30話 床とはなにか?
床は世界のどこにでもあって、いつでも人の暮らしを見守っている。
決して存在を主張せず、粛々と人々の体重を支え続けている。
地面よりも暖かな存在。
思い出深い、優しい場所――床。
思い返せば人生のうちで『床になりたい』と思ったことのない人などいないのではなかろうか?
ユータだって、一度はある。
床はすべてを見ている。
温かかった故郷の家族も、苦悩して引きこもったあの日々も、学園で過ごした時間も、そしてかわいい子のスカートの中身も。
床がもし言葉を話し出せば、きっと世界中の人の恥ずかしい思い出が全部つまびらかにされてしまって、世界は羞恥の混沌に包まれ、恥ずかしさによる文明の死がおとずれるであろう。
床。
床とは、なにか?
床と地面は、どう違うのか?
わからない。
考えてもわからない。
だからユータは今、自分が立っている床をジッとながめる。
オーリック魔法学園。
同年代の『天才』たちが集まる、エリートの学園の、Fクラス宿舎の、床。
ここでは色々な若者が寝たり起きたりしたはずだ。
薄っぺらく冷たい、歩くたびにきしむこの古びた板材の中には、様々な人たちの思い出が詰まっている。
最初はもっとしっかり丈夫だった床は、色んな人たちが歩くことで削れていった。
ならばこの床をたわませるものは、床の上に積み上げられた若者たちの青春であり、学園の歴史なのかもしれない。
ユータはこないだ学園を半壊させて、壊れた場所の中にはFクラス宿舎もあった気がするから、それらは全部『そういうことにしたほうが綺麗にまとまるだけだから、そういうふうに仮定しておく』ていどのものかもしれないし――
この古びた雰囲気だって、学園を修理した妖精たちの無駄な技術の結晶というだけで、別に古いからきしむとかじゃない可能性も高い。
それでも今、この床が30名超の生徒たちの寝起きを支えているのはたしかだ。
左を見ろ。
右を見ろ。
上を見ろ。
下を見ろ。
床です。
床です。
見ればわかる。
けれど、この見れば知力1000000なくたってわかるようなくだらない事実は、わざわざ文字にして書かれるまで、誰もが見落としていた真実だったのだ。
『床なのよ。おかしいと思わない?』とナナは言った。
彼女はいつだって、ユータにとって斬新な視点からものを言ってくれる。
おかしいと思わない?
思わない。だからこそ、おかしい。
これほど人生に密接した、そしていつでも目に映っているような、巨大で、決して隠れひそんでいるわけでもないものを、今まで大して認識していなかった。
それは、たしかにおかしなことだ。
ありがとう、ナナ。
ありがとう、床。
どちらも『平ら』という共通点があるからこそ、ナナはこのように人の気付かなかったことに気付けたのかもしれない。
ユータは考えたすえ、ナナに言った。
「ナナ、床に『床』って書いてあることで、きっと、誰かが大事なことを伝えようとしていた――君はそう言いたいんだね?」
「違うわ。わたしたち、このあたりで寝てたでしょ。なのにいつの間に誰が『床です。』なんて書いたのか、不思議だと思わない?」
たしかに不思議だ。
そして、ナナは、今ユータが考えていたような問題を想定していたわけではなかったようだ。
少し先走ってしまった。
ユータはいったん思考に入ると己の中で突っ走る傾向があるのだ。
知力1000000の素早く深淵なる思考力のなせるわざだろう。
「これはミステリーなのよ。ダイイングメッセージなんだわ」
「ダイイングメッセージ?」
「そうよ。人が誰かに殺される時、犯人を報せるために暗号を遺すことがよくあるの。きっとこの『床です。』は、それなのよ」
「えっと、ダイイングメッセージ自体は知ってるんだけど……誰が死んだの?」
「これから死ぬかもしれないわ。このダイイングメッセージは、下準備なのかも」
「ダイイングメッセージは予約投稿ができるの?」
「だって死ぬ直前に、こんな悠長なもの書いてる暇なんかあるわけないじゃない」
「たしかに」
「ということは、これから事件が起こるのよ。……でも安心して! 事件が起こる前に、私が事件を解決するわ! こういうののきっかけを見逃さないで、あらかじめ対処しておくことこそ、一番になる秘訣なのよ」
「なるほど」
「でも、犯人はもうわかってるのよ。被害者が誰かはまだ知らないけれど」
「誰?」
「床よ」
「……床が人を殺すの?」
「あなたは床をなんだと思っているの?」
「床は、温かくて、いいやつだと思うよ。地面とは、違うんだ。地面とは」
「あなた、床の肩を持つの?」
「床に肩はないよ」
「今のは『たとえば』よ。『もし、床に肩があったとしたら、それを持つの?』という意味」
「ああ、擬人法だね?」
「比喩ね」
「いや、比喩でも間違ってないけど、擬人法と述べるのがいっそう正確だと思うよ」
「間違っていないならいいじゃない。間違っていないのに揚げ足をとるのは、いけないわ。そんなんじゃ意地悪って思われちゃうわよ」
「なるほど、たしかに。ごめんね」
「いいのよ。子分の教育は親分のやることだから」
「それで、床が人を殺すっていう根拠を聞かせてくれないかな?」
「だって『床です。』って書いてあるじゃない。床に! これ以上にたしかな証拠なんか存在しないわ!」
「でも、床にはアリバイがあるよ」
「なによアリ、アリアリアリ……アリって!」
「アリは虫だよ」
「床にアリがいるっていうこと?」
「違うよ。床にはアリバイがあるんだ」
「だからそのアリよ! そのアリはなんなのよ!」
「アリバイっていうのは現場不在証明だよ。誰が殺されるにしたって、この床は僕らが踏んでいる限り、どこにも行けない。つまり、床は無罪だよ」
「あなたなんでそんなに床に優しいの? 床に弁護を頼まれたの?」
「僕は床が悪いやつじゃないと信じてるんだ」
「……ねえ、こんな話をするのは、あなたにとってショックかもしれないけど……」
「?」
「……人にはね、いい面と、悪い面があるのよ。床だって、あなたの知らない悪い面があるかもしれないわ。言わば、裏面ね」
「じゃあ床下を見てみようよ」
「イヤよ! 私、知ってるの……床下は暗くて冷たくて、虫とかいっぱいいるし、汚れているわ。床の暗部なのよ、床下は……かくれんぼをしてて、入り込んだが最後、誰も見つけてくれないし、見つからなさすぎてみんな私のこと忘れるし……床は悪いやつなの」
「そんな、床にそんなところが……」
「あと、あなたは知らないかもしれないけれど……床の上で転ぶと、わりと痛いわ。がんばれば、死ぬかも」
「でもそれは、床の上で転んだ人のせいであって、床のせいではないと思うよ。だって、床が転ばせたわけじゃないだろう?」
「でも、それで死んだ人がいて、『いや、お前のせいで死んだんだから、お前のせいだよ』って言われたら、やりきれないわ。そういう時、床を悪者だと思えば……」
「それじゃあ床がやりきれないと思うよ」
「もう、さっきから、床、床、床! わたしの推理と床と、どっちが大事なの!?」
「君の推理と床なら、床のほうが大事だよ。でも、君自身と床だったら、ちょっと迷うな」
「えっ……うん、そうね。ごめんなさい。私も少し、熱くなっちゃったかも」
「いいんだよ。床は温かいものなんだ。床の上は、暑い時期だととても暑いし、熱くなるのも無理ないよ」
「そうね。その通りだと思うわ」
二人は和解の握手をかわした。
「でも、ダイイングメッセージは見過ごせないわ」
「ちなみに君は、ダイイングメッセージという概念をどこで知ったの?」
「……これはとっておきの秘密なんだけれどね。なんと、『言えたら頭がよさそうな言葉辞典』っていうものが、世の中にはあるのよ」
「すごく頭のよさそうな書物だね」
「ええ。持っているだけで知性が透けるようでしょう? そこにあった、覚えられる範囲で一番長い言葉がダイイングメッセージだったっていうわけ。この言葉と、言葉の意味を覚えるのに、だいぶかかったわ。お陰で他の言葉がいくらか抜けちゃった」
「なるほど。短めの言葉を忘れてでも、長めの言葉を覚えたほうがいいっていう判断なんだね」
「そうね。そのほうが一番だもの」
二人が頭のよさそうな会話をしていると――
突然、ユータの使い魔から着信音が鳴り響いた。
まわりにいた同じ宿舎ですごす生徒たちも、さすがに耳をふさいだりした。
ユータは慌ててポケットから球形の使い魔を取り出し(自由にさせておくと顔のまわりを飛び回るので邪魔なのだ)、急いで応答した。
「は、はい。僕です」
『ワシじゃよ』
おじいさんの声だ。
ユータの使い魔に連絡をできるおじいさんは学園長しかいないので、学園長だと推測される。
ユータの知力が1000000だからこういう推理ができたものの、普通の人にはたぶん察することができないだろう。
誰かに連絡をとろうと思ったら、まずは名乗るのが必要だとユータは学習した。
『ユータくん、今、ワシはとても焦っておるんじゃ』
「そのわりには声が落ち着いていますけど」
『ははは。では、一つ、教育者らしく、君にものを教えよう。――人はな、あんまりにも焦りすぎると、逆に落ち着いてしまうものなんじゃよ』
「なるほど。逆にですね」
『そう、逆にじゃ』
「それで、なにに慌てているんですか?」
『実はな、うーむ……こんなことを言ってワシの知性を疑われるのはおそろしいが、君ならばきちんと考えて理解してくれると信じて、言うぞ』
「はい。考えますよ。大丈夫です」
『実はな――床が、人を襲っておるんじゃ』
「はい?」
『「アリーナ」の床が剥がれて空を飛んで、内部にいる生徒たちを攻撃しておる』




