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百十. 1864年、烟雨~けもの狩り~

―――生れて初めて盛大に舞う血を見た日の事を、想い返していた。

あれが天誅との初めての出逢いであり、自身の尊皇攘夷活動の幕開きであった。



「1864年、烟雨」



―――其が、もう8年も前の出来事である事に、今更(なが)ら驚いた。




血飛沫が噴き上がる。




「久坂、覚悟っ!」

役人が刀を抜いて玄瑞に襲い懸って来る。玄瑞は兄遺愛の刀を抜いた。悔いは残るといえば残るが、武士として死ねるだけもう充分だった。兄玄機の志を、自分が果したという満足感もある。

―――捕まる位なら、いっそ此処で果ててみようか

玄瑞は役人の刀を受け止めようとした。(しか)し、玄瑞を覆う様に影が前へ飛び出して来る。その影に玄瑞は引っ張られ、後ろへと下がる。

「!?」

以蔵だ。

以蔵が玄瑞から受け取った刀を抜き、刃を受け止める。だが、以蔵が受け止めたのは役人の刃ではなかった。

―――役人の刀が抜き身の侭持主の手を離れ、以蔵の全身が頭から呑み込まれる様に鮮血に包まれる。

「―――――っ!!?」

役人の刀は刀身が綺麗な侭遠く路上へ刺さり、一方で当人の身体は脳天から股間まで一直線に切れ目が入っており、真っ二つに分れて左右に夫々(それぞれ)落ちて往った。

・・・・・・白刃が以蔵の直前まで降ってきている。



「―――ぬしらはこの彦斎から師を奪っただけでは足りず、大事な友人(とも)まで奪おうとするか」



「彦斎・・・・・・・・・!!」



以蔵が刀で受け止めたのは、彦斎の刃であった。―――ピキリ,と刀に(ひび)が入り、柄が以蔵の手から離れる。・・・力尽きて倒れる以蔵を彦斎は受け止めた。

「ありがとう。・・・・・・以蔵さん」

彦斎が礼を言う・・・また加減が出来なかった。前面に居たのが玄瑞であったなら、恐らく玄瑞も巻き添えに斬り殺していただろう。

如何に堕ちようと人斬り・・・其でも人斬りなりの別の生き方を、以蔵も彦斎も見出そうとしていた。

だが、併し。

「・・・・・・彦斎、一体どうなってるんだ」

彦斎の着物は初めから(あか)かった。血を繰り返し浴びすぎて、重厚な深紅の着物どころか髪まで赤く染まりつつある。元は深い漆黒の髪に、繰り返し繰り返し、浴びて乾いた血に更に別の者の血が上塗りされて色素に迄沈んでいた。

「・・・如何(どう)()うも、之が“志士狩り”というやつた」

「志士狩り―――?」

・・・彦斎が以蔵に水を飲ませる。以蔵ほど悲惨な末路を辿る“志士”は珍しいが、この志士狩りでも尊攘派は多大な痛手を蒙った。

「此処に在る死体はお前が()ったモノなのか」

彼処(あそこ)のは・・・な。進軍なぞせんでも、(ここ)は充分戦場よ。逆に呵責が生れんでよい。・・・向うも殺意をもってこっちに遣って来る」

・・・・・・。彦斎の語り口から、京では佐幕対志士の白兵戦に迄悪化している事が想像できる。同時に、彦斎がまだ佐久間 象山を斬っていない確信を得た。

「俺は京へ来て間も無いから良かった。ばとて、以蔵さんは・・・」

京に潜伏していた志士達は、皆この様な状況に追い込まれている。在京の志士達の彦斎上京に対する期待は高かった。・・・其故か、彦斎は意外と元気そうだった。

「・・・何人斬った」

「さあ・・・ばってん、何人か救えた」

「・・・・・・そうか」

・・・されど、彦斎は斯ういう事でしか役割を見出せない。

「俺にも以蔵さんに何があったのかはよう分らぬ。以蔵さんに聞いてみぬ事には・・・」

んしょ。以蔵に肩を貸して歩き出そうとする。も


ずりずり・・・・・・ずりずり・・・・・・


「・・・・・・」

彦斎と以蔵に身長差がありすぎて、以蔵の足を引き()る。玄瑞が以蔵の両肩を前に出させ、負ぶさる格好にした。其でも引き摺る。

「ーーーっぬしが担がぬか!!」

彦斎が以蔵をかなぐり捨てて怒鳴る。玄瑞は状況が状況だけに笑う事もからかう事も出来ず

「・・・す・・・済まん・・・・・・いやなんか余りの漢らしさに、ついな・・・・・・」

と、空気を壊さぬ程度の発言しか出来なかった。以蔵がよろよろぱたりと行き倒れる。少なくとも、以蔵にとっては深刻な状況だ。

・・・玄瑞が以蔵に肩を貸す。

(・・・・・・強いな、お前は)

玄瑞は彦斎を見上げて想った。

―――てっきり、(ささえ)を失って壊れて仕舞ったものだと思っていたが。

まだ、自身に向かって突っ込める程に精神を保てていた。

まだ、誰もいなくなった訳ではなかった。

(―――俺も、まだ倒れる訳にはいかない)

玄瑞は立ち上がった。

「・・・うり」

よろけた拍子に彦斎の頭を掴み、うりうりうりと掻き回す。

「―――初めてお前が年上に見えたよ」

「は!?ならうりうりやめんね!!」

―――玄瑞が微笑む。だが、その一新させた気持ちが再び絶望に満たされるのは余りに早い。以蔵を迎えに来た使者達が、すぐ此岸(そば)まで来ていた。



「岡田 以蔵だな?」



―――玄瑞と彦斎は同時に振り返った。真暗な空からは、静かに雨が降り始めていた。

京は盆地で夏に降る雨は熱の籠った地面との温度差で霧がかり、(けぶ)る町となる。

以蔵を山内家の子である事を否定し、見捨てた土佐藩が、全てを失った以蔵を最後に拾いに来た。


「・・・・・・あ・・・・・・あ・・・・・・」


・・・以蔵が身体を戦慄(わなな)かせて怯える。彦斎も我が事の様に蒼い顔で土佐藩吏達を見ていた。実際、決して他人事ではなかった。

藩を敵に回した彼等にとって、幕府以上に脅威となるは藩である。

「藩命に依り土佐本国へ召し返される。同行せよ」

藩吏は無茶苦茶な事を言った。所司代が洛外追放の刑に処したのだから、その時点で罪も土佐人でもないのである。其を折を見て回収に来るなど、陰謀が働いているとしか思えない。

「―――違いまする!この男は無宿鉄蔵と言っていた。我々が道すがら介抱した、無頼浮浪の徒に御座います!」

玄瑞が咄嗟に弁護する。土佐藩上層部の非道さは容堂への謁見で思い知らされている。以蔵に対する仕置の内容を玄瑞は知らなかったが、刻まれた罪人の証と無宿などという無籍者の処遇から、大凡(おおよそ)の事は想像できた。

以蔵を決して渡してはならない。

「・・・道すがら介抱した浮浪の徒なら、貴公には関係の無い話であろう?―――長州藩士・久坂 玄瑞殿」

「っ!!」

「そして其方は―――・・・肥後藩士の河上 彦斎殿では御座らぬかな?貴公も散々に追われておるのではあるまいか?こんな処で油を売っておる暇はあるのかね?」

・・・・・・。彦斎は静かな瞳で土佐藩吏を見る。

「安心し給え。貴公等の逮捕権を持つのは肥後・長州各藩と京都守護職のみで弊藩には御座らぬよ。肥後藩にも通報はしておらぬ。


―――だから、刀から手を離し給え」


・・・・・・彦斎が言われた通りに手を離す。いつから鯉口に手を遣っていたのか玄瑞には分らなかった。

「只、貴公等がその放蕩者を離さぬ様であれば、天子さまに仇為す一味に加担したとして其奴の罪状は重くなろう」

「・・・罪状も何も、無宿なら土佐藩とは何の関係も無いでしょう!この男の逮捕権も貴藩には無い筈だ!」

「貴公が其ほど庇うという事は、矢張り其奴は岡田 以蔵であろう。無関係の者ならば通常は警吏の言う事に従うからな」

「あんた、その理屈が全く筋道(すじ)が通っていない事自分で解ってんだろうな!?」

玄瑞は絶望する。全く以て話にならない。元より土佐藩吏に議論などする気は無く、理論が破綻していようと以蔵を手中に出来れば支障は無いのだ。土佐藩にとって以蔵は犬猫以下の存在であった。犬猫以下の存在に、法など適用されない。



「その者が岡田 以蔵でないというのなら、速やかにその者から離れ、去れ。でないと、武市が如何なってもいいのか」



玄瑞と彦斎は愕く。玄瑞の肩許で、以蔵もぴくりと反応したのを感じる。土佐藩吏の口から武市の名が出るとは思わなかった。


だが、武市が本当に生きているのか玄瑞等には判らない。ただ真偽が如何あれ、脅迫の材料としての効果から逃れる事は出来なかった。

「あ・・・・・・!武市先生・・・・・・!!」

「!?」

「矢張り其奴は岡田 以蔵であったか。引っ捕えよ。久坂殿、その者から離れよ。でなければ京都守護職と肥後藩を呼ぶぞ」

「っ・・・!」

河上 彦斎の怒りは、抜き差しならぬものがあった。其でも、剣を抜こうとはしない。抜いて目の前の藩吏を一掃したところで、志士に斬り殺された事実が土佐本国に伝わり武市の立場が益々(ますます)危うくなるだけだ。


「ふっ、人斬り以蔵にも人斬り彦斎の如く物分りが良ければな」

「おぬしらの教育の悪さを個人の責任にされてもな・・・・・・!」


―――卑怯である。揺さ振りの効果が大きいのは玄瑞と彦斎以上に以蔵だった。忠誠心が高ければ誰だって過敏に反応する。


「武市さんは・・・・・・生きているのか」


玄瑞は半ば観念しつつ訊く。土佐藩吏達が真実を語るとも思えない。詰りこの先は、以蔵を翻弄する材料にしかならない。


「玄瑞」


併し其でも訊かずにはおれなかった。結果はどうせ・・・変らないのだから。



「勿論。―――以蔵、おぬしが国許へ帰るというのなら、武市の罪を軽くして遣ってもよいぞ。武市に逢わせて遣ってもよい。


・・・師匠に、逢いたかろう」



・・・・・・っ。罠だと解っているが、玄瑞も彦斎も口出しが出来ない。以蔵の武市に対する忠誠心だけが、事を動かす。

「・・・・・・・」

以蔵は疲れ切った顔をしていた。その顔に、彦斎は尖った眼を見開く。・・・・・・顔を伏せ、悔しげに唇を噛み締める。



「・・・・・・土佐へ・・・・・・帰ります」



と、以蔵は言った。己の命を顧る必要などこの男にはもう無かった。之以上人生が墜ちる事は無いと思われた。以蔵は武市や玄瑞、彦斎等志士の為に、自己を犠牲にした。

併し史実は、その自己犠牲の先に、人生を超える地獄が待っている。

わしは果して人間がや。以蔵は拷問時に斯う叫ぶ。



「・・・・・・・・・」



玄瑞は呆然と以蔵を見送る。以蔵は棒で矢鱈(やたら)と打たれ、ぎゅうぎゅうに縄を掛けられて駕籠にぶち込まれた。

―――果して人間の受ける仕打か。

玄瑞はその場に膝を着いた。・・・・・・結局無力さは変らぬ侭だ。桜田門外での水戸の折から、自分は何ヵ国の者を見殺しにしてきた。

以蔵を載せた編目の駕籠が走る。役人達の草履が泥水を撥ねる。雨は本格的に降り始め、京の町は更に(けむり)に包まれた。



・・・烟雨(えんう)である。



「―――玄瑞」


彦斎は湿気で髪のはりついた顔で言った。烟雨程度の雨粒では、彦斎に染み付いた(あか)を洗い流せはしない。

「・・・・・・」

一方で、玄瑞の顔には邪魔な程に多くの雨粒が降りかかっている。



「俺は、佐久間 象山を斬る」



彦斎の声は震えていた。玄瑞はぼんやりとした顔を彦斎に向ける。余りに色々な出来事が同時多発的に起きすぎて、当初の目的に立ち返り切れずにいる。心に整理がつき、動揺に瞳が揺らいだ後に、(ようや)く玄瑞は彦斎を見た。

「・・・彦斎」

「こんな世であっていい筈がない。俺の調べたところ、現政権に最も大きな影響を与え、現体制の維持に最も大きな貢献をしているのは、佐久間 象山で相違無かった。あの男は去年のぬしの招聘(しょうへい)の話を蹴って朝廷・幕府の意見(がかり)となり、天子さまを京より連れ出し彦根への遷都を画策している。・・・其にあの男、決して大攘夷派ではない」

―――心から西洋に親しんでいる。開国派の建前には、西洋を忌み嫌いながらも(てき)を知り、西洋以上の力で以て(うちはら)う準備をする大攘夷の精神が常に在った。だから小攘夷派と揶揄される尊皇攘夷志士も我慢していた部分があった。併し、佐久間 象山はそうではない。西洋文明を純粋に楽しみ、髭を生やし、洋装の上洋式鞍に跨り自身が西洋人になり切って仕舞っている。西洋に対するおそれが無い。西洋に染まる事を何よりもおそれる尊皇攘夷派にとって、彼等の神経は理解し難く其故に彼等も西洋とは違った意味でおそれに感じた。

―――・・・叉新たな人種をみた様だ


「・・・あの男の影響力では、新選組(みぶろ)一つ動かすのも容易かろう。宮部先生があの男と旧知である事は知っている。・・・・・・故に、だからこそ、新選組(みぶろ)を差し向ける事も・・・あるろう」

・・・彦斎は酷く悲しそうな貌をした。肥後の領土内が既にそういった歴史の連続だ。彦斎にとって其は何ら不思議な事ではない。

「・・・・・・仇を・・・・・・討ちたいか」

「―――仇・・・」

彦斎は呟いた。・・・・・・そうかも知れぬ・・・ 彦斎は紅い唇を震わせて言った。表情に皮肉と愚かさが混じった。

「・・・・・・他の者に殺される位なら・・・・・・」

彦斎は神官装束を忘れず、宇気比(うけひ)で象山暗殺を神慮に問うてまでいた。そこ迄慎重でありながら猶象山を斬る事に決ったのは、象山の敵の多さもある。


象山は全志士を敵に回していた。彦斎が上京した頃、志士の間では既に象山暗殺が既定方針となっており、残る議題は誰が斬るかという事だった。

競う様に皆象山暗殺に名乗りを上げた。刺客の腕前如何では失敗する可能性も大きい。名乗りを上げぬ者には臆病者と罵倒し、皆が皆徒党に分れて暗殺の準備を始めた。



―――人斬り彦斎が遣れば誰も斃れず一発で仕留められるのに。



そんな言葉を直接的にも耳にしながら、彦斎は只管(ひたすら)、神慮と玄瑞の上京を()った。

決着(ケリ)は・・・・・・俺達でつけなきゃダメか」

「ああ・・・・・・そうも思う」

雨脚が強くなってきた。烟雨から線状の雨へと変る。互いに泣いている様に見えて、互いに少し、ぎょっとした。

「・・・・・・了解(わか)った」

・・・・・・玄瑞は濡れた顔を手の甲で拭い、言った。

「俺が検分役になってやる」

彦斎は二・三度瞬きをした。・・・・・・水滴が、落ちた。



「存分に、()れ」



彦斎は玄瑞の背中を見つめる。この志士狩りの折、彦斎を匿ってくれたのは因幡鳥取藩邸で、長州藩邸へは入れなかった。



「・・・・・・ああ―――・・・」

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