百十一. 1864年、烟雨~佐久間 象山暗殺~
烟雨は、佐久間 象山の好きな天気である。
特に、雨に烟る中ぼんやりと浮ぶ鴨川沿いの景色を俯瞰するのが好きなのだそうだ。依って木屋町三条に在る二階建ての間数の多い家に住み、『烟雨楼』と名付けた。象山最後の住宅となる。
象山は天気日記をつけていた。その記録は象山の死の前日まで遺されている。記録に依ると、池田屋事変の翌日にあたる6月6日に梅雨が明け、以降は一週間に一度程度ぐずつきつつも晴天が続いたと云う。象山の死の前日である7月10日の天気は晴れで気温は華氏93度(摂氏33.9度)に達した様だ。
元治元年7月11日(1864年8月12日)の天気は晴れ、気温は当時華氏を理解できたのが象山程しかいない為判然としないが、恐らくは前日に准ずる暑さであっただろう。
この日は象山の好きな烟雨ではなく、炎天下の蜃気楼で京の景色はぼんやりとゆらめいていた。
―――八つの刻(午後3時頃)。江戸期は午後2時から3時に掛けてが休憩の時刻であり、象山も其に漏れず休憩の為『烟雨楼』へ一時帰宅する。
「供も連れず」という表記もあるが、馬丁や草履取、若党等の召使は流石に連れていた様だ。だがその数は精々3,4人で、すぐに死ぬ。
「―――――――・・・?」
象山は王様気取りで街道を戛々(かつかつ)いわせていた。足音を鳴らす愛馬の白馬の名前も『王庭』である。無論、洋式鞍をつけている。
之迄気にも掛けていなかった従者が突然消え、足下に転がっているのを見ても、象山は自分が裸の王様であると気づかなかった様だ。玄瑞や彦斎は、そんな象山の性格をよく知っている。
ザッ・・・
・・・・・・彦斎が笠を外して振り返る。刀は既に腰より抜かれ、刃からは血が滴っていた。
・・・擦れ違ったのだが、象山には視界にさえ入らなかったのだろう。馬上で背丈5尺8寸、175.8cm程。
「信州の佐久間 象山殿と御見受け致しまする」
・・・象山は漸く背後の彦斎に気づいた。かの勝 海舟は、象山ほど殺され易い男はいないと言ったと云う。
象山は馬蹄の音を鳴らして振り返った。
「―――肥後国勤皇志士・河上 彦斎に御座りまする。神国国家の奸計の根を絶つ為、貴殿に天誅を下すべく、参りました」
彦斎は身許を明し、之迄の天誅に無い恭しさで述べた。剣術仕合の刻の如く、礼をする。
「・・・神国、奸計、天誅―――・・・?」
西洋人の二重瞼をもった紳士は、窪んだ瞳を炯々(けいけい)と光らせて言った。之で生れつきというのだから凄い。出身の長野松代ではその目つきを梟と渾名され、大変なお洒落で通っていたそうだ。
彦斎と向き合うと、対照性が明らかである。
「いつの時代の小僧だ」
――――・・・ 彦斎は黒い瞳を曇らせた侭、黙っている。この男はこの白兵横行の時期に人斬り彦斎を知らない。知っていて欲しい訳ではなかったが、社会の下層にいる人間について全く興味が無いのだと思い知らされる。
「この国を神の国とまだ言う奴がいるたぁ、片腹痛いわ。科学や詳証術(数学)を学んでいりゃあ、神が在ない事などすぐに分るのによ。在るとすりゃあ其は人間―――・・・この国で謂やぁ真理に最も近い俺が神だ。詰り奸計を企てているのは、貴様の方だ、小僧」
象山は徐に懐に手を入れる。黒文字の香りが肩衣や美髯から漂う。香料にも余念が無かった。
「『天誅』も貴様が遣う言葉ではないわ。小僧である事に免じて冥土の土産を持たせて遣るが、武士道は近い将来必ず崩壊する。武士道はな、無駄が多いのだ。貴様が今この様に大人しく待っている事が戦いに於いてどれだけ無駄な事か、その死を以て教えて遣る」
ドンッ!!
象山がピストルを取り出して撃った。銃弾が彦斎の頬を掠る。・・・彦斎は微動だにせず、ただ象山を見る。
六丁がらみの短筒で、後5発は連射できる。
象山は間髪入れず更に撃つ。彦斎の肩に触れて紅が飛んだ。護衛と助勢の為に配置された松浦 虎太郎・南次郎と前田 伊右衛門が出て往こうとするが、其を黒い影が止めた。
「―――いざ、参る」
―――彦斎の姿が直後に消える。―――っ!?流石の象山も本気に感じた様だった。接近を感じて下方に向かって弾丸を放つも、崩れたのは自身の足元であった。
「王庭!?」
象山は愛馬の手綱を引っ張った。よく調教されており、嘶きはするも倒れない。威嚇射撃に切り替えて、体勢を崩した馬の踵を返し乱射しながら逃げようとする。併し王庭馬ごと後ろへ身を翻すと、其処には河上 彦斎が立っていた。
「・・・敵に背を向けるは恥と、その精神まで忘れて仕舞なわれたか」
象山がピストルを向ける。だが彦斎の動きの方が断然迅かった。比較にさえならない。彦斎と象山の目線の高さが同じになった。
―――馬の首ごと象山の胴を薙ぐ。馬は倒れ、象山の身体は空中に投げ出される。象山は彦斎の顔に発砲する。が、弾丸は切れていた。
「ぐっ!!」
遠く、俯せに地面に叩きつけられる象山に馬乗りになり、串刺しにする。象山が口から血を吐き出した。上半身が反っくり返り
「国賊・・・・・・国賊・・・・・・国賊・・・・・・!!」
と、掠れた声で叫んだ。彦斎以外には聴き取れない呪いの言ノ葉であっただろう。
・・・その言ノ葉がふつりと、途切れる。
同時に象山は元々大きな瞳を更に大きくした。目の前を下駄の転がる音が聴こえた。砂埃が起り、ふっと日光が遮られた。
・・・差す翳に、彦斎もふと顔を上げる。
「・・・・・・き・・・さま、は・・・・・・・・・!!」
「・・・・・・・・・!」
―――久坂 玄瑞。
・・・・・・久坂は象山の顔の近くで歩を止めると、象山を見下ろした。・・・その瞳は、彦斎が訝しむ程に醒めている。
「首、謀は・・・・・・貴、様・・・か・・・・・・松陰の弟子―――!!」
「―――ええ」
久坂は淡々とした声で答えた。彦斎は久坂に眼を瞠る。象山は恨みを籠めた瞳を久坂に向け
「―――この馬鹿弟子が・・・・・・国賊め・・・・・・・・!!」
と、言葉を吐き散した。
「―――とどめを刺せ」
―――久坂が非情な声で彦斎に命ずる。唸る象山。その声が絶えるのを、玄瑞は表情の無い貌で見送る。
鮮血が容赦無く顔に掛り、着物を濡らした。
・・・・・・象山は最期、玄瑞を憎んだ。
「・・・・・・・・・玄瑞・・・・・・?」
彦斎は不可解な顔をして玄瑞に話し掛けた。何故出て来た。その問いに対する答えは無い。
唯一つ
「お前、もう天誅はやめろ」
と、言った。
「は・・・・・・!?」
―――刀が手から滑り落ち、音を立てて地面に転がった。まるで木刀を落したかの様に乾いた音だった。
・・・・・・・・・ 彦斎は眼を見開いて、己の掌を見る。
「・・・・・・・・・限界、なんだろ」
・・・・・・膝が震えている。彦斎は其の侭崩れ、象山の前に跪いた。身体が思う様に動かない。瞬きする事さえ象山の赦しが要る様であった。
――――この、身の毛の弥立つ感じ――――・・・
「・・・・・・今日は雨なんて降っていないぜ」
―――――・・・・・・初めて人を斬った刻の感覚が蘇る。玄瑞の言葉に、彦斎ははっと顔を押えた。併し、玄瑞の顔を見ると
「・・・・・・いや、降っとうよ」
・・・・・・と、返した。
「・・・・・・強情なヤツだな」
玄瑞は彦斎に背を向ける。大きく一つ溜息を吐いた。絞り出す様な吐息であった。・・・息に、僅かながら水気を含んでいた。
「どっちでもいいから早く斬奸状書こうぜ。書いたら・・・長州へ帰るぞ。
俺達の“くに”は、象山先生の言う“くに”とは違う」
水気を含んだ息が声を震わせている。
「・・・・・・強情なのは、おぬしよ」
彦斎は玄瑞の背中を叩いた。・・・・・・玄瑞は微かに、嗚咽を漏らした。
『松代藩 佐久間修理
此者元来西洋学を唱ひ(え)交易開港之説を主張し枢機之方へ立入御国是を誤候大罪難捨置候処剰へ奸賊会津彦根二藩ニ与同し中川宮と事を諮り恐多くも
九重御動座彦根城へ奉移候義企昨今頻ニ其機会越窮候大逆無道不可容天地国賊ニ付即今日於三条木屋町加天誅畢但斬首可懸梟木ニ之処白晝不能其義もの也
元治元年七月十一日
皇国忠義士』
上の斬奸状を得た後の象山および佐久間家について、松代藩は家禄召上という厳しい措置を取り、佐久間家は御家断絶となる。
この“処分”の理由が、皮肉にも、象山が軽蔑した武士道の「背に傷を負うのは恥」に抵触した、というものであった。
斬奸状は、祇園社(現・八坂神社)西門に貼られたのだと云う。




