あるいはそれは、大陸の命運を決するほどの
騎士。
過去にこそ権力的に意味のある単語だったにしろ、現在では半ば形骸化したカビ臭い肩書き……なのだが、そんなことより今までのそれとは比較にならない大金を国から支給されていることで彼女はそれはもう浮かれに浮かれていた。
エイリナ=ピンクローズリリィ男爵令嬢。
薄い赤のツインテールに透き通るような碧眼の、外見こそ愛らしさの塊である少女。それでいて、大悪魔を支配した第二王子によって人間から悪魔もどきへと変えられた怪物の群れさえも軽く一蹴するほどの力の持ち主でもある。
あの大将軍が妹からの助言を受けて金を使って懐柔することを選択したほどである、と言えばその実力も測れるというものだ。
「うっふふ。うっふっふうー☆」
シェルファと第一王子との婚約破棄騒動にも一枚噛んでいたが、あれはあくまで宰相の言う通りに動いていただけ。そういった搦め手を己の頭で考えついて実行する自力はない。そう、あくまで手足であり頭脳にはならないのだから。
大将軍辺りはこの結末に満足いっていないにしても、これが『最善』となってしまうほどの脅威であるのも事実。少なくとも彼女が国家と敵対しない限りは金で囲って飼い殺しにしておいて、有事の際には騎士の称号を盾にいいように使うことだろう。
さて、そんな男爵令嬢はといえば悪魔もどきや『冥王ノ息吹』による被害から復興が進み、営業を再開したケーキ屋さんのテラスでチョコケーキを頬張っていた。
「うふっ、うふふっ、美味しいですわぁっ。この、こうっ、なんかもうとにかく美味しいですわあ!!」
「お姉さん、語彙がなさすぎない?」
対面に腰掛けた男の子、件の第二王子お手製悪魔もどきによって殺されそうなところを男爵令嬢から助けられたエルガであった。
十歳未満だろう男の子からの指摘に外見だけは愛らしい男爵令嬢は頬に手を当ててうっとりしながら、
「仕方ないですわ。美味しいものは美味しい、それ以上に表現しようがないんですから!!」
「ふぅん」
そうは言うが、男の子は知っている。
男爵令嬢、そうこんなんでも貴族であるエイリナ=ピンクローズリリィだが、貴族らしさなんてさっぱりなことを。
それこそそこらに転がる平民である男の子と教養は同程度なのだ。
そう、それくらいはわかる。それこそ今だって本当は恥ずかしいのを誤魔化したのだと察することができるくらいには交流があった。
エイリナ=ピンクローズリリィ男爵令嬢が拒むことがなかったから。声をかければ返してくれて、今からケーキを食べに行くところだから一緒にどう? と誘ってくれるから。
貴族でありながら、貴族らしくない彼女。
陣を用いる魔導ではあり得ない力を振るい、形骸化したとはいえ国から騎士の称号を賜るほどの、ただの平民である男の子とは住む世界の違う存在……のはずなのに、そんなことを感じさせず、エイリナ=ピンクローズリリィ男爵令嬢はあくまで対等に向き合ってくれていた。
それが嬉しいと思う自分にエルガは逆らうことはできずにいた。どれだけ対等に感じていても、本質的には貴族と平民なのだと分かっていても、もう少しこの甘い夢にすがっていたいと思うくらいには。
「お姉さん、頬にチョコついてるよ」
「む?」
指摘に、エイリナ=ピンクローズリリィ男爵令嬢はこう返した。
「そうですわ? だったら、ん。とってですわ」
…………。
…………。
…………。
「な、ん」
「ですから、ん。早くですわ」
無防備だった。対等だのなんだの以前の話だった。軽く顔を前に。どうしてそう無防備に頬を差し出せるのだとエルガは叫びたくてたまらなかった。
「お姉さん、本当、もう、お姉さんは本当もうだよね」
言いながらも、手を伸ばす男の子。
こんなものは何の意味もない。エイリナ=ピンクローズリリィ男爵令嬢という少女は距離感が普通の人のそれとは違うのだ。そんなものはもうわかっている。わかるくらいの交流があった。だから、それでも、男の子の心の内を示すように伸ばされた手は震えていた。
ようやっと震える手でエイリナの頬についたチョコを拭い取るエルガ。『ありがとうですわ』と軽く笑顔を浮かべて返す男爵令嬢は何事もなかったようにチョコケーキを頬張っていた。
「…………、」
一方、拭い取ったチョコがついた指をエルガはじっと見つめていた。これどうすればいいのだと心の中はもう混乱を極めていた。
だから。
だから。
だから。
「久しぶりですね、エイリナ」
するり、と。
その声はそれこそ何の予兆もなく投げかけられた。
「わっ。な、なに?」
視線を向けるといつの間にそんなにも近づいたのか、右手側に女が立っていた。
メイド服をマントのように羽織った、感情を感じさせない無感動な表情の女であった。見覚えはないが、エイリナと呼びかけていたので男爵令嬢の知り合いなのだろう。
瞬間。
ゴッッッバァ!!!! と凄まじい爆音が炸裂した。
エイリナ=ピンクローズリリィ男爵令嬢の得意技。かの悪魔もどきを瞬殺した一撃。
当然の爆音に周囲からは悲鳴や兵士を呼ぶ声などが響いていたが、そんなものエルガの耳には届いていなかった。
なぜなら、
「ひっ、ぁ……」
「おねえ、さん?」
目の前に、見たことのないエイリナ=ピンクローズリリィ男爵令嬢がいたから。
いつだって、それこそ悪魔もどきの群れを前にしても平然としていたあのエイリナ=ピンクローズリリィ男爵令嬢が無表情メイド服女を前にして恐怖に目を見開いていたのだ。
その視線の先には無傷の、それこそ防ぐ必要もないと言いたげに立つ女が一人。
魔導とは違うと断言できる不可思議な力を操り、悪魔もどきを軽々と粉砕してエルガを助けてくれた英雄は、しかし、無表情な女を前に恐怖に屈していた。
「無傷……ああ、やっぱりそっくりさんなんてオチじゃなかったですわ。 ミーナ、なんで、ミーナが、こんなの、ありえないですわ。ふっ封印は、だって、貴女様がいなくなったからこそわたしはこうして新天地で豪華絢爛ハッピーライフを、そんな、嘘ですわ、こんなの、だって、困るのですわ!! ようやく血生臭い方法に依存することない、好きに過ごせる環境を手に入れることができたというのに、あんな血生臭いのはもう嫌で──」
「エイリナ」
「…………ッッッ!!!!」
名前を呼ぶだけで、だ。
あのエイリナ=ピンクローズリリィ男爵令嬢の口からおそらく意識することなく漏れていた泣き言が封殺される。
まるで盗賊に襲われた女の子のように、何もできずに震えるだけで。
──それを、男の子は見ていた。
事情は知らない。無表情な女は誰なのか、エイリナ=ピンクローズリリィ男爵令嬢との関係はどうなのか。そう、いくら男の子とエイリナとのあいだに交流があっても、彼女の深い部分は未だ知り得てはいなかった。
エイリナ=ピンクローズリリィ男爵令嬢の『正体』を、エルガは知らない。
男の子に大悪魔を支配した第二王子や悪魔を支配する女王を打倒できるような力はない。時代を左右するような傑物ではない。
平々凡々なただの平民。
ありふれた、どこにだって転がっている有象無象の一人でしかない。
彼が成し遂げられることなんて平凡の一言に尽きる。おそらく普通に成長して、普通に働いて、普通に家庭をもって、普通に死んでいけば良いほうだろう。
その程度だ。決して時代を左右するような英雄にはなれない。エイリナ=ピンクローズリリィ男爵令嬢とは、致命的に違うのだ。
だから。
だから。
だから、だ。
無表情な女がエイリナ=ピンクローズリリィ男爵令嬢へと伸ばしたその手を、男の子は真上に弾き飛ばしていた。
初めて。
無表情な女が不思議そうに男の子へと視線を送る。こうして介入できるわけがないと捨て置いていたのか、いいやそもそも認識すらしていなかったのかもしれない。
なぜなら無表情な女はエイリナ=ピンクローズリリィ男爵令嬢の一撃さえも何でもなさそうに受けるだけの怪物だ。特別な力なんて何もない男の子などそれこそ埃でも払うように粉砕できるだろう。
男の子なんてその程度だと、突きつけられるようだった。だけど、そんなものは他ならぬ男の子自身が知っている。
だからこそ、彼は言う。
「お姉さんを虐めるな」
平凡な、どこにだって転がっているただの男の子だからこそ、だ。
時代を左右するような力はなく、人の心を揺さぶるような激動の人生を歩めるほどの素質はなく、だからといってそれは何もしない免罪符にはならない。
だって、助けるだろう。
平凡でありふれていてそこらに転がっているような男であれば、惚れた女のために動くに決まっているだろう。
例え取り柄なんて何もなくても、惚れた女が泣いていれば全てをかなぐり捨ててでも駆けつけるのが男だろう!!
だから、盾になれ。
男ならば惚れた女を守ってみせろ。
それくらいは、できるはずだ。
時代を左右することは出来ずとも、惚れた女一人を守るくらいならできるに決まっているだろう。
「お姉さんを虐めるなら、ぼくが相手になってやる!!」
力の差なんて歴然で、それでもエルガは叫んでいた。目からは今にも涙がこぼれそうでも、真っ向から無表情な女を見据えて。
「……、なるほど」
呟き、そして。
無表情な女はこう言った。
「そういうことであれば仕方ありませんね」
その言葉と共に無表情な女は溶けるように消えていった。エイリナ=ピンクローズリリィ男爵令嬢と同じように魔導とは違う、何かしらの力でもって。
しばらくエルガは身動き一つ取れなかった。大きく息を吐き、ずるずると椅子に崩れ落ちるように体重を預ける。
「こ、怖かったぁ……!」
「怖かったぁ、ではないですわ。エルガ、なにを、何をやっているんですわ!? あの女は国だろうが大陸だろうが感情一つ動かさずにぶち壊す怪物ですわ!! そんな女に、あんな、自殺行為にもほどがあるのですわ!!」
「あ、あはは。そうだね、うん、確かにそうなのかもだけど、さ。ここで何もできなかったらもうお姉さんのそばにはいられない気がしたから」
「馬鹿、ですわ。あの怪物に立ち向かったって粉砕されるのがオチですわ。何やら今回は立ち去ったようですが、あんな風に気まぐれで動くのがあの女ですわ。こちらが何をしたってあの女の気まぐれ一つで全ては決まるのですわ!」
「それでも、お姉さんを助けたかったから」
「……っ」
微かに、男爵令嬢の表情が軋む。
どこかいつもとは違う『それ』に、しかしエルガが気付く余裕はなかった。
なぜなら、エイリナが手を伸ばし、エルガの手を握ったからだ。
「まったく、本当馬鹿ですわ。……エルガ、ありがとうですわ」
「っ。う、うん」
手に伝わる柔らかく温かなその感触に、エルガは心臓が高鳴り、頬が熱くなって、もういっぱいいっぱいであった。
ーーー☆ーーー
それは世界のどこか、あるいは物語の外側でのことだった。
「ネフィレンス、質問があります」
「何ヨ?」
「アタシ、怖いですか?」
「…………、」
「久しぶりにエイリナの顔でも見ようかと思っただけだったのですが、あんなにも怯えられるとは。エイリナに何かしたことはなかったはずなのに」
「イヤ、それはネェ? 『魔の極致』に惜しくもランクインできなかった程度の魔族が頂点も頂点、最強の代名詞であるミーナに怯えないわけないジャン。ちょっとは自分が昔何をやったか思い出しテ!」
「六百年前のことですか? ですからエイリナには何もやってないですって」
「これだからミーナはサァ……」
「ですけど、よかったです。エイリナも『好き』を手に入れているようでしたから」
「それよネェ。『魔の極致』に惜しくもランクインできていない程度の戦力がどうなろうが大局に影響はないから捨て置いているケド、同じように『魔の極致』が次々と『好き』とやらに溺れるせいで世界征服もクソもないんだよネェ!!」
「エイリナ。貴女の『好き』、中々のものですね。もちろんセシリー様ほどではないですけどね」
ーーー☆ーーー
そして。
呪いの地の攻略のために準備を進めていたシェルファはこう言っていた。
「流石に覚悟を決めるところでした、ね」
「お嬢様、どうかしたの?」
「いいえ。どうもしなかったという話です」
「むう。毎度のごとく意味深に格好つけてやがるの。一人で勝手に余裕ぶって……こうなったら、シローっ! 抱きついちゃうのーっ!!」
「ヨク、ワカラン、ガ、マァ、イイカ。ホイット」
「わひゅ、はうううっ!!」
「よっし、成功なのっ」
「レッサー、ナニ、ヤッテイル、ノ?」
「説明する気ないくせに意味深なこと呟くお嬢様のしたり顔崩しているのっ。わっはっはっ。いつまでも困惑しているだけのレッサーさんではないのーっ!!」
「タノシソウ、ダネェ」
世界は今日も平和であった。




