待ち人
月曜、いつもの様に貸し切り状態の小さな二両編成の電車から降りた僕は、まっすぐ大学に向かわず、押しボタン式信号機の横にあるベンチに腰を下ろした。
少し背もたれが欠けている年期の入ったベンチは、腰を下ろすと少し構えてしまうくらい軋んだ音がして、不安になる。これ、座ってもいい奴なんだよね……?もしかしてオブジェ的に置いてあるだけで座ったらだめな奴だったりしないよね……?
シューッ、プッシュゥー……、ブ、ブィイイイイ……。
単線である私鉄沿線の列車すれ違いポイントである桐ヶ丘駅。電車のコンプレッサーの音?が早朝の閑静な住宅地に鳴り響いている。僕が降りた電車は、反対方面から来た電車とすれ違うまで、停車し続けることになる。路面電車という事もあって、信号のタイミングや渋滞の影響で電車の到着が前後する事はよくあり、この駅で誤差をリセットしているようだ。通常、若干僕の乗ってきた電車の方が先に到着し、少し遅れて反対方面の電車が到着することが多いんだけど、今日は少し遅れているらしい。
……、……コトッ、コトコトッ…ゴトッ、ゴトン…ガタン……。
停車中の電車の重低音に紛れて、線路の向こう側から遠音が聞こえてきた。線路に音がのっかっているのだろうか、やけに心地いい規則的な音が足元のあたりから聞こえる。
シューッ、プッシュゥー……。
二両編成の小さな電車が到着し、乗降口のドアが開いた。
……下車する乗客は、いない。車内には、三人ほど乗っているようだ。二人乗り込んでいくのが見える。この電車は県庁所在地まで行くから、このあと混んでいくに違いない。
電車を見送り、ぼんやりと空を眺める。高層ビルなどどこにも存在しない、実に広い青空が広がる、屋根のない路面電車の駅周辺。まだ早い時間帯という事もあり、線路の横を走る国道もあまり混んでいない。遠くには緑の山々が見え、空には鳥が飛んでいる。あれはハヤブサか、それともトビかタカ……いや、鵜かもしれないな。僕はいまいち鳥には疎くて、種類を見分けることはできないんだけど。……流川には天然の鵜がたくさん生息していて、たまに飛んでいる姿を見ることができるんだよと、教えてくれたのは。……ずいぶん前に柳ヶ橋に行った時、鵜に関するプチ情報を聞いたんだ。
鳥を見送り、足もとの先にある線路に目を落とす。路面電車特有の、茶色い砂土に埋もれた、始発駅から終着駅まで続いている、長い、長い線路。この線路の上を、小さな電車は走るのだ。
田舎の路面電車は、おおよそ一時間に3本しか発着しない。県庁所在地の駅では五分に一本電車が到着する事を考えれば、ずいぶんさびれた駅というイメージではある。今の時間帯は早朝という事もあり、電車の到着はやや不規則になっている。出勤、通学時間帯は発着本数が増えるのだ。僕の乗ってきた電車は7:15着だった。次の電車は7:30着、次の電車は7:50着。
……次の電車に、待ち人は乗っているだろうか。
電車から降りた待ち人は、僕を見て、何を思うだろうか。逃げ出してしまうかも、知れない。
どういう反応が返ってくるかは、わからない。だけど、僕は今日、待てるだけ、待つ事を決めている。声をかける事を決めて、ここに腰を下ろしたのだ。
先週、寝坊をして一人で大学に向かったときは、嵐のような一週間になるとは思いもしなかった。
穏やかに、気の向くままに会話を楽しみながら、時折いたずら心を出し、クスリと笑う……そんな日常が消えてしまうなんて、全く想像していなかった。
自分の生きてきた軌跡をふり返ることになるなんて、全く予想していなかった。
自分という人間に足りないものを知ることになるなんて、全く夢にも思わなかった。
自分が何を求めているのか、何を望んでいるのか、何をなくしたくないのか。
何一つ気にせずに、ただただ何となく過ごしてきていた自分に気付けるとは思いもしなかった。
……思えば、僕はいつだって流されるままで……内省する機会すらないままに、持とうとせずに、持てずに、生きてきた。
この一週間で、僕はずいぶん、たくさんの事を学んだ。
今まで学べなかった、学べずに来てしまった、いろんなことを学んだ。
人間関係の在り方であったり、自分の意志の通し方であったり、気の使い方であったり。
この一週間で、僕はずいぶん、たくさんの事を知った。
今まで知らなかった、知らずに来てしまった、いろんなことを知った。
友達、先輩、先生、……頼れる人たちがいるという事、頼っても良いという事、頼りなさいと言ってくれる人がいる事を知った。
自分の周りの人ありきの、自分以外の誰かを優先させてきた僕の生き方が、がらりと変わった、一週間。
……この一週間を終えて、思ったんだ。
僕が、僕らしい「自分」であるために、必要不可欠な人を取り戻さなければ、ならない。
僕が、僕として「自分」であるために、一緒にいて欲しい人と向き合わなければ、いけない。
僕が、僕という「自分」であるために、気持ちを、思いを、願いを、伝えたい。
四月、僕は新しい環境の中で、自分という人間を開放する楽しさを知ったんだ、おそらく。
誰一人知り合いのいないこの環境で、自由に自分という人間を謳歌していたんだ、きっと。
……あまりにも、居心地が良くて。
言いたいことを言わせてもらって、やりたい事をやらせてもらって。
少しお願いをして、少し意地悪をして、少しからかって、少し独り占めしたくなって。
見て見ぬふりをしていた、気付かないようスルーしていた、その代償を受けることになり。
自分のものではない、他人の感情に振り回されて。
……大切な人が離れることになってしまった。
……、……コトッ、コトコトッ…ゴトッ、ゴトン…ガタン……。
線路の向こう側から遠音が聞こえる。7:30着の電車は、県庁所在地行の電車の方が先に到着するようだ。
……この電車に、僕の待ち人は、乗っているだろうか。
フワフワと風に揺れる柔らかな髪を持つ、僕の待ち人。
……なんて声をかけようか。
……どんな顔をして、僕を見るんだろうか。
あんなにいつも笑い合っていたのに、あんなにいつもくるくると変わる表情を間近で見ていたのに、全然予想が、つかない。一週間顔を合せなかっただけで、こんなにも僕は待ち人の表情を想像できなくなっている。
シューッ、プッシュゥー……。
二両編成の小さな電車が到着し、乗降口のドアが開いた。
ブ、ブィイイイイ……。
停車中の小さな電車から、重低音が響いている。
……、……コトッ、コトコトッ…ゴトッ、ゴトン…ガタン……。
ああ、反対方面の電車も、間もなく到着しそうだ。
軋むベンチから立ち上がって、顔をまっすぐ、乗降口に向けた。
……今、僕は、うまく微笑むことができているだろうか?
……待ち人を見つけて、胸が少しだけ、鼓動を速める。
「おはよう、……由香。」
ゴトッ、ゴトン…ガタン…シューッ、プッシュゥー!
到着した電車の風圧がこちらのホームまで届き……目の前の、フワフワの髪が……大きく、揺れた。




