百十七. 1864年、蛤御門~猿叫・中村 半次郎~
「1864年、蛤御門」
「キエエエエエエエエエエエ!!!!」
半次郎が奇声を発して突っ込んで来る。「猿叫」と呼ばれる薩摩示現流派生の流派でも自顕流独特の掛声で、馴染みの無い他国人は大抵、その気が狂れた様な絶叫に愕いて隙を衝かれて斬られて仕舞う。一撃を流すのでさえも難しいと云われるのは、そんなからくりもある。
その様なからくりが無くとも、躱す事は容易ならない。辛うじて避けてこの傷。
最も使用頻度が高く、対戦相手が受ける最初で最後の一撃かも知れぬこの天から真直ぐに振り下ろす技は「雲耀」と名がついている。この「雲耀」には天誅期や戊辰期に数々の血腥い記録が在る。
彦斎は柄より手を離して生身で突っ込んで行った。刀を振らぬ分彦斎の方が僅かに迅さに優る。自顕流の特徴、其は技が強烈な反面、思考が乗っていない、詰り技に変化が無く、直前の変化にも弱いという事だ。
ザシャァアアアッ!!
―――破れた着物の肩口が千切れ飛ぶ。矢張り迅い。この状態であって猶自身を超えるか。
取り敢えず初太刀は凌いだ。だが、半次郎は今の太刀で彦斎との距離感を把握している。
彦斎は肩を押えて血の道筋を断ち、半次郎の背後に回り込む。突然の軌道変化に半次郎を翻弄するも、御所に揺らめく松明の炎が彦斎の影を映していた。
―――半次郎が振り返る。
ガギイッッッ!!!!
彦斎の抜き打ちの刀を半次郎が受け止める。・・・っ――― 彦斎が息を詰めたのが分った。彦斎の刀が叩き落される。
否、敢て刀を早くに手放し、受ける衝撃を最小限にしたのだ。
―――二太刀目。之が本命である。空中で鯉口を切り、着地と同時ににじって間合を詰め逆袈裟に斬る。
半次郎は咄嗟に間合を取り刀を振り下ろす。三刀目は流石に弱い。
互いの切先だけが触れ合い、拮抗する。
『・・・・・・』
「・・・・・・」
純粋に仕合であれば、引分という事でここで終りだが、殺し合いをしたがっている人間がここで終りだとは思えない。
―――元の位置に戻る。この男は此の侭純粋に自顕流の雲耀のみで仕合を続けていく心算なのか。彦斎は既に二度雲耀を避けている。仕合である意味は疾うに失せ、之以上続けても埒は明かない。
・・・併し、傷を負っているのは寧ろ彦斎の方ばかりだ。
〈・・・・・・〉
彦斎は刀を納めて半次郎に接近する。砂利を踏み締める度に砂埃が起る。
『・・・・・・訊く事を忘れていた』
・・・・・・突然の風が吹いて、松明の火が消えかけた。辺りは戦渦にあるのに急激に静寂に包まれる。彦斎の瞳が夜闇に光った。
『―――仕合は、何本で決める心算だ?』
―――――・・・・・・ 半次郎はうっとりと彦斎を見た。戦闘狂である事に偽りは無い様だった。仕留められなかった事に歓喜している。
『・・・五本、ですかな』
『・・・・・・なれば』
・・・・・・フッ,と松明の火が消える。真夏の夜なのに寒気がすぅ,と辺りに流れ込んだ。月白の色をした刃紋と中心からも鮮血が溢れ出る妖刀が擦れ合い、ギシギシと音を立てる。・・・彦斎の声が、白雨の如く苛烈に降った。
「―――五本かけて俺を殺す間に、おぬしが無傷でいられるか、賭けてみるがよかろう」
鬨の声が啼く。
乃ち来島 又兵衛隊が蛤御門に到着した合図だった。砲声剣戟の音が門の向う側で聞え、更に奥の下立売御門でも砲撃音がした。
彦斎は現実感が戻ると共に、酷く褪せた気分になった。もう、雲耀を撃たせて遣る気は無い。
彦斎が叉も無手で突っ込んでゆく。一見、彦斎が有利に感じられた。だが彦斎は抜刀せず、直接頭を攫みに行った。
―――雲耀より迅く、型として見た事の無い業であり、まるで四つ足の獣の様な動きに“薩摩の猿神楽”半次郎は愕きを禁じ得ない。まるで獣が駆けるが如く地平と平行に伸ばされている足は次の動きを妨げず、彦斎はここで鞘から剣を抜いた。
逆袈裟に斬り、更に刃が跳ね上がって半次郎の首に向かう。本命は飽く迄半次郎の首を狙う続け様の二刀目か。斬ったのは着物だけ・・・併し、半次郎の頭は稲荷の鋭い爪で固定されている。
稲荷の大刀が半次郎の首に手を掛ける。
『――――』
半次郎は殆ど本能で稲荷が薙ぎに掛る腕を攫み、止めた。重力に逆らえず落ちてくる彦斎の身体。今度は半次郎が其を穿つ番が来た。
『・・・っ』
彦斎が攫んでいた頭を離す。半次郎の突きを躱した。・・・技が薄く、雲耀ほどの威力は無い。も、宙吊りにされ逆に不利な状況に立たされる。
併し、然して構わなかった。
突きを躱した際の勢いを乗せた侭半次郎の急所を蹴り上げる。半次郎は彦斎の腕を離した。突きを放った侭の半次郎の剣よりも既に懐の内に居る彦斎の剣の方が相手への到達が早い。半次郎の許に刀が戻った時、彦斎の刀は半次郎の胸に届いていた。
―――だが。
どっ。
宣秋門を攻めていた国司信濃の本隊が押し戻され、日野邸から此方側に傾れ込んで来た。千載一遇の好機を逸する。一瞬の注意が本隊に向く彦斎とは反対に、半次郎の準備は整いつつあった。
「雲耀」を放つには至らなくも。
『 「 蜻 蛉 」 』
ゴッッッ!!!
彦斎は吹っ飛ばされる。咄嗟に己の血刀を盾にするも、その峰でさえ自身に喰い込んで呼吸を圧迫した。
日野邸に隣接する清水谷家の植えた椋の樹に背を叩きつけられ、漸く止った。
「河上さん!!」
国司が手綱を捌いて彦斎に駈け寄った。彦斎は自分で身体を動かしたが、軽く咳き込んだ。僅かばかり血が口から漏れ出している。
「大丈夫ですか!?」
「はい。・・・離れてください国司さま。次の攻撃の来る」
―――半次郎のぞくぞくした笑みが火色に闇色にゆらゆらと明滅している。火の元の無い日野邸前から此方に向かって歩いて来ている事が判る。
(―――、気味の悪い男だ)
国司は射竦められる思いがした。彦斎がすくりと立ち上がる。
「―――一応僕で満足はしよるらしい」
「―――え?」
国司は思わず聞き返す。併し彦斎は其には答えなかった。半次郎より視線を外さずにいる。再び血液を散し乍ら刀を仕舞った。
轟音が絶え間無く鳴り響いている。
「、河上さん」
国司が名を呼び、めくばせする。彦斎は少し欝陶しそうに国司を見、国司の視線が示す方向に視線を移した。其が正に轟音の正体である。
―――蛤御門。
彦斎がぶつかった清水谷家の椋の樹は、丁度蛤御門の正面に位置していたのだ。そしてその先には、精鋭気鋭の来島 又兵衛隊が居る。
国司・彦斎共に単体では徳川 慶喜と中村 半次郎の矢に今一歩はらわれるやも知れない。―――だが、来島隊と合流できれば。
彦斎は少し不服そうな表情をしたが
「・・・承知しました。ばとて、あの猿を止めぬ事には其も難しかろう。孰れにしても、国司さまが御願い致します」
と、言った。戦線復帰の手始めに国司を狙う慶喜指揮下の会津兵を瞬殺する。苦戦していた味方の兵の許に幾らかの遠回りをし
「早う国司さまの許へ。何か考えのあんなはる様です」
だが当然、人斬り半次郎が其を許す筈が無い。刃がぶつかり、彦斎は顔を歪めた。厄介なのは「雲耀」より「蜻蛉」の方かも知れない。一方で、彦斎の助太刀(なのか八つ当りなのか)が功を奏したのか、隊の方は多少盛り返してきていた。蛤御門の前を陣取る国司と彼を護る部隊、其に会津兵と直接ぶつかり合う部隊。国司は慶喜の妨害に遭い乍らも、内側から蛤御門を開けようとする。
彦斎も半次郎と幾合か交える。腕が痺れるが、蜻蛉にも矢張り疲労は来るらしい。雲耀と違い、威力は変らない。が、孰れにせよ重い剣技の所為か、如何しても速さに限界が来る様だ。
其も、並の剣客が相手であれば全く問題ではないのだが。
薙ぎの刀を跳躍で躱し、今一度半次郎に突っ込む。自顕流の剣は重い。―――而も、薩摩拵は柄が異様に長い特徴がある。
彦斎は柄を踏台にして半次郎の肩に片膝を乗せると、剣を足で叩き落した。顔にも膝蹴りを一発喰らわせる。併し“猿神楽”も之で大人しくなる魂ではなかった。
「!」
柄を離れた手が彦斎の足を攫む。最早もう人間同士の闘いではない。引き摺り下ろし、振り回され、逆さに吊るされる。
ドッ
彦斎の刀が半次郎の腰に刺さる。空中で抜刀し、勢いを利用して逆さの状態で突き立てたのだった。刀は着込んでいた鎖帷子を貫通し血がその繊維に染み込んで鉄の臭いが一層濃くなる。両腕を使って深く斬り下げ、解放された足と両腕の力を用いて身体を捻り、回転させた。半次郎が足を離した後に彦斎を突き飛ばす。刀が腰より抜け、彦斎は少し離れた処にきちんと足から着地した。
「・・・・・・ ぽかーん」
この人間じゃない業には、敵に限らず味方の兵も只の聴衆となる他、無かった。
―――半次郎の負った傷は、決して浅くはない。
『・・・丸で物ノ怪の動き・・・流石は黒稲荷』
半次郎は素直に感心する。
『稲荷の中でも貴方にしか出来ない業だ。小・・・』
『うるさい』
彦斎が話をブチ切った。腕はまだ痺れている。が、技はもう見切った。手傷を負わせて遣るという応酬も一応果している。
『無傷で五本撃つ事は出来なかったな』
彦斎は挑発する様に言った。併し半次郎は大様で素直である。・・・・・・そん様じゃ。と、あっさり認め
『ふふ。其でこそ仕合というものだ。自分も危険を背負わないと、公正ではないし対等でもない。公正でも対等でもない相手と闘っても先が視えていて詰らない。一線を越えるか越えないか、命の遣り取りをする時の緊張感が堪らない・・・』
と、嬉しそうに言った。
〈・・・・・・〉
彦斎は抜いた侭の己の刀を見る。
『・・・おぬしは僕の師匠に似ている』
彦斎は刀を一振りする。中心から血が流れ出し鍔や刃に伝った。・・・そんな剣術、自分は知らない。
『おぬしを師匠に紹介して遣ろう・・・王政復古を果し、新時代が訪れ、師匠が牢から解放された後の話で、且つおぬしが生きていればだがな』
切先から血が迸る。彦斎はその誰のものとも最早判らぬ血をぼんやりと見つめていた。・・・楽になれると思った自分が、愚かだった。
「半次郎どんの珍しう苦戦しとるがごた」
馬がふうふう言っている。すっかり頭を垂れて仕舞い、顔はもう完全に嫌気が差していた。胴体を揺らして気を紛わせている様だが苦痛である事に変りは無かろう。何故ならば、その背に乗っているのは当時日本有数の巨漢だからだ。
「こら半次郎が仕合の勝敗はともかく、御門は遠からじ開かるる。国司どんか、河上どんか」
ただ一歩門をくぐるだけでも馬の脚を使われる。胴を蹴られて仕方無しによろりと脚を踏み出し、身体半分を乾御門から覗かせる。200間程南の蛤御門前では、高木 元右衛門や来島 又兵衛が猛威を振るっていた。
「来島どんに拠って―――」
「西郷どん」
両脚をぷるぷるさせている馬の隣に、之叉馬より大柄ではなかろうか人間が並ぶ。見目から絶対『東郷』という姓であろう男は併し西郷より
「川路どん」
と、呼ばれた。本名は川路 利良。残念乍ら東郷ではなかった。
「内も外も会津な遣られとりもすの。どげんしもすな。会津に応援な出しもすか?」
「いんや、よか。久光の地五郎には兵力を消耗させるなち言われとる。会津なもちっと頑張っち貰いもそ」
川路は銃の用意をし乍ら、齢の功の証である東郷線をぴくりと動かしつつ西郷を見上げる。だが齢の功か、敢て何も言わなかった。
「じゃっどん、とどめは薩摩が刺さんとでけん」
西郷は馬上から東郷・・・川路の肩に手を置いた。馬はがくがく言っている。睫毛が撓ってきて、もうすぐ彼の世に旅立ちそうな安らかさを帯びていた。
川路の照準の如き眼が、来島の姿を円形に捉えている。
「川路どん、おはんが第三の矢でごわす」
―――斬ッ!!
彦斎が国司等を囲む会津兵を斬る。半次郎の事は最早興味から外れていた。と、謂うより、不快だった。
矢張り、違う。半次郎と自分とでは、戦いに見出す意義が余りにも違いすぎた。
半次郎の攻撃を巧みに躱し乍ら会津兵を斬り、半次郎に反撃する。当らなければ蜻蛉も他人の放つ技も変らない。受けぬ事を前提で闘えば、猿神楽の相手など最早片手間で足りた。
―――会津兵を斬る度に、長州軍本隊の士気は高揚する。
『・・・其が、貴方の戦い方なのだな』
『おぬしの動きが遅いからだ』
会津人の命が幾つ散っても、半次郎は何とも思わない。薩摩と会津も利害関係で共闘しているだけで、別に仲が良い訳ではないからだ。会津藩への姿勢は、薩摩も他の外様藩と何ら違いが無い。
水戸の徳川 慶喜も、薩摩と同じである。
稲荷の乱入で会津兵が即刻使えなくなると見るや、馬の胴を蹴ってその場を去った。如何に有能な指揮官でも、兵が居なければ戦う事さえ出来ない。
・・・援軍を呼びに行ったのかも知れないが。
「怜悧」は「冷酷」を孕んでいる。其は真実だと思う。
半次郎も叉、長州人を斬る。其は彦斎には堪え難かったが、遣っている事は彦斎と変らない。半次郎の方が寧ろ仕事に忠実である。
半次郎が指揮官国司に飛び懸る。キエエエエエエェェェ!!!! 猿叫の狂った声が椋の葉を震わせ、松明の焔を揺らす。国司は動く事が出来ず、恐怖の色に眼を染めた。
―――ギィンッ!!
彦斎が国司の前に飛び出し、半次郎の刃を受け止める。国司の身体を突き飛ばし、馬上での攻防に縺れ込む。併し、蜻蛉の威力は凄まじく、彦斎の足はすぐに馬の背を離れた。
急激に背に壁が近くなる。
ドサッ!!
国司は落馬する。・・・っ・・・。痛む身体を必死に起す。馬が暴れると思ったが、ド オ・・・と烈しい音と砂埃と共に、傍に馬が倒れた。
・・・馬の首はぱっくりと割れている。
「・・・・・・海雲・・・」
ドオッ!!
彦斎は半ば叩きつけられ乍らも何とか足から壁に着く。半次郎がすぐ眼前まで迫って来ていた。先程と全く遜色の無い“蜻蛉”を放つ心算だ。
彦斎は身を翻して壁から離れ、―――次の瞬間には半次郎の隣に居た。
「!?」
半次郎が蜻蛉を放つに合わせ、彦斎も両手で剣を振り下ろす。・・・・・・彦斎は真直ぐな眼で正面の壁を見つめた。
ドオオオォォォォォンンンンンンンンッッッッッ!!!!!
蛤御門が吹き飛んだ。
門外より放たれた大砲が清水谷邸に直撃し、椋の樹の幹が激しく揺れる。枝が何本か折れ、葉は爆風に舞い、月に吸い込まれ、空から雲が消える。月が薄くなり、辺りが白んできた。
夜が、明け始める。




