第十四話 魔沼、その性質は?
シロが目覚めたら、目の前に少女の顔があった。
「……ッ、……!?」
ぶるりっと肩が震える。甘い吐息が鼻腔をくすぐり、温かな体温がじんわりと伝わってくる。
黒髪の少女であった。長い睫毛に輝くばかりの乳白色の肌。腹部に当たる柔らかな感触は自己主張の激しい胸部だろう。
「ん……ぅ……」
シロが動いたからか、少女が吐息と共に瞼を震わせる。ゆっくりと、開く。
底が見通せないほどに深い漆黒の瞳が覗く。
とろん、と緩く、蕩けるように。
「ふぁ……しろ、おはよぉ……ござい、ましゅ」
「オ、オウ」
ふにゃふにゃしていた。
どんな場所でも眠ることができて、接近する者を感知すれば即座に覚醒、万全の反応を可能とするシロとは違い、起床から覚醒までに時間がかかるようだ。
とはいえ、シロも誰彼構わず近づいたからといって瞬時に覚醒するわけではない。仲間が近づいてきても危害を加えることはないと『安心』しているからか、声をかけられでもしない限りは覚醒することはない。
では、少女──離れて眠りについていたはずのシェルファがこうして抱きついていても気づくことなく眠っていた、ということは……?
ーーー☆ーーー
「さて、それでは宝の山を調べにいくとしましょうか」
朝食後、料理という名の激闘を生き抜いたシェルファはそう言った。
その言葉にレッサーは不安げな顔で、
「と言っても、あそこまで行く道中に一つ目野郎みたいなゲテモノに出くわさないとも限らないのっ。その辺、どうするの?」
「だからこそ、ここに滞在するんです」
そうやって何でも利用しようとするずる賢さが、周りからは気味が悪いと評価されるのかもしれませんが、という言葉は呑み込んだ。わざわざ言う必要はない言葉だったがゆえに。
この辺りの思考回路を婚約者であった第一王子にも当てはめていたのが婚約破棄にまで繋がったのかもしれない。そういう観点で見れば、例のシェルファが嫌がらせをしたということになっている少女のほうが好ましく見えるだろうから。
ほんわかと他者を安心させる笑顔ができて、(彼女自身は)誰かを利用しようなんて考えもしない人畜無害な女の子であったのだから。
シェルファはそうは生きられそうになかった。
シロのことを好ましく思っているのは確かだが、一緒に住むことを決めたのはそれだけが理由ではない。
だから、シェルファはこう続けたのだ。
「シロ、一緒に来てはもらえないでしょうか? ここら辺は危険生物が徘徊しているので、シロが一緒だと心強いんです」
「ン?」
声をかけられた汚れなき白き毛並みの少年が首をかしげる。
「ドコニ?」
「『魔沼』。紫の粒子、瘴気の発生源ですね」
「アソコ、ナニモ、ナイ、ゾ?」
「いえ、あそこは宝の山ですよ」
「???」
キョトンとしながらも、シロはこう続けた。
「ベツ、ニ、カマワナイ、ゾ」
「そうですか。助かります、シロ」
「フ、フンッ! オレ、ハ、タヨリ、ニ、ナルカラ、ナ!!」
素直に、裏なんて何もなく、そう答えてくれたシロ。そんな彼をシェルファは眩しそうに見つめていた。
ーーー☆ーーー
昨日は謎の一つ目野郎と遭遇、というか自分からぶつかりにいったのだが、今日はそういった危険生物に出会うことなく『魔沼』まで辿り着いた。
シロ曰く『オレ、ノ、ニオイ、ヲ、サケテイル』というわけらしい。弱肉強食。その中で避けられるほどにはシロは強いということなのだろう。
……もしかしたら、昨日一つ目野郎以外の生物を見なかったのも、最初に散々抱きしめたシロの匂いが服に残っていたお陰だったのかもしれない。
逆に言えば、一つ目野郎はシロを避けて通らないほどには強いということなのだが。
「お嬢様。『魔沼』まで来たはいいけど、これからどうするの?」
「分析あるのみ、ですね」
言って、シェルファは近くの木の枝を折り、それをグツグツと溶岩のように泡立ち、蒸気のように瘴気を噴き出す紫の沼──『魔沼』へと突き刺す。
ぐにゅり、と。
泥のように柔らかな感触が伝わってくる。
引き抜くと、やはり泥のように枝に紫の粘液が付着していた。
グツグツと泡立ち、瘴気を撒き散らす、それ。
少なくとも木の枝が溶けたりはしていないことを確認して──細く、きめ細やかな乳白色の美しい指ですくい取る。
「おっお嬢様!? 何をやっているの!? 大丈夫、指溶けたりしていない!?」
「心配はいりません。もしも『魔沼』に何らかの性質があれば、瘴気にも似た性質が認められるはずです。が、長年瘴気を浴び続けてきた木々や、こうして瘴気を吸い込んでいるわたくしたちに影響がない以上、魔力を殺す以外の悪影響はないと考えていいでしょう」
「そ、そうなの?」
「まあ、絶対に、とまでは言いませんが」
「お、おおっ、お嬢様ーっ!?」
メイドが素っ頓狂な声を上げているが、シェルファはといえば軽く流していた。心配してくれているのは分かるし、もっと慎重に調べる方法もあったのだろうが──好奇心が抑えられなかった。
魔導や魔道具、そこから派生して薬草等を使った調合など、普通では到底なし得ない『結果』を叩き出すそれらこそシェルファの趣味であった。
普通、骨折は数十分では治らない。それが定められしルールであるのだが、先の調合物、塗り薬はそのルールを捻じ曲げた。
世界には定められしルールがあり、しかし抜け穴もまた存在する。魔導に魔道具、調合による薬品。それらの根幹には知識があり、ゆえにシェルファは探求する。
公爵令嬢だった頃は持ち前の財力で様々な魔導書や魔道具を集め、公爵令嬢でなくなった今はこうして今まで足を運ぶことができなかった秘奥に体当たりでぶつかっていく。
全ては知識という力を手に入れ、普通ではなし得ない『結果』を導くことを可能とするために。
「……、へえ」
グツグツと煮えたぎっているようでいて、別に高熱であるわけではない。この辺は木の枝が燃えたりしなかったことからもわかっていたが──指に触れた瞬間、さらに激しく煮えたぎったのだ。
瘴気が激しく噴き出す。
ということは、
「沸点が低い、ということですか。それこそ常温でも沸騰して、蒸発するほどに」
ゆえに『魔沼』は常に瘴気を発している。常温にて蒸発、気化しているということだ。そのため指に触れた瞬間、体温によってさらに激しく蒸発した、というわけである。
「では、次にいきましょうか」
そう言って、シェルファは近くの草についている朝露を指に乗せた『魔沼』へと垂らしていく。
ぱんっ、と。
弾かれて、雫が地面に落ちた。
「水で薄めることができれば早かったのですが……そう簡単にはいかない、ですか」
油のように液体と混ざり合うことのない性質がある、となると、薄めることで効果を弱めて、扱いやすくするのは難しくなる。
「この辺りは手当たり次第に、ということになりますか。成分分析できればいいんですが、最新鋭の施設を用意するのは今はまだ難しいですしね。あいにくそういった手札は公爵令嬢としてのわたくしでしか利用できそうにないですし」
「つ、つまり……?」
「『魔沼』の商品化は随時進めるとして、その間は小金稼ぎをしておこうということですね。『魔沼』を解析するにしても、ここで生活するにしても、お金があるに越したことはないですし」
とりあえずは、とシェルファは周囲に視線を送る。
その先にあるのは──




