百十四. 1864年、男山~久坂 義助~
「1864年、男山」
7月16日の夜、玄瑞は、天王山の陣営に燃え盛る大篝火を見つめている。この火を焚いたのは、他ならぬ玄瑞自身だ。
炎が見る間に成長するのを、玄瑞は保護者の様な眼で見ていた。
国も火と同様に一気に大きくなり、一つに燃え拡がって夷狄を焦せたら、と思っていたかも知れない。そうであったなら、日本の成長を見届ける事が出来るであろうに。
夜雲が緋く染まっている。併しながら、朝空と違い夜の空は、そう簡単には染まり切らない。
炎の雲と闇色の空が分離する。
―――来島 又兵衛の入京が、京を強く刺激した。京都守護職松平 容保が即座に反応し、会津兵を出して御所九門を固める。参預会議の決裂に依り撤退していた薩摩兵も、討長建議書を携えて舞い戻って来た。この討長建議書は、薩摩とそして土佐・久留米の三藩合同に拠る物で、久留米兵も上京し今出川御門に陣を敷いている。
玄瑞はこの状況を私兵より聞き把握していた。篝火を焚いたのはその為である。天龍寺勢の他にも兵はいる、彼等を襲撃すれば容赦はしないと、火勢を以て朝幕諸藩を威嚇していた。
玄瑞の側にも、手応えが無いではない。
古高が絆ぎ留めた有栖川宮家を通じて、備前藩・因幡藩・そして意外な事に加賀藩が同調し、其等に内から対抗してくれている。
自身は真木を必死に抑えながら、無血での尊攘派復権への道を模索していた。
併し、翌7月17日の午後、ギリギリに保たれていたその微妙な均衡が崩れ落ちる。
「朝廷からの沙汰が下りた」
真木・玄瑞と同じ山崎天王山を担当する藩家老・益田 右衛門介が低い声で伝える。三家老は夫々山崎(益田)・嵯峨天龍寺(国司)・伏見長州屋敷(福原)に分れ、各隊に同じ内容を発表した。
「「「撤兵し、京を出てゆかなければ朝敵として追討するとの事だ」」」
兵達は仰天し、ざわつく。福原越後が彼等を宥める。福原は人望篤く温厚な性格だったらしく、福原氏の領地である宇部の農民達は彼こそを「殿さま」と呼び、この戦いにも多数参加したと云う。
「そげなもんは嘘だわい!!」
―――別陣営では、来島 又兵衛が吼えた。
「全ては会奸の獣・松平 容保の謀略に決っておる!!朝廷にそう云わせちょるんじゃ!!信じん、儂は信じんぞ!!」
断固として朝命を聞き入れない来島に、国司はたじろぐ。彦斎はその他大勢の兵の中で、彼等を静かに観察している。自身の之からの役割は恐らく大きく変るだろう。
「義助。真木殿」
・・・玄瑞は拳を握り締めた。備前・因幡・加賀藩の砦が薩会に拠って破られた事を悟った。最早、玄瑞に打つ手は無い。
「男山八幡で、他の指揮官と軍議を行なう。そこで進軍か撤退か、最後の裁決をする」
益田が素っ気無く言い、すぐに遠出の支度を始めた。男山八幡(現・石清水八幡宮)は此処天王山宝積寺の陣地より2里(約8.3km)の距離にある。
石清水八幡宮は貞観2(860)年に創建され、豊前国大分の宇佐神宮を本宮とする。第15代応神天皇を祀り、769年の宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)といった石清水が創建される前の時代から、天皇の権力は常に簒奪の危険に晒され続けてきた。
1000年以上経ても、人間の権力欲と支配欲は尽きる事が無い。
長州兵の進撃に備えて、諸藩は増援の兵を京に送り込んでいる。その数8万と云われ、先ず、御所内に居られる孝明天皇を水戸・紀伊・彦根・豊後岡の4藩が警護し、その外周に当る御所九門は蛤御門を会津藩、蛤御門に次ぐ激戦地となる北隣の門・中立売御門を福岡藩、更に北に上った乾御門を薩摩藩、乾御門の真裏に当る石薬師御門を阿波藩、その南隣で中立売御門の真裏に当る清和院御門を加賀藩、更に南に下って寺町御門を肥後藩、その真裏に当り蛤御門の南隣・下立売御門を津藩、堺町御門を越前藩、堺町御門の真向いに当り最北の門である今出川御門を久留米藩が警固する。其だけにとどまらない。天王山を囲む様に津藩と郡山藩(大和国)、宮津藩(丹後国)が陣を敷き、天龍寺から蛤御門へ向かう道には薩摩・膳所(近江国)・越前・小田原・松山連合軍が待ち構えている。伏見に至っては、園部(丹波国)・仁正寺(近江国)・鯖江(越前国)が福原隊の背後に居り、前を大垣(美濃国)・彦根・桑名・会津・そして新選組が立ちはだかる挟み撃ちの状態となっていた。他、因幡・備前・出石(但馬国)・尾張・亀山(伊勢国)・小浜(若狭国)等が遊軍として全体を取り囲んでいる。
彼等が男山の軍議の際、この状況をどこまで把握していたかは判らないが、軍勢8万の時点で到底勝目など無かった。
対して、長州は、山崎勢600、天龍寺勢800、伏見勢500。計1900。
―――久坂 玄瑞の最後の抵抗が始る。
「勅命は既に下されています。ここで我々が何をしても逆効果だ。無闇矢鱈に動けば若殿に矛先が向かう。ここは若殿の指示を俟った方がいい。私の言う事を利いてください、来島さん」
「何を言う。進軍についてはもう許しを得ておるわ。若殿も出撃は覚悟の上、ならば若殿が到着後すぐに御所に参内為さる事が出来るよう、我等が御所に集る蝿共を掃うんじゃろうが!!」
案の定、玄瑞と来島が激しく対立する。玄瑞は勅命を受け入れ大坂へ兵を撤退させる事を、来島は当初の予定通り御所へ攻め入る事を主張した。
「掃うも何も、2千と8万では兵力差が大きすぎる。今此処で兵の命を散して、何になりますか。長州藩は之から益々(ますます)厳しい局面に立たされる。兵はその際主君をお護りする為に温存しておくべきだ」
「其は弱虫の理屈だ!!」
・・・・・・っ。罵倒され、流石に玄瑞は一瞬怯んだ。併し負ける訳にはいかない。
「打算で動く臣下が居て堪るか!!義助、結局貴様は士とは何たるかを全く解っておらん!士はな、常に散り際を考えて生きるものだ。己の命と引き換えに敵勢に一つの穴を穿つ、其が士の使命というもの。後先の事を考えるのは士の役目ではないわ!!」
「お言葉ですが」
・・・玄瑞は落ち着いた声で返した。表情も落ち着いている。数日前とは全く違う玄瑞の態度に、来島は肩透しを喰らった様だった。
「武士として至らない点がある事は謝ります。併し、私も貴方も、軍という集団の前には士である前に大将です。兵は私の臣下でも貴方の臣下でもない。彼等が毛利さまの臣下であるからこそ、無闇に散したくはないのです」
毛利の臣下であるからこそ、毛利の命を直接聞いて己の意思で忠誠を示して欲しい。併し、其は来島に限らず、時代に相容れない考え方だった。
「黙れ!!」
散る事こそが美しき最大の栄誉とする来島と意見が交わる事は無い。
「無闇に、だと?おぬしは武士道を愚弄までするか!!」
・・・・・・。玄瑞は静かな眼で来島を視る。其は一体誰の武士道なのだろう、とぼんやりと考えていた。武士道は確かに存在する。だが、解釈がそこにはついて回る。
「この戦い、不利である事は重々承知しておる。だが一度前線に立てば、退却する事は許されぬ。我々は既に前線に居る。此処で臣下が敵に背中を見せれば、毛利家末代迄の恥となろう。主君の為なら、この又兵衛、喜んで勅命で討たれてみせようぞ」
来島は叉も泣きながら言った。玄瑞は唇を引き結ぶが、決意を籠めた顔つきは揺るがなかった。
「先んずれば人を制す。先手を打たずして、この戦、勝てるか。無論、勝つ為に戦う。その為には奇襲あるのみ。義助の如き勅命で討たれるのが嫌という軍勢あれば、戦わざるもよし。我が天龍寺隊だけで蛤御門を破り、会津陣営を叩き潰し、松平 容保の首を斬り、君奸として梟してみせる」
来島はびしっと頬の蚊を叩き潰す。うらみを籠めた眼で玄瑞を睨んだ。
「おぬしは東山にでも登って、高みの見物でもしておれ。わかったか久坂」
そう言って来島は中座する。国司は慌てて来島の後を追った。・・・・・・天龍寺勢の進撃は、実質的に確定した。
―――玄瑞は僅か俯き、眉を寄せた。最後まで、御癸丑以来の暴発を止める事は出来なかった。
「勅命で討たれてみせるとは、なかなか言えん事ばい。真に朝廷と長州藩を想うちゃるごたる、来島しゃんは」
真木が感心した様に呟く。真木は益田から聞いた刻に覚悟を決めていた様で、天皇を慕う神官装束でこの石清水八幡宮へ参った。
この男の実家は、第81代安徳天皇を祀る水天宮であり、全国の水天宮の総本宮でもある。皇学思想に関しては間違い無く随一の男、そして神風連の太田黒 伴雄同様、生きながらにして神格化される様な神懸ったところがあった。
本作で彼の為人について其程深く触れてこなかった事を悔む。
「・・・併し、之では我々は足利 尊氏と同じになる」
冷めた玄瑞の声に、真木は言葉に詰った様だった。玄瑞自身、声の冷たさに内心驚いてもいる。併し其さえ客観的に思える程に、玄瑞の心は冷め切って、且つ脳は澄み切っていた。もう次を考えているからかも知れない。
「・・・確かに、京に攻め入るという形は足利 尊氏と似とうかも知れん。ばってん、心は楠公(楠木 正成)であればよかろう」
恐らく真木にとって、最も苦しい言い訳だったに違い無い。真木は楠木 正成の崇拝者として知られ『今楠公』と呼ばれていた。
足利 尊氏は確かに京に攻め入ったが、朝敵になったのは京を守ろうとした楠木 正成の方である。
玄瑞は併し、その答えに興味は無かった。之も叉、解釈の問題である。進撃すると決った以上、行動に理由づけする事は最早彼の役割ではなかった。
後先の事を考えず、ただ命と引き換えに、突破口となるべき一つの穴を穿つ事。其が義助(武士)を名乗る玄瑞の唯一の役割であった。
「―――解散して各本営に戻りましょう。天龍寺隊に後れを取っては不味い」
玄瑞は懐に手を入れた。懐の内には、最後の恃みの綱・関白鷹司 輔煕殿下に孝明天皇へ取り次いで戴く為の書状を忍ばせている。
この刻、彦斎を左右する運命の綱は完全に玄瑞の手から離れた。




