百十二. 1864年、不還~還る場処なき者達~
「1864年、不還」
『長州へ、帰ろう』
と、玄瑞は言った。併し、玄瑞が山口に帰る事はもう無い。物語は一息入れる間も無く禁門の変へと突入する。
玄瑞と彦斎は大坂の長州藩邸へ入った。だが、其処は帰途の休憩地ではなく出征の出発地である。
――――
藩邸は騒然としていた。昨年の政変宛らに兵が溢れ、朱槍を磨く者、大砲を動かす者、藩旗を掲げる者―――・・・戦の支度をする光景が飛び込んでくる。
玄瑞と彦斎は思わず門を背に立ち止る。絶望的な景色に、玄瑞のみ一歩下がった。
「之は・・・」
彦斎が周囲を見回す。見知った貌も数多い。入江 九一、寺島 忠三郎、有吉 熊次郎、品川 弥二郎、山田 顕義等、ざっと見ても之だけの松下村塾生が参加している。
「彦斎さん!」
別の方向から声が掛り、彦斎はふと其方を見た。肥後勤皇党の面々だ。
池田屋事変で生還した中津 彦太郎と宮部 春蔵、天誅組の変に拘った内田 弥三郎、加屋 霽堅の弟加屋 四郎、最年少の藤村 紫朗。他、小坂 小次郎に西島 亀太郎、酒井 荘之助。藤村を除いて全員が真木和泉と運命を共にし、この内6名を『天王山十七烈士』と呼ぶ。
「無事で良かった・・・・・・!!」
中津が人目を憚らず泣き、彦斎に抱きついた。他の面々もどっと押し寄せる。
「な・・・」
彦斎はたじろぐ。併し彼等は彦斎よりずっと死が身近にあった。単独で入京した理由が分らなくも、彦斎が殺されなかった、其だけでもう良かったのだ。
宮部という親を失った今、肥後勤皇党は同じ九州人の真木和泉の翼下でただ肉弾となるしか無い。
皆、決死の覚悟を決めている。
「・・・・・・」
―――彦斎は両手を広げ、勤皇党員全員を包んだ。涙が溢れるのももう気にならない。全員で感慨に浸った。
彼等には、意見する権限が無い。運命を天に委ねるのみだ。
・・・・・・玄瑞は其を、遠巻きに観ていた。
「久坂!」
玄瑞にも村塾生の迎えが来る。村塾生である彼等も叉、ただ仰せの侭に、稔麿の後を追う気でいる。
「・・・・・・久坂・・・・・・?」
入江と寺島が驚いた表情で玄瑞を見る。・・・・・・玄瑞は涙を流していた。こんな事で良い筈が無い。誰もがそう想っている。だが、誰も意見が出来ない。―――唯一人の村塾生を除いては。
「高杉は・・・・・・如何した」
―――大楽 源太郎が村塾生の傍を通る。玄瑞はぎょっとし、大楽の姿を視線で追いかける。
大楽は眼が合った自分に微笑みかけてくる以外は、特に誰にも何もしなかった。
「・・・坂。久坂?」
―――玄瑞は我に返った。
「高杉さんは今、療養中だ」
「療養・・・!?」
「久坂さんが長州を出て暫くして、急に倒れたんだ。其で進発派を抑えられる者が居なくなって、大坂に・・・」
「おまささんは中暑じゃと言うちょったが、本人は深刻そうな顔じゃったのが気にはなったな・・・」
玄瑞は立ち尽す。血の気が引いていた。大楽の先程の笑みが勝手に脳に呼び起される。
「久坂!?」
入江が玄瑞の肩を掴んで揺さ振る。玄瑞は叉も現実に引き戻された。入江も寺島も心配そうな顔で玄瑞を見ている。
「すごい顔色だぞ」
「疲れが溜っちょるんじゃないか?少し休んだ方が・・・」
「・・・いや」
玄瑞は壊れかかっている。其でも立ち止る訳にはいかなかった。この状況に抵抗する事を許されている若手は唯一人しかいない。
―――自分自身だ。
「・・・来島さんと話をしたい。何処に居るのか教えてくれ」
発言権を持つ者として抵抗しなければならない。自分が抵抗しなければ、京の町と共に皆大火に包まれる。
来島はまさに、八月十八日の政変と池田屋事変の発生で頓挫した京都大火計画を今こそ今度は自らの手で実行しようとしていた。
―――天皇を手に入れなければ、長州は永遠に国賊の侭だ。
他の藩が黙っている筈が無い。薩会桑は当然として、友人の母藩である大藩備前・因幡・肥後とも戦う事になろう。勝目は無に等しい。汚名を被った侭細々と命だけ存える事と、潔く散って後生に凡てを委ねる事、どちらが正しいのかは判らない。ただ“選択できない”事、之は確実におかしいと謂えるだろう。
「来島さん」
玄瑞は来島の居る部屋の扉を開け、一礼する。その顔は疲労が滲み、だが張り詰めて悲壮な程凛としていた。
来島の他に、真木和泉、長州藩三家老(益田 右衛門介・福原越後・国司信濃)が一堂に会している。
「おぉ!義助」
来島は俟っていたとばかりに玄瑞を手招きした。『義助』は玄瑞が予てより自身が武士を全うする時に使おうと思っていた名だ。
「おぬしの智慧を俟っておったぞ」
「・・・・・・」
玄瑞は冴えない貌をした。既に怯んでいる自分がいる。・・・桂も、宮部も、晋作も、彼等と束になっても敵わなかった相手。
「・・・私の不在を狙って進軍するとは、武士らしからぬ卑怯さじゃありませんか」
「おぬしとて政務役の職権を濫用して晋作を牢から出しただろう。お互いさまじゃわい」
浪士はともかく、藩上層部には進発反対を表明している者も居た。福原越後などはそうである。禁門の変にて真先に総崩れとなるのもこの福原越後隊だ。
併し、福原越後にしろ国司信濃にしろ、来島と真木の勢いに完全に呑まれて仕舞っている。
長州軍の進軍には藩主毛利 敬親の軍令書が要る。
「安心するがよいぞ、義助。之は藩命じゃ。其に、若殿も近日中に兵を連れて上京される事になっておる」
「・・・何ですって?」
―――玄瑞は耳を疑った。若殿(毛利 定広)が上京するという事は、藩主敬親公の軍令が既に出ているという事か。
「来島翁、貴方はお分りでない。私はつい先程まで京に居ましたが、私も肥後の河上さんも命からがら大坂まで来たんですよ。長州の動きを察知している証だ。そんな中に若殿をお入れするなんて無謀極りない!会津に首を渡したいのですか!!」
「無礼者!!」
来島が大喝する。確かに玄瑞の今の台詞は身も蓋も無さすぎた。来島はぽろぽろと涙を落した。こちらが泣きたい気分だった。
「・・・その覚悟を若殿も藩主公もされておるという事よ。藩主公は我等と共に戦われる事を選んだ。その遖な義侠を、義助、おぬしは分らぬのか。所詮は医者坊主に過ぎぬのか」
・・・・・・玄瑞が涙を呑んでいるのを、三家老は同情する様な眼で見ていた。だが、その内の一人・益田 右衛門介が口を開く。
「―――義助、家老からは実務的意見を言わせて貰う。昨年の攘夷戦争、あの報復として近く英・仏・米・蘭の四ヶ国艦隊が長州に攻め込むと宣戦布告をしてきた。一刻も早く長州の正当性を朝廷に証明し、諸藩を味方につけ異国との戦に備えなければならない。義助、之は元々お前の蒔いた種でもあるのだろう」
「・・・・・・」
・・・そう言われてはぐうの音も出ない。だが、責任があるからこそ自分は抵抗せねばならなかった。故郷を捨て、師をも失い、選択肢も無くなり、また平和な日常を送れなくなって仕舞った者達を想う。文の貌が不意に脳裡を掠めた。自分は、最も身近な者の生活さえも奪った。
「・・・・・・正義を主張する方法が、武力であってはならない。俺は皮肉にも、先の攘夷戦争でその事を思い知りました」
「矢張り臆したか、貴様!!」
「臆したのではありませぬ!!」
玄瑞が叫んだ。涙が散った。既に涙で濡れている来島の顔が愕きに満ちる。
「武力は遂に武力しか生まず、怨みは遂に怨みしか生まない!!勝負に勝とうと負けようと賊は賊です。ここで御所を奇襲し仮に勝利を得たとしても、異国との戦で寝返られるだけの話だ。そうなれば孰れにしろ長州は亡ぶ」
「何だと!?」
「結局は嘆願しか無いのです!尊皇の精神に立ち返りましょう、来島さん。薩摩や会津が確かに背後にいるだろう、併し、貴方は其等を意識しすぎて天子さまを置き去りにされている。帝に認めて貰えなければ薩会に勝っても意味は無い。帝は武力を望まれず、諸藩も其に准じている。現に、長州が純粋に勤皇であった内は話を聴いてくれる藩もあった。肥後の細川公は若殿に対して明瞭と言われたそうではないですか。諸藩を味方につけるのに、進軍は逆効果だ。必要なのは帝に話を聴いて頂く機会です。攘夷戦争を行なった本心を具申し、諸藩や帝に芽生えた誤解や齟齬を取り除く事、之をしなければ日本は纏まらない。そして之は、武力では決して出来ない事だ。
・・・・・・せっかく人間に生れたのだから、言葉を遣いましょう、来島さん。獣になってはいけない」
全て、全て玄瑞の経験から得た言葉であった。攘夷戦争だけではない、天誅の実行者達を悉く闇に落した経験からも玄瑞はこの事を学んでいた。その点では、この言葉に志士・久坂 玄瑞の人生そのものが集約されている。
来島は玄瑞の言葉に納得しかけようとした。だが、ここで思わぬ横槍が入る。
「其っでは命ば散せていった宮部君達が浮ばれんじゃなかか・・・・・・!!」
(真木和泉――――・・・・・・!!)
玄瑞は言葉を失った。真木の言葉には浪士ならではの怒りが含まれていた。彦斎達の本音を聞かされている様な気がして、玄瑞の胸はどくりと高鳴った。
「獣なのは新選組の方で、そん獣の親は会津の松平 容保だろうたい。我等が何をするより先に、会奸の獣は池田屋の逸材達ば屠りよった。獣には言葉で言ったちゃ解らん!久坂君、君は時折、長州藩の立場ばかり論じ立てて故郷ば失った浪士の存在ば忘れとる。池田屋の件で、宮部君の弟子達がどんなに苦しんだか・・・・・・見ておれんだったぞ、討薩賊会奸を誓った者も居った。土佐だってそうたい。我等が兵を向けるのは、御所じゃなか。御所ば人質に蔓延する薩賊会奸ぞ。我等は薩賊会奸に閉じ込められた天子さまを御救いする為に兵ば出すとぞ。そして之は、無念の思いで死んでいった宮部君達の御霊ば慰む弔い合戦ばい」
・・・・・・長州とて池田屋の変では藩士を亡くしているのだ、と玄瑞には言う事が出来なかった。皆が皆、其程に復讐心が滾るのであればいっそ玉砕覚悟で敵陣に特っ攻み、藩ごと木端微塵にして仕舞うのも手か、とも想う。志士達の本心を告げられて、玄瑞は途端に決意が揺らいだ。
―――嘗て武市と坂本 龍馬に託けた『尊藩も弊藩も、滅亡しても大義なれば苦しからず』・・・・・・草莽崛起とは果して、この事を意味していたのか。
「ーーーー・・・!」
玄瑞は荒い息を上げ、己の顔を覆った。松陰の答えが欲しかった。攘夷運動の成れの果てを師が見たらどの様に思うだろう。
来島は泣きながら、真木の言葉に肯いている。
結局、議論は来島と真木の猛攻に遭い、翌日早くも藩邸を離れ、京へ進軍する事が決った。殆ど京へ蜻蛉返りであった。




