百五. 1864年、断章・池田屋~踏み台~
『お前、その眼は視えていないのかっ!?』
近藤が彼の前髪を掻き分けて、血の焼きついた眼に掌を翳した。彼は近藤の掌に触れて、そっと顔を引いた。
『心配には及ばず。良い医者に拾われた故、ある程度は回復致しました。平山さん程には御座りませぬ』
彼は叉も毒を吐いた。罪悪感から近藤は、壬生浪士時代に在った名を聞いて益々(ますます)思い患い悩む。誘う男に、落ちた声で訊いた。
『―――・・・お前は、新選組を使って仇討を望んでいるのか』
『―――いいえ』
男の返答は早かった。
『―――・・・仇討なぞ、野良犬のする事。私は既に、貴方に飼われておりますゆえ』
男は竹刀を抛り投げた。壬生寺の石畳に竹刀は着地し、ぴしりと苛烈しい音を立てて幾度かその場で弾む。近藤は唖然として其を見た。
『肥後人を、糧に為さいませ』
男は再び、呪いの言ノ葉を吐いた。
『・・・・・・浪士組の結成以来、諸々(もろもろ)の出来事があられた事は御察し致しますが、呉々(くれぐれ)も思い違いは為さりませぬよう。此度の件は尊皇攘夷を巡る争いには御座いませぬ。より正確には、昨年の八月十八日の政変を以て尊皇攘夷の精神は尽きたと言って宜しい。あの刻に、敵は外夷ではなく国内に在る事を長州は学んだ』
竹刀は曇空の下にほったらかしにされている。
池田屋では、同じ視界の暗い床に死体が握った大刀が落ちていた。
近藤は冷汗を掻いて刀を視界に入れていた。
『・・・・・・故に、もはや尊皇や攘夷では御座りませぬ。在るのは、徳川幕府という現政権の是非を問う、一つ低い次元のものです。即ち次元が違う。・・・・・・次元の違いを理解され、容認し、利用しようと為さるのが土方副長で、理解はしつつも容認できず、思い悩まれておられるのが山南副長です』
男は腰の物を抜くと地面に立て、天辺に両手を重ねて載せた。稽古の前と謂うよりも何らかの儀式の様だった。
『尊皇攘夷が体を成さなくなった今、山南副長の御悩みは会に合わぬ花とも謂えましょう。・・・・・・。孰れにしても、尊皇攘夷の盾を失った宮部は只の政治犯に過ぎませぬ。
―――新選組発展の、肥しに為されば宜しいかと』
―――芹沢 鴨や平山達と同じ様に。男は視力の落ちた側の眼を芹沢達の墓の方向へ向けた。
彼等の墓石に刻まれた文字は、恐らくこの男のものである。
『―――・・・宮部はいみじくも、私と同じ剣術を修めている様です』
―――男は竹刀を一振りする。・・・構えない。何の変哲も無い竹刀の刃の側を、物珍しく観察する様に見つめていた。
『・・・肥後の剣も叉薩摩抑えの為に発展を遂げて参りました。鎌倉期以来、肥後が力で薩摩に敵った事は一度足りとてありませぬ。其でも肥後が一国として生き永らえているのは、外部大名に拠る統治と、其に依り頭を使うよう教育されてきたからです。近藤先生の方が力はお強い・・・・・・寺見流を遣わぬという事は、恐らくそうなのでしょう。さればとて、力だけでは肥後者に勝てませぬ』
男は凡てを把握する。まるで鏡合わせの様に、宮部と共通の仕種さえしていた。静かな声で近藤に打ち明ける。
『からくりが、あるのです』
たんっ・
宮部が強く足を踏み込む。近藤は、来る、と思い反射的に防戦の構えを取る。直後に虎徹に衝撃が走り
「ぬうっ!!」
と、思わず唸り声を上げた。
(―――迅い!)
その上、力もあるではないか。力では敵わぬと言ったのは誰だ。
宮部の顔がすぐ近くにある。宮部は真直ぐに近藤を視ていた。何の心算かと近藤が疑い睨み返していると、あらぬ処に悲鳴が上がった。
「くっ・・・・・・!」
股が裂けて血が飛び出す。宮部はいつの間にか片手で虎徹を受け止めており、もう片方は別の刀を握っている。屍と化した大高 又次郎の握っていた刀であった。
その刀が、止血点で動脈の通う股を裂いている。
「私は医者だ」
―――宮部が開いた瞳孔で言った。
痛覚の束も叉、集中している。
宮部が急所を蹴り上げる。近藤は寸前で躱したが、平衡を崩し宮部が下腹部に乗り上げる。倒れた近藤の両籠手を両刀で裂き、両掌を床に縫いつけようとした。
虎徹が近藤の手から離れる。
ごろ・ん
両刀が床に突き刺さった。宮部は自らを磔にする。がら空きとなった懐に近藤の腕が伸び、宮部の首を両の手で攫んだ。
「!!」
近藤は虎徹を一時的に手放す事で宮部の二刀に拠る磔から逃れた。絞る様に宮部の首を捻り、爪を立てる。
「・・・・・・・・・っ!!」
宮部はもがき苦しむが、刀を手放す事は出来ない。手放せば、近藤の片手が其方に伸びる。併し、愈々(いよいよ)息が出来なくなったとみて、近藤の虎徹を遠くへ薙ぎ掃い、大高 又次郎の刀を抜き捨てて片手を己の首へ遣した。
「・・・・・・・・・!!」
「・・・・・・・」
宮部が近藤の腕を攫み、引き摺り起した。近藤の頬が裂ける。床から抜かれた松陰の刀が宮部の手の中で活きていた。
だが、時代の流れは止められない。松陰と想い描いた、誰もが理想世界とした尊皇攘夷の思想は死んだ。
近藤は半ば自主的に起き上がり、宮部の懐に突っ込んでゆく。身体がくの字に折れ曲り圧迫を受けるも、夢中だった。
首から頭へ押え込む位置を変える。宮部は酸素を吸う事も忘れ、両眼を剥いて近藤の拳を見つめていた。
―――近藤の拳が開き、指が伸びる。
「―――医者ならお解りだろう」
「――――――・・・・」
―――近藤の指が宮部の眼を刳り貫く。其は近藤が意図したものか、自分の隊士が流した赤い涙とは鏡合わせの側の眼であった。
近藤が間髪入れずに巴投をし、宮部の身体を押え込む。大高 又次郎の刀を首に突きつけようとするも松陰の刀に弾かれた。
逆に頸を切られそうになり、已む無く宮部から手を放す。
「・・・・・・はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・」
「・・・・・・・・・ごほっ、ごほ、ごほっ・・・」
・・・・・・。宮部が喉を押えて近藤を見る。潰された眼からは赤い涙が止め処無く溢れている。視界が一気に半分になった。この眼が回復する事は無い。
「―――・・・理解っているとも」
欠けた世界は、もう戻らない。
「・・・・・・・」
近藤は眼を曇らせる。如何してこんなにうまくいかないのだろうと密かに思っている。・・・遣り直せない事など無い。之迄はそう思っていたのに。
「私は、戻らない」
・・・近藤が求めるものを、この男は悉く拒否する。遣り直しを拒否する。同じ痛みを与えても。もはや更生の余地は無い。
「貴様!!」
近藤は叫んだ。宮部には一切響かない。再び刃が衝突する。近藤の側の切先が欠けたが、どちらが刃毀れを起しても志士の刀だ。
同期する様に宮部ばかりの消耗が激しくなる。
二合、三合と刀がぶつかり、遂に鍔迫り合いとなる。宮部の動きの振りが大きい。この神楽の如き独特の振りは、単に猿楽の名残ではなく周囲を広く視る為の手段であった。今の宮部の弱点を補う様な手段である。
転倒した膳・盃・家具什器類に、削がれて只の角材となった柱の一部、襖、凡ての物が、宮部にとっての武器となり得る。
近藤は其等を排除しながら、宮部との間合を詰めた。
虎徹が転がった侭になっている。宮部の手に其は渡った。・・・・・・宮部が虎徹を手にした瞬間に、近藤の頭はカッと熱くなった。
―――虎徹が近藤を刺す。鎖帷子を着ていなければ、腸が飛び出しているところであった。
近藤は激昂した。嘗て出した事の無い力で弾き飛ばし、松陰の刀を折る。
「――――――・・・」
虎徹を取り戻すべく振り回された刀が宮部の腕ももっていく。虎徹が宙を舞い、近藤が柄を受け止める。宮部はその場に崩れた。
「・・・・・・っ・・・」
腕は腱を切られていた。この腕も使いものにならない。白骨が見え、そこから呼吸をする度に血が噴き出している。
もう、如何にもならない。
宮部は掌におさまる程に小さくなった松陰の刀を見つめていた。・・・近藤が虎徹を宮部に突きつける。
「―――観念為されよ、宮部殿」
「・・・・・・・・・」
・・・階下より足音が駆け上がって来る。敵の新手が現れた。その新手も叉、可也の返り血を浴びている。
階下の志士達は皆斬られたのか。
「あなたは間違っている。今も・・・・・・過去も」
近藤が諭す様に言った。・・・宮部はゆっくりと顔を上げる。後悔と絶望に嘸や表情を歪ませていると思いきや、宮部は無表情だった。
近藤はゾクリとした。血だらけになった宮部の眼は確実に近藤の中の何かを捉えている。視えない方が視える刻がある。
今此処で近藤が遣った事と、過去に宮部が遣った事。内容は同じである。大義名分も同じで、結局のところ同胞同志の殺戮だ。
宮部は専らこの池田屋事変の引き立て役である。知名度としては若しかしたら吉田 稔麿よりも低く、大河で彼を演じておきながら無名の志士と言い切った自称幕末好きもいる。殺されて当然と言う者も在る。
只、この複雑な時代、遣った事も複雑に見えるが実際は皆同じ事を遣っている。評価されるかされないか、正しいか間違っているかは勝者と判官贔屓の主観で決る。而も、可也打算的に決る。確かにここで敗け地元の支持も得られぬ宮部は世間的に間違っており、殺されて当然の人間なのだろう。だが、刻だけは皆に対して平等である。
―――新選組は池田屋事変が隆盛の刻となり、後は朽ちてゆく。
利用される近藤の底を、宮部は観察する様な眼で視ていた。
「・・・・・・っ、宮部を捕縛しろ!!」
近藤は不気味に感じた。宮部は急に一切の抵抗をやめて仕舞った。赤い瞳から、哀れみの涙を流している。
宮部の腕に縄が掛けられるまさにその瞬間
ドターン!!
―――階下より、激しい音がした。




