百十三. 1864年、不還~さらば、友よ~
玄瑞にとって、この日が京以外で刻を過す最後の日となった。
昼間と違い、しめやかな夜だった。
京に入れば生きるか死ぬかの瀬戸際になる。その為、各々同志と別離の盃を交えた。玄瑞は松下村塾生と最後の酒を酌み交している。
―――彦斎も叉、肥後勤皇党の後輩達と故郷の酒の最後の一本を味わった。宮部と松陰が江戸に遊学の際、寄宿していた京橋・蒼龍軒の「笑社」「泣社」の如く、感情を隠さず悲憤慷慨して飲んだ。明日から平常心を保てる様に。
『 玄 瑞 』
彦斎が泣き、笑いながら、酒瓶を抱えて玄瑞の部屋へ顔を出して来た。玄瑞は既に一人で部屋に居り、文机に身体を傾けていた。
玄瑞がはっと振り返る。
「彦・・・・斎・・・・・・」
玄瑞は筆を握っていた。継紙に書き殴られた墨の文字は所々掠れ、叉所々皴になり、滲んでいる。
「・・・・・・酔っているのか・・・・・・?」
玄瑞は呆気に取られて言った。この科白くらいしか思い浮ばなかった。目の前には齢を勘違いする程に見た目其の侭に無邪気に泣き、笑う者が居た。
・・・・・・身体の力が抜けてゆく。
「何ばしよんね」
彦斎は襖を閉め、酒瓶を玄瑞に押しつけ、酔いに任せた無神経さを衒って、堂々と文机の上の文書を覗き込んだ。
・・・・・・彦斎の涙が文書に落ち、「肥後」の字が散る。
『馬鹿だな・・・・・・』
福岡・芸州・会津・対馬・薩摩・因幡・土佐・肥後。之等の藩に、志士に対する寛典の依頼書を、玄瑞は一通一通、認めていた。宛名に彦斎の主君細川 韶邦の名が丁度書かれている。
「彦斎・・・・・・」
玄瑞も叉、酒が抜け切っていないのか、涙腺が緩くなっている様だった。頬を一筋の涙が零れる。
「済まない・・・・・・」
・・・・・・震え、掠れた声で玄瑞は言った。
「俺はお前達を死地に連れて往くだけの愚将だ」
玄瑞は疲れ切っていた。涙を堪えるだけの力も、表情を作るだけの余裕も最早無い。ただ涙を流す玄瑞を見て、彦斎は
「―――酒が足らぬ様ばい」
と、呟いた。
入江 九一と寺島 忠三郎が心配して玄瑞の部屋の前まで来、襖を開こうとした。
「―――韶邦さまの赦しなぞ、いらぬ」
・・・彦斎が文机の上の文書をぐしゃりと握り潰した。
「『武士たる者、二君に見えず』―――そぎゃん言葉も知らぬとは、ぬしも武士としてまだまだたいね。脱藩を決めた日に韶邦さまから心は離れとう。他の人間関係なんてどっでんよか。そぎゃん事よりぬしは、友人との酒にも付き合うてはくれぬのか。友人と過す刻よか、効果があるとも知れぬ紙切れば書く方が大事か」
玄瑞は呆然とした顔で彦斎を見つめる。彦斎は怒っていた。誰が口を付けたか判らぬ盃に酒を注ぎ
「友人の酒に、付き合え」
と、斟酌せぬ無邪気な声で言った。玄瑞は差し出されるが侭、盃を取った。
「『友人・・・・・・』」
玄瑞は呟く。声が震えていた。気を抜くと意識から消えて仕舞う程、脆い言葉である事を知る。
「何が愚“将”か。肥後人はぬしを将だなんて思った事は無か。何処かに連れて行って貰おうと思った事も無いね。ぬしが長州藩でどれだけ偉くなったか知らぬし全然興味も無か。肥後人にはそんなの関係無か。大体、ぬしは僕より年下で、初めて逢った時は元服も過ぎたばかりの餓鬼だった。天誅の遣り方を教えたのは誰か。よもや全てが自分の責任だと思ったら、殴るばい。年長者が若者を簡単に認めんのは、僕だって同じよ」
「・・・・・・」
「・・・・・・こくり」
襖の向うの入江と寺島は顔を見合わせ、肯き、何もせずに部屋を離れて行った。
「こぎゃん依頼書ば書く暇があったら、あの下手な赤本ば描きんしゃい。僕が認めるのはそっちの玄瑞ね。僕達は友人の家にお邪魔させて貰っとって、その家が困っとうけん味方するだけの話たい。其が僕等の意思であり、道義であると信じとう。真木先生には悪かばってん、その道義や義理を忘れとんなはる気がする」
無論、其は彦斎の勝手な意見だ。大衆からすれば小さく、くだらなく、不純な意見に違い無い。真木和泉は決して長州の味方なのではなく、生粋の志士で、もっと大きなものを目指している。
「し・・・かし、復讐を誓った志士もいると―――・・・」
「おるよ、肥後勤皇党にも」
と、彦斎は答えた。
「真木先生の主張も一理あるとよ」
彦斎は玄瑞に酒を飲ませた。反射的に咽喉を鳴らして飲む。相変らず、赤く、甘い、口にも記憶にも留まる血の様な口当りだった。
「死んだ者の為、生きる者の為、方向は肥後勤皇党でも人に依って違う。ばってん、夫々(それぞれ)の想う友人が一番である事は皆変らぬ。誰の赦しも名誉もいらぬ。だけん、どんな事になろうとも覚悟は出来とうし、誰の所為にもせぬ。―――其が肥後人の武士道だ」
彦斎はわしゃわしゃしゃと玄瑞の頭を掻き回した。まるで之迄の仕返しの様に。玄瑞の肩の荷が下りてゆく。玄瑞はまだ、齢24の青年であった。
「―――肥後人の武士道,って―――・・・」
・・・ふっ,と玄瑞は哂った。随分と背伸びをしてくれたものだ。入江や寺島等松下村塾生には出来ぬ役回りではあった。
「見えるのは、友人かよ」
「君への忠義を、友が超えた」
彦斎が無造作に立ち上がり、襖を開いて雨戸を繰った。夜の闇がすぐ其処まで迫ってくる。併し、不思議な事にこちらから更に近づいて縁側に出ると、月の光が彼等を照らした。
月光だけでなく、蛍も発光させて飛んでいる。
「・・・綺麗だな」
玄瑞は素直な感想を言った。夜中に戸を開けて月光や外の空気を取り入れたのは、宮部が嘗て松陰の前で遣った事と同じ事だ。あの刻は肌を刺す様な寒気が流れ込んだが、真夏である今は湿気を含んだ生暖かい空気が肌に纏わりついてくる。
無論、15年前の師を追っている事を彼等が知るべくも無い。
「『古郷の酒 形かわれど 色かえん 友の血となり 国の血とならん』」
彦斎は突如、即興の和歌を詠んだ。コクリと赤酒を飲み下し、玄瑞を振り返る。月の光を真下で受けて、この世のものでないと思える程に肌が白かった。
唇が紅い。
「・・・おぬしも何か、詠わんね。得意で遊廓ではよう詠っとったんしょ」
・・・玄瑞は苦笑した。彦斎の句が余りに粗削りで、ストレートだからだ。くすくすと思わず声が漏れて
「・・・お前、身体を張った芸するな」
と、言った。・・・! 彦斎の顔にみるみる紅みが拡がる。赤酒と同じ色であった。
「『時鳥 血に啼く声は 有明の 月より他に 知る人ぞ無き』」
玄瑞は、開いた襖の角に背中を預けて詠い出す。・・・我ながら酷い貌だった。堪えても堪えても、止め処無く涙が溢れてくる。併し声は安定しており、彦斎がぽつりと、・・・之が例の美声か、と呟いたのが少し遠くで聴こえた。
彦斎は背を向けた侭、吟詠だけを聴いている。
宛ら時鳥の如く、玄瑞は奄々(えんえん)と詠い続ける。そのか細い声を聞いていたのは、月と彦斎だけだった。自身の血涙と血反吐を彦斎はどれ位知っているのだろう。若しかすると、血と名のつくものなら、何でもわかるのかも知れない。
同時に、この体内に血液が流れている限り、この稲荷だけは死なぬ確信を得る。元々、山口や稔麿、宮部が殺されても生き残るだけの圧倒的な強さをこの稲荷は持っている。小柄な身形に反した巨大な影で、玄瑞を周囲の“死”ごと包み込んでいた。
―――姐さん。
昔ふざけて呼んだ言葉が呼び起される。彦斎が友人と認め続ける限り、ずっと守護神でも在り続けるのだろう。
「・・・玄瑞」
・・・・・・玄瑞の吟詠が、途切れる。玄瑞の手から盃が零れ、床に転がった。・・・彦斎は盃を拾い上げ、己の盃を其に重ね、言った。
『おやすみ』
―――玄瑞は、眠った。身体が傾き、とさり・・・と畳の上に横たえる。・・・・・・彦斎は酒を注ぐと、月を相手にひとり、晩酌を続けた。
「どうも済みません。ーーー」
「ーーー・・・」
入江と寺島が遣って来る。
「いんや。ーーーー・・・」
彼等と軽く頭を下げ合った後、玄瑞の介抱を尻目に彦斎は文机の上の筆を握る。ごわつく依頼書の表面を撫で、腫れた瞼で微笑んだ。
『―――ありがとう』
月が沈み、太陽が高く昇る。
「――――・・・っ?」
玄瑞は寝返りを打ち、はっと目が覚めた。衾に身体をぐるぐる巻きにされている。暑い。
併し、こんなにすっきりした目覚めは数年ぶりだった。
(朝―――?)
障子を透して入り込んでくる白んだ空に、玄瑞は反射的に身体を起す。衾が纏わりついてもこもこする。
周囲を見回すも、彦斎の姿は当然無く、酒瓶も盃も跡形無く消え、部屋も心なしか整頓されていた。
(はっ。書類―――・・・)
玄瑞は慌てて文机に身体を向き直した。筆も硯も綺麗に墨が洗い流され、机の端に置かれている。昨夜広げていた継紙も無くなり、代りに皴一つ無くぴっしりと畳まれた書簡が10部程重ねてあった。
「・・・?」
玄瑞は書簡を広げ、中身を一つ一つ確認した。其は玄瑞が昨夜書こうとした、各藩に対する志士寛典の依頼書であった。筆跡より察するに、入江 九一と寺島 忠三郎の字であろう。
―――さすが松下村塾生だ。玄瑞の性格をよく理解っている。どれ程赦しや休息を得られようと、責任や可能性を放棄できない頑固で不器用な性格である事を。
・・・最後に一通、入江のものとも寺島のものとも違う筆跡の書簡がある。この字を、玄瑞は知っている。
――――
『お早う』
―――広げた途端、その文言だった。
『よう寝たか。善い友人を持ったな』
――――
玄瑞は、間の抜けた顔をした。
文字は其だけで、余った部分にでかでかと絵が描かれている。御世辞にも上手とは言えず、才能としては玄瑞とどっこいどっこいだった。当て擦りに真似ているのかと思ったが、知らないキャラクターだけに自作のものらしい。
「―――・・・あの野郎」
玄瑞は吹っ切れた表情で笑った。
玄瑞は鉢金を締める。
鎖帷子を着込み、その上から陣羽織を羽織って、戦いの準備をした。自身の意思ではないが、年長者には逆らえない。其でも、玄瑞はまだ可能性を捨てていなかった。
昨日の議論から発展した軍議で、玄瑞は真木が率いる浪士隊、土佐の中岡 慎太郎率いる忠勇隊、同郷の堀 真五郎率いる八幡隊と共に大坂と京の国境に当る山崎天王山に布陣し、八月十八日の政変の舞台でもあった堺町御門を目指す事が決定した。随うは、天王山十七烈士や松下村塾生、土佐・久留米・福岡の浪士達。
「彦斎」
外へ出ると、兵は既に集まっていた。その中に彦斎の姿も在る。
彦斎も玄瑞と同じ様に、軍装に身を包んでいる。
多数の兵に埋れる中で、彦斎は微笑み返してくる。昨夜の無邪気な笑みとは違い、何処と無く不敵に見えた。
「よう眠れたか」
「御蔭さまでな」
玄瑞は少々照れた様に答えた。当然ながら、相手が文の時の様に弱みをそうそう見せる訳にはいかない。
「目覚めが良かった序でに、こんなのもかいちまったぜ」
彦斎は拍子抜けした。赤本だったからである。ふざけとう・・・?彦斎があぼんとした顔つきで訊くと、玄瑞は笑いながら
「悪い、こっちだった」
と、別の文書を渡した。―――広げると、長州藩無実の聴許嘆願書と記されている。
「俺はまだ諦めていない」
玄瑞はこの禁門の変に於いて、最後まで戦争への発展を避け、話し合いで解決を図ろうとした。話し合いでなければ、意味が無いのだ。真木の配下である浪士隊に、肥後の烈士の殆どが組み込まれている。
だが真木と同じ山崎勢には、玄瑞もいる。
「肥後の人達は、俺に任せておけよ」
入京後すぐに斥候が動き出す。斥候の情報が無ければ兵は動けないから、熱り立つ兵を諌止し、指揮官を補佐する役目が必要となる。斥候は軍議の際に玄瑞が指名し、松下村塾生や天誅を行なっていた頃の優秀な検分役も含まれていた。
兵を諌止している間、彼等が寛典・嘆願の周旋を行なう。
「だから、お前は国司さまを頼む」
国司信濃は来島と共に、嵯峨天龍寺から蛤御門に向かう軍勢の指揮を執る。彼等天龍寺勢の戦いが、こののち最も激戦となる。
「・・・やれやれ。叉餓鬼のお守か」
国司信濃は齢22。玄瑞より年下だった。彦斎とは長井 雅楽切腹の折に、既に顔を合わせている。下関戦争でも彼等と共に米国船砲撃に参加した。あれが初陣である。国司一人では到底、来島に押し切られるだろう。若くして死なせるのも惜しい人材だ。
「嫌か」
「別に。世話焼くは嫌いじゃないね。其に」
彦斎は文書を畳んだ。玄瑞に返そうと、手を差し出す。
「君の言う事だったら、きくよ。どこまででも―――――」
「―――――――・・・・・・」
・・・玄瑞はふと、淋しくなった。周旋に失敗し、御所へ兵が突入となれば、互いに二度と顔を合わせる事は無い。今この刻が今生の別離となる事を、彦斎も覚悟している様だった。
玄瑞は文書を一通受け取り、もう一通を返した。くだらぬ絵の描いてある方だ。全く描かぬ時期があったからか、さっぱり上達していなかった。
「やる・・・よ」
玄瑞は懐に手を突っ込んだ。
「俺も持ってる」
鎖帷子の内側に着る鎧下の裏に、今朝方見つけた絵を入れている。同じく、稔麿の父より預った三つ物の遺品も肌身に着けていた。
「・・・」
彦斎は困った様な貌をして、己の懐に赤本を入れる。
「―――・・・じゃ、またな」
「ああ―――・・・武運を」
玄瑞が踵を返す。彦斎が背後で見守る視線を、長く、どこまでも感じていた。兄と入れ代る様に出逢った、ある意味で兄よりも過激な志士。兄でも長州藩士でも松下村塾生でもない、でも全ての要素をそなえていた気がする。
友人とは神秘的な生き物だ
・・・“友”の概念を与えてくれた松陰先生に感謝する。
―――玄瑞は背筋を伸ばし、彦斎の視線を振り切った。
ここから先、稲荷の加護は無い。




