11. 遠い地で
城に泊まったのは一日だけ。
婚約したらしいのに王族の誰にも会わなかった。
風呂に入っていなかったので浴場を借りて身体を清め、次の日にはすぐに出発した。
馬車に大きな荷物を積み、同行者はフランシスと御者との三人のみ。
出発時に「先に馬車に乗ってて」と言われ、そこからしばらく待った。どうやらその間にフランシスは陛下や王太后との別れを済ませたようだ。
アデルには見送りはなかった。
当然だ。勝手に引きこもって、勝手に家を出てきてしまったようなものである。
それでも寂しさや罪悪感を覚えることはわずかだった。どうも心が麻痺しているようだ。
馬車はのんびりと進んだ。
フランシスは馬車の中では勝手に喋り、休憩中は御者と喋り、一人でこの旅路を楽しんでいるようだった。
うろ覚えの地図から察するに、フランシスが領主として赴くのはずいぶんと遠くの地だろう。
四日目を超えてから、日にちを数えることはやめた。どうせいずれは着くのだろう。
反応の薄いアデルにも、フランシスは気にせず話しかけてくる。
「あの草食べられるんだよ」とか「見て見て、何か動物いる!」とか。
一方、長旅に対してアデルの体調を気にかけてくることもなかった。
まあ、彼らしいことではある。実際、のんびりした旅で、体調を崩すこともないので何も言うこともない。
目的地に着いたのは、きっと十日を超えた頃だっただろう。
広大な牧草地で動物たちが草を食んでいる、さらにその奥に、先の尖った塔がいくつも連なる大きな城が見えた。
王都の城と同じくらいあるのではないだろうか。全体的に石造りのように見えるその城に華美さは無く、まるで要塞のようだ。
馬車の窓に顔を近付けると、フランシスがその先を指差す。
「城が見えた?」
「大きいですね……」
「そう。でもあそこには住まないよ」
「そうなのですか?」
「前領主は住んでたけど、維持が大変でさ」
フランシスが言うには、城の管理費が膨大でこの地域の財政はよくないらしい。
「領民が少ないのに城の規模が大きくてさ、田舎で人も来ないでしょ。だから城の維持費だけで厳しかったんだよね」
前領主はこれまでの伝統に従って城を管理して来たが、後継となる子もおらず、親族の誰かに譲ろうにも財政難の田舎領主に手を挙げる者はいなかったらしい。
そのため返爵し、国家預かりとなった結果、王弟である自分が領主となることになったとフランシスは言った。
牧草地を抜けて街に入ると、人の姿が見えて来た。
とはいえ、王都のヴォルデ街のような洗練された雰囲気ではない。
舗装された道はさほど広くなく、周りに建つそれぞれの家はこぢんまりしていて隣との距離は近い。上を見上げると、家の二階に洗濯物がはためいている。
青果の並ぶ店先では女性たちが立ち話をしていて、時計塔の広場で少年たちがボールを蹴っていた。
「人口が少ないから街を小さくしてるんだよ。製糸場があるから、ここに住む人たちはその関連の仕事してる人が多いね。あとは農業と畜産」
「そうなのですか……」
「あっちが役場ね。僕は家からあそこに通うようになるから。そのうち街を案内するよ」
街を通り抜けて馬車が停まったのは、確かにかわいい家の前だった。
シャグラン伯爵家のタウンハウスよりも小さいが、きちんとした邸宅だ。
馬車を降りると少し肌寒い風が短い髪をなびかせた。
遠くに目をやると牧草地が広がり、ところどころに建物が見える。
その奥には城が。遠方に来る途中に見たよりも大きく見えるが、それでもまだ遠い。よほど大きいのだろう。
「以前は領主が城にいたから、城にみんな集まって仕事してたんだって。でもあそこまでの行き来も大変だよね。さ、家に入ろう」
背を押されて家に入ると、玄関ホールが広がった。
調度品は無く、非常にシンプル。越してきたばかりだからだろうか。でも、王城のフランシスの部屋を思い出した。
「案内するね」
すでにフランシスは下見をしていたようで、次々と部屋を案内された。
家は二階建てで、一階は玄関ホールや食堂や応接室など。二階が書斎や個人の部屋になっているようだった。
「好きな部屋を使っていいよ。それとしばらくは住み込みで家政婦に来てもらうようにしてあるからね。あ、そうだ、侍女はいないよ、お金ないから」
アデルは頷いた。
修道女になるにしたって、自分のことは自分でしなければならない。
「近くにロランとルネも住んでるからね。そのうち遊びに来ると思うよ。困ったことがあったら言ってね。解決できないかもしれないけど、あはは」
そう言ってフランシスが荷解きに取り掛かったので、アデルはもう一度家の中を見て回った。
どの部屋も扉を開けたまま。家具が全くない部屋もある。
誰もいない家は物静かだ。
これまでは常に人がいる家にいたので、いつでも家は暖かかった。逆に、本当に一人になることはなかった。
ここは人の気配が少なすぎる。
でもアデルにはそれが心地よく感じた。
♦︎
のんびりとした生活が始まった。
アデルは二階の一番東の部屋をもらった。
街の方向に面していて、家の前の道を見渡せるからだ。
家に入って次の日には家政婦とルネがやってきた。
家政婦は老齢のおっとりした女性で、耳が不自由だがよろしくとノートに書いた字を見せてきた。
少し驚いたものの『手伝えることがあれば教えてください』とノートに書いてみせたら、早速庭の草むしりを命じられ、アデルはもっと驚いた。
慣れない草むしりをしながらも、アデルは笑ってしまった。
社交辞令のつもりだったのに、言葉の通りに受け取られてしまった。ちゃっかりしているというか、なんというか。フランシスに似ている。
ルネは来て早々、アデルを見て微笑み、「馬みたいですねぇ」とフランシスと同じことを言った。
自分で髪を切ってしまってから、全く整えていなかったのだ。ルネが髪を整えてあげますというので、任せた。
「ルネさんは人の髪を切るの得意なんですか?」
「ええ、羊の毛を刈るのと大体同じですからね」
不安を覚えたアデルだが、ルネは上手に髪を整えてくれた。
それから、ルネに連れられて放牧場も見に行った。
家から歩くと少し遠いが、フランシスが購入したという牛が集まって草を食んでいた。
「広いですね……」
風でなびく短い髪を押さえようとして、腕に着けていた金時計の鎖がしゃらりと鳴った。
友だちの印としてフランシスからもらったもの。
家から装飾品を何も持ってこなかったので、お守り代わりに身に着けるようになったのだ。
ルネは大きな布を頭に巻いて、髪が邪魔にならないようにしていた。自分にもあれが必要かもしれない。
ルネが集まっている牛たちを指差す。
「当面は領主のお仕事が忙しくて管理できないので、他の方に牛の管理をお願いしているそうですよ」
「そうなんですね、フランシス様はいずれ羊も欲しいと仰っていました」
「アデル様、羊飼ったら毛刈りして糸にしましょうね」
どうやるのだろう。
分からないけど、ルネが楽しみだというので、一緒に出来たらいい。
家政婦の手伝いで、街にも行った。
短い髪が注目を浴びないか、突然来た領主の婚約者という立ち位置が変な目で見られないか不安だったが、なにもなかった。
そもそも貴族女性と違い、いまのアデルと同じくらい髪が短い女性もいた。
買い物をするときには「ああ、新しい領主様の」と言われることはあったが、それ以上はなにも言われなかった。なにも。
なんというか、街の人たちは皆忙しそうなのだ。
すごい速さで店先に商品を並べていく店員、大きな荷物を抱えて小走りで歩いていく主婦、小さい子どもの手を引く母親。
アデルはそれらにどこか非日常的な面を感じた。
が、すぐに思い返した。
きっと今の状態が日常で、これまでの生活が非日常だったのだ。
次期伯爵として領地運営に携わることにやりがいはあったけれども、本当に生活するということに密着して考えられていただろうか。
自分は整えられた生活環境でしか生きていなかったのに。
貴族同士の社交は刹那的で、時間を持て余していたからこそ、他人、そして自分のことが気になってしまっていたのかもしれない。アデルはそう思った。
フランシスはというと、毎日決まった時間に家を出ていく。
毎朝、馬車が迎えにくるのだ。役場で領主としての仕事をしているのだという。
始めのうちは、かっちりした服装で行っていたフランシスだが、だんだんとくだけた服装になっていった。いまやシャツとスラックスといった軽装である。
「どこまでラフな服で行ったら怒られるか、攻めてみてるんだよね」
フランシスは笑いながらそんなことを言った。
そのうち、「服を着ないで行ってみる」とか言い出しそうだ。
婚約者として一緒にやっては来たものの、フランシスの距離感は変わらなかった。
アデルが二階の一番東の部屋をもらったのに対し、フランシスはそこから一番遠い部屋を自室にしたようだった。
朝と夜の食事は一緒に摂るものの、日中はいない。
別にアデルが何をしていようと大して興味は無いようで、帰ってきたら今日あった出来事を自分の方からぺちゃくちゃと話す。
アデルはそれを聞いているだけだ。
身体的な接触は皆無だし、現時点では完全にただの同居人である。
いや、アデル自身は家政婦の仕事をたまに手伝うくらいであとは何もしていないので、居候に近い。
ただいるだけで何もしていないアデルを養い、距離感も変わらない。
やっぱりちょっと変わった人だなとアデルは思った。
そうして、しばらくぼんやりと過ごした。




