百四. 1864年、断章・池田屋~浅葱色の幽霊~
「1864年、断章・池田屋」
土方が一人で蔵に籠ってから古高の悲鳴が絶え間無く聞える様になってきて、近藤も少しずつ顔色が悪くなっていた。
相手が人でもそうでなくとも、苦しむ声を聞き続ければ余程の性癖をもつ者でない限り精神に変調を障す様になってくる。
『・・・・・・』
近藤は頭を押えて溜息を吐く。近藤はこの時期、何やら深く思い悩んでいたらしい。何について悩んでいたのか筆者は知らぬ。
とにかく其があって、近藤は土方の様に人心を排す事が出来ずにいた。
だが、そんな近藤の苦悩など、志士や本作に於いては志士の味方である筆者は勿論、大半の新選組隊士にも関係の無い事だ。
『―――御顔が優れませぬな』
擦れ違いざまに囁く声がある。幻聴かと思って振り返れば、桶と手拭を小脇に抱えた隊士が此方を視ている。
―――隊士は今一度お辞儀をした。
『・・・局長も中暑に御座いますか』
『―――あ、ああ、いや。君は山野君の看病か?大変だな。毎回毎回』
『・・・別に。もう慣れました』
愛想も小想も無い返事がくる。試衛館の連中ですらここ迄無愛想な者はいないが、愛想があろうと無かろうと近藤には余り関係が無かった。
ただ、その頭脳が好きである。
『・・・・・・御加減が悪い訳ではないのでしたら良いのですが』
隊士はそう言いながらも歩き出そうとはしない。近藤が何かを言い出すのを俟っている様である。其程に、近藤は思い詰めた顔をしていた。
『・・・・・・膽―――『俊太郎に御座ります』
―――古高の嗚咽と嘔吐きが風に乗って聴こえてくる。図らずも、近藤は意識して仕舞った。只の偶然であるのに。
『今は、俊太郎です』
・・・・・・隊士は冷めた眼をして繰り返した。
『局長、少し、稽古の相手をしてくださりませぬか』
隊士は非常に気紛れな態で言った。―――この一大事に、と近藤は思わないでもなかったが、稽古をいつも手抜する事ばかり考えているこの男が自分から稽古をしたいと言うのは珍しい。
・・・古高が自白する迄まだ長い。近藤は肯き、心の棘を竹刀に代えて稽古に吐露する事にした。
―――我等を踏台に為さいませ。
―――ガッ!!
ギンッ!! ギンッ!!
二合、三合、と刀をぶつけ合う。勢いが強いのは近藤の方だ。矢張り、日頃あの太い棒の様な物を振っているだけはある。
大きく跳び下がり、近藤は刀を構え直す。併し、相手は構えない。その間にも相手は急接近し、近藤の刀を弾いた。
「!?」
剣が何処に在るのか判らない。自分のではなく、相手のだ。
弾かれたと思ったら、胴に剣が在り、薙がれようとしていた。
「くっ!!」
近藤は腰を捻って躱した。其でも完全に躱し切る事は出来ず、刃が喰い込んで血が滲む。二人は再び離れた。
(なるほど―――・・・)
確かに、武術と謂うよりは芸術の世界に引き入れられた様な感覚である。幽玄で、柔軟で。猿楽が由来の剣術と言われて肯ける。
その余りに滑らかな動きで、何処から剣が飛んで来るのか判らない。
(左―――・・・)
いつの間にか、剣を持つ手が替っている。
本当に左手で遣えるのか。否、この男の場合、左で扱う方が力や精度に於いて優っている様な気がする。
(―――あいつと逆だ)
まるで鏡合わせの様だと近藤は想った。
昨年の、時節柄今に重なる季節であった。あの時も山野が中暑で倒れたのだった。第一次隊士募集の頃だ。
―――あいつが再びふらりと遣って来たのも。
廊下に落ちていたのを拾ったと言って看病するあいつは、山野の顔の透き通る様な白さもあって、屍体をめでている様に見えた。
どんな着物を着ても黒と灰と紺を混ぜくった様なくすんだ陰影となるあいつには、既に死の匂いが纏わりついていた。
余りの変りように、思わずトシに漏らした事がある。併しトシはあいつを知らなかった。遠くからでも一度は眼にしている筈なのだが。そういった意味では、あいつは一度死んでいるのかも知れない。
『近藤先生』
と、稽古の時のみあいつはそう呼んだ。
『―――懐かしいな』
『・・・何の事でしょうか』
あいつは顔を髪で隠した侭竹刀を握る。併しいつもより口の端が心なしか弛んで、戸惑いがある様に見えた。
『―――聴いて欲しい事があるのだが』
素振りで前を向きつつも斯う切り出した。上司が準備をしているのにあいつは其に合わせる事をしない。
『・・・・・・何で御座いましょう』
腰には竹刀をもう一本差している。
『トシは俺を信じてくれている』
『・・・・・・』
『俺の為には手が汚れる事も厭わない。だが俺は迷っている。本当にこの道で良いのか如何か・・・お前には答えが解っているのだろう?尊皇攘夷とは何なのか。この道で本当に正しいのか、尊皇攘夷の本場である西国の君が示してくれ』
―――・・・ あいつの髪がばさりと揺れて、軽蔑ともとれる冷め切った瞳が此方を睨んでいた。光の無い漆黒が目一杯に見開かれている。
『・・・・・・何を、躊躇われているのです』
『とぼけるな』
相手の反応につい感情的になる。こいつは解っていて知らぬ振りをする事がよくある。隊規の為に己を殺すトシと反対なのによく似ている。
『流石に良心が痛むぞ!何かあれば俺がお前の師を討つ事になる。古高が何も吐かない事を、俺自身が一番望んでいるんだ!!』
・・・罪があるかも判らないのに。尊皇攘夷の志を抱いている点で変りはないのに。初めて出来た西国の弟の―――・・・こいつを総司と喩えるならばもう一人の自分の様な対象なのに。
あいつは眼を見開いた侭であったが、軈て咽喉を鳴らし始め、頭を擡げ、蒼穹を仰いで、腹を押えて大声で哂い始めた。
初めての事で、こんな子であったかと、思わず過去の記憶の引き出しを片っ端から開いて捜す。
あいつは一頻哂い崩れた後、頭を伏せ、不気味な光の差した眼で此方を流し見た。
―――あいつが、近づいて来る。
『鬼に、おなりなさいませ』
あいつが、耳元で囁いた。
『・・・気に病む必要など何処にも御座いませぬ。試衛館の師弟関係とは事情が違いまする。
―――其より、副長を一人で往かせてはなりませぬぞ・・・?』
くすくすと哂いを含む声が、耳だけでなく心もざわつかせる。あいつの言ノ葉には自らの師に対する明らかな毒が込められていた。
『肥後人を、踏台に為さいませ』
あいつが顔を近づける。重い前髪をたくし上げて、色味の違う両の眼を見せた。・・・不思議だ。同じ漆黒の虹彩なのに、光を受けると片方の瞳孔だけこびりついた血の色に視えた。
瞳孔の奥には更に、赤黒い世界の中、片方の眼からは血を、片方の眼からは涙を流したあいつが光源を求めて視線を彷徨わせている。乾いた地面と、圧し掛る濡れた死体の臭い。何れの死体にも、くびが無かった。
地面を血と油が満たしてゆく。
軈て光源が現れた。蝋燭の火を紙に移し、焼べた紙を地面と油と血と死体の層に投げ入れる。火は炎となって爆発的に燃え拡がり、臙脂から火色へその世界の様相を変えた。
熱い。
急激に緋くなった世界が映し出したのは、燃え拡がる炎の親である蝋燭を手に持つ者だ。
―――・・・その姿は、宮部 鼎蔵であった。
『―――彦斎』
宮部は蝋燭の火を消し、自らが生んだ焔から離れた。
『おぬしはもうよいか』
視界が明るくなる事で、ずっと疑問に感じていた眼前の山の正体を知る。思わず吐き気が込み上げる。何と悪趣味な。あいつはこの光景を目の当りにしてきたというのか。
―――首塚だ。
首塚の前に、短身痩躯の童と思える者が立っていた。別の躯の層を見つめている。小さな手には立派な刀を持っている。握り方は子供のちゃんばらの様に無作法だ。だが、刀は血に濡れている。
童は背後を振り返り、此方を見た。返り血に塗れた着物、流れる涙、涙に反する感情の無い瞳―――・・・その童の貌は
『お前―――・・・!!』
近藤は堪らず叫んだ。
『――――・・・・・・はい、宮部先生・・・』
物語は勝手に展開してゆく。その者は握った刀で死体の着物を切り裂くと、血溜りに自身の指をつけ
『 天 誅 』
と、その布に書いた。宮部は見張る様な眼で其を視ている。
『―――往くぞ』
布を抛る。ひらひらと落ちる布を刀で一刺しし、地面に縫い留めた。そして、去る。
去り往く間にも宮部は幾度も振り返り、燃える様に冷ややかな瞳であいつの死を執拗に確めていた。




