第二十三話 完璧な令嬢として
弱肉強食が常の自然の中、魔獣に育てられた人間は狼の生態を身につける。
略奪が基本のスラム街で育った人間は人の物を奪うことに忌避感は薄くなる。
裕福な家庭で蝶よ花よと善意や優しさに包まれて育った人間は人を疑うことなど考えなくなる。
周辺環境とは人格を形成する大きな要素となり得る。ならば、幼少期を『完璧な令嬢』として磨き上げるための過激な教育環境で育ち、いざ『完璧な令嬢』として完成したらしたで完璧すぎるがゆえに実の父親にすら気味が悪いと扱われてきた少女の人格はどのような形になったのだろうか。
ーーー☆ーーー
その時、シェルファは隻腕の異形が次に何をしてくるのかを正確に予測していた。
(わたくしに超常は通用しないとわかっての一斉射出。であれば狙いはわたくしの動きを封じることでしょう)
キロ単位に及ぶ炎の雨が降り注ぐ。
それらがレッサーやキキ、子犬たちに襲いかかる前にシェルファはバックステップで彼女たちのもとに駆け寄り、その腕を振るう。
描くは魔法陣。
目的は迫る炎の雨を逸らすこと、だけではない。
ゴッバァッッッ!!!! とキロ単位を炎の雨が埋め尽くす。その時、シェルファは迫る炎の雨の軌道を変え、爆風を外側に撒き散らすことで炎の雨が生み出す余波、すなわち超常ではなく物理現象による爆風を防いだ。
そして。
そこで終わりではない。
(一つ目野郎は気づいています。わたくしに超常は通用しないが、それ以外ならば通用することに。つまり、身体能力に任せた暴力。それをぶつけるための足止めとして対軍魔導なんていう大仰なものを使ってきたんです。こうなると、犠牲なしで勝ちを掴むのは難しいでしょうね)
炎の雨へ対応するならば、次の打撃を回避することは不可能だろう。いかに先読みできていようとも、身体が追いつかなければ意味はないのだから。
攻撃は、通る。
ならば、それを前提に組み込めばいい。
そう。
シェルファへと攻撃の矛先を向けた瞬間こそ足止めとなる。隙だらけな異形へとキキが攻撃を仕掛ければいいというわけだ。まさしく今異形がしようとしていることをそのまま返す形である。
三メートル以上もの体躯から繰り出される暴虐をまともに受ければシェルファの肉体がどうなるか予想はついている。ついていて、それでもシェルファは確実に敵を始末するルートを選ぶ。
なぜなら、
(わたくし一人を切り捨てればみんなが助かるんです。それが最善というものでしょう)
どこまでも他人事。
己が命さえも『最善』という言葉のもとに切り捨ててしまっていた。
そういうものだから。
完璧とは、すなわち効率的だということ。合理的にして機械的な思考回路でもって計算したならば、確かにそんな答えに行き着くのかもしれない。
……それだけがシェルファを形作るものではないのかもしれないが、命のやり取りの中、顔を覗かせたのは『完璧な令嬢』としての側面であった。
だから。
だから。
だから。
「シェルファッ!!」
どんっ! と打撃の効果範囲の外に押し出されたシェルファはなぜそうなったのか理解できなかった。
キキだ。
キキがシェルファを両手で突き飛ばし、そして──予想通り踏み込んできた異形の右の剛腕がキキを薙ぎ払う。
肉がひしゃげて、骨が砕ける音が響く。
数十メートルもノーバウンドで滑空し、地面に叩きつけられ、何度も何度も水切りのように跳ねる。
ゴッドン!! と洞窟の中まで飛ばされ、その最奥の壁に叩きつけられただろう轟音が外のシェルファたちにまで届くほどだった。
「キキっ!!」
「なん、で……ですか?」
尻餅をついたシェルファはレッサーの悲鳴のような叫びを聞きながら、首を傾げていた。
理解できなかった。
だってシェルファを囮にすれば異形にトドメを刺せたはずで、だってここでキキがダウンすれば異形にトドメを刺せる手札がなくなるわけで、だって残った者たちで立ち向かったって皆殺しにされるのは時間の問題で、だってそれならシェルファ一人を切り捨てて勝利を掴むのが完璧な答えで、なのに──
『ぎゃははっ! 賢者の末裔は最後にぶっ殺すつもりだったんだがなぁ? まさか自分から死ににくるなんて予想してなかったっつーの』
「…………、」
『まぁこれで決定打は失われたってわけだぁ。ぎゃは、ぎゃははははっ!! 賢者の末裔のくせに馬鹿すぎるなぁ!! 自己犠牲の精神発揮して、無駄死にしたっつーんだからなぁ!! お前がくたばったお陰で、残った連中じっくりゆっくりなぶり殺しにできるってなぁ!!』
「…………、」
納得していた。
異形の言葉は一から十まで正しい。
決定打は失われた。異形にダメージを与える手札がなくなった以上、いくらシェルファたちが足掻いたところで最後には皆殺されるだけだ。
正しい、と完璧な側面は納得してしまった。他人事のように俯瞰して物事を見る完璧な視点では、それ以上の感想を抱くことはない。
だけど。
だけど、だ。
ふざけるな、と。完璧以外の何かがシェルファの中で叫んでいた。
「レッサー、それにみんなも。キキのこと、頼みました」
「おっお嬢様、何を!?」
「あのクソ野郎は、わたくしが対応します。だから、早くキキを助けに行ってください。必要な材料も、作り方も知っているはずです。だから」
「でもっ、お嬢様一人でこいつの相手を……ッ!!」
言いかけて、レッサーは奥歯を噛み締める。それ以上の言葉を無理にでも封じ込める。
それでは、レッサーに何ができる?
異形に立ち向かったって瞬殺されるのがオチだ。それならば、それだったならば、できることをやったほうがいいに決まっている。
それに。
キキのことだって助けたいに決まっていたから。
「すぐに治してみせるの。キキさえ復活すれば勝ちの目は見えるの! だから、それまで耐えて、お嬢様!!」
「……、ええ」
だんっ! と地面を蹴るレッサー。周囲の子犬たちは迷うようにその場で足踏みするが、レッサーが『早く素材を集めてきて! それが結果的にお嬢様のためにもなるから!!』と血反吐を吐くような悲痛な叫びを聞き、迷いを振り切るように散らばっていった。
そして。
シェルファはゆっくりと立ち上がり、真正面、拳が届く間合いに立つ異形を見据える。
「わざわざ待っているだなんて余裕ですね」
『ぎゃははっ! 結末は分かりきっているんだぁ! 慌てず騒がず堪能しないとなぁ!!』
「その余裕が命取りとなるかもしれませんよ?」
『そうかよ。だったら、そんな戯言ほざきながら潰れちまいなぁ!!』
ゴッ!! と空気が拡散する。撒き散らされる余波でさえ木々を揺らすほどの暴風と化す右拳がシェルファへと襲いかかるが、軽く身をさばくことで回避する。
令嬢のマナー。皮膚や筋肉の動きといった外側に現れる変化から内側の感情や思考を暴く観察眼。どこに攻撃してくるかが事前にわかっていれば、人並みの身体能力でも回避くらいならばできる。
だが、
「……っ」
微かにシェルファの表情がこわばる。直後、異形は剛腕を頭上まで持ち上げて、勢いよく振り下ろした。
もちろんシェルファは直撃は回避できる。が、振り下ろされた剛腕はそのまま地面へと叩きつけられ、轟音を炸裂させる。
粉塵と共に吹き荒れるは衝撃波。腕力のみで実現した暴風はくるとわかっていても回避のしようがなく、あくまで物理現象のため魔導による誘導で受け流すこともできない。
結果、シェルファの華奢な肉体が宙を舞った。
枯れ葉のように軽々と舞うシェルファは軽く数メートルほど浮かび、頭から地面に叩きつけられる。
「か、は……!?」
ぐわぁん!! と脳が揺れる。一瞬だが気絶していたのか、前後の記憶があやふやに溶ける。
痛みを自覚した瞬間には脳が最大級の警報を発していた。
(ま、ずい……追撃が──ッ!!)
『遅っそいなぁ!!』
ゴッドォン!! と仰向けに倒れるシェルファの腹部へと、右の剛腕が振り下ろされた。
「ぶっ、ばぶっ!?」
ぶしゅう!! とシェルファの口から赤黒い液体が勢いよく噴き出る。まるで中身を搾り出されたように。
そこで終わらない。終わるわけがない。
キキに切断された左の腕の断面から鮮血を噴き出す異形がもう片方の無事な腕を持ち上げる。緩慢な動きだった。見せつけるようにゆっくりと持ち上がる腕に対して、しかしシェルファは回避行動に移ることもできなかった。
内臓が破損したからか、骨が砕かれたからか、その前に頭を強く打ったからか、身体が動かない。完璧な令嬢、物事を他人事のように俯瞰して観察する視点があるからこそ思考を維持できているが、普通の人間ならばとっくに意識を飛ばしていてもおかしくない。
「……、もうすこ、し……稼ぎたかった、んで、す……けど」
『あぁ? 何言ってんだぁ???』
「せめて……レッサー、たちには……間に、合う、と……いいんですが……。がぶべぶっ!!」
『ぎゃははっ! まぁなんでもいいやっ。人間ごときが我が復讐を邪魔した報い、存分に味わって死ね!!』
そう簡単には殺されないだろう、と見抜いていた。異形の剛腕ならば人体の一つや二つ軽々と粉砕できただろうに、こうして形を保っていることからもそのことは伺える。
なぶり殺し。
じっくりゆっくりいたぶって殺すつもりなのだ。
そのほうがいい、と完璧な視点は判断していた。時間をかけてくれたほうが突破口が開かれる可能性は高くなるのだから。
時間がかけられる分だけ、じっくりゆっくりいたぶられる分だけ、有利に働くのならば多少の痛みは我慢──
(……ああ)
ノイズが、走る。
完璧な令嬢としての側面。幼少期に埋め込まれた思考へと、もっとずっと単純な感情が横槍を入れる。
(痛いのは、嫌ですね……)
じわり、と視界を歪ませたのは涙か。
痛いのだろうと想定はしていた。が、あくまで想定は想定。シェルファは戦闘経験なんてほとんどなく、怪我なんてしたことがない。そう、公爵令嬢にして未来の王妃として生きてきた彼女は『本当』の痛みなんてものはろくに味わったことはなく、また『本当』の痛みを与えてくる者に対する恐怖を味わったこともなかったのだ。
彼女にとって痛みとは擬似的な致命傷の再現が全てであり、『死ぬことはない』と判断してしまえるものでしかなかった。『本当』は、痛みとは、『死んでしまう』こともある恐怖だというのに。
他人事のように流せばいいはずなのに、ノイズが邪魔をする。完璧な令嬢という側面以外の何かが訴えてくる。
時間をかけて痛めつけられたほうがいいはずなのに、せめて一撃で楽にしてほしいなどといったノイズさえ走る始末である。
その感情はどこからくるものなのか。
少なくとも今この瞬間、必要なものではない。そのはずなのに、それは強く、大きくなっていく。
「……けて……」
溢れるは幼い子供のような声。
完璧な令嬢としての側面が表に出ている時ならば、決して発することはなかっただろう、駄々をこねる女の子のような声が、響く。
「たすけて、シロ……」
意味なんて何もない。
そんな言葉が現実に何かしらの影響を与えるわけがない。
合理性なんてどこにもなく、そもそもせっかく異形のニオイを嗅いだシロが駆けつけてくれるまでの時間を稼いでいたというのにこちらの手札を晒すような真似をしたって不利益しかないのに。
それでも、溢れた。
意味なんてどこにもないとわかっていても、すがった。
『──キエロ』
脳裏に浮かぶは初めて邂逅した時の記憶。縄張りに見知らぬ者を近づけたくないと威嚇しながらも、そんな外側では隠しきれないほどに純粋な内側が見て取れた。
もふもふした外見に惹かれたのは確かだ。きっかけはシロの外見ではあった。が、思わず抱きついたのは抱きついても大丈夫だと安心したから。その内側の純粋な輝きに目を奪われたからだ。
だから、だろうか。
最後の最後、幼少期に埋め込まれた完璧な令嬢としての側面が砕け、幼い『何か』が表に出た時、無意味とわかっていてもすがったのはシロだった。
わかっている。
名前を呼んだって駆けつけてくれるわけではないことは。
それでも。
それでも。
それでも。
『ぎゃは、ぎゃははっ、ぎゃはははははっ!! 誰にすがったのかは知らないが、お前は誰に助けられることなくぶっ潰れて死ぬ定めみたいだなぁ!!』
不快な声が、鼓膜を震わせて。
右の剛腕が、振り下ろされる。
ーーー☆ーーー
「フザッケンナッッッ!!!!」
ーーー☆ーーー
ゴッバァンッッッ!!!! と轟音が炸裂する。
それはシェルファの華奢な身体が叩き潰された音、ではない。
異形が吹き飛ばされる。
真っ直ぐに、周囲に広がる炎を突き破り、穢れなき毛並みを焼き焦がしながらも突っ込んできた少年が異形へと体当たりして、吹き飛ばしたのだ。
爪で切り裂くとか、蹴りで薙ぎ払うとか、考える余裕すらなかったのだ。シェルファのもとに駆けつける、それだけを考えていて、間に立ち塞がる邪魔な障害物を避けたりどかしたりなんて無駄な時間を使う余裕なんてどこにもなかったのだ。
だから、ぶつかった。
そのままの勢いでシェルファのもとへと駆けつけた。
「ワルイ。オソク、ナッタ」
それは。
そこに立っていたのは。
「し、ろ……?」
「デモ、モウ、ダイジョウブ、ダカラ、ナ。モウ、コレイジョウ、ゼッタイ、ニ! オマエ、ヲ、キズツケサセナイ、カラ!!」
助けを呼ぶ声に意味なんてない。
声を出していようがいまいがシロはこうしてたどり着いていただろう。それが合理性を突き詰めた完璧な答えというものだ。
そんなもの、どうでもよかった。
来てくれた、ただそれだけの事実がシェルファの胸に広がっていく。
視界が歪む。
溢れる涙は、しかし先ほどまでの涙とは別物であった。




