皇へ直接続く門が、開かれる。
バ アンッッッ!!!!!
「開いた・・・・・・!!」
・・・――――・・・ 死しても起き上がる勢いだった会津人が、急に戦意を喪失する。だが、薩摩人は動じない。細川 韶邦や加賀第12代斉泰が世子・前田 慶寧等東の門を護っていた藩の者は状況が分らず佇んだが、会津人が監視を離れ現場に急行すると、慶寧は矢鱈と嬉しげに笑みを浮べるのであった。
(・・・・・・前田の小倅・・・・何を企んでおる)
―――・・・韶邦が慶寧のその様子に気づかぬ筈も無し。
「おおおおおおおお!!!」
長州人が殊更に勢いづく。立場や人種に依って、様々に異なる感情が戦場に渦巻いた。
高木 元右衛門は禁裏の中には魁けて入らず、背後を振り返る。来島 又兵衛が馬蹄を鳴らして建礼門に突っ込んで来た。天皇をお救い申し上げるのは隊長である来島の役割だ。
―――高木には、他にすべき事がある。
「来島どの!!」
高木が道を切り拓き、叫んだ。来島が血槍の先を煌めかせて禁裏へ進入する。その後ろに国司も続いた。
「礼を言う!肥後さん!!」
・・・高木は見送る。安心した様に微笑んだ。長州と肥後の繋がりは、之を以て完全に切れたと謂ってよかった。
後は―――・・・
パァンッ!!
高木は、疲れ切った顔を上げた。瞠目し、背筋を跳ね上げる。国司も状況が掴めず、足を止め立ち尽した。
・・・・・・一発の銃声が鳴り響いた後、来島の身体がぐらりと傾く。反らした胸から紅が飛び散り、真っ逆さまに馬から墜ちて往った。散った紅は空を茜色に染め、地面も叉、流れ出す紅で緋色に拡がる。
「―――、来島さんっっ!!!」
「・・・終りでごわんど」
西郷が乾御門の下、素っ気無い口調で言った。
来島に穿たれた小銃の音を、久坂は今度は間近で聞いた。蛤御門の方角を見る。其を皮切に間髪を容れず銃砲の乱射音が響き亘る様になる。―――御所内でも銃撃戦が始っているのだ、と久坂は捉えた。・・・同時に、長州が帝に対し西洋銃を向けたのだ、とも。
三条通を挿んだ目の前には堺町御門が在る。・・・・・・御門の前には、越前兵。
越前兵は敵意を剥き出しにしてくる。松平 春嶽が実権を握る越前藩は公武合体派の代表とも謂え、加賀藩と同様に事前の交渉を試みたがこちらは失敗した。よって、久坂にとってももう躊躇うものは何も無い。
「―――砲撃用意」
久坂が砲手に命ずる。砲手の方が狼狽えた。久坂を振り返り、蒼く汗の流れる顔で今一度聞き返す。
「よ、宜しいのですか。こちらから攻撃を仕掛ければ・・・」
「構わん。天龍寺隊も通った道だ」
そう言われ、砲手は漸く決意を固めた様だった。砲手だけではない。久坂に従う兵達は皆、その言葉に少なからず救いを得た。
越前兵の間から、遂に化けの皮が剥れたな、と野次が飛ぶ。併し彼等は動じなかった。
―――帝の居はす処を攻撃する苦しみが、帝を盾にする者達に理解るものか。
「撃て」
久坂は低い声で言った。轟然御所に向かって大砲が火を噴く。空に門に朱く照らされる久坂の表情には、些かも感傷が無かった。
「・・・・・・、来島さんっ・・・!」
弾丸の雨が降り頻る中、国司が来島を抱え起す。国司は涙目になっていた。来島だからここ迄兵を動かせたのだ。来島をここで失っては、天龍寺の兵は総崩れとなって仕舞う。
「・・・お、おお・・・・・・」
「確りしてください!私では・・・何も・・・・・・」
「もう・・・いけん様じゃ」
来島は息も絶え絶えに呟いた。支えようとする国司の手を振り解き、撃たれる直前まで握っていた槍を再び掴もうとする。
「身体に力が入らん・・・・・・情け、ない・・・事よ・・・・・・」
只の玉一発受けての己の有様に、来島は苦笑する。併し、笑った瞬間ごぼりと音がし、口から血を吐き出した。
「・・・・・・!来島さん・・・・・・?」
「済ま・・・なんだな・・・・・・国司殿・・・・・・こん、な・・・老い耄れの、意地に・・・・・・付き合わせて、の・・・・・・」
「そんな・・・事、言わないでください。立って一緒に戦ってください。後生ですから・・・・・・!」
「君にはまだ未来がある。・・・・・・良き指揮官となるのじゃぞ。長州の為・・・・日本の為・・・・そして、日本に住まう民達の為に・・・・・・」
来島が国司を突き放す。・・・・・・国司は来島に手を伸ばす。来島は槍を掴んで、逆さに持ち替えた。穂先が来島の喉元へ向かう。
国司は後ろへ倒れるも、その光景から眼を逸らせずにいる。高木が国司の背中を支えた。
「来島どの!」
皆が騒めいた。来島は血と一緒に声を絞り出し、大声で
「―――見ておれ!之が・・・長州男児の最期だ・・・・・・!!」
と、叫んだ。槍の穂先が来島の咽喉を貫く。“御癸丑以来”時習館派・来島 又兵衛は此処に死した。
来島の最期を西郷や川路は、長州人には見えない処できちんと見届けている。
この瞬間、形勢は逆転した。
兵衛と応援に駆けつけた会津兵の猛反撃に因って、長州勢は建礼門から即時に追い出される。建礼門を出た先には薩摩に拠る銃弾・砲弾の雨が待つ。火が放たれる。御所が破壊し尽されてゆく。
「―――遣り過ぎではないか!?」
応援の兵を率いていた会津藩主・松平 容保が呆れるが、薩摩は気にしない。之では、敵兵にも味方兵にも関係無く被害が及ぶ。
「そげんな思うなら、逃げもそ」
―――気がついて見てみれば、薩摩軍は鉄砲隊を除いて鮮やかに御所の敷地から離れている。
銃弾・砲弾と共に砂袋も発射され、地面に叩きつけられて破れた袋から砂が噴き上がる。みるみる視界が悪化し、曙の空は曇った。国司は来島の亡骸を抱いている。
ドンッ!!
パァン!!
ダーーンッ!!!
指揮と視力を失った兵達が、無力にもばたばたと斃れてゆく。国司は其でも顔を上げなかった。
幕軍は国司を探している。軍の総大将と長州藩家老3人の首級が欲しいのだ。長州藩にしてみれば、決して渡してはならぬ代物。
だが、国司は来島の首を落す事に抵抗を抱いている。
「・・・・・・」
天龍寺隊は退却すべきだった。併し、国司がその指示を出さない。自身の判断で脱走した者も在るには在る。が、大半の者は自衛も侭ならぬ中、国司と来島の躯を捜していた。
敵と味方、どちらが先に国司を見つけるか。首の争奪戦となる。
―――皮肉なものだ。『三本の矢』とは本来、彼等の藩祖である毛利 元就公が子孫に贈った物を云う。
「矢はとっくに放っちいもす」
徳川 慶喜が辻風に顔を覆い乍ら禁裏に入る。細川 韶邦は例の兜を回らして仙洞御所を離れ、藩兵に指示を出す。幕軍も避難しなければやばい。
「―――手柄は、薩摩が頂くでごわす」
―――砲声が止んだ。併し、依然として視界は悪く、火は大きくなり御所を舐め尽さん勢いである。いつしか砂煙ではなく黒煙が空を覆う様になっていた。
「キエエエエエエエエエェェイ!!!!」
―――そんな中、猿叫。
「残るは国司、おはんのみじゃ!!」
煙を真っ二つに割って、薩摩藩士が国司を目指し躍り込んで来る。ジゲン流を極めし者達だった。「蜻蛉」、否、其以上の技・・・―――
「雲耀」が、来る。




